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チョコレートムースの結

 なんで……なんであいつらがいるのよ?

 内海は心の中で冷や汗を垂らしながらそう唸った。

弥恵が「一度入ってみたかった」というので言われるままにメイドさんにご奉仕されて、メイドさんにフーフーしてもらって、弥恵といちゃいや出来たことはこの上ない幸せだった。

しかし内海と弥恵が座るテーブルから一番遠く離れた席に純と天野と会長の三バカトリオを見つけてしまった。もう少しメイドさんを眺めていたかったが仕方がない。オムライスも全部食べていないけれど仕方がない。純と天野だけならまだしも目聡い会長の姿もある。内海の様子に不思議がる弥恵の背中を押して、二人はメイド喫茶を後にした。


と、どうして内海と弥恵がこうして一緒にいるのか、いろいろ説明せねばならぬだろう。話は紀州智天学園がサヨナラ勝ちを収めた、あの日にまで遡る。



 内海は午後を迎えるチャイムが鳴るころに『美しき生命』の部室を出た。この日は市の産業会館で午後から同性愛オンリーの同人イベントがあったためだ。校門に先代の会長が車で迎えに来てくれるとのことだったので、内海は足早に廊下を駆けていた。

「ちょっと」

「はいっ?」

 社会科準備室の前で内海は声を掛けられた。この声には聞き覚えがある。倫理を担当している並木教員だ。ぼやっとしたしょうゆ顔と裏腹に並みの声優よりもいい声を持った、友人の腐女子の間で評判の高い先生である。人の気配が全く感じられない廊下にその声はよく響いた。しかし、内海には呼び止められる理由が浮かばない。世間話でもしようというのだろうか。内海は先代の会長に「かわいくないぞ。でも嫌いじゃないなあ」と指でふにふにされる自慢の仏頂面で振り返る。早く同性愛オンリーイベントに向いたいんだが。

「なんでしょうか?」

「いや、今日生徒は全員甲子園に行っていると聞いていたから」

「ああ、それなら私たちだけお留守番です。百合研究会です」

内海の言うように『美しき生命』の他称は百合研究会でもあった。実質、会員は一人だけど。

「うちの学校にそんな同好会あったんだね。知らなかった。それで百合についてどんなことを研究しているんだい? 応援にも行かずに活動するなんて随分と熱心じゃないか」

並木教員はさも感心したという風に薄い頭をハンカチで拭いていた。内海はテレビに甲子園を映しながら、コミック百合姫を捲り、雑談を繰返していたとはさすがに言えず、ましてや百合は女性の同性愛のことですよとはもちろん言えず、嘘八百の植物の方の百合の研究成果をでっち上げた。すぐに見破られるだろうが、内海の口はすらすらと動いた。これも同性愛オンリーイベントに一刻も早く向いたい一心であろうか。内海はさっさとこの場を離れてしまいたかった。腐女子に高評価でも女の子が喘ぐ声にしか過敏な反応を示さない内海に取ってみれば目の前のいい声は女の子の喘ぎ声との遭遇を邪魔するけしからん高い壁である。それも登っても気持ちよくはない残念な壁。しかし、内海の見破られないことに定評のある嘘はお昼時の緩やかな時間に後押しされて圧倒的な信憑性を作り上げていたらしい。並木教員は内海がしゃべるごとに深く頷き、内海と同じような凸レンズの向こう側が輝きに満ちていく。

「それはすごいじゃないか。ぜひ私も協力をしたい」

 え?

 内海は心の中で珍しく疑問符を催した。そんな言葉待ち望んでいない。この教師は『美しき生命』の今までの醜態を知っているのだろうか。

そういえば、と内海は思い出した。しょっぱなの倫理の授業で確か今年赴任してきました的なことをいっていた気がする。

内海は全力でその協力を断るしかない。断らなければ、壮大な百合研究プロジェクトを実行しなければ無くなる。

内海は今まで見せたことの無い、イギリス紳士……もとい淑女顔負けの勝負顔を作り、低姿勢でお断り申し上げる。

「お気持ちだけで充分ですよ。このプロジェクトは私たち、生徒だけで実践することに意義があるんです」

 その言葉に胸を打たれたのか、並木教員は腕を組み大きく頷いた。

「その通りだね。いや、感心した。この時代に君のような生徒に巡り合えるとはね。この学校に赴任してきてよかった」

「あはは」

 内海はぎこちない愛想笑を目一杯作り出した。

「そうだ。あまりいいものではないが」

 並木教員は内ポケットをまさぐると、そこから狛犬のような形をした、小さな置物を取り出した。

「お守りだ。プロジェクトの祈願にでも持っていてくれ」

「はあ」

 純は掌を上に向けてそれを受け取った。よく見ると狛犬ではなく、豚のような面をしている。お世辞にもあまりかわいいとはいえない。むしろ少々グロテスクである。

「このお守りはトリトといって、日本で言う招き猫とか福助みたいなものでねえ。魔よけにもなるらしい。去年ペルーに旅行に行って来た時に買ったんだけど。よくは知らないけれど、牛を象ったものらしい」

 牛か。なんだか納得がいかないがそう思えば見えないこともない。内海はここで断ると面倒臭いことになるだろうと気転を利かせ、あまり有り難くは無いが、有り難く受け取ることにした。内海はお礼を言って頭を下げた。

「困ったことがあればいつでも相談に乗るぞ」

 純はギラギラとした太陽のような精神の反射を後ろの方に感じながら並木教員の前をささっと後にした。


 同性愛オンリーイベントでのGLの比率はおおよそ一割といったところだろうか。内海は売れない同人誌を目の前に溜息を付いた。BLサークルの知り合いやら、GLサークルのお仲間がたまに顔を出して買っていってはくれるが、いかんせん内容がマイナーすぎるのか、試しに手に取って読んでくれる人はいるけれど、買っていってくれた人はほとんどいない。

あのアニメの第四話を本にしたのがいけなかったのかあ、と思いながらも内海は書きたいものが書けてなんだかんだで満足していた。いつものようにシナリオは先代の会長が担当して、内海が絵を描く。先代の会長のぶっ飛んだシナリオは描き手の内海を充分に満足させる過激な内容であり、可愛い女の子の肌を恋しくさせる多少誘発的な内容でもあった。

内海は「ちょっくらハントしてくるからっ」といってどこかへ去ってしまった先代の会長を探しながら、可愛い女の子いないかなあ、と首をもたげながら辺りを見回す。

「どこを見ても眼鏡ちゃんばっか、」

 そう言いかけて内海は自分の眼を疑った。

 なんであんな可愛い子がいるの? しかも二人も。

 産業会館の入り口付近の中学生くらいの女の子二人組みに内海の目は釘付けになった。

 片方はポニーテールで少し茶髪気味の元気そうな子で、もう片方はさらさらとした黒髪を肩くらいまで伸ばした、おっぱいの大きな子。その子はダサいうさぎさんTシャツを着ていて、その姿があまりに可愛すぎて内海は思わず鼻血を出しそうになる。「高野のことを言ってられないわね」と内海はなぜだか純のことを思い出しながら思う。

黒髪の子はちょっと戸惑っているようで、茶髪の子の袖を掴んでおずおずと歩いていた。

「なにこれ。信じられない。可愛すぎる」

 内海はそう小さく呟くと二人の少女、主に自分のタイプにがっちりとはまった黒髪の子に焦点を定めてじっくりと眼でストーキングを開始した。

 二人はなんだか通路の入り口辺りで止まりなにやら話し合っている。おそらく「どこから回ろうか?」的な話をしていると内海は推測する。決着はすぐについたようで内海が本を並べる通路に二人は入ってきた。内海は心の中で「おいでおいで」と呪文を唱えるように二人の可愛い小娘たちを招き始めた。「おいでおいで」

 二人が内海のところに近づいてくる。怪しまれてはいけないと内海は目を伏せ、自分の本を手に取ってくれるように祈る。「あっ、でもこんな本、中学生に見せたらあかん」

そんな内海の杞憂を余所に、残念ながら二人は内海の目の前をすーっと通り過ぎると、迷いなくBLの方へ向っていった。薄々分かってはいたけれど、目的はやはりBLにあるらしい。「中学生でBLとはけしからん」と自分のことは棚にあげ、内海は独りごち、「泡沫の恋だったなあ」と溜息を付く。

内海は人間何事も切り替えが大事よね、と思い直し、少々小腹がすいていたので先代の会長のカバンを漁ってポッキーを探し始める。「あれぇ、見つからないなあ」

「すっ、すいません」

「ひゃあっ!」

 いきなり大きな声で「すいません」と言われ、思わず内海は大きな声で驚いてしまった。そして声の主を見上げて、内海はさらに驚いた。「わっ!」

 さっきの黒髪の女の子が内海の前に立っているではないか。「ウサギちゃんみたい……」と内海はその女の子を間近で見つめた感想を思わず漏らしてしまう。

「え?」と女の子は一体何のことを言ってるんだろう、と首を傾げた。確かに最初の一言に「ウサギちゃんみたい」というのはないだろう。内海はごまかすように咳払いして、女の子の服を指差した。

「Tシャツが」

「あっ、」となぜだかその女の子は自分の服を一瞥すると、今にも泣いてしまいそうな顔になって内海を見つめる。そして「やっぱりダサいですか?」と思いもよらぬ問いをぶつけてきた。「やっぱりダサいですよね?」

 内海は慌てて首と手を振って否定する。確かに「ダサい」のであるが、内海は「そんなことないよ。かわいいよ」と女の子に向かって言った。可愛いのは本当である。

 すると女の子は「本当ですかっ!」とぱあっと顔を明るくして「えへへ」と笑い、子供らしく頭を掻いている。その仕草が可愛すぎて内海の体温は平熱を遥かに超えた。内海は心の中で弾けては治まらない動悸を女の子に悟られないように、冷静さを必死で装った。

「それで一体どうなさって?」

 内海は出来るだけお嬢様のお姉さまを意識してそう問いかける。しかし内海はすぐに気付いた。ここで「すいません」と声を掛けられる理由って……。

「ちょっと読ませてもらっていいですか?」

 これ以外にないだろう。少女は純真無垢で穢れの影も見当たらない笑顔でそう言った。

 内海は考える。この少女はGLの世界を知っているのだろうか? まあ、ここに来ているのであれば多少の知識はあるに違いないのだけれど、でもこの天使のような微笑に私と先代の会長が徹夜で作ったラディカルな本を見せていいものなのだろうか。でも、この笑顔に駄目よ、なんて言えないし。意外ともうはまりきっているのかもしれないし。そうよね。こんなマイナーな本を見た言っていうんだからね。

「……どうぞ」

「ありがとうございます」

 女の子は嬉しそうに本を手にとってページを捲り始めた。そこで内海は改めて自分の本を見て気付いた。

この本、表紙はまるで小中学生向けの少女マンガの単行本と大差ないじゃない!

