第1話「邂逅――あるいは、世界で最も場違いな救世主について」
世界は、終わった。
七日七晩にわたる攻城戦の末、聖フォルティア王国は陥落した。白亜の城壁は魔王軍の呪炎に焼かれ、誇り高き王旗は泥濘の中に沈んだ。
かつて「大陸の白き盾」と謳われた王国騎士団は壊滅。生き残ったのは、わずか数十名。
その先頭を走る男がいた。
レオ・ヴァルハルト。齢二十八。王国騎士団長。
彼の白銀の鎧は返り血と煤で黒く染まり、右腕には深い裂傷が走っている。それでも彼は剣を手放さない。手放せば、己が守ると誓った兵たちの命が消える。
「……団長! 後方からオーク部隊!」
「数は!」
「三百以上! 囲まれます!」
レオは歯を食いしばった。
――終わりだ。
理性がそう告げる。だが、それを口にすることは許されない。彼は騎士団長だ。最後の一人が倒れるまで、希望を語り続けなければならない。
「全員、剣を構えろ。我々は――」
その時だった。
オーク軍団の只中を、何かが横切った。
◇
「……は?」
レオは、自分の目を疑った。
殺気立つオークの群れ。血に濡れた戦斧。怒号と咆哮が渦巻く地獄絵図。
その真ん中を。
モソ……。
モソ……。
巨大な茶色い塊が、歩いていた。
体長およそ1.5メートル。ずんぐりとした体躯。短い四肢。そして――何よりも異質なのは、その目だった。
半開きの、虚ろな目。
戦場の喧騒など、まるで存在しないかのような。
宇宙の果てを見つめているような。
あるいは、今夜の夕飯のことだけを考えているような。
「な……なんだ、あの生物は……!?」
レオの隣で、若い兵士が震える声で言った。
「あれは……カピバラ、という動物です。南方の湿地帯に生息する、世界最大の齧歯類……」
「知っている! そんなことを聞いているんじゃない! なぜ戦場のど真ん中を散歩しているんだ!?」
殺意に満ちていたオークの瞳が、点になった。
振り上げられた斧が空中で止まる。
戦場の全員が、その『茶色い塊』の意味を理解しようとして、思考を停止させた。
数秒間の、完全な静寂。
その沈黙を破ったのは、オークの戦士長だった。
「グルァァァァ! 邪魔だァ、デカネズミがァ!」
巨大な戦斧が、振り下ろされる。
刃が、カピバラの頭に――
ボヨン。
「……は?」
オーク戦士長の顔が、困惑に染まる。
斧は確かに命中した。だが、刃はカピバラの頭皮に触れた瞬間、まるでゴムまりに当たったかのように弾かれたのだ。
――違う。
レオは騎士の眼で見抜いた。
――刃は弾かれたのではない。分厚いタワシのような剛毛の束に受け止められ、その奥にある分厚い皮膚に運動エネルギーを完全に殺されたのだ。
カピバラ――後にレオが知ることになる名は「ゴート」――は、微動だにしなかった。
モソ……。
そのまま、何事もなかったかのように歩き続ける。
「ば、馬鹿な! もう一発だァ!」
振り下ろされる斧。
ボヨン。
振り下ろされる斧。
ボヨン。
振り下ろされる――
「グギャアアアア!?」
三発目の斧が跳ね返った際、その反動でオーク戦士長は自分の顔面を強打し、後方に吹き飛んだ。
※この時、カピバラは「背中がちょっとかゆいな」くらいにしか思っていない。
「……高位の魔獣か!?」
レオは剣を構えた。あの防御力。あの泰然自若とした佇まい。間違いない。あれは古代文明が生み出した生体兵器か、あるいは――
「賢者様だ……!」
後ろで、老兵が跪いた。
「伝説の……森の賢者様が、我々を救いに来てくださったのだ!」
その言葉が、敗残兵たちの間に広がる。
「賢者様!」「救世主だ!」「我々は救われる!」
レオは叫んだ。
「待て! 根拠は何だ! なぜそうなる!?」
だが、誰も聞いていなかった。
◇
その時、カピバラの頭の上で、何かが動いた。
小さな鳥だ。キウイフルーツに羽が生えたような、妙な見た目の鳥。
鳥はレオを見下ろし、厳かに告げた。
「騎士よ。彼の言葉を伝えよう」
「言葉……?」
カピバラが、口を開いた。
「ぬ」
鳥は頷き、翻訳した。
「『争いは、腹が減るだけだ。剣を収めよ、愚かな人の子よ』――と」
「…………」
レオは数秒、沈黙した。
そして、静かに言った。
「絶対に嘘だろ」
◇
状況は、刻一刻と悪化していた。
オーク軍団は包囲網を狭め、逃げ道は一つしか残されていない。だが、そこに至るには、敵陣の真ん中を突破しなければならない。
「全員、俺に続け! あの森まで走り抜ける!」
レオは号令をかけ、走り出した。
そして――足を止めた。
カピバラが、道を塞いでいた。
「どけ! 轢かれるぞ!」
カピバラは動かない。
モソ……と首を傾げただけだ。
「ぬ」
頭上の鳥が翻訳する。
「『急いでどこへ行く。人生とは、旅路そのものではないか』――と」
「お前絶対適当に言ってるだろ!!!!」
その時、背後からオークの咆哮が迫った。
「追いついたぞォ! 皆殺しだァ!」
もう、迷っている時間はない。
レオは決断した。
「乗る!!」
カピバラの背中に飛び乗る。
驚くほど、柔らかい。
体毛は剛毛のように見えて、実際には絹のような手触り。そして、体表からかすかに漂う――これは――温泉の匂い?
