第8話「弾道――あるいは、お手玉という名の終末兵器について」
清流だった。
暗黒大陸に、こんな美しい場所があるとは思わなかった。
透き通った水が、岩の間を滑るように流れている。河畔には苔むした石が敷き詰められ、木漏れ日が水面に光の模様を描いている。瘴気もない。毒もない。瘴気に適応した魔獣の気配すらない。
ただ、水と光と石があるだけの、静かな河原。
レオは、その河原で作業をしていた。
背負い袋から二十三個の立方体を取り出し、一つ一つ、丁寧に清流で洗っていた。
「……二十三番。表面の汚れを除去。微細な欠けなし。結晶構造に異常なし。オーバーホール完了」
洗い上がった立方体を、河原の平たい岩の上に並べ、日光に当てて乾かす。
その所作は、聖職者が聖遺物を扱うそれと完全に一致していた。
キウィは、三メートル離れた枝の上から言った。
「……それ、洗ったらただの『きれいな糞』になるだけじゃない?」
「馬鹿を言え。これは聖遺物のオーバーホールだ」
レオは洗浄済みの立方体を手に取り、日光に透かした。
「見てみろ、この洗浄後のマットな質感。表面のミネラルが光を反射して、微かな結晶光沢が……」
深く息を吸った。
「……整うわぁ」
「壊れてるよ」
「整ってる。完全に整ってる」
レオは、河原の岩に立てかけた蛍光緑の看板――「聖なる緑の案内人(非常口の看板)」――の前に正座した。
目を閉じた。
二十三個の立方体が日光を浴びる中、蛍光緑の看板の前で正座する元騎士団長。
「整いの儀式」の完成形である。
※この光景を客観的に描写すると、「ウォンバットの糞を天日干しにしながら、非常口の看板を拝んでいる二十八歳の男」となる。救いがない。
ゴートは清流の浅瀬に半身を浸けていた。
沼の時のような全力ダイブではない。今回は穏やかに、腹の辺りまで水に浸かり、目を細めてぼんやりしている。
温泉に浸かる老人の佇まいだった。
このカピバラには、全ての水辺を「自分専用の風呂」に変える才能がある。
◇
レオが「整い」の余韻に浸っていると、キウィが声を上げた。
「あ」
「何だ」
「河原。上流の方。見て」
レオは目を開け、キウィが示す方向を見た。
清流の上流、五十メートルほど先の岩場に、小さな影がいくつか動いていた。
小さい。犬よりも小さい。
茶色い毛並み。丸い頭。短い四肢。そして、やけに器用そうな前足。
十匹ほどの群れが、河原の岩場に集まっている。
「コツメカワウソ」
キウィが言った。
「世界最小のカワウソ。河川の浅瀬に群れで暮らす。魚を捕り、貝を割り、石で遊ぶ」
「石で遊ぶ?」
「カワウソは、お気に入りの石を持ち歩く習性がある。ポケットみたいな皮膚のたるみに石を入れて携帯し、暇な時に取り出してお手玉する。一種の脳トレ。手先の器用さを維持するための本能行動」
「……お手玉」
レオは目を凝らした。
確かに、カワウソたちは前足で小石を転がしていた。
器用に。
異常に器用に。
一匹のカワウソが、三つの石を同時に空中に放り投げていた。
右手で投げ、左手でキャッチし、キャッチした瞬間にもう一つを投げ、落ちてくる石を再びキャッチする。
完璧なジャグリング。
しかも速い。
石の滞空時間が短い。通常のお手玉の倍速、いや三倍速で回転している。
「…………」
レオの目が、見開かれた。
「おい待て」
「何」
「あの腕の回転数。毎分三千回転を超えてるぞ」
「超えてないよ。たぶん二十回転くらい」
「いや、違う。あの石の表面を見ろ。回転がかかっている。超高速のスピンだ。マグヌス効果による軌道変化をミリ単位で制御している」
「してないよ。石ころで遊んでるだけだよ」
「あれは遊びじゃない」
レオの騎士脳が、最高速で回転した。
「石一つを空中で自在に操り、回転と軌道を精密に制御する。あれは……生物学的電磁加速砲だ。あのカワウソは、『お手玉』という名の超高速軌道爆撃の試射を行っているんだ」
「お手玉だよ」
「バイオ・レールガンだ」
「お手玉」
「バイオ・レールガン」
キウィは黙った。もう慣れていた。
◇
ゴートが、動いた。
浅瀬から上がり、モソモソと河原を歩き、カワウソの群れに向かっていく。
「ゴート様!」
レオが立ち上がった。
「あの群れに近づいてはなりません! あれは軌道爆撃手の集団です! 石一つで城壁を穿つ破壊力が――」
「ぬ」
ゴートは聞いていなかった。
