2-10 嫌な使命
「透!」
「お兄様!!」
異様な轟音に駭き、ただちに屋敷へ走る二人。
――爆発? それとも放火? どっちであっても、私たちの透が……!
自分より透の命の方がはるかに重い、と思いこみながら、杏はその安否を確かめるため戸を蹴破った。
「ぐっ……!」
――夷川透め……やったな!
壁に貼りついたまま佐井は下を見下ろす。
光の煙がいまだ収まらない中、一人の少年が長々しい鎖を石畳の上にほって立っていた。
次の選択に迷う佐井。見たこともない魔物なだけに、行使者に与える権威が不明。こちらからの攻撃はあまりに冒険。
少年は、静かに頭を挙げ、こちらを凝視した。
決して、毅然とした眼光ではない。むしろ、おびえきっている。戦意などみじんもない。
自分のたった今やったことに、まだ理解が追いついていないのだ。
「大丈夫でげす、主よ、まだ奴は準備ができていない!」
であるとしても、まさか先手をとられたことに対する屈辱が、次の行動に対する思索をはばんでいた。
「よくもやったな、夷川透……!」
数百年、一度も過失を犯したことのない自分に対する矜持が、全くうちくだかれた。
こんな失策を受けたのは、維光のあの父親以来――
透の咆哮。人間というよりは獣の鳴き声だ。
次に、一繋ぎの鎖が透の手から伸びて、まっしぐらに佐井へ。
先端に、鋭い鏃をそえて。
「何だと――」
佐井はとっさに壁に沿って横に動いた。獲物を失った鎖が、あきらめたように縮んで透の手元に収まる。
再び、こちらを見すえてくる透。次第に憎しみに満ちた目が開かれていくのを、佐井は見逃さなかった。
「小僧が!」 そこにつったったまま、何もできんくせに。
だが、今度は別の闖入者が割って入ってくる。
「透!」
二人の少女――一人は矮躯、一人は長身――が中庭に姿を現した。
「だ、誰!?」
背の長く、端麗な容姿の少女が、虚空に鎮座する佐井の姿を見て口を広げる。
佐井はしまったとばかり目を一瞬大きく見開いたが、その直後位置から急に上昇し、回りこんで陰に。
透が立っていた場所は激しく損傷を受け、石畳はめくれあがって褐色の土をあらわした。
後ろに百合奈をひかえ、おそるおそる透に近づく杏。
透は、まだ佐井がいた場所をにらみつけたまま動かない。
「……透?」
「僕は行使者だ……」
透はわき目もふらず小声でつぶやく。
屋敷の壁でもなければ、佐井でもない何かを、じっくりその眼は視ていた。
「僕は行使者だ――」
「透! しっかりしてよ!」
――もし透がまたあの時に逆戻りすれば、またどんな目に遭うか分かったもんじゃない。
杏は透の両肩をつかんで叫ぶ。
「うわっ、お姉さん!?」
正気に返って、透はがくりとひざをつくところ。
「お兄さま!」
震え声で百合奈。
「さっきの人は何? あと、――その手は?」
姉妹は、そこで見慣れないものを。
透の右手に装着された、銀色の光沢を持つ手袋。二の腕に伸びるそれは、機械にも見えれば、生き物の皮にも思える、異様な雰囲気をまとっていた。
「ちょっと、答えてよ!」
手袋ごと腕をつねって、百合奈は声をあらげる。
「あ……」
透は動揺のあまり、言葉が出せなかった。それでも一体何が起きているのか、理性を尽くして把握しようとした。
――僕はあの行使者に襲われて、とっさに金蛇と契約したんだ。そして、戸惑ってる隙をついてあいつを……。そして、それをこの二人が目撃してしまった……!
「離せっ!」
透は両手をふるって姉妹をはらった。
明らかに、放心しかけている顔だ。
「今のを、見たね……?」
しかしそんな表情を採りたいのは、杏の方だった。
「ねえ。わけがわからないんだけど」
――透ったら、また秘密にしたがる……!