が、もう遅かった。

 女の子の白い肌は見る見るうちに赤く染まっていって、頭から蒸気を噴出しそうな按配である。女の子の口からは無意識に「ひゃあ」「ふう」「あっ」と、内海も思わずそそられてしまうような声音も発せられている。

内海はこの女の子の精神衛生上良くないと即座に判断し、慌てて本を奪おうとする。けれど女の子は内海の手を華麗に避けてなかなか本を離そうとしない。夢中で絵と字面をそのくりっとした瞳で追っている。そんなこんなやっている内に、女の子は最後のページまですっかり読んでしまっていた。

そして「こ、これ下さい!」と言うと鼻血を出しながら、その女の子はへなへなとその場に倒れてしまった。


「だ、だいじょうぶっ!?」と人が倒れる場面に遭遇したことなんてなかった。だから気が動転してあわあわと、内海は長椅子の下を潜って女の子と顔を覗き込んだ。呼吸が荒い。

内海の本でどうやら女の子は過呼吸に陥ってしまったようである。かろうじて意識があるようだが、大きく膨らんだ胸元は苦しそうに忙しく上下いている。内海はとりあえず頬っぺたをぺたぺたと触った。

マシュマロみたいに柔らかい。

そのままふにふにしていたい……って欲望に踊らされてるんじゃないわよっ!

いつの間にか内海と女の子の周りにはGL女子たちが集まってきた。かわいい女の子のピンチである。

「医務室に連れて行ったほうがいいんじゃないの?」と誰かが言った。内海ははっとなり、その女の子を背負おうとするが、GL女子たちは「いいや、私が」「私でしょ?」「この女の子は私の妹候補だから」と女の子との交渉権を奪うように群がり始めた。そんな押し問答をしているうちに女の子の呼吸は次第に落ち着いていったが、かすかに開かれた瞳は虚ろで、白い肌は青ざめ、その細い首は項垂れるようにぐったりとしている。まるで寒さに震えるウサギのようで、その姿は見ていられない。

内海は管楽器で鍛えられた肺活量で思いっきり息を吸って、目一杯に叫んだ。

「私の妹に、近づくんじゃね―――――――っ!」

 一瞬で、その場はシーンと静まり返る。

内海はまるで闘犬のように「がるる」と周りに集ったGL女子どもに威嚇の目を向ける。その剣幕に圧倒され、大人しく引き下がっていく。

「ごめんね。すぐに連れて行ってあげるからね」と内海が声をかけると「ふん」と女の子は小さく頷いた。「よし」

女の子を背負うとぽやっとした優しいシャンプーの匂いが内海の鼻腔をくすぐった。内海は思わず「むふふ」と笑顔を辺りに振りまいてしまう。途端、周りのGL作家たちの「うらやましいですことよ」といった羨望の視線と反感が集中する。内海は仏頂面を取り繕って医務室まで足早に向った。

途中、先代の会長に遭遇した。その腕には内海よりも齢が一つ二つ下ぐらいの猫耳を付けたかわいい女の子がへばりついていた。聞けばBLの方でハントしてきたらしい。

 薄々分かってたけどハントってナンパのことね、と内海は皮肉を込めて「こういうのがタイプなんですか?」と言ってやる。

「やーだー、それ嫉妬?」

「嫉妬です。悪いですか?」

 一応アニメの真似事で二人は姉妹の契りを交わしていたのだ。義理堅くて、少々重たい内海はそういうお遊び半分でやったことにも拘ってしまう。といっても先代の会長はどう思っているか知れないけれど。

長話をここでする気はない。内海は事情を話して先代の会長にブースに戻ってもらった。去り際、先代の会長は「そういうのがタイプなんだ?」とからかうように言ってきた。

「嫉妬ですか?」

哲学用語と古典言葉ではぐらかされるに決まっているから、内海はそそくさと医務室へ向った。


看護師さんによれば軽い貧血だろうということである。医務室のベットですやすやと眠る女の子の姿を見て、内海はほっと胸を撫で下ろした。

「私が見ていますからお戻りになられては?」とナースらしい優しい口調で看護師さんは言ってくれた。けれど、軽率に過激なGL本を見せてしまった責任があるし、何よりも内海はこの子と一緒にいたかった。

「いいえ、この子が起きるまでは」


 恥ずかしながらも女の子が倒れてしまった理由を内海がバカ正直に話すと、看護師さんは人が変わったように、ひーひーと腹を抱えて笑い出した。

「ちょ、ちょっと看護師さん。笑い過ぎっ! 女の子が起きちゃう」

「はー、ごめんごめん」と看護師さんは笑い過ぎて目尻に溜まった涙を払う。「だって、GL本読んで鼻血って、今時そんなうぶな子いないわよ」とまたひーひー言っている。

「ここにいるじゃないですか、初心な女の子」

「……でも、その初心もあなたのせいで卒業ね。その子は女を知ってしまったのよ」

看護師さんはそういって内海のGL本をペラペラと捲りながらとひーひー言っている。なぜその本が医務室にあるかというと女の子がずっと掴んで離さないでいたのだ。

「これあなたが書いたの? 見かけによらず大胆なのね。三冊買うわ。観賞用、保存用、布教用に。小児科の待合室においておこうかしら」

「駄目ッ! それだけはぜーったい駄目ッ!」

「表紙はまるでシンデレラじゃないの」

「問題は中身のほう。その本のせいで一部の初心な女の子の魔法が解けちゃったらどうするんですっ!」

「早いか、遅いかの問題でしょ。目覚める人は遅かれ早かれ目覚めんのよ」

「で、でも、目覚めてない状態での、すれ違いぃーとかってロマンティックじゃないですか?」

「そう思っていた時期が私にもありました」

「あったんだ。ちょっと安心しました」

なんで内海とこんな会話が出来るのか。答えは簡単、看護師さんもレズビアンだったからである。現在一つ上の先輩ナースと同僚のツンデレナースと研修でドジばかりする新人ナースと絶賛三又中とのことであり、「いつばれるか、スリル満点」だそうである。最初の素敵な白衣のナースの印象がものの数分で壊されてしまって、内海は少々、落胆した。

「……なんか疲れた」と内海は女の子を上から覗きこんだ。すやすや寝息を立てている。それを見ているとナースにかき回された心が一瞬で休まる。

「……かわいいわね」と看護師さんが内海の後ろで呟く。

「そうですね」と内海は同意する。

「あなた」

「そうですね……ってあなた!?」

 振り返ると看護師さんの瞳が真っ直ぐに内海に注がれていた。「同人誌なんて読んじゃったら、ムラムラしてきちゃった。ねぇ、しようよ。誰も見ていないし」といって内海は抱きすくめられた。「ひゃう」

 内海は医務室の中を見回した。確かに幸か不幸か、そこにはベットが十台もあるのにも関わらず、埋まっているのは一台のみ。そこで目を覚まして営為活動中の身は内海と看護師さんだけということになる。

「あなたもレズなんだからいいでしょ?」

「で、でもぉ」

「私の顔、嫌い?」そう聞かれ内海はまじまじと看護師さんの顔を見てしまう。そしてバカ正直に、

「とても綺麗だと思います。私のタイプから外れてはいません。どっちっかっていうと近い部類です。看護師さんがもしノンケだったら、その病院に通っちゃうくらいの、好き加減です」と答えてしまった。「じゃ、頂きますっ!」と看護師さんは内海のうなじにキスマークを付けた始めた。「くぅぷっちゅー」

「……あっ、いい。……じゃなくて、ま、待って下さいっ!」

「何?」

 確かに看護師さんの顔は先代の会長にどことなく似ていて、内海の好みに仕上がっていたし、その積極さも最近自身が「受け」であると認識し始めている内海にしてみれば有難い。けれど内海は面倒臭い女だった。きちんと段階を踏んで、起承転結を経て、同性婚の認められたオランダ辺りで結婚式を挙げたい願望を人知れず抱いていた。むやみにやってしまうなんて内海の中のロマンティシズムが許さない。でもそんなことをいちいち説明していてはその間にどうにかこうにかされてしまう。

「ひ、人が来たらどうするんです?」

 医務室は出入り自由のオープンスペースである。そんなとこでさすがにやってしまうのはまずいだろう。けれど看護師さんはそんなことには意も解さずに、

「来ないわよ。だって病人はこの子で一人目だもの。今日は湿度が低いせいかしら。まあ、人は来ないと思うから」

 答えになってない。

「最近マンネリだったの。高校生って久しぶり」

「いーひゃー」と必死の抵抗を見せる内海の声は裏返ってしまう。その声が看護師さんの脳髄には堪らないらしい。「クスッ」と笑い「よいではないか、よいではないか」と看護師さんの手が内海の胸に伸びようとしている。

 だめ……そこ触られちゃったら……私、マジになっちゃう……。

 内海は自分の惚れっぽい性格を重々理解していた。一線を越えてしまったら、その人に惚れ込んでしまうことを分かっていた。

 もしその手が胸に触れたら、さっき言ったようにこの看護師さんに会うために毎日病院に通ってしまうかもしれない、三又の相手全員を呪い殺してしまうかもしれない、そして拒絶されてしまったら私はストーカーになっちゃうかもしれない。

 だから慌てて「わ、私、不細工だし」と内海はいった。

「不細工な子は嫌でしょ?」

 看護師さんの腕の力が弱まっていく。少し悲しくて、切ない気持ちもなくはないけれど、これで安心した。看護婦さんも不細工はお好みでないらしい。

 内海は看護師さんからそっと離れようとしたとき、

「そんなことない」

と看護師さんは怒ったように言った。「そんなことないよ!」

 急に態度が変わった看護師さんは内海がポカンとしている内に、黒縁メガネを取った。

「きゃあ」と内海はパンツを脱がされたような声を上げて両手で顔を隠した。

「見せなさい」と、まるで本物のナースのように優しく言うのだった。恐る恐る内海は顔を上げた。

痣のような隈、ヘルメットのような髪型を除いて、内海の顔はその眼鏡姿からは全くかけ離れた端正な顔立ちをしていた。

「思った通り、私の好きな顔」と看護婦さんは内海の隈を親指で優しく擦りながら言った。それがとても気持ちよくて内海は猫のように目を細めた。

「好きって言われたの……」

「初めて?」

「……二回目」

「そう、でもどうしてこんな眼鏡をしているの」と看護婦さんはふらふらと眼鏡を弄び、自分でも掛けてみる。「あれ、そんなに強くないのね」

「…………」

内海は黙ってしまった。思い出したくない過去が必死に脳を駆け巡るのを必死で堪えながら。

「言いたくないならいいわ。……そういえばあなた、名前は?」

「……内海です。内海、」

「伊織先輩?」

女の子はいつの間にか目を覚ましていた。内海を見るその眼差しはまるで夢を見ているようだったけれども。


内海伊織は中学まで小学校から高校まで一貫教育の受けられる女子校に在籍していた。三年前、伊織は吹奏楽部の後輩に淡い恋心を抱いていた。伊織はトランペット奏者で、彼女も同じ。毎日顔を合わせ、練習し合う仲で傍から見ればお似合いこの上ない。

