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1-9 臆病な人

 惑書の説明に、維光は理解するだけでも頭が割れそうだった。

「あなたの力は、呪文を唱えること。あなたに私は、その権威を与えた」

 行使者が魔物から勝ち取るもの、それが権威。

 権威を用いて、行使者は敵と闘う。

 維光はあまり実感がわかなかった。

「僕が呪文を唱えて、敵に攻撃を加えると?」

「そう。そして呪文が唱えられるかは、ひとえにあなたの覚悟にかかっている」

 新米の行使者は、二階の自室、ベッドに(しもべ)と並びながら話し合っていた。

「呪文ってのは……勝手に降ってくるのか? お前が教えるんじゃなくて?」

「それはあなたが経験することよ」

 惑書のにらむような顔面(かんばせ)に、維光は少し当惑せざるを得ない。

 まだ維光には何の自覚もなかった。惑書の手をつかんだ時のあの不思議な経験をのぞけば、分明(あきらか)に何も変わっていなかったからだ。惑書は依然(あいかわらず)維光に対しそっけない態度を保っている。

「想像しにくいな……僕が……呪文なんて唱えるなんて」

 呪文なんて、ファンタジー上の存在だとばかり思ってたのに。

「私の権威が、それというだけ」

 惑書の声は驚くほど冷たく、均整の取れたものだ。何も知らなければ人間のものだと錯覚したろうが、もちろん分かっている――この少女は、人間ではなく人間の姿をとった魔物。この声も恐らくはのどや肺を使わずに生み出されている。

 その面前にいること自体、維光が非日常の世界の市民権を得た事実を証明するのだが。

「何をじっとしているの? もう学校に行かなくちゃならないんじゃない?」

 気づくと、惑書の方から疑問。

 うっかり維光は自分の世界に没入していた。

「そ、そうだった! 今すぐ用意しないと――」

 立ち上がる途中、

「では、どうなさいます? 私はこの家にとどめなさいますか?」

 慇懃な調子で惑書。すっかり公の場にいるかのごとく。

 その顔は、やはり信じられないほど人間的で、作為的。

 ややもすると、その美しい顔に、つい引きこまれそうになる。

「いや、一緒に来てくれ」

 後ろめたそうな調子で命じた。

「よろしいのですか? 私がいることでどうなるか存じませんが……」

「とにかく、お前がいた方が心強いんだ」

 透のこともある。まだあまりにも、予測がつかなすぎるのだ。

 ただ一つだけ、確信していること。

 これから先、いくらでも命の危なくなることは訪れるであろうと。

「……そうですか。主が望むなら。では私も随伴(おとも)致しましょう」

 赤赤とした唇が生気を帯び、蛾眉が整然と弧を描く。

「も、もちろん本の姿だけどな」

 あわてて付け足す維光。もし人の姿のまま学校に訪れたんじゃ、絶対不審がられちゃう……。

 惑書の姿が霧に覆われて白く光り、本の姿となって維光の手に収まったのは、一瞬の間。


 案の定、透はそこにいなかった。

 維光の姿を一目見て、すぐさま千本楓が眼前に。

「あなたでも知らないの、透の隠処(ゆくえ)?」

 やれやれ、と維光は頭をかく。

「いや……知らないんだ。電話も通じないし」

 この展開はおなじみのものだ。しかし今となってはもう意味合いが違う。

 透も僕と同じ行使者となったのだ。そして、惑書をねらっている。

「少し変わったな、維光?」

 その時、楓の隣にまで少年が進み出た。どこか落ち着いた雰囲気のある維光に比べ、陽気な表情。

「なんだか元気があるのにそれを隠してるって感じじゃねえか。一体何があった?」

 彼の様子に維光は少し腹が立った。

 まさか、今の自分に少しでも心が上気する要素の一つや二つあるとでも?