カワウソの群れに近づいた。
カワウソたちが、ゴートに気づいた。
十匹の小さな顔が、一斉にゴートの方を向いた。
丸い目。小さな鼻。短い髭。
その表情は、ミーアキャットの「観察」とは真逆だった。
カワウソたちの顔には、一つの感情だけが浮かんでいた。
嬉しい。
遊び相手が来た。
嬉しい。
「キュキュキュキュキュ!!」
甲高い鳴き声が、河原に響いた。
カワウソたちは、一斉にゴートの周りに集まった。前足でゴートの体毛に触り、鼻を押し当て、体の下に潜り込もうとする。
「なっ……群がっている!? 偵察行動か!?」
「違うよ。カワウソは社交的な動物なんだ。新しい友達が来たから喜んでるだけ」
「友達……?」
「うん。カワウソにとって、大きくて暖かくて動きが遅い生物は、最高の遊び相手。つまりゴートは、カワウソにとって『でっかいぬいぐるみ』みたいなもの」
レオの眉がぴくりと動いた。
「……ゴート様を、ぬいぐるみ扱い、だと」
その声に、微かな怒りが混じった。
ゴート様は神だ。ぬいぐるみではない。
だが、ゴート自身は気にしていなかった。
カワウソが体の上を転がり回っても、毛皮に潜り込んでも、耳をかじっても、ゴートは微動だにしなかった。
「ぬ」
いつもの虚無。
ただし、目がわずかに細くなっていた。
嫌ではないらしい。
その時。
カワウソの一匹が、前足に持っていた石を、ゴートに向かって放り投げた。
ポイッ。
軽い、無邪気な動作。
「ねぇ、キャッチして!」という意思表示。犬が飼い主にボールを投げるのと同じだ。
石がゴートの側面に当たった。
ポヨン。
跳ね返った。
レオの顔が青ざめた。
「着弾!? ゴート様に着弾した!?」
「ポヨンって跳ね返ったでしょ。ダメージゼロだよ」
「いや、あの跳弾の角度を見ろ! 反射角が入射角と完全に一致している! ゴート様の体毛が運動エネルギーを完全弾性衝突で処理した!」
「毛がフカフカだから跳ね返っただけだよ」
カワウソは、跳ね返った石をキャッチした。
嬉しそうだった。
投げた。
ポヨン。
跳ね返った。
キャッチ。
また投げた。
ポヨン。
もう一匹が参加した。
二つの石が同時にゴートに向かって飛んだ。
ポヨン。ポヨン。
三匹目。
四匹目。
五匹目。
十匹全員が参加した。
十個の石が、同時にゴートに向かって飛ぶ。
ポヨンポヨンポヨンポヨンポヨンポヨンポヨンポヨンポヨンポヨン。
全方位から石が飛来し、ゴートの体に当たり、跳ね返り、カワウソがキャッチし、また投げる。
無限ループ。
カワウソたちは大喜びだった。投げれば必ず返ってくる。最高のキャッチボール相手。最高のお手玉装置。
「全方位弾幕!!」
レオの脳内に、赤い予測線が表示された。石の軌道が、レーザーのように視界を埋め尽くす。
「回避不能の飽和攻撃! 判定がデカい! 完全にシューティングゲームの最終ボスの弾幕パターンだ!!」
「お手玉だってば」
「ゴート様! 御身が危険です! 脱出を!」
ゴートは脱出しなかった。
むしろ、目がさらに細くなっていた。
トロン、と。
第7話で覚えた、あの「溶ける顔」。
石がポヨンポヨンと全身に当たる感覚が、ゴートにとっては「全身マッサージ」だった。
小さな石が、程よい強さで、体のあちこちに当たる。
肩。背中。腹。脇腹。
気持ちいい。
非常に気持ちいい。
「ぬぅ……」
その鳴き声は、レオが聞いた中で二番目に満足げな「ぬ」だった。一番は沼の時だ。
「ゴート様の表情が溶けている!! 精神汚染か!? 弾幕に催眠効果が付与されているのか!?」
「マッサージが気持ちいいだけだよ」
「マッサージ!?」
「カピバラの毛皮は粗くて厚いから、小さい石が当たると『ちょうどいい刺激』になるんだよ。ブラッシングみたいなもの」
「…………」
レオは、言葉を失った。
十匹のカワウソが、全力で石をぶつけている。
ゴートは、全力で気持ちよさそうにしている。
弾幕シューティングが、エステサロンに変換されていた。
◇
三十分後。
カワウソたちは満足したのか、一匹、また一匹と清流に戻っていった。
最後の一匹が、ゴートの鼻先に小石を一つ置いていった。
お気に入りの石。マイ・ストーン。
カワウソにとって、マイ・ストーンを他者に渡すのは、最大級の信頼の証だ。
ゴートは、鼻先に置かれた石を、ちらりと見た。
「ぬ」