当時の伊織は学校の先輩後輩同級生問わず、その美貌と人望も相まって憧れられる存在であった。本人もそのことには気付いていて、決して嫌な気分ではなかった。女の子好きは生来のものであるし、伊織はその地位に甘んじて、くるもの拒まず、仮初めの愛を振り撒いていたのだ。

けれど、本当の恋心を抱いていた彼女は一向にそういった素振りを伊織に向って見せなかった。内海は「どうして?」と傲慢な疑問を抱くばかり。その疑問の傲慢さに気付かないほど有頂天に、伊織は生活を送っていたのだ。

そんな伊織をさらに有頂天にする出来事が起こったのは、初等部の鼓笛隊のお披露目会に中等部の吹奏楽部が赴くことになったときだった。伊織が中学三年のときの梅雨明け間もない初夏のことである。

初等部の校庭、その中心で行進をする鼓笛隊を、吹奏楽部のメンバーはご父兄と混ざって見聞する。伊織はツンと清ました表情を作って、当然のように「かわいい女の子がいないかな」ときょろきょろと鼓笛隊のメンバーを見回した。鼓笛隊には将来有望なかわいい女の子たちがたくさんいて、内海はまるで天国にいるような気分だった。

その中でも特に異彩を放っていたのが、演奏のまだぎこちないおそらく四年生の黒髪ショートの華奢な女の子だった。伊織はその女の子を見つけて歓喜し、走りよって抱きすくめたい衝動に駆られたが、相手はまだ四年生、お手を付けてしまうのには早すぎるだろう。

お披露目会は拍手喝采で幕を閉じた。

伊織の視線は終始、その女の子に釘付けで、心もその子のことでいっぱいだった。彼女の一挙手一投足に内海は心をざわつかせた。校庭から鼓笛隊が去った後もその一生懸命に演奏する姿は目に焼きついている。伊織はぼっーと独り余韻に浸っていた。彼女が唯一自信を持って奏でていた『聖者の行進』が耳元でまだ響いている。

「先輩? どうしちゃったの?」

「ううん、なんでもない」

内海は恋心を抱く彼女と連れ添って初等部の校庭から出て行こうとした、そのときに。

「伊織先輩」と呼び止められた。

 幼い声音で、緊張をしているのが内海には分かった。そうやって呼び止められることに内海は慣れていた。

「どうしたの?」と振り返る。

 そこにいたのは愛しの女の子であった。鼓笛隊の紺色のチェックのベストとベレー帽がよく似合っている。その手にはトランペットよりも一回り小さい、銀色のコルネット。

女の子は思わず呼び止めてしまったけれど、いざ顔を合わせると何を言ったらいいか分からない、といった風に恥ずかしそうに俯いている。

 伊織は「この子は私のファン」なのだろうと当て推量をする。

伊織は女の子に目線を合わせるようにしゃがみ込んで「先に行っていて」と後輩の彼女に言った。彼女は何も不思議がる風もなくそそくさとその場を後にしていく。その後姿を見て「少しは寂しそうにしても罰は当らないのに」と思わざるを得ない。

 伊織は真っ赤になったその女の子の頬を了解も得ずに触った。

「私に何か御用かしら?」

 我ながら恥ずかしいことをしていると伊織は思った。けれどその仕草に大抵の女の子はコロッと身を委ねてくれるのだった。お年頃の女の子は優しくされるのにあまり慣れていない。だから伊織くらいの美しい雰囲気をあたりにぽやっと薫らせていれば、胸をときめかせない子なんていない。伊織はそんな経験からくる確信を持っていた。

 女の子は不意に顔を挙げると、じっと伊織を遠くから眺めるように見つめ出した。そうやって見つめられるのには慣れていた。けれどこんなかわいい子に見つめられたりするのはあまりなれていない。なんだか首筋の方から熱くなってくる。

「あっ」と我に返ったようになった女の子は、

「お時間はありますか?」

 と言ってコルネットを伊織に差し出した。「吹いてもらってもいいですか?」

「もちろん」と言って伊織は頷いた。


「弥恵です」

「私は、」

「内海伊織先輩。……知ってます。実は私、先輩に憧れて鼓笛隊に入ったんです」

 初等部の鼓笛隊に入った子はほとんどが中等部の吹奏楽部に入部することになる。だから吹奏楽部に憧れの先輩を見つけたら、鼓笛隊に入れば先輩に接近するチャンスが大きくなる。もちろん、伊織もその一人である。

 弥恵と伊織の二人は体育館裏にいた。二人だけ時間を欲しがった伊織が弥恵の手を引っ張って連れてきたのだ。弥恵は終始なされるがままであった。

「何が聞きたい?」

「『聖者の行進』が聞きたいです」

「やっぱり好きなんだね。一番うまく吹いてたもんね」

 伊織にそう言われ、弥恵は目一杯の笑顔を見せた。

「はい」

「じゃあ」と言って伊織はコルネットを構えた。

そこで「あっ、駄目」と弥恵は慌てて静止した。「マウスピース洗ってない」

「そんなこと気にしないの。私も気にしないから」

 と言いながらも伊織はマウスピースを凝視するとともに、その初心な理由にたまらなく欲情してしまう。

「で、でも汚いし」と淡々としている弥恵に伊織はわざと怒った風を装って、

「汚くない、弥恵ちゃんの唇は綺麗だから大丈夫よ」

 人差し指を弥恵の唇に当てて、すかさず自分の唇に宛がう。

「……は、はい」

 弥恵は顔から湯気を出さんばかりに赤面。伊織も自分でやっておきながら赤面してしまう。けれど動揺している素振りを一ミリも見せずに伊織は息を吸って演奏を始めた。


――『聖者の行進』のメロディーが優しく風景を色めかせる。


「満足してくれた、かな?」

 ふと横に腰掛けた弥恵を見ると、まさに号泣。女の子のほろほろとした涙を何回も目の当たりにしている伊織でもぎょっとしてしまうような涙の量。慌てて弥恵の頭を自分の胸に抱き寄せて「よしよし」と宥める。いくら伊織でも、この時ばかりは欲情しなかった。まるで姉が妹を慰めるように優しく背中を擦ってあげる。

そうやっていると次第に落ち着いてきた。けれど弥恵は声を喉の奥から絞るように「ごめんなさい。凄く嬉しくて」と嬉しいことを言ってくれるとまたおいおいと泣き始めてしまった。

「しょうがないな」

 伊織は弥恵をぎゅっと抱きすくめる。赤ちゃんを抱っこしているみたいにとっても暖かい。いつまでもずっとこうしていられたらいい。姉妹みたいに。

 そう抱きついたまま、なんだかスローモーションな時間はあっという間に過ぎ去った。

「いい匂いがする」と弥恵は伊織の顔を見上げながらクンクンと赤くなった鼻をぴくっとさせた。

「弥恵ちゃんもいい匂いがするよ」

と伊織は弥恵の首筋をクンクンした。気持ち良さそうに弥恵は小さく声を漏らした。そして唐突に、

「先輩のこと、好きになってもいいですか?」と言われる。そんな風に聞かれたの初めてだったので、なんだか守りに入ってしまう。けれどそれはいわゆる「私の性に合わない」。

 だから

「私のどこが好き?」

なんて聞いてしまう。意地悪だと自分でも思う。

 けれど弥恵はそんな意地悪を、イエスの意味に受け取ったようだ。

「顔」

といって弥恵はじっと伊織の顔を熱っぽい瞳を向ける。そして……。

 年下からキスをされたのは初めてだった。


「また会いに来ます」

 心臓が飛び出してしまいそうになった伊織をおいて、弥恵はコルネットを手に帰っていった。

「小悪魔系か……」

 とその後姿に伊織は手を振った。そして弥恵に好きといわれた自分の顔を、ポケットから手鏡を取り出してマジマジと見た。「顔が好き、だって」

 言って「むふふ」と顔をほころばせる。


 そして次の日、トランペットの練習中に伊織は恋心を抱く彼女に満面の笑みを見せながら聞いたのだった。

「私の顔好き?」

 彼女はあからさまに怪訝そうに、そして警戒しながら口を尖らせて、

「……嫌いです」と返した。

 その日から伊織は吹奏楽部から姿を消した。そして弥恵が何回も吹奏楽部を尋ねていったのにもかかわらず、二人は再開することもなかった。


 出来ればこんなところで再会したくはなかった。憧れの先輩が今やGL作家として本を作っていたのだ。その落胆、簡単に推し量れるというものである。

そして弥恵は伊織のことを寝ぼけ眼の一目で気付いたのにも拘らず、伊織は弥恵のことに全く気が付かないでいたのだ。三年前とは比べ物にならないほどに成長し、髪も伸ばしていたからといって、一度唇と唇を合わせた仲である。

内海はその光景を網膜の裏で再放送させた。

途端、初心だった頃の自分に赤面。

こうも人間変われるものだろうか、と逡巡。

忘れてしまってはいけないのに、とそんな自分に嫌悪感。

「また会えましたね」

横に座る弥恵はそんな伊織の気も知らずにただ純粋に再会を喜んでいるように見えた。産業会館から出て道路を挟んで向かいの公園、そこのベンチに二人は腰掛けていた。夏の日差しは強烈で暑さは申し分ない。けれど背の高い木々の陰になったベンチの辺りは別世界のように涼しい風が通り抜けている。

 目を覚ました弥恵は「風に当りたいので」と、そういって伊織の手を引いて連れ出した。内海は終始されるがままであった。

「……どうしてですか?」

 喜びに満ちていた、その笑顔から一転した潤んだ瞳を伊織は一瞥。でもまともに見れない。出来ればこの場から逃げ出してしまいたい。

 その「どうして」にはいろんな意味があるのだろう、どうしてここにいるのか? どうしてそんな風に顔を隠すような眼鏡に重たそうな髪の毛を背負っているのか? どうして弥恵の前から姿を消してしまったのか?

 その疑問は全て、現在の内海伊織を否定する言葉に違いない。

 返答を沈黙で先送りにする内海の横顔に、三年分成長した弥恵はその疑問が傷みとなって届いてしまっていることをなんとなく汲んでしまう。

「ごめんなさい」

「謝らなくていいよ」

「……でも、私に会いたくなくて別の学校に言ったんじゃなかったんですか?」

 今まで抱え込んできた罪悪を告白するような必死な形相で言うのだった。伊織はそんな風に弥恵が想っていたなんて夢にも思わなかった。

「違うッ! 私は弥恵ちゃんのこと嫌いになったんじゃないよ!」

 心の中の靄は吹き飛んでしまえ。伊織は三年間、胸の奥で閉じ込めていた気持ちを、思いのたけを解き放つ。

「私、弥恵ちゃんのこと好きだよっ! 大好きだよっ! 私の顔、好きって言ってくれた! キスしてくれた! 嫌いになんてなるわけないじゃない!」

 鳩が逃げていくほどの大音声。暑さのお蔭か、公園には人影がない。蝉の鳴き声が轟くように沈黙を妨げる。

 吐き出すと伊織は呼吸荒く、顎から一筋の汗を足らした。

 少しポカンとした表情を浮かべていた弥恵だったが、じりじりとした視線の交錯に恥ずかしくなったように俯いた。そして、「じゃあ、先輩は」と甘えるように、

「私のどこが好きですか?」と聞いた。

 その哲学的で、厭世的で、答え合わせの意味のない情緒的な呟きにレトリックはいらない。正直を吐き出せばいい。

ねえ、そうだよね?

