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第64話:懐かしさと湿っぽい雨宿り

深夜四時。地下99階、ダンジョンマート。


いつもは乾燥しきった冷気が漂う店内に、ふと、覚えのある「湿り気」が混じった。


有線放送から流れる安っぽい魔界ポップスに砂嵐のようなノイズが入り、一瞬の静寂の後、聞き慣れない女の声が響く。


『――現在、都心部に大雨洪水警報が発表されています。帰宅時間帯、交通機関の乱れに……』


「……店長、なんですか今の? 天気予報? ここ、地下ですよ?」


ポップを切り抜いていたリリスが顔を上げる。タナカは答えず、ただ自動ドアの外をじっと見つめていた。


漆黒の闇が支配しているはずのダンジョンの通路に、異変が起きていた。


アスファルトの匂い。雨が地面を叩く、激しくもどこか心地よい音。


自動ドアのガラスの向こう側には、光を吸い込むような闇ではなく、雨に濡れてオレンジ色に滲む「街灯」が一本、ぽつんと立っていた。


「チリン、チリン」


聞いたこともない、軽やかな電子音が店内に響く。

入ってきたのは、魔王軍の戦士でも、泥だらけの勇者でもなかった。


ずぶ濡れのグレーのスーツに身を包み、片手に壊れかけのビニール傘を持った、痩せ細った男。スマホの画面をぼんやりと眺めながら、男は死んだような足取りで店内へ進んでくる。


「ひぇっ、店長……! この人、魔力が全く感じられません! 」

リリスが怯えてタナカの背中に隠れる。


だが、男はリリスの角にも、カウンターの奥でモップに顎を乗せて寝ている死神グリムにも目もくれなかった。


男はまっすぐ飲料棚へと向かう。

そこには、さっきまで並んでいたはずの『オークの活力剤』や『魔界ポーション』はなかった。


代わりに、青や緑のラベルが貼られたプラスチックのボトル――『おーいお茶』や『強炭酸水』が、整然と並んでいる。


男は迷いのない手つきで、一本の『エナジードリンク』を手に取り、レジへとやってきた。


「ピッ」

タナカが無言でスキャナーを通す。

この世界には存在しないはずのバーコードが、正確に読み取られる。


「……二百十円です」


タナカの言葉に、男は反応しない。ただ、慣れた手つきでポケットから小銭を取り出し、カウンターに置いた。


百円玉が二枚と、十円玉が一枚。

それは魔界の金貨でも、王国の銀貨でもない。銀色に輝く、ただの「日常の破片」だった。


「……袋、いいです。すぐ飲むんで」

男は掠れた声でそう呟くと、エナジードリンクのプルタブを「プシュッ」と小気味よい音を立てて開けた。

一口、男が喉を鳴らす。


その一瞬、店内の空気がふわりと揺れた。

リリスの角の先が微かに光り、グリムが寝言で「……終電、まだか……」と零す。


男は一息つくと、窓の外の雨音に目をやった。

「……止まないな。帰るか」


独り言のようにそう言うと、男は壊れかけの傘を手に取り、再び自動ドアの向こうへ歩き出した。


オレンジ色の街灯の下、激しい雨の中に、男の背中が溶けて消えていく。


「チリン、チリン」

再びチャイムが鳴り、ドアが閉まった。

その瞬間、雨音が消えた。

外は再び、光を吸い込むような地下99階の暗闇に戻っていた。


有線放送からは、いつもの騒がしい魔界ポップスが流れ出す。


飲料棚には、禍々しい色の活力剤がぎっしりと並び直している。

「……店長。今の、夢だったんでしょうか」

リリスが呆然としながら、男が去っていった暗闇を見つめる。


タナカは何も答えず、レジのトレイに残された三枚の硬貨を手に取った。


指先で触れる100円玉は、まだ微かに、あの世界の雨の冷たさを纏っているような気がした。

「……ただの、雨宿りだ」


タナカはその硬貨を、売り上げとは別の、レジの隅にある小さな空き箱の中に放り込んだ。

そこには、他にも数枚、同じような銀色のコインが眠っていた。


「さっさと床を拭け、リリス。雨漏りの跡が残ってるぞ」

見れば、男が立っていた場所の床に、一筋の水の跡が残っていた。


それは魔界の毒沼でも聖水でもない、ただの、綺麗な雨水だった。

【あとがき:パラレル・レシート】


リリス「あの……店長、レジの中に、見たことないレシートが残ってるんですけど。『ファミリーマート・代々木駅前店』って……これ、何て読むんですか?」


タナカ「……『どこにでもある場所』っていう意味だ。捨てとけ」


グリム「……次、赤羽……赤羽……」


リリス「グリムさんの寝言も、なんだか不吉な呪文みたいになってるし! もう、今日は早く上がりたいです……」

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