「一体、何があったの?」
杏は、もしこのまま答えてくれないとただではすまさないと言うくらいの険しい表情でたずねた。
「みんなに一番知られたくないものを見られてしまった……」
透は顔をそむけて、やはり沈黙。
「今度こそ終局だ……」
行使者であるという秘密を、家の中、それも自分の家族にあかしてしまうなんて。
百合奈は兄の絶望しきった様子に、どうしようもない焦燥感をかきたてられていた。
何より、上を見上げた時につぶやいたあの言葉。
「ねえ、コーシシャって何?」
「今は……言いたくない」
それが透にとってなんとか言える回答。
杏は、両腕を腰にあてて、ため息をつく。
本当は真実が知りたくてたまらないのだ。けれど、透があまりに籠城っているせいで、何もしてやれない。そも悔しさにも近い悲哀。
「私は、別にあなたに無理に答えろとはいわないわ。けど、あなたがそういう風にだんまりをきめこんでると、寄り添いたくても寄り添えない」
――どうして僕がこんな状況に居合わせなくちゃならないんだ。お姉さんもが僕を苦しめている。
透はずっと黙ってそっぽを向いていたが、ようやく姉妹へ目線を遷すと、穏やかに語った。
「そのままで構いません。僕は誰にもこの世界について知らせるつもりはございませんから」
――やっぱり。そうやってはぐらかす。私にだけなら告白けてやってもいいのに。
「……世界? 何の世界なのよ?」
――永歌さんやお姉さんや父さんのためだ。
「今のことは父上には黙っててください。これは、お姉さんの手ではどうにもならないことなのです」
ついに杏はきっとなって、
「あなたは会社の――」
言葉が畢わらない内に、
「今の僕には、そのことは眼中にありませんので」
杏から顔をそむけ、壁の戸に向かってずかずかと歩きだす。
透は行使者の意識が、肌身に走るのを感じていた。
「天薙」
「貴様ごとき、魔物を失った二流の行使者が私の名を呼ぶなど言語道断!」
荒々しい口調で反抗する魔物に対し、小川は鼻で笑う。
「当然だ。今の私は身を隠しているのだからな、そこらの行使者より卑しい身だ」
――だが、魔物をもう一度奪還したあかつきには、どう釈明するつもりなのかね。
魔物の浅慮を指摘するまでもない。この計画は着々と進んでいるのだから。
「例の少女のことだ。性格においても、能力においても、実にお前と相性がいい」
「千本楓か!」
魔物は黒い軍服姿で、髪を短く刈った男盛りの偉丈夫。
薄暗く、寒気を帯びた部屋で一人椅子に。
「なんだ、うれしくないのか?」
小川はからかう。
「先代の主に勝る私の使い手は存在しない、と自負しておるのでな」
「そう、だが四条盛永によって討ち取られたであろう」
「言うな!」
天薙が怒鳴ると、あたりに雷鳴がとどろき、黒い煙がたちこめる。
「やはり、力の強い魔物は感情表現も派手だな」
実物の自然現象と異なるとはいえ、あまりにそれに近い質感の煙に小川はおぼえずせきこんだ。雷鳴の次に、火花が飛び散る。煙がやがておさまり、天薙が相変わらず椅子に座りこんでいるのを確認。
「なぜ人間はそうも魔物を生かすのか、理解できんな。私も主とともに討死したかったものを」
人間を超越した魔物にも欠点があると、小川は経験で知っていた。
「そこがお前の悪癖だよ。生きていればあとで辱を雪げることもあるであろうに」
起ちあがって手をにぎりしめる天薙。
「だが貴様ら人間は、それを自分の人生でかなえることができんどころか、たいていかなえんままで終えてしまうだろうが」
「行使者になれば、その可能性はぐっとあがる」
と言って小川は手のひらを下から上にかかげてみせた。
「ちっ……どこまでも口達者な奴!」
とその途端、佐井がその場に加わった。肩の上に青白い肌の猿を載せて。
「小川」
声を大にして言いたげなことがありそうに、くもった音色。
「どうした、その顔面は」
「とんだ失態だよ」
下手をすれば、そこら中のものに八つ当たりしかねないいきり立った身。
「四条維光に夷川透だ。あの豎子にしてやられるとは……!」
「何? あいつは刺竹を失ったのではなかったのか」
小川は素の口調で疑念をあらわにする。
「金蛇だ。まさかあの魔物が夷川透の屋敷に身を寄せていたとはつゆも予想せなんだ」
猿は、白い顔、半球状に突き出た目を細め、甲高い声で人の言葉をつむぐ。
「人間と契約した時の衝撃が、あれほど強いとは意外だったでげすよ」
猿は体も小さく、佐井もそれほど重く感じていないらしいが、あまりに人間らしい声、毛並みの細かさから妙な重みがある。
「契約したばかりの人間に不意を突かれたというのか、滑脚?」
小川の口調に、あざけりの色がにじんでいる。
「これは、主があまりに油断しておったからでげすな」
軽い感じで不手際をなじる滑脚。
横では、すでに佐井の瞳がちじみきっていた。
「……あまり言うと毛をむしるぞ、わが僮僕?」
佐井の声に反応し、滑脚の目が意思があるみたいにごろごろ震動。
「ひっ、それはやめてくだされな」
会話を無言で聴いていた天薙が、その時すたすたと近づきだした。
「漫才もいい加減にしろ。でないと私はもはやあの世界に帰ってしまうかもしれん」
小川のヘルメットからため息の音。
「それは困る……」
滑脚も同様に。
「主が時間を伸ばしたせいでげす……」
天薙の肩から煙がもれ、佐井の堪忍袋の緒がいよいよ切れそうになる直前、
「佐井さん」
現場の誰でもない、新しい声がした。
振り向くと、一人の少女が、足をこちらに向けて進んでいる。
背はぴんと張り、目つきは鷹のように鋭い。
「ようやく、本丸か」
佐井はすっかり機嫌をよくして、口を弧に。
「私を、行使者に為てください」
それが彼女の所願だった。