「全部。私は弥恵ちゃんの全部が好きなのっ!」

 その理由はどこにあるのだろう? 好き、という言葉の発端はどこに根拠を見出すことができるのだろう。弥恵と伊織の出会いはたった一度、そして今は二度目。けれど、そこで交わした言葉、吐息、視線、態度、そしてキスは忘れてしまっていても、ずっと心の奥底で燻り続けていたのだ。その証拠に「好き」という感情はたかが外れたように伊織の全身を血液よりも早い速度で駆け巡っている。

「むふ、私も先輩の全部が好き」

 弥恵の笑顔を見ることが出来た。伊織は「はあー」と掠れた声を出して弥恵に抱きついた。けれど弥恵は伊織をぎゅっとしてくれない。それどころか弥恵は伊織の肩を小さく押して、その抱擁を残念そうに拒んだ。

 どうして?

「……ごめんなさい。私、他に好きな人がいるから」

 えっ!?

伊織の思考が心地よくストップした。

「大好きな人が出来たんです」

 しばらくして「おーい、弥恵!」と元気に弥恵を呼ぶ声がした。

振り向くと弥恵と行動をともにしていた活発そうな茶髪ポニーテールの女の子が看護師さんと一緒にこっちに駆けてくる。弥恵がどこにも見当たらないので医務室まで探しに行ったのだろう。

「あの子?」と伊織が指差すと弥恵はこくっと小さく首を縦に振った。「幼馴染の比呂巳です」

 比呂巳は伊織に「どうもご迷惑をお掛けしました」と礼儀正しく謝った。そして弥恵の手を取ると「ほら、いくぞ」と連れて行く。

「またね、先輩」

 伊織は思わずあっと手を伸ばす。しかし力なく自分のひざの上に落ちた。

「勝手にどこかに行くなよな」

「だって比呂巳がBL本ばっかり物色してるから」

「だからってGL本見に行くなよ。弥恵、レズなの?」

「違うもん……ばか」

 その会話はとても自然で見ていて微笑ましく、とても羨ましかった。

「やっぱり小悪魔系か……」とうなだれる伊織。看護婦さんは「点滴でも打ってあげようか?」となんだか勘違いしているようだった。


「ほうら、しゃきっとせんかい」

 先代の会長は魂の抜けて、心なしか白目の量が増えたようになった伊織の頬をパチンパチンと手加減せずに叩き散らした。

「……痛い」と漏らすだけで伊織は赤くなった頬を擦ろうともしない。

 伊織は公園から先代の会長がだるそうにじっとしていたブースに看護師さんに抱えられてやってきた。なぜか先代の会長と看護師さんは伊織を真ん中に挟んで、睨みの利かせた視線の応酬で火花を散らしていたが、まあ、おそらく互いに独占欲が強いのだろう、と伊織はあまり深く考えなかった。

そんなことよりも、と伊織は看護師さんがその場を去ると、ストレスを発散するように先代の会長に全てを話してしまった。相手が理解しているかどうかなんて構わず、そして先代の会長に弱みを握られてしまうという、これからのパワーバランスに関わるという事にも気付かずに。

伊織は先代の会長に慰めて貰いたかったのかもしれない。傷ついた心を舐め舐めしてもらいたかったのかもしれない。けれど相手は先代の会長様だった。普通のお姉さまのようにおいそれと頭を撫でてくれるはずがない。

「それ今度の本のネタにしましょう」

 伊織の心の傷をグサッと抉る一言だった。先代の会長の言うことで実現されなかったことは、まあまあない。ゆえに今度のイベントには伊織の恥ずかしい体験記が脚色過剰に売り出されるわけだ。まあ、あんまり売れないのは分かっているのだが。

「失恋は人間を一回り成長させるわ。伊織はまだ成長が足りないの。いい薬じゃない」

 成長は今のところ感じられません。

「脱皮と同じ。脱皮した瞬間はふにゃふにゃでしょ。今の伊織もふにゃふにゃなのはしょうがないわ」

 私はさながら爬虫類ですか。

「皮膚が固まりきってないんだから、完全に固まるまでは食べられちゃ駄目よ」

「その何気ない一言が、私の固まらない皮膚を傷付けているとは知らずに、先輩はグサグサと勝手なことを伊織に向って言うのだった」

「さっきから伊織は言葉にするところと、気持ちのままに留めておくところを履き違えているわよ」

「さすが文学部ですね。言うことがいちいち気障っぽいです」

「あら、それは昔からでしょ」

「そうでした。昔から口ばっかりで」

「行動力はあったでしょ。陽明学みたいに。朱子学とは違うわ」

「結果は思いも寄らない方向に逸れていきましたよね。陽明学みたいに」

「終わり良ければすべてよろしいのです。……それにしても伊織たんは初心よね。初心初心よねぇ~。産湯に浸りきった赤ちゃんみたいねぇ~」

 そこで先代の会長があざとく言ったのが伊織の今まで押されることのなかった常時不点灯のスイッチを押してしまったのだろうか。伊織は一瞬黙り込むと、

「……なんだか、気持ちがクライマーズ・ハイになってきたんでキャラじゃないこと言ってもいいですか?」と売れない自分の本を手に取って、ページをペラペラと捲った。

もう黄昏時、すでに片付けに入った人たちもいる。それなのに伊織と先代の会長の本は売れ残り甚だしい。その苛立ちも混じってか、先代の会長を見る目つきがナイフのように鋭い。まるでOLを付けねらうストーカーのようである。

 その様子に常に居丈高な先代の会長は珍しく身をすくませた。「な、何よっ! いきなり……」

「先輩って、実は下ネタ苦手じゃないですか?」

 その一言にあからさまに先代の会長は動揺した。

「そ、そんなわけにないでしょっ! 女の子はとりあえずおっぱいと生理とおっぱいの話じゃない」

「シナリオを読んでいていつも思うんですけど、どこかで理性がきちんと働いてるって言うか、突き抜けていないって言うか、どこか守りに入ってるって言うか。無理して取り繕ってるって言うか。私の過激な絵もあんまりよくチェックしてくれないし。先輩と距離を置くようになって冷静に考えてみると、」

「……何が言いたいのよ」

と先代の会長の「うー」と唸りださんばかりの表情はかわいい。

「言っていいんですか?」

「言えばいいじゃない。なんでも、なんでも……」

「先輩って実は、」

「伊織先輩! 本買いに来ました!」

 突然登場した弥恵のお蔭で、先代の会長と伊織のパワーバランスは崩れずに済んだ。もう弥恵が帰ったとばっかり思っていた伊織はそんなことは綺麗さっぱり脳内から消え去るほど、驚いた。


「いいよ。お金は」

「でも」

「こんなに売れ残ってる本を買ってもらうほうが心苦しいし。それに先輩の好意は素直に受け取ったほうが、かわいいよ」

「はい、ありがとうございます」

 弥恵は天使のような笑みで本を受け取ってくれた。その振る舞いは至って小悪魔的だ。非常にいじらしい。相手が自分のことを好いていてくれるのが分かっているだけに。

「あの、少しお話してもいいですか?」

 そう言われただけでも伊織はちょっぴり色めきだってしまう。

「うん、何?」

「あの、出来れば二人きりで」

 弥恵はたじたじになって髪の毛の先をくるくるとやっている先代の会長を見ながら言った。


 また二人は公園に行った。けれどこの時間はちらほらと人の姿があって、さっき座っていたベンチにイベントに疲れ果てたような女子たちが座っていた。だから伊織と弥恵はブランコに揺られている。

「私、告白しようと思うんです」

「へぇ、そう……」

 平然と言い返すことができただろうか、と伊織は不安になる。伊織と離れて数時間も経っていない。弥恵はその間に告白を決意したのだろうか、それともずっと告白をしようと決めていたのだろうか。

 私との再会が弥恵の背中を押したのかしら……。

 そうであったら伊織の心境は複雑である。絡み合って解けなくなりそう。弥恵と会えて気持ちを伝えることが出来たのは素直に嬉しかったけれど。息が詰まりそうなほど嫉妬するなんて始めてのことかもしれない。

「先輩に会えたから、決心がついたんです」

「そう……」想定の範囲内なので意外と傷つかずに済んだ。けれど後々に響きそう。多分、麻酔が解けたみたいに痛み出すんだろうなあ、自分の部屋に帰った頃に。

「私も先輩とあの綺麗な方みたいな関係になれるように頑張ります。遠くから見てて、すっごくお似合いなんだもん。羨ましい限りです」

あれ、もしかして……、勘違いされてませんか?

どうにもこうにも、伊織と先代の会長は傍からはお似合いのカップルに見えるらしい。本当は互いの腹を探れるだけ探る仲なのに。

「夜の方もさぞかし、お盛んなのでしょうね」と弥恵は鼻息荒く、ぐっとファイティングポーズを取って臨戦態勢である。「中学生がそんなこと言っちゃいけません!」とそんなおば様みたいに嗜めている場合じゃない。

 先代の会長との仲むつまじい情景が弥恵の引き金をズドンと引いてしまったのならその誤解は解かないといけない。延命処置のように感じてしまうが、愛しの弥恵ちゃんは誰のものにもならずに済むかもしれない。そう考える自分が少し嫌になるけれども……。

「あ、あのね、弥恵ちゃん」

 しかし、弥恵の気合はまるで暴走列車。告白に向って速度制限を守らず運行中と言ったところだろうか?