「何でもないよ」

 維光はうつむきながら。

 少年はすると、妙に笑いながら歩きだした。

「なあ……いつもそううなだれてんじゃねえぞ。そうするとその顔を上げたく――」

 こういう風に他人の体に手出しをするのが好きな性格なのだ。維光にとって実に苦手な人物。

 こいつのノリには常にいらつく。

 腕を出して維光の顔に加えようとする少年。

 維光はその手をふりはらった。

 だが予想に反して、少年の背中を思いきり机に(たた)きつけ、ほとんど前後不覚にしてしまった。

 維光にしてみれば、それは単に手のひらで少し押しただけのことだったのに。

竹屋町(たけやまち)くん!?」

 おどろいてかけよる永歌。

 単にその机だけでなく、後ろにあった机も巻き添えにして、彼の体は横たわっている。

 竹屋町はあんぐりと口を開けて、気絶とは言い難いようなまだ普通の表情でそこにたたずんでいる。

「え……」

 目の前の状況に、維光自身が驚愕。

「分かった? これが行使者の力なのよ」

 かばんの中から、惑書がささやきかける。

「こ、これが僕の力って……」

 手を察る。何も、異変は感じられない。

 教室中の誰もが、この異様な光景に見入っている。

「誰か俊船(としふね)を運んでくれない?」

 誰よりも冷静に目の前を認識していたのは千本だった。

「私じゃこいつの体を支えきれないだろうから。ねえ、維光」

 楓はさして面白くもなさそうな顔で行使者の方を向く。

「あんたが何を隠してるかは知らないけど、一緒に保健室についていってもらえる?」

「行きましょう」 惑書が即答。

 なぜ僕がこんな面倒なことに巻きこまれねば。解せん。

 そもそも行使者の体力が強くなるなどと惑書から聞かされてはいなかった。どうして教えてくれなかったんだよ。

「人間の教えでも曰うでしょ? あらかじめ危険を知るより、実際に味わった方がいいって」

 なんで分かるんだ、と維光はまたもや驚きそうになったが、かろうじてそれが表出するのを隠し、千本のに従って、他の級友たちとともに保健室への道のりをたどる。


 これが行使者か。

 維光は、俊船が単に気を失っただけだと説明されほっとした。骨をいくつか折っているだろうと危惧していたのだが……。

 千本は不動心(ニル・アドミラリ)を終始保っていたが、はたせるかな、完全に維光のことを疑っていないわけではない。

「どこからそんな力を手に入れたの? 維光……?」

「僕だって知らないよ」 維光は自分でも理不尽な気持ちをおさえられない。

 二人は廊下から、上の部屋に続く階段を昇りつつある。楓が急いで先に。

「急にあの力が出たんだ。驚かないわけない」

「それにしたって、あんたは数日前から不思議なこと続きね」

 踊場で、急に立ち止まる少女。

 真実について知られてはいないかと、あやぶむ維光。冷汗。

「本当に、物語の世界にさらわれたんじゃないかって。まさか冗談よね」

 たちまち笑顔になるが、逆に楓となると素直に安心できない。

 事実――あたらずといえども、遠からずなのだ。

「じょ、冗談に決まってるよ」 維光はつい口ごもってしまう。

 楓は上の階に登り切ると、見下ろすようにして維光に告げる。

「一時限目が近づいてるから、早くしないと――」

「楓さん」

 二人とは別の人の声。

「え?」

「そこをどいてくれ」

 楓の前、ややぼろの出た私服の少年。楓はその服装に、まず臭いを感じた。

 だが、その直後に目を丸くして、

「透!?」

 少年は立ったまま動かず楓の前にたたずむ。

「詳しい事情は後で(はな)す。頼むから」

 恐怖にかられて維光は叫んだ。せっかくのぼろうとしていた階段を降り、逆の方向へと駆け、走っていった。

 どうしてここが分かったんだ? ここで逃げおおせなきゃ――過誤(まちがい)なく殺される!