「おい、デカネズミ! 走れ! 全力で走れ!」
カピバラは動かない。
「頼む! ここで死にたくないんだ!」
動かない。
「走ってくれ! 報酬は何でも払う!」
ピクリとも動かない。
レオは絶望した。
終わりだ。こんな、巨大ネズミの背中で、俺は――
「――おお?」
その時、鳥が声を上げた。
「あれは……」
レオは視線を追った。
遠く、森の向こう。
白い湯気が、立ち上っている。
「温泉だ」
鳥が言った瞬間――
カピバラの目が、カッと見開かれた。
「え」
レオは、自分の体に異変が起きていることに気づいた。
いや、正確には――世界に異変が起きていた。
空気が、変わった。
静寂が、降りてきた。
そして――脳内に響く、重低音。
※これは演出です。実際には何も鳴っていません。
ドゥン……ドゥン……ドゥン……
低く、重く、魂を揺さぶるようなビート。
カピバラの筋肉が、隆起した。
後ろ足が、大地を踏みしめた。
レオは本能的に理解した。
これは――来る。
「待っ――」
ズドォォォォン!!!!
静止状態から、一瞬で最高速度に達した。
時速50キロ。
それは馬の全力疾走に匹敵する速度であり、しかも体重80キロ超の巨体がノーモーションで発揮している。
「はえええええええ!!!!!!!」
レオの顔が、風圧で後ろに引っ張られる。
首が千切れ飛ぶかと思った。内臓が背骨に押し付けられる感覚。鞍も手綱もない背中で、レオは必死に剛毛にしがみつくしかなかった。
視界が流れる。景色が線になる。
オーク軍団が――弾き飛ばされていく。
カピバラは止まらない。
直進。ただ、直進。
行く手を阻むオークが吹き飛び、馬車が横転し、魔法陣が踏み潰される。
「ギャアアア!?」「な、何だあれは!?」「止まれェェェ!」
誰にも止められない。
80キロの質量が、時速50キロで突っ込んでくるのだ。
これはもはや、生物ではない。
これは――
「重戦車かァァァァァァ!!!!」
レオは絶叫した。
※なお、カピバラ本人は「あー温泉温泉」くらいのテンションである。
◇
どれくらい走っただろうか。
気づけば、レオは――森の中にいた。
木々の間から差し込む夕日。
鳥のさえずり。
そして――白い湯気。
「……温泉」
小さな湧き水が、岩の間から湧き出していた。天然の露天風呂。
カピバラは――ゴートは――その温泉に、ゆっくりと身を沈めた。
ヌゥゥン……。
体が沈む。湯が揺れる。
そして、どこからともなく取り出された手ぬぐいが、その頭の上に乗せられた。
「…………」
レオは、岩の上に座り込んだ。
全身が震えている。
恐怖か。興奮か。あるいは、ただの疲労か。
わからない。
わからないが――ひとつだけ、確かなことがある。
「俺は……」
彼は、湯船で目を細めるカピバラを見た。
戦場の喧騒は、もう聞こえない。
魔王軍も、追手も、この平穏を破ることはできない。
この生物の周囲には――不思議な「聖域」があった。
争いが、溶けていくような。
殺意が、蒸発していくような。
「俺は、とんでもないモノに乗ってしまったのかもしれない……」
頭上の鳥――キウィが、したり顔で言った。
「彼は言っている。『背中が空いている。乗りたければ乗れ。ただし、目的地は俺が決める』――と」
カピバラが、口を開いた。
「ぬ」
「…………」
レオは、深く息を吐いた。
そして――観念したように、温泉に足を浸した。
「……せめて、名前を聞かせてくれ。お前は、何者だ」
鳥が答えた。
「彼の名はゴート。偉大なる"虚無の毛皮"の継承者にして、温泉を求めて世界を彷徨う――」
「ぬ」
「――永遠のChillを体現する者、だ」
「…………意味がわからん」
レオは空を仰いだ。
夕焼けが、美しかった。
◇
カメラが、ゆっくりと引いていく。
森の中の小さな温泉。
湯船に浸かる、巨大なカピバラと、疲れ果てた騎士。
その頭上を、鳥が飛んでいく。
遠く、遠く。
やがて――画面がフェードアウトする。
その瞬間、どこからか聞こえてくる――
"Ok, I pull up..."
第1話「邂逅――あるいは、世界で最も場違いな救世主について」
――終――
【次回予告】
「なぜお前は、敵の城に向かって走っている!?」
「ぬ」
「『あそこの城壁、硬そうだから』だと!? 歯を研ぐために!?」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第2話「咀嚼――あるいは、世界で最も不味い攻城兵器について」
お楽しみに。