伊織の弱々しい声音など簡単に跳ね返してしまう。

「そこで先輩に相談です! どうやって告白をしたらいいですか!?」

 その剣幕に内海は思わず考え込まされてしまう。

「……パ、パジャマパーティーとか?」


 アドバイスは次から次に伊織の口から零れ落ちた。伊織は恋心を抱いていた後輩の彼女に振られてしまってから、百合本を読み漁ったのだ。そこから導かれる結論は以下のようになった。

「女の子が嫌いな女の子はいません!」

 この公正明大とは言い難い真理を言ってあげると弥恵は「ふわん」と勝利を確信したように頷いた。

 伊織と弥恵は一緒にブースに戻ると、先代の会長は比呂巳と仲良くBL本を読んでいた。先代の会長はいわゆるどっちでもいける人である。人の気も知らないできゃっきゃと楽しそうだ。その気は比呂巳にも向けられた。

弥恵ちゃんの気も知らないで男なんかにうつつを抜かしおって。でも中学生がBL本を読んでいるのを見るのもなんだかかわいい。そして比呂巳は人懐っこく、すぐに伊織にも軽いスキンシップを始めたのだから罪作りな子ではある。

 要はかわいくてロリであれば見境がないのである。

先代の会長もなんだかんだでロリ顔である。

 片付けに中学生の二人が手伝ってくれた。なんだか吹奏楽部にいた頃を思い出して少しセンチメンタルになって、伊織はうるうるとしてしまう。

伊織は「餞別に」と暇つぶしに持ってきていた百合雑誌やらなんやらを弥恵に持たせてあげた。お小遣いの少ない中学生には情報を惜しみなく与えなければなるまい。弥恵はかなりの力持ちで一杯になった紙袋を難なく持上げた。その細い腕にどこにそんな力が眠っているのか、機会があれば触ってみよう。まあ、期待はしていないけれど。

でも、期待せずにはいられないのには理由があった。

「先輩、アドレス交換しましょう」

「あ、私も」

 この面倒な文明の利器に内海は初めて感謝する気になった。

弥恵ちゃんと比呂巳ちゃんの電話番号とメルアドをゲットしたのだ。先代の会長も調子に乗って赤外線通信していたのが癪に障るが、そんなことは去り際、弥恵ちゃんに耳打ちされた一言で忘れてしまった。

「理由がなくても先輩に電話してもいいですか?」

 好きだって気持ちはお互い分かってるということ。それはとても幸せなことだって思わなきゃいけない。

「頑張るんだよ、弥恵ちゃん」応援するからね、その言葉はどうしてか、喉の奥の方につっかえて出てこないけれど。


 先代の会長の車で自宅まで送って貰った。車の中で終始意気消沈していた伊織を見かねて「大丈夫?」と言ってくれた。

「うん」

 言ったけれども大分自身はなかった。部屋に着く前にすでに視界不良。母親の問い掛けに応じることなく部屋に駆け込み、ベッドにダイブ。

頭はすでに軽い睡眠状態。現実と夢の区別もつかない、生きた心地のない、ふわふわとした感覚。苦しいと本当に息が出来ない、それは久しぶりの感覚だった。

そんな震えの止まらない彼女は願った。

人肌が恋しい。

そう思って手繰り寄せようとしたのはベッドに潜り込んで寝息を立てているだろう、愛犬のマリーだった。夕方のこの時間、マリーは哲学者カントのようにベッドに潜り込んでいるはずだった。

人でなくてもいい。抱えきれないほど悲しみ、込み上げてくる熱くて体温受け止めてくれる自分とは別の存在を、彼女は欲しがった。

そして振り回した手は何か掴んだ……。


むにゅ。


? むにゅ。それはおっぱいの柔らかさ。

「人間はいつだってわがままね」

 伊織のぼやけた視界には、ふわふわとした、柔らかい女の人。

抱きすくめられて真っ先に思ったのは、「おいおい、これは出来すぎた夢じゃないの?」ということ。

 マリーは伊織が妄想に妄想を重ねに重ねた、理想の女性に擬人化していたから。けれど単純にロリではない。使い魔という角度から練り上げた、内海を横で支えてくれる存在。だから女の子ではなく、女の人なのだ。

 目を合わせると、そのとろんとした垂れ目がかわいい。

頭が悪そうに見えるけれども、先の発言から分かるように実は犬という視点から人間の本質を抉り出し、突拍子もない発言をしたがる大学院生のような娘である。けれども大局的にしか物事を捉えることができないから、些細な感情の機微について頭を悩ますことも多い、というかわいらしい面も持つ。

 そして口は常に半開きで、舌は出しっ放し。骨を見ると涎を垂らす。なにせ犬だからね。

 胸に顔を埋めると、「着やせするんですね」と言いたくなるような大きくて柔らかい胸。それも理想形。

 耳は、そのまま犬のまま。犬の毛並みのまま、薄い金色のウェーブがかった長い髪が耳に連なる。

尻尾もそのまま、ふぁーっとしている。

伊織が思わず触ってしまったら「きゃん、……弱点だから触るの禁止。伊織ちゃんが決めたことでしょ」と上目遣い、そして子守唄を圧縮したような甘声で怒った。詳細な設定まで伊織の妄想の通り。最初は「ご主人様」と呼んでいたのが、ぶっきらぼうな性格が次第に露呈してきてある出来事から「伊織ちゃん」になるというエピソードも妄想済み。

 そしてけしからんことにマリーは百合色の首輪をつけている以外何も身に付けてなかった。とどのつまり裸だったのだ。その柔肌に内海は即座に欲情し、「ちゅっちゅっ」と首筋から胸元にキスを繰返す。

「きゃん、きゃん」

「……マリーの声、脳髄に来ちゃう」

「うー、……マリーが慰めるつもりだったのに」

「あっ、ごめんね。つい、じゃあ、マリー、私を慰めて頂戴な」

「きゃん」

 マリーに慰められながら、伊織はそのまま眠りについた。

 夢の中でくらい、めちゃくちゃ幸せでもいいよね。


 伊織が目を覚ましたのは午前二時ぐらい。両親も寝静まって家は静かだ。

 ぐー。

 伊織のお腹がなった。そういえば帰ってきてから何も口にしていない。とりあえずベッドから出て電気をつけた。ふと、伊織はベッドの方を眠気眼で一瞥。


 ……寝ぼけているのかな?


シャキッとするために伊織は一階に下りてシャワーを浴びた。徐々に昨日の記憶が甦って鬱になる。けれどそれよりも増して気になることがある。大分前者の事情と性質の違う、ジャンルはオカルト、はたまた心理学だろうか? 伊織は湯煙の中で熟考する。

夢判断でもしようかしら。

 シャワーを短い時間で済ませると、リビングで夕食の残りをちょいと摘んだ。お腹一杯食べたい気分でもないので、腹の虫が鎮まる程度に食べ物を詰め込むだけだ。

「あ、マリーにご飯あげなきゃ」

 眠ってしまっていたから、おそらくまだ夕食を食べていないだろう。マリーの世話は全て伊織が受け持っている。親戚から里子に出されていたマリーを引き取ることに真っ先に賛成いたのは伊織であるし、浪費癖の激しそうな名前をつけたのも伊織である。一応断ってくと、名前の由来はアントワネットの方ではなく「マリーゴールド」。マリア様の黄金の花。そして花言葉は「悲しみ」。マリーが伊織のところへやってきたのは丁度三年前のあの日だった。

ドックフードを手にとると、二階の自分の部屋へ戻った。

「マリー、起きてる?」

「むにゃ、むにゃ、伊織ちゃんが電気つけるから起きちゃったじゃない」

 マリーは布団から出て、「う~ん」と豊満な胸を突き出すように伸びをした。

「食べる?」と伊織はドックフードを目の前に差し出すと舌を出して「きゃん」と頷いた。

 兎にも角にも裸のままはなんだかまずい気がする。主に伊織が平静を保っていられないということが問題。目のやり場に大分困る。

伊織とマリー、背丈は似ていると言っても胸の大きさにかなりの開きがあった。伊織のプライベートを尊重して婉曲的に言うとブラのサイズに五段階ほどの違いがある。

 とりあえずクローゼットの中からだぼだぼになり、サイズの少し大きくなったピンクと白のボーダーのTシャツ、買い置きの新品の縞々パンツ、買ったいいけどタンスの肥しになっていた、フリフリの純白のミニスカートを取り出した。それを、ポテトチップスを食べるみたいにドッグフードをポリポリと食べているマリーに着させる。

即席のコーディネートだけれど、ふわふわなマリーにふわふわな恰好はよく似合っていた。あまりに似合っていたものだから嫌がるマリーに強引に黒のレギンスを穿かせる。するとファッション雑誌の表紙を飾ることのできるほどのピンク色のかわいさの出来上がり。かわいいは作れる、そして正義。「明日、黒のブラジャーを買ってこよう」と先天的にファッションセンスに恵まれている伊織は早々に決断した。

「裸の方が楽なのに」

「そんなエロイこと人前で言っちゃだめよ。エロ免許不携帯で逮捕されちゃうんだから」

マリーは鏡台の前で一回転して、服を引っ張りながら、

「裸で興奮する人間の方がエロイに決まってるわ」と全ての人間はドスケベであると決め付けたように言った。「ほんと人間て皆変態。きっと大脳新皮質が大きくなりすぎたのね。正に『過ぎたるは及ばざるが如し』。孔子様のアイロニーかしらね」

「……孔子様云々はともかく、ブラなしTシャツの女の子が言う台詞じゃあぁないわねぇ」

 さっきから伊織の視線は身勝手に揺れるマリーのおっぱいに釘付けである。

 それにしても、と伊織は目を細めて凝視する。

 大きい……じゃない、そのおっぱいの縦揺れ横揺れが夢にしてはリアルすぎる……。

 一体、いつになったらこの夢は覚めるんだろう?

 伊織は夢の中でこれは夢だと気付いてしまうタチだった。妄想の激しさが講じてか、小学生の頃から夢の中で好きな女の子と遊ぶこともしばしば。完全にいい夢を見れる能力を得ていた。けれどマリーが夢に出てきたのは初めてだった。いくらマリーを抱いて擬人化を妄想しても夢に出てくるのはダックスフントのままのマリーだけ。けれど今回の夢は違う。

 私の妄想どおり、いや妄想以上のかわいさ……。

 その伊織が眉間になんだか力を入れ始めたから、困惑していると思ったのだろう。

「伊織ちゃん、一応ね、言っておくけどコレ、夢じゃないよ」

「嬉しいこと言ってくれるのね。私の気持ちが全部わかっているみたいに。さすが愛犬」

「伊織ちゃん、信じてないでしょ」

「信じてるわよ」

 マリーのことはね、夢が覚めても……。「ねぇ、そっち行っていい?」

伊織はマリーの形のいい鎖骨に吸い寄せられるように、四つん這いでマリーに擦り寄った。

「もう、」と言いながら耳をぴくっとさせるだけで拒む様子はない。

「いい抱き枕ぁ」と伊織は服を着用してふわふわになった体に抱きつく。裸も悪くないけれど、お母さんに抱きついているような安心感と安定感がある。伊織はまるで本物のような匂いと肌の柔らかさにとろけてしまいそうになる。

「そうそう言っておかないといけないことがあるの」

 マリーは何かを思い出したように言うのだった。「私が人間の姿になっているのは並木教員からもらったお守りに宿った精霊の力なの。その精霊は伊織ちゃんに八つの願いを叶えてくれるんだって。伊織ちゃんがお願いしたから、私は人間になっているの。ご所望の通りに仕上がっているでしょう。だから願いはあと七つね。その代わり、お守りは一生肌身離さず持っていること。精霊がいいっていうまでね。幸運のお守りだから何も心配することはないわ。そう精霊が私に語りかけている気がするわ」