 身と心の震えが窮まるあまり、あたりのことなど何一つ分かっていなかった。

 維光は廊下で数人の教師や生徒と衝突しそうになった。そのあげく、壁にはりついて合った扉を猫の手も借りたい気分で開け放った。

 そこは、ほうきやモップなど掃除用品と書籍の棚がたくさん入った、薄暗い部屋。

 心臓が激しく上下するのが痛くてたまらない。棚の一つに背を(あず)けはげしく呼吸。

「運がよかったわね」

「惑書!?」

 気づくと、人間の形をとった惑書が維光の隣で冷たい様子で並ぶ。

「お、お前いつの間に――」

「あなたが保健室に向かった時から跡をつけてたわ。誰にも見えないようにね」

 その体から赤い光がこまごまと散っている。どうやらかなり怒っているらしい。

「まさかねえ。常に沈着だったお父様とは大違い。失望しました」

 表情があくまでも感情を抑えたものだっただけに、その背後を感じてより恐い。

「ぼ、僕は、どうすりゃいいんだ」

「詠みなさい」

 回答は非情にも五音節。

「魔物には魔物でしか対抗しえない。だからあなたの権威でやってみせなさい。詠むのよ!」

「よ、詠むって何を詠むんだ?」

 もう泣きたい気持ち。

 その時、突如惑書はその首をしめあげた。

「……う……え……!」

 魔物の力がこれほどとは思わなかった。維光はたちまち息ができなくなる。

「言ったでしょう。それをするのが行使者の責務(つとめ)。それが可能(でき)なければ行使者たりえない」

 どうやら体が浮き始めたらしい。少女の体からこれほどの力なんて、信じられない。

「いたあっ」

 維光はいきなり床に投げ落とされた。

 ふたたび荒い呼吸。脚の痛みがさらに増す。

「ここには読むものなんて何もないぞ」

 かろうじて四足ではい、頭をあげると、上から惑書がほとんど軽蔑しきった表情で見下ろす。

「だから――」

 今度は、足で踏みつけてきた。

 再び痛みが走るとともに、維光はだんだんうれしくなってきて下半身の一部が硬直し始める。

「それくらい自分でやるのが行使者。自分でできて当然でしょ?」

 ああ、このまま足でどんどんすりつけてほしいと夢想していると、

「どうして僕を怖がるんだ、維光」

 外から声がした。

「はやく外に出てくれ。悪いようにはしない」

「こうなったのも大都(すべて)あなたのせいよ……盛永の子」

 維光は笑おうとした。だが、もうそうするだけの気力など残っていなかった。

 惑書はもう維光を痛めつけるだけの元気もないらしく、ほとんど棒読みに近い言葉でまくし立てる。

「なんて意気地(いくじ)なし。これでは友達を助けるなんて夢のまた夢。頼んだ人とみこした私が馬鹿だった……」

「あはは、その通りだ」

 殺してくれ……屈辱にまみれた今は、目の前の現実を認識する力さえない。

 だがその時、とうとう奴は扉を開け放った。

「維光」

 透が晴れた空を背にして立っている。

「そいつが惑書か?」

 こちらには無機質な灰色の壁が広がっているだけだ。惑書はきっと透に同情しているに違いない。

()だ……」

 維光は全てがどうでもよさそうな表情で立ち上がる。目はすでに光を失っている。

「こっちに来い。何もしないから」

 透は、両手で指図しながら友に迫った。

「いやだ……いやだ……」

 もはや世界だけでなく、それを認識する自分自身まで忌々しい。

 一体なぜこんな所に立たされているんだ。誰も望んでいるわけがないのに。

 女々しい。いや全く以て何の特点(とりえ)もない人間だ、僕は。

 そう思うと、だんだん怒りが湧いてくる。こんな人間となることを、父さんは望んでたのか。父さんが行使者であったように、僕も行使者でなければならない。なのに、現実は理想と真逆だ。

 僕はそれを従容として受け入れるのか――そんなの、厭だ!

「どうやら僕は痛い手を使わなきゃならないらしい」

 透の口調が急激に冷たくなっていく。

「少し痛く感じるかもしれないが――いいか?」

 なんて愚かな人間なんだ。いろんな苦しみを共有しあった友にさえ、素直な気持ちを示してやれないなんて。

 もう砕け散りたいくらい。いや――砕け散るべきはこの心。

 怒りが、ある段階を越え始める。

 その心を一切、取り除けてしまえ。

 こいつを、起点にして。

「……お……ま……」

 信じられない。口が勝手に動きだす。

「何が言いたい」 わなわなと震える透。

 だがそう叫びたいのは維光だ――なぜ、口がおのずからしゃべりだす!?

「お前の身は、俺の……」

 明らかに声の主は維光ではない。維光ではない誰かが、維光の口を借りているかのように。

 まさかこれが、権威って奴なのか。その考えが、維光の脳裏の陰から颯爽と飛んできた。


――僕が呪文を唱えて、敵に攻撃を加えると?

――そう。そして呪文が唱えられるかは、ひとえにあなたの覚悟にかかっている

――呪文ってのは……勝手に降ってくるのか? お前が教えるんじゃなくて?