それから、前足で石を押して、自分の体の下に滑り込ませた。
懐に収めた。
カワウソの最後の一匹が、嬉しそうに鳴いて、清流に消えた。
「……キウィ」
「なに」
「ゴート様が、あのカワウソの石を受け取った」
「うん」
「あれは……何かの契約か。盟約か。あの石を媒介にして、カワウソとの『召喚契約』が成立したのか」
「友達の証だよ。気に入った相手にプレゼントしただけ」
「…………」
レオは河原に座り込んだ。
体中の力が抜けていた。
弾幕。全方位攻撃。軌道爆撃。
全部、お手玉だった。
全部、遊びだった。
全部、友情だった。
「……この旅、いつになったら戦闘が発生するんだ」
「最初から発生してないよ。レオが勝手に戦闘だと思ってるだけで」
「…………」
レオは空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、薄い光が差している。
穏やかだった。
平和だった。
暗黒大陸は、レオが思っていたよりもずっと、静かな場所だった。
◇
異変に気づいたのは、キウィだった。
「……レオ」
声のトーンが、違った。
いつもの皮肉でもなく、突っ込みでもなく。
警戒。
「上流」
レオは顔を上げた。
清流の上流。
水面が、揺れていた。
風はない。
魚でもない。
水面の下を、何かが移動している。
大きい。
人間サイズか、それ以上。
水が割れた。
影が、ゆっくりと河原に上がってきた。
最初に見えたのは、マントだった。
黒い。だが、裾がおかしかった。何かで汚れている。ベタベタと、不規則な染みが広がっている。そして、端が裂けていた。
次に見えたのは、鎧だった。
漆黒。全身を覆う重装甲。だが、それは魔王軍の一般兵が纏うものとは、格が違った。鎧の表面に刻まれた紋章が、禍々しい紫光を放っている。
そして、目。
紅い瞳。
八百年の怒りと疲労が凝縮された、燃えるような紅。
その視線が、河原を舐めるように走った。
カピバラを見た。
鳥を見た。
そして、ウォンバットの糞を天日干しにしている人間を見た。
「……いたぞ」
声が低い。
地を這うような重低音。
空気が、変わった。
温度が下がったのではない。空気そのものが、重くなった。
レオの体が、本能的に硬直した。
騎士としての訓練が、全身に警報を発している。
危険。
目の前にいるのは、これまでに遭遇した魔王軍の兵士や部隊とは、次元が違う存在。
これは――「ボス」だ。
「世界の理を乱すバグの根源が」
マントの裾からヨダレの臭いが漂っているのを、レオは無意識に感知した。だがそれどころではなかった。
レオは立ち上がった。
剣を抜いた。先端を齧り取られた、半分の聖剣。
紅い瞳が、レオの剣を見て、わずかに細められた。
「……お前が、騎手か」
「…………」
「動物を兵器として運用し、我が軍の精鋭を五度にわたって壊滅させた天才軍略家。レオ・ヴァルハルト」
レオは答えなかった。
答えられなかった。
目の前の存在から放たれる魔圧が、声帯を凍らせていた。
キウィが、レオの肩から飛び立ち、近くの枝に退避した。
「レオ。あれは――」
「わかってる」
レオの声が、震えていた。
だが、震えながらも、前を向いていた。
「あれは……最高難易度の単体レイドボスだ」
ゼノンの額に、青筋が浮かんだ。
「……誰がレイドボスだ」
ゴートは、河原の浅瀬で、ぷかぷかと浮いていた。
目だけ水面から出して。
半開き。
虚無。
魔王の親征にも、カワウソの石にも、レオの恐怖にも。
何にも反応せず。
ただ、浮いていた。
ついに「運営」と「飼育係」が、河原の石の上で対峙した。
第8話「弾道――あるいは、お手玉という名の終末兵器について」
――終――
【次回予告】
「あ、あなたは……まさか、魔王……!?」
「魔王ゼノン。八百年ぶりの親征だ。お前と、お前の齧歯類を終わらせに来た」
「ゴート様! 今こそ『緊急停止レバー(アゴ撫で)』を――いや違う、あれは止める術式だった! 逆効果だ!」
「……お前は何を言っているんだ」
「聖遺物で応戦する! これなら!」
「それはウォンバットの糞だろう。見ればわかる」
「なぜバレた!?」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第9話「邂逅――あるいは、運営と飼育係の果てしなき議論について」
お楽しみに。