「へぇ、まるで練り込みが足りないラノベみたいな設定ね。敵とかいないの?」

「日本の八百万の神々は相手にならないので、ずっと気配を消していたから、今のところ敵はいないみたい、そう精霊が私に語りかけているような気がするわ」

「願いかぁ、魔法少女とかになっちゃうのも悪くないわね。……でも、十八歳は年齢的にキツイか」

「なりたい?」

 伊織は自分の魔法少女像を想像して思わず吹いてしまう。

「……夢でも嫌ね。恥ずかし過ぎて死んじゃうかも」

 でも、あの子達だったら……。

 伊織の脳裏に過ぎるのは、弥恵と比呂巳だった。そして一度仮初めの幕を張って隠していたものが露になると、悲哀の感情が雪崩れ込むようにきゅっと胸元を襲った。

「伊織ちゃん、苦しそう」

 マリーにぎゅっと抱きすくめられる。とても優しくて幸せなのにこぼれる涙は押さえようがない。一度涸れてしまった涙であるのにポロポロと大粒の雫がマリーの胸元を濡らした。眉間に力を入れても、目をぎゅっと瞑ってもその隙間をぬって重力に逆らうことなく頬を伝う。

「伊織ちゃん」

 マリーはさらに強くぎゅっとしてくれた。それが合図になって伊織は言ってしまったのかもしれない。

「わ、私、…………弥恵ちゃんが欲しいよぉ!」


 翌朝、目が覚めて、伊織はそれが夢じゃないことを知った。

「ま、マジで!」

「遅いよー」とふにゃふにゃな声音で「みゅにゃみゅにゃ」。

「だ、だあてっぇええ! だあってええええええええええ! でぇええええええっ!」

 そんな風に騒いでいる内に伊織のママさんが階段を上ってくる足音が伊織の耳に届いた。

「伊織ぃー? どうしたの?」

 伊織のママさんはノックをしない。だから早々に伊織の性癖はばれている。ゆえに女の子を連れ込んでいることに何の疑いも持たないだろうが、伊織はその瞬きと連動してひくひくと器用に動く、犬耳が気になった。そして尻尾。

 伊織はカオスな頭を高速回転させて、とりあえずタンスの一番下の引き出しからへにゃへにゃになって穴のないシャンプーハットのようにも見える帽子をポンとマリーの頭の上に置いた。そして耳でぴょんと弾き飛ばされないようにマリーに帽子の端っこを摘ませる。耳はクリア。尻尾は……とりあえず毛布をマリーの下半身に被せた。

 案の定、ノックもせずにママさんは部屋のドアを開いた。ママさんは部屋を一瞥、

「あら? お取り込み中だったのね。ごめんなさい、ふふっ」

 お取り込み中には違いないのだが、明らかな勘違いをなされているので「お母さんっ!」と呼び止める。

「この子、イギリスから来た留学生のマリア! 昨日ホームステイ先のお父さんと喧嘩して行くところがないから昨日家に連れてきたの! 食費とかあんまりかかんないと思うし、しばらくの間、家にいてもらってもいいかなっ!?」

 と一息で捲くし立てた。ママさんは少し困惑した表情を浮かべていたが、

「ちゃんとホームステイ先に連絡しておくこと。人様に迷惑を掛けちゃ駄目よ」

 と快く了承してくれた。そしてママさんはマリーのあまりのかわいさにうっとりしているような気もする。

「うん、もう連絡してある。ほら、マリア、挨拶して」

「おはよう、ママ」

 マリーはまだ寝ぼけていて、伊織がどうしてあわあわしているのか汲んでくれない。そこは「おはよう」じゃなくて「よろしくおねがいします」でしょ。

 けれど、その挨拶の微妙な間違い方が留学生と言う信憑性を持たせていたらしい。マリーの舌っ足らずな甘い声音も。

 だからママさんは不思議がることもせずに「あら日本語上手ねぇ」と言っている。まあ、少々抜けている人ということもある。だから伊織がせっかく隠した尻尾を、マリーが早速お披露目しても「あら、かわいい尻尾ねぇ」と流行のファッションだとでも勘違いしてくれたようである。

「朝ごはん出来てるから、早く降りてらっしゃい。マリアちゃんも」

「マリー。マリアじゃなくてマリーだよ、ママ」

 マリーはまだ寝ぼけているようで、伊織の気も知らないで壮大なネタバレをやりたいらしい。しかし伊織の頭の中も整理がついていないと言うのに、ファンタジーのような今だ信じ難い出来事を話すことはなんだかいけないような気がした。

「あっ、そうね。確かマリアをマリーって言うんだったわよね。でもうちの犬もマリーっていいうから、なんだかややこしいわねぇ」

 幸いなことにママさんはそうやってややこしがってくれる。ほっと胸を撫で下ろしていると、そっとしておけばいいものをマリーは首を大げさに横に振った。

「ややこしくないよ、マリーはマリー。私、」

 そこで伊織の全身を使ったストップが掛かる。

「わわあわあああわあわ! お母さん、着替えるから早く出て行って!」

「どうしちゃったの? そんなに慌てて」

「いいから!」

 伊織はママさんの背中を押して部屋から押し出した。

「このことは私とマリーだけの秘密だからねっ!」

 分かっていないように頷いて、マリーは「ご飯、ご飯」と伊織の横をするりとすり抜けて、階下へ降りていった。

「夢じゃ、ないんだよね……」


 伊織が朝食のテーブルにつくと、マリーは飼い主の登場も待たずに、どこで覚えたのか起用に箸を使って焼き鮭を口に運んでいる。「上手ねぇ」とママさんは褒めて、「その耳も流行なの?」ととぼけたことを聞いた。パパさんも「かわいい耳だなあ」と、帽子がどこかにぽとりと落ちて、露になったマリーの犬耳を物珍しそうに見つめていた。

 ひくひく。

「おお、凄い。動くんだなあ」

「動くのねぇ」

 どこまでも事物を疑うことをしない実の両親に、伊織は不安を抱かざるを得ない。あまりに両親が「凄い凄い」と囃し立てるので、マリーは調子に乗って耳を動かし始めた。尻尾もついでに「ふるふる」と。

 伊織は朝食をさっさと済ませると、ご飯のお代わりを繰返すマリーの襟首を掴んで部屋へと連行した。「しゃけ~、納豆~、味噌汁~」とじたばたとしていたけれど、朝食よりも話さなければいけないことが多々ある。

「このことは私とマリーだけの秘密だからねっ!」

 朝食前に言ったことをもう一度伊織は言った。

腹を八分目ほど満たしたマリーは目蓋を半開きにベッドへと手を伸ばしかけている。伊織は腰に纏いつくようにしてそれを止める。

「マリー、分かってる?」

「分かってるから、あと九時間寝させ……」

 あらあら、もうすっかり寝息を立てて眠ってしまっている。マリーに聞きたいことが山のようにあるのだが、まさにあと九時間は目を覚まさないような至高の寝顔を浮かべている。こんな寝顔を見せ付けられたら起してしまうなんて事は伊織には出来なかった。仕方がないので伊織はマリーをきちんとベッドに寝かせ、制服に身を包んだ。

 並木教員に会ってことの真相を確かめよう。学校に行っても会えないかもしれないけれど、どうしても部屋に引きこもっていつもみたいに絵を書く気にはなれなかった。

伊織の気持ちはざわついていたから。


「弥恵ちゃんが欲しいよぉ!」


 そう言ったこと、そう願ったことを伊織は確かに覚えていた。そしてマリーが言っていた精霊の力のことも。

 それは、叶えられるのだろうか? それは、叶えられてしまうのだろうか?

 マリーが寝てしまったことを理由にして、伊織はその願いに静かに封をした。

もしも弥恵ちゃんが自分のものになったとき、私は普通で入れる自信がなかったから。


 並木教員には会えなかったが、伊織は自分の気持ちを確かめることが出来たような気がした。

 高野に感謝しなければいけないな……。

 伊織の気持ちにあの鈍感な男が気付くわけないだろうけど、感謝の気持ちは確かに浮かんでいた。

 男の存在も悪くないと、少し思う伊織であった。


 それから伊織は駅前のランジェリーショップにいってマリーのために黒いブラジャーを購入した。伊織は一度触っただけでサイズが分かるほど、女性の胸には慣れ親しんでいたので、わざわざはからなくてもマリーの胸のサイズは分かっていたのだ。店員さんが明らかに訝しげな視線を向けていたが、その視線の先の店員さんがかわいくて巨乳だったから全く気にもならなかったけれど。


下着の入ったかわいい紙袋に伊織の恰好は明らかに不釣合いだった。ショウウインドウに映る自分の姿を見て、弥恵ちゃんと並んで歩いてもこうなるだけだろう、と自嘲気味に伊織は思った。


着せ替え人形の服を購入するみたいに、伊織は自分で生涯一度も袖を通すこともないようなふりふりのかわいらしい、言うなればまさに「お洋服」を買い漁った。


紙袋が合計五つ。散財とはこのような惨状を指すのだろう。伊織は紙袋を両脇に公園のベンチに座っていた。いつの間にか太陽が沈みかけている。辺りがオレンジ色にうずもれているように見える。そんな雰囲気に伊織は不意に思ってしまう。


弥恵ちゃんは上手く告白出来ただろうか?

告白なんてしなければいいのに……。


弥恵ちゃんは頑張れたかな?

私のところに逃げてくればいいのに……。


弥恵ちゃんが私のものになればいいのに……。


プルプルプルプル、プルプルプルプルプル……。


携帯の着信音。公園のベンチで眠り呆けていた伊織は「わっ!」と飛び起きて、慌てて携帯を開き、電話に出た。「もしもし?」

「……もしもし」

 受話器から漏れてくるのは明らかに弥恵の声音。

「理由はないですけど、……掛けちゃいました」

 語尾が少し震えている。必死に心の動揺を抑えているのが電話越しにも伝わってきた。伊織は腕時計で現在時刻を確認する。既にもう、深夜と呼べる時間帯だった。

「こんな時間にどうしたの?」

弥恵ちゃんに「どうしたの?」なんて聞いている自分は「さいてー」だと、伊織は唇を噛んだ。

「……今度、また会いませんか?」

「う、うん、いいよ。いつにしようか?」

 こうやって単純に喜んでしまえる自分はもっと「さいてー」だ。

「今度の日曜日でもいいですか?」

「うん、いいよ。それより、比呂巳ちゃんに気持ちを伝えられた?」

「……今度、話しますね。じゃあ、またね、先輩」

「じゃあね、楽しみにしてるからね」

 電話を切って、「取り返しのつかないことをしてしまった……」と伊織は独り公園のベンチで後悔した。罪の意識が伊織の心を襲う。

けれど、嬉しく思う気持ちも湧き上がってくるのはどうしようもないわけで……。


 伊織は自宅へ帰るとすぐにマリーを叩き起してお願いした。

「この隈を取ってっ! お願い!」

「……熊?」

「熊じゃないっ! くぅまぁ」と伊織は自分の目の下の隈を指差しながら言った。血液が皮膚内で凝固したようになった黒々とした部分は、現代医学でも到底取り除くことが不可能に思われたけれども、

「ああ、その狸さんみたいな隈ね。お安い御用。はい、済んだ!」

 と一瞬で済んだようだ。伊織はもっと「ふぁー」としないのかな、と思いながらも鏡に自分の顔を映し出した。

「凄い……、本当に消えてる!」

 はしゃぐ伊織はまるで中学生の頃の明るさを取り戻したように色めきたっていた。愛しの彼女に顔を嫌いと言われ、一晩涙を流し続けて出来上がり、徹夜するたびに黒鉛のような汚い黒に染まっていった隈が綺麗さっぱりなくなっていたのだ。女子高を転校した原因、おしゃれが出来なくなって本格的に絵師を目指した発端がなくなれば、伊織の顔からは気品漂う美貌が薫るようだった。

 それから伊織は日曜日までの三日をかけ、自分を磨き上げた。弥恵が好きと言ってくれたあの頃の自分を取り戻すように。そして、あの頃の自分が持ち得なかった大人の美しさを弥恵に見せてあげたいという一身で。


弥恵がストンと純に向って気性を落ち着かせた理由も、弥恵のファッションセンスが良くなった理由も、まるで女子大生のお姉さんのようになった伊織が弥恵の隣にいる理由も、分かっていただけただろうか?