――それはあなたが経験することよ


 維光は恐怖していた。まるで何かに憑依されているみたいだ。だが、よく考えてみれば、この肉体には元から僕が憑依しているじゃないか。

 つまり、僕ではない何かが、新しく身体(からだ)に――

「『お前の身は俺から離れろ。今立っているその場から』」

 次に起こったことは維光も透も予想しえなかったことだ。突然強風が巻き起こって透を向かいの壁に叩きつける。

 維光は無意識に惑書の方に振り向いた。すぐ背後で、惑書が右手を突き出して風を流していた。物理的な風とは違うらしい――維光はそれに吹かれる様子なんて微塵もなかったから。

 姿勢をくずし、うめきながら、あっけにとられている少年を恨めしそうににらむ透。

「透くん!」

 永歌と楓の叫び。

「残念だが、今日はここまでにするよ」

 透は感情を無理やり抑えた声で立ち上がりつつ、

「もうこれからは敵同士だな。たとえ何を想ってようと――」

 窓を開き、その瞬間外へと飛び去って行った。

「消えた!?」 千本の驚愕(おどろき)

「維光くん!」

 二人が部屋の前にかけつけた時、維光は一冊の本を片手に茫然。

「ねえ、透は?」

 楓が少年の左肩をゆさぶって問うも、返事がない。

「さっき廊下で何を話していたの? 一体どこに……?」

 何だったんだ、今のは?

 維光は事情が分からず、ただ目の前を疑うばかり。

「ハッ!」

 目の前の二人に気づいたのは、ようやく楓に両手で両肩をつかまれる時になってから。

「ちょ、お前ら!」

 永歌は汗をかきつつ少年につめよる。

「そう言えばさっき何か叫んだと意ったけど……あれは何? その後で透、いきなり床に倒れこんじゃったんだけど」

「し、知らない、何も」

 維光は首を横に振るだけ。

 もし真実が知れたら、どうなることやら。

「透は窓を開いていきなり銷えた。よじ登るとかじゃなくて、()ぶみたいに……。分明(あきらか)に、尋常(ただごと)じゃない」

 とあせった顔で維光。

 楓は一人推理。

 維光は何かを隠している。透に関して知らなさそうなことは決定的であるとしても、なぜ透を目にした時、おびえて逃げ出したのか。

 そして透が最後に発した言葉の、あのとげとげしさ。まるで敵視しているような感じだった。これほどの変化が起こったということは、常識では考えられない何かが生じたに違いないのだ。

 何より維光が持っているあの本のこと。ページをいくらめくっても終わらないという不可解な現象。なぞめいた叫びを口にして、なおそれを胸にかかえている。

 透とこの不思議な本とに、何かつながりが……?

過労(つかれすぎ)よ」

 表向き、あきれた口調で肩をすくめる楓。

「ずっとここ数日間おかしなこと続きだったんですからね。だから透相手にあんなこと言っちゃうのも無理はない」

「そうそう、維光くんは疲れてる!」 迎合の永歌。

「楓の言う通りだよ……ちょっと気を取り直した方がいいんじゃないかな。だいぶかっかしているみたいだし」

 維光は何も返事できなかった。

 行使者と魔物に関する秘密は、ついぞ知られなかったらしい。それでも、透相手に権威を発動させてしまったことは、ある意味では宣戦布告と全く同じ。このことを、教室の誰に話せばよいのか。

 いや――この世界の?

 閑話休題(ともあれ)当面の問題は、

 間違いなく僕は変人扱いだな……。

 級友に出くわした途端あんなに駭いて、またその次に呪文を唱えてしまった。普通に考えてこれより愧ずかしいことがあるか……。

 二人の少女のそばに並びながら教室への道をたどる途中、維光は本に擬装した惑書をわきで抱えながら、けだるい表情。

「行使者は世の中に理解されない」

 惑書は冷たい声。

「まして日常に関わって過ごしている人間なら。まだあなたはこの程度で済んでるといっていい」

「ああ……そうだな」

「そうよね、維光。まさかそういう年頃ってことじゃないわよね?」

 てっきり、二人は黙々と道を急いでるのかと。

「な、何の話だよ」

「聴いてなかったのね、頼んだ人。いつも私に夢中なんですから」

「ふざけるなよ。こっちは教室の奴らにどう面目立てりゃいいか分からないんだ」

 惑書への返事を、楓は自分に対するかと思いこみ、

「言わないで。私が何とかする」

「楓さんとはえらい違いね」

 いらだちを抑えきれない口調で、本を両手にいきる維光。

「こっちの事情も考えろよな。僕は今、()ても()ってもいられない状況なんだ」

「……誰と(はな)してるの?」

「いや、独言(ひとりごと)だから」

 あせって維光はとりつくろう。目の前の現実に集中しろ。まず恐れるべきは、あいつらの反応だ――。

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