エピローグ
「天月様には頭が上がりませんわ、本当に」
「本当よ。私が市長と知り合いじゃなかったら、あんたたち今頃前科持ちよ」
あにまるメイド喫茶にゃんにゃんにゃ、にゃ~んのテーブルの一角に天月様、会長、天野、梓ちゃんが座っていた。時刻は午前十時、開店の一時間前である。
どうして会長こと、せりほちゃんが天月様に頭を下げているのかというと、
「まさか公務執行妨害で逮捕されるなんて思いもしませんでした」
と天野ことおみっちゃんがしょぼくれていうように、三人でテルミドール・シスターズを再結成したあの日、会長と天野はもれなく警察に逮捕されてしまったのであった。
原因は十中八九、純にあったのだが。
「妹の為だからって公務員を敵に回す奴があるかねぇ」と呆れたように天月様はタバコをふかした。開店前のなので天月様は無名バンドのオリジナルTシャツにジーパンという簡素ないでたちをしている。「一途というか、アレはその、何だっけ? パラなんとか、パラジクロロベンゼンじゃなくて」
「パラノイア、ですか?」
パラノイアとは一つの事物に対して過剰なまでの執着を見せる精神疾患である。妹のピンチとは言え、巡回中の警察官の職務質問を断り、逃走を計った純はパラノイア患者以外の何者でもないだろう。
「そうそれ、さすがせりほちゃん」と会長は頭を撫でられて、女の子のような微笑を浮かべた。
あのとき、駅前はパトカーのサイレンと「そこのオカマっ! ちょっと待てっ!」と叫ぶ大勢の警官で一時、騒然とした。運が悪いことにその日から一週間、駅前の取締りが強化されていたようで、会長と天野はあっけなく御用となったのだ。とばっちりを受けた二人からすれば、うまく逃げおおせた純が恨めしい。
「妹のためなら、例え火の中水の中はいいですけど、周りの迷惑も少しは考えてもらいたいですよ」
「でもそういうのちょっと素敵ですよね。一人の女性をあそこまで愛せることが出来るのってすごいと思います」とちょっとうらやましがるように梓ちゃんは言った。
「妹だけどね」
「それでも素敵ですよ」
「全く、梓は若いわねえ。まあ、そう思えるのは若いうちだけだから、せいぜい今のうちに思っておきなさい」と言って天月様は腕時計に視線をやる。「で、その純は一体何をしているのかしら?」
三人は今日からこのメイド喫茶で働くことになっていた。だから男子二人はせりほちゃんとおみっちゃんに変身していたのである。会長は単純に迷惑を掛けてしまったお詫びに、天野はつけを働いて返すために、純は超小型盗聴器のレンタル料を支払うために。純はもちろん厨房で皿洗いの予定である。
しかし、初日から遅刻なんて、一体純は何を考えているのだろうか?
「やっと終わったあ……」
「お疲れ、兄貴。ホント助かったよぉ」
純は比呂巳の部屋で漫画家のアシスタントまがいのことをしていた。昨日、比呂巳に「締め切りに間に合わないから手伝って!」と泣きつかれ、徹夜で比呂巳とともにBL同人誌を作り上げていたのだった。開始一時間ほどは男同士のあられもない惨状に蕁麻疹を出すほどの拒否反応を示していた純であったが、次第に「男の子同士ってありじゃね?」と思うようになっていった。弥恵に関わること以外となるとまるで風見鶏のようである。
「そういえば」と比呂巳は濃いコーヒーをすする純に向って聞いた。「弥恵は今日も伊織ちゃんとデート?」
純はもううんざりというように頷いた。あの日を境に弥恵はなんだか開き直ったようになって伊織との関係を深めていたのだった。「比呂巳にはいつか告白するけど、今はお姉さまに甘えるときだから」とよく分からない理由を付けて、弥恵は一向に比呂巳に告白する様子はなかった。
そういえば、高野家に伊織は一度やってきたことがある。純がいるのにも関わらず、公然とリビングでいちゃいちゃして、純の心をぐるぐると引っ掻き回すだけ、引っ掻き回して帰っていった。帰り際、
「私が戸籍上のお姉さまになるにはどうするのが一番手っ取り早いと思う?」
と伊織は少し照れた風になって聞いた。鈍感な純は「弥恵は俺の妹ですから!」と焦るばかりだったので、伊織はその様子を見て「もう!」とがっかりする他なかった。
「いいなあ、私もお姉さまでもつくろうかしらん」
弥恵の気持ちも知らないで、比呂巳は「う~ん」と背伸びをしながら呑気に言う。お姉さまなんて作ったら、弥恵は発狂してしまうに違いない。
ふと、純は時計を見た。すっかり忘れてしまっていたけれども、今日はバイト初日である。慌てて衣装を取りに家に戻ろうと純は立ち上がった。迷惑なことに純はホールに出て接客をする気満々だったのだ。
「じゃあ、先生、後は頼みますよ」と純はすでに比呂巳のアシスタント気取りである。
「あ、コレ。梓ちゃんに渡しておいてくれない?」
比呂巳がそう言って差し出したのは、比呂巳が以前作ったBL本であった。梓ちゃんとは先日あった同性愛オンリーイベントで知り合ったらしい。純は世間の狭さを思いながら、その本をペラペラと捲った。まだ少し絵を描くことに慣れていない感じはあるけれどもこれはこれで味のあるいい本だった。ページの最後にはペンネームとあとがきのような短い文章。
チョコレート・ムース
――甘くてちょっぴりほろ苦い、ふんわりとした物語をお届けします。
「まえがきに書いたら詐欺だろ、コレ」