 そして現在、メイド喫茶から出た伊織と弥恵は手を繋ぎ、五十三番街のひっそりとした裏路地を歩いていた。目的地は駅前から少し外れたところにある、静けさが売りの公園である。公園へ行くことを提案した、弥恵の足取りは軽い。けれど、伊織の足取りはあまり軽くはなかった。伊織の脳裏には気がかりが残り続けていたから。

 弥恵ちゃんは比呂巳ちゃんのことが好きなんでしょ?

 実はまだ、伊織と弥恵、この二人は正式に付き合ってはいなかった。デートの回数七回目にしてまだ頬っぺたにキスもしていないし、もちろん唇と唇のキスもしていない非常にプラトニックな関係を維持していた。過去に一度、キスは済ませてあるが、それは三年も前の話である。そんな風で一向に深まらない関係を進展させようと、弥恵は本日もれなく告白することを決めていたのだった。その弥恵の様子に伊織も薄々ながら気付いていて、足取りがなんだか重いのである。

 弥恵ちゃんは比呂巳ちゃんのことが好きなんでしょ?

 伊織は弥恵を誘惑しておきながら、常にその問いに苛まれていたのだった。

伊織は弥恵を虜にする美しい姿をしていながら、「比呂巳ちゃんに直接振られたわけじゃないんでしょう?」と諌言してしまう。

伊織は弥恵を心地よく甘えさせる優しさを振るいながら、「弥恵ちゃんはただ私に甘えたいだけなの?」と意地悪く聞いてしまう。

伊織の中には弥恵を独占してしまいたい気持ちと正直に比呂巳への恋心に向き合ってもらいたい気持ちが並存していた。それはとても曖昧で幸せではないけれど、伊織はそのどちらか一方になることを嫌がった。弥恵とちゃんと付き合うことも、弥恵が比呂巳と付き合うことになってしまうのも、どっちも嫌だった。そのことを思うのは辛い。ならば答えを先延ばしにして、純粋に幸せではないけれど、弥恵との甘いひと時を出来るだけ長く味わっていたかったのだ。

しかし、弥恵の方は中途半端な関係は我慢できないらしい。一か零か、弥恵はそういう性格だった。

伊織の今の心境を表すかのように、比較的近いところからパトカーのサイレンが聞えた。

どうしたらいいの?

いつの間にか、伊織の手を引っ張るように、弥恵は一歩前を大股で歩くようになった。小さいながらもその顔からはしっかりとした決意が感じられる。伊織はその決意に打ち勝てる自信はまったくと言っていいほどなかった。

閑散とした不必要に広がった公園に入り、ブランコの隣に弥恵は足を止め、伊織に向き直って言った。

「ここからならマリア様が見えます。ということはマリア様も私たちのことを見てくれます」

 弥恵の指差す方向に視線をやると確かにマリア様の像があった。そういえばこの公園の隣には教会があったのだ。教会に入らなくても公園のこの位置からなら、ちょっと遠く離れてしまっているけれど見えるのだ。

 微笑む弥恵に向き合う伊織の顔つきには明らかに困惑の表情が浮かんでいた。弥恵の真剣さがひしひしと伝わってきて、嗜めるように弥恵の名前を呼んだ。

「や、弥恵ちゃん?」

「弥恵って呼んで下さい!」

 伊織の言葉をツンと跳ね返すように、強く真剣な眼差しと一緒に弥恵は言った。

「弥恵って呼んで。私も先輩のこと、伊織って呼ぶ。私、伊織と本気で付き合いたいから。恋人同士になりたいから」弥恵の熱っぽい視線に伊織はたちまち理性を高野山の向こう側へ放り投げてしまいたくなる。でも、

「私、伊織のことが好き。大好き」

 とそんな風に面と向って言われて、瞳を閉じられ、つと唇を向けられてしまったら理性を今にも放り投げないで何が百合っこかっ!

 でもでもでもでも、と百合の真髄を悟っている伊織は理性を寸でのところで放さないでいる。

「でも、」

 そう口をつくと、弥恵は怒ったようになって伊織の腕の中に飛び込んできた。そして顔を挙げると、

「比呂巳のことは関係ないっ! 私は伊織が好きなの!」と上目遣いで伊織を瞳の中に入れた。

「でもそれは、」とその瞳を見れずに逸らしてしまう。

私に逃げ込もうとしているだけなんじゃないの?

 そう言い掛けた所で滑り台の上から野太い声が爆発したのだった。


「そこのカップルぅ! ちょっとまったあああああああああああああああああああああっ!」

 

 滑り台の上で叫び声を上げたのは、かつらと被り、メイド服を着用し、白いふりふりの厚底ブーツを履き、下手なメイクで女装をした純だった。きちんと内股で立っている。口をあんぐりと空けて、「…………」と呆然自失の視線を送る二人に向い、純は滑り台からするすると滑り降りてきた。純のパンチラ映像が視線の先に入ってしまって、思わず「きゃっ」と目を背ける二人。パンツまで履き替えなくてもよかろうに。そんな二人にお構いなしに息せき切ってやってきた純は大分疲労困憊の様子で、理由は分からないけれど腕や太ももや頬などいたるところに擦り傷を作っていた。ストッキングも破れ、濃いすね毛が覗いている。かつらは乱れに乱れ、ずれてしまっていて、くもの巣やらが張り付き、なんだかけばけばしい。

 純はズシズシと厚かましくも二人の間に身を割り込ませると、弥恵を庇うように伊織と向き合い、

「ちょっと、大学生の綺麗なお姉さん。うちの妹をかどわかさないでくださいましっ!」

 と例のオカマ口調で言い放った。どうやら伊織の正体に気付いてはいないようであるけれども、そんなことより、純が一体何んの事を言っているのか、伊織にはさっぱり飲み込めない。

 大学生のお姉さん? 妹? 高野は何を言っているの?

 しかし、伊織の疑問はすぐに解けた。

「あ、兄貴!」と弥恵は思わず、純の背中に向って怒鳴りつけてしまったからだった。

「兄貴?」そんな伊織の反応に弥恵は気まずそうに瞳をうろうろとさせた。「弥恵ちゃん、兄貴って? 一人っ子って言ってなかった?」

 弥恵は伊織に兄がいることを黙っていたのだった。純も伊織に妹がいるなんてことを言っていないし、容姿の全く異なる純と弥恵が脳内で結びつくはずはなかった。それに伊織は最初から「弥恵ちゃん」と呼んでいたから、伊織はわざわざ苗字を尋ねることもなかったのだ。携帯のアドレスを教えてもらったときも、調子に乗って「内海弥恵」と電話帳に登録している。

「ご、ごめんなさい。兄がいるなんてことを知られたくなくて……」と弥恵は浮気がばれたみたいな深刻な表情を作って今にも泣き出さんばかりの様子である。

そんな風に言われた純は「まあ、弥恵ちゃんたらっ! ひどいっ!」と顔を歪めた。

「そんなに謝らなくてもいいけれど……」と伊織は純を無視するように言ったが「まさか、高野の妹だったなんて?」と奇妙なめぐり合わせを思わざるを得ない。

確かにやけに妹っぽい雰囲気は弥恵ちゃんのうなじから溢れんばかりに滲み出てはいたけれども……。

それにしても「全然に似ていないのね」と伊織は弥恵と純を交互に見比べた。

「何よぉ、なんか文句あるのかしら?」

 女装したら大抵の兄は妹に少しは近づくような気がするけれど、その姿は弥恵の対極を全て描き出しているような酷い惨状だった。特に今日は化粧ののりが悪いのか、突っついたらぼろぼろと砕けそうな、老朽化の進んだレンガの家の壁のような顔面である。

そんなことよりもどうして純はオカマ姿で現れたんだろうか? 確かテラスドール・シスターズは先代の会長が学校を去ってから、唯一、遺言を破って封印した活動ではなかったか?

 純は妹を連れ戻しに来たようであるけれど……。

 当の妹の弥恵は首から上を真っ赤に染めて、

「一体、兄貴はここに何しに来たのよっ! それもオカマ姿でっ!」と純を怒鳴りつけた。伊織はこんな風に怒りの形相を浮かべる弥恵を始めて見た。思わず伊織もびくっと仰け反ってしまうほどの剣幕である。「きめぇんだよ! さっさと失せろっ! このバカっ! ハゲっ!」

 しかし弥恵に一方的に罵倒されても、純は全く怯む様子はなかった。その罵声など意に介せずという風に、純は暖簾を押すように優しく弥恵の肩に手を置いた。

「触らないでよっ!」と弥恵は必死に振り払おうとするが瞬間接着剤でくっ付いてしまったかのように純の手は肩に置かれたまま、微動だにしない。

「弥恵、私はあなたを保護しに来たの。さあ、一緒に帰りましょ!」

「何が保護よっ! まさか今までずっと付けてきたの!?」

「弥恵のことが心配だったからよ! そしたら案の定、大学生のお姉さんと援助交際みたいなことしているじゃないのっ! お姉ちゃん、吃驚仰天して、オカマになっちゃったじゃないっ!」

「オカマはずっと前からでしょっ! それに、援助交際なんかじゃないもん! 健全な交際だもん!」

「中学生と大学生の交際なんて、立派な犯罪じゃないっ!」

「恋に年齢は関係ないもの! 性別も関係ないもの!」

「後者は分かるわ! でも前者は納得できない! 弥恵はロリコンのはずでしょ!」

「ええっ、ロリコンですよ! ロリコンだから先輩の幼い顔立ちが超ー好きなの!」

 えっ! 私の顔って幼いの?

 伊織は今までずっと大人っぽい顔立ちだと思っていたから少し複雑な心境だった。

 純は確かめるように伊織の顔をマジマジと見た。確かに伊織から漂う雰囲気は女子大生のお姉さんのような雰囲気だったけれども、中学生の頃から顔は変っていませんという風な幼さの残る顔立ちをしていた。

「なるほどねぇ……」純は頷いた。

「先輩、実は顔は少し子供っぽいくせに、無理矢理大人びた髪形や服装をしているでしょ! そんな背伸びした感じがロリコンの私には、たまらなく愛おしいの!」

 弥恵は自分のことを棚に挙げ、伊織からして見れば、ちょっと指摘されたくないことを純の怒りの力を借りて捲くし立てた。「って、先輩の前で恥ずかしいこと言わせないでよっ!」

「あなたが勝手に口走ったんじゃないの! でもロリコンじゃないけど私もこのお姉さんの幼い顔立ち嫌いじゃないわ。言っとくけど私はロリコンじゃないけどね!」

「兄貴がロリコンかなんて、そんなことはどうでもいいわよ! いっつも私のこと邪魔して! 最近大人しかったからサービスしてあげていたけど、もうこれ以上私に構わないでっ! 私と先輩の大切な時間を邪魔しないでよっ! 私と先輩は恋人になるんだから!」

 そこで純の今までくすんでいた瞳がキラリと光り、その表情からは泰然自若の雰囲気が漂っていた。

純は弥恵を正しき方へと導かねばならない。それがお兄ちゃんの責務である。

「比呂巳に抱いていた気持ちは嘘だったのか?」

 オカマ口調ではない、純の兄貴としての声は弥恵の心にぐさっと刺さった。「俺に熱く語った比呂巳への想いは全部嘘だったと言うのかっ! なあ、弥恵! どうなんだ?」

 伊織も見つめる弥恵の表情は段々と陰り出し、瞳には光るものがこぼれ落ちるギリギリの量まで貯まっている。歯を食いしばりながら、怒るように、悲しむように、喜ぶように、弥恵はパニックを起したように言葉を紡いだ。

「…………比呂巳は、比呂巳は私に振り向いてくれないもの。でも先輩は私を慰めてくれたの。受け入れてくれたの。ボロボロになった私の体を抱きしめてくれたの」

 その言葉を聞いた瞬間、伊織の胸の中には「やっぱり」という確信が生まれた。

分かってはいたことだけれど、弥恵ちゃんはまだ比呂巳ちゃんのこと好きなんだ。

私よりも比呂巳ちゃんが弥恵ちゃんの心には必要なんだ。

けれど、そういう風に思ってしまうのはやっぱり辛くて、悲しかった。

「弥恵!」と純は弥恵の量肩をぎゅっと強く掴んだ。

「離して、痛い……」痛がる弥恵が不敏で伊織は純を止めようとしたけれど、

「女子大生のお姉さんは黙っていてくれ! あんたは赤の他人なんだから!」と一蹴された。

他人……。

その言葉は伊織の胸に深く突き刺さった。

 姉妹でも、幼馴染でも、親友でも、恋人同士でもないなら、一体私は弥恵ちゃんの何なんだろう? ただ転がり込んだ幸運を利用して、弥恵ちゃんの純粋な気持ちを踏みにじって、弥恵ちゃんを手に入れようとした、…………高野の言うとおり、私は他人だ。

「いくら辛くったって、いくら苦しくったって、弥恵が比呂巳に告白しなきゃ何も始らないだろ! 比呂巳から逃げて、嘘の気持ちのまま女子大生のお姉さんと付き合ったって辛いだけじゃないのか!? ねぇ、お姉さん、あんたもそう思うでしょう?」

純の言うことは伊織が思っていたことそのままだった。伊織は小さく頷いた。それを見て弥恵は孤独に震えるウサギのような寂しげな目を見せた。

「弥恵の叶わぬ恋のはけ口にされたんじゃ女子大生のお姉さんも迷惑なんじゃないのか!?」

「だって……、だって……」と弥恵の瞳からは涙がこぼれた。一筋頬をつたって、涙は次々に頬から落ちていった。

「弥恵ちゃん、お兄さんの言う通りよ。自分の気持ちに嘘をついちゃいけない」と伊織は弥恵を抱き寄せた。

「先輩……は、はい。ごめんなさい、私」

「謝ることじゃないわ」伊織は強く言った。

 謝らなければいけないのは私だから……。

 伊織は精霊の力のこと、願い事をかけて弥恵の恋を踏みにじってしまったことを全て白状しようと心に決めた。別に嫌われたっていい。弥恵ちゃんが幸せに笑ってくれればそれでいい。今更だけれど、手遅れかもしれないけど、謝らなければいけない。

 そう思って口を開きかけたとき、まるで魔法に掛かったみたいに声が出なくなった。そしてテレパシーみたいに誰かの声が頭の中で響いた。

 マリー?

 その甘い声音はマリーのものだった。多分精霊の力を使って伊織に語りかけているのだろう。

 その不思議な感覚が刹那的に過ぎると、伊織の心の中には安堵感が生まれていた。

 なんだ、そうだったのか……。

 公園の入り口付近でダックスフントを抱いた、擬人化したダックスフントのマリーが手を振っていた。なんだか、それがおかしくてクスリと笑ってしまう。

 ありがとう、マリー。テレパシーを送るように心の中でそう呟いた。さすが愛犬。ありがとうの気持ちが通じたように微笑むと、マリーは公園から離れていった。

 頑張ってみるよ、マリー。

「私の方こそごめんね。弥恵ちゃんのことが好きだったから、弥恵ちゃんの本当の気持ちを気付かせて上げられなかった。駄目な先輩だったよね」

「先輩は謝らないで。先輩は何も悪くないから。駄目だったのは私。嘘をついて、比呂巳のことが好きなのに、嘘をついて先輩に甘えるだけ甘えて困らせて……」

「いいのよ。だって弥恵ちゃんはこんなに涙を流すほど苦しんだじゃない」伊織は弥恵の涙をそっと拭った。「でも、これからはちゃんと自分の気持ちに正直になること。分かった?」

 弥恵は小さく頷いた。

「で、でも、私、先輩と離れたくない。先輩とこれからも一緒にいたい。お願い、先輩! どこにも行かないで!」

 離れたくないと、弥恵は抱きしめる腕に力を入れて、いやいやと伊織の体に顔を埋めた。

 弥恵ちゃんはこんな私でも必要としてくれる。別に恋人同士じゃなくたって、ただそう思ってくれるだけで伊織はたまらなく嬉しかった。

弥恵ちゃんが比呂巳ちゃんのことを好きでもいい。弥恵ちゃんが私の存在を必要としてくれるだけでこんなにも嬉しいんだ。

「バカね。弥恵ちゃんはいつも極端なんだから」といって伊織は弥恵の涙を指で拭う。「いつだって辛いことがあったら、私のところにいらっしゃい」と、そこで伊織は弥恵にちょっとしたサプライズをプレゼントしてあげようと思いついた。伊織はおもむろにポケットの中から、いつかアニメの真似事で先代の会長からもらったロザリオを取り出した。伊織は首には掛けていなかったけれど、常にそれを持ち歩くようにしていたのだ。

弥恵の瞳はぎゅぎゅっとロザリオに釘付けになって、耳たぶを一瞬で真っ赤にさせた。

「これ、あなたの首に掛けていいかしら?」

「は、はい。もちろん。……伊織お姉様」

 弥恵は静かに顔を挙げ、とろんとした表情でプロポーズに頷き、目を伏せ、首をもたげた。ロザリオが首に掛けられる。と、そこで、

「そこのロザリオ、待ったあああああああああああああああああああああああああああっ!」

 といい話もまるで台無し、純のストップが掛かったのだ。それにしてもこんな甘々光景を散々見せられて、純は今までよく黙っていたものだった。まるで魔法がかけられたみたいにジタバタしていたけれど。

「何?」と伊織と弥恵は同時に振り向き言った。ロザリオの授受を邪魔されて愉快なはずはない。機嫌を損ねた二人は「まだ何か?」と怒りを露にしている。そんな怒りを逆撫でするように、

「駄目だ! 駄目だ! 駄目だ! 駄目なんだ!」

 純は地団太を踏み、胸の前でばってんを作って、かつらを振り乱し、「駄目だ! 駄目だ!」と連呼し始めた。

一体何が「駄目」なんだろうか?

腫れ物に触るように、恐る恐る尋ねてみた。

「俺が、俺だけが弥恵のお兄ちゃんなんだっ! 兄妹の間に他者の介入は一切認めんっ! お姉さまが欲しければ」と純はかつらを直し、一回転してから、

「私がお姉さまになってあげるわっ!」

とまるで今にも去勢されに整形外科に向いそうな勢い。

 さっきまでいいこと言っていた人間はどこに……。

 伊織の中で、最近上り調子だった純の株はここにきて、残念ながら歴史的な大暴落を記録した。

二人は軽蔑の眼差しを純に送ると無視を決め込み、ロザリオの授受を再開する。しかし往生際の悪いのが純である。もう首の皮一枚も可能性は残されていないのだが、

「待ちなさいっ! まだどっちをお姉さんにするか返事を聞いてないわよっ!」とその無駄口を大きく開き叫んだのだった。純の膝から下はがくがくと生まれたてのバンビのように震えている。

「私とは血が繋がっているのよっ!」それが純の最後の叫びになろうとは。

弥恵は小さく息を吐き、純に向って心底楽しそうな微笑みを向けて、

「そんなの決まっているじゃない!」と伊織の腕に抱きつくと、ロリボイス高らかにおっしゃった。

「私のお姉さまは伊織さまだけ。兄貴の介入は一切認めんっ!」


 純とチャベスが初めて会話を交わしたオレンジ色に照らされた砂浜の上にマリーは座っていた。その腕の中にはまるで怯えているようにブルブルと全身を震わしているチャベスの姿もあった。正しくは牡牛のお守りに宿っていた精霊が怯えていたというべきだろうか。

 マリーは伊織と一緒にいるときと打って変わって、鋭い目つきで海を睨んでいた。

「……もう終わったかしらね。じゃあ、もう行っていいわよ」

「あの……」

「何?」

「僕とやり直してはもらえませんか?」

「嫌」マリーは即答した。

「そんなぁ」

「本当なら二度と顔もあんたの顔も見たくなかったけど、所有者の内海伊織のために仕方なく、不幸を振りまくあなたを捕まえただけなんだから」

 不幸のお守りはどうやら所有者の近辺の人間まで波及するらしかった。

「不幸の濃度が高すぎて、なかなか消すことができなかったもの」

「……それは君が僕の幸運まで持っていってしまったからで、」

「そうよ、その通り、その分あなたには不幸が付きまとっているの。私の言いたいこと分かる? 要するにさっさと私の前から失せなってこと!」

「…………」とマリーにそう言われ、チャベスはしばらくしょぼくれた表情をしていたが、急にふっと気の抜けた表情になると、

「あれ? ここは一体?」と呟いた。

そしてチャベスを抱いていたマリーも、

「ふわっ? ここどこ?」ととろんとした垂れ目を擦りながら、眠りから覚めたように言うのだった。

 そしてしゃべる犬と擬人化した犬は不思議そうに互いを見詰め合った。砂浜で夕日をバックに見つめあう二人……もとい二匹とは、なんだかロマンス的な情景であるが、互いの胸のうちは以下のような疑問が渦巻くばかりであった。


……なんで犬の癖にしゃべってるのよっ!

……なんで犬が人間になってるんだよっ!




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