チョコレートムースの転
最近弥恵の様子がどうもおかしい。
純は手付かずのままの宿題を前に一人悩んでいた。
先日、純の余計な行為によって弥恵は告白することが出来ずに終わり、弥恵の怒りは三日三晩続いた。チャベスが言うには、その怒りによって精霊の力は綺麗さっぱり消えてしまったようである。精霊の力のアバウトさ加減に純はうんざりしていたのでいっそ清々したのだが、そのことによって弥恵の微かな純への愛情は消え失せてしまったということになる。ゆえに弥恵は三日三晩純に一つまみほどの優しさを見せることもなく、純が近づけば去っていく、純がいれば寄ってこない。同じ家に住んでいるのにもかかわらず別居しているようであった。
しかし手元には不幸のお守りが残っているのだから腹が立つ。その手がかりを求め、並木教員が以前住んでいたアパートへ行ってみたのだが、予想通り見事に全焼していた。近所の人に話を聞いてみると、古くなったガスタンクが爆発したということだ。不幸中の幸いにしてけが人が一人も出なかったということである。
まあお守りの話はともかく、純は弥恵のシカトという仕打ちに堪えかねて、少しでもこの状態を打破すべく、怒りが三日三晩続いた四日目に比呂巳との遊園地デート計画を弥恵に進言しようとしていた。
しかし四日目の夕暮れ、弥恵が部活から帰ってくるとその態度は一変していた。純がまとめ上げた計画書を両手に気合を入れて近づいていくと「ただいま」と昨日までの怒りが夢であったようにケロリと言うのだった。純は思わずその計画書をばさっと廊下にばら撒いてしまう。弥恵は当然であるという風に拾うのを手伝ってくれた。弥恵はその計画書をちらっと読むと「もう、気にしないで」と小さく言った。
「弥恵?」と純はなんとなしに呼んでみる。
「なあに?」
その顔からは怒りや悲しみなんて微塵も窺えない。昨日までの振る舞いが嘘のようである。
「比呂巳とは最近どうなんだ?」
「変らないよ。親友のまま」
弥恵は少し寂しそうな、戸惑っているような、作ったような笑い方を純に見せるのだった。「親友のまま仲良し」
その答えは純を大いに悩ませた。
もう弥恵は比呂巳との恋を諦めてしまったということなのだろうか。
まだ比呂巳の本当の気持ちは確かめていないというのに……。
そして弥恵はその日から毎日なんだか嬉しそうなのである。部活のない日もなんだかいつの間にかセンスのよくなった服を着て、うきうきと外に遊びに行っている。
純はそれが不可解だった。比呂巳にそれとなく話を聞いてみても、弥恵が比呂巳に告白したということはないようであるし……。
そして今日も。
弥恵はセンスのよい服を身に纏い、純に見せに来た。
「今日もファッションセンスがよろしいようで」
純がボールペンを弥恵に向けて言う。弥恵は満足げな表情を見せて、
「お粗末さまです」
とスカートの裾をちょっぴり摘んでお辞儀をする。「じゃあ、行ってくるね」
「ああ」と純は理想的なお兄さんのように弥恵を送り出す。
そして今日も純は弥恵がどこへ行くのか聞けないでいた。
その関係はとても健全だと思う。健康的で、不幸の付け入る隙のないくらいにこの関係は平和だ。けれど本当にこれでいいのだろうか?
弥恵、お前の本当の気持ちは?
弥恵の表情は笑顔で満ちていた。弥恵にはいつも笑顔で笑っていてもらいたい。
でも……。
「まるで泣きながら笑っているみたいね」
純が部屋のドアの方を見やるとこれからスーツ姿のママさんが立っていた。これから会社へ行くようだ。ママさんは純の宿題の散らばった机の上にどかっと座ると「私にはそう見えるわ」と言った。
そうなのだ。しかし、純は、
「そう? 俺には心底毎日を楽しんでいるように見えるよ」
と思っていることと違うことを言ってしまう。「幸せそうだ」
「弥恵ったら新しい恋人でも出来たみたいにはしゃいじゃってるわね」と経験者は語るという風に語った。
そこで純はドキリとしたが、関係ないという風に必死で動揺を隠しにかかる。純は窓の外に視線を向けると「いいんじゃないの。弥恵が好きで付き合ってるんなら」とぶっきらぼうに答えた。「弥恵は弥恵だ」
「逃げるの?」
「なんだよ、いきなり?」
逃げるって一体何のことを言い出すのだろう?
しかし純は笑い飛ばすことは出来なかった。ママさんの目はいつになく真剣だったからだ。
「確かに最近兄妹喧嘩が減って壁に穴も空かなければ、ご近所さんからの苦情もなくなって、とても静かで平和でいいけれど、まるで二人とも仮面を被っているみたい。息苦しいったらありゃしないわ。本当の気持ちをぶつけ合わないで何が兄妹?」
ママさんは大きく息を吸って、純の顔に自分の顔をひしっと近づけ、年季の入ったロリボイスで、
「あなたは弥恵のお兄ちゃんでしょ。弥恵を正面から見つめなさい。見つめて、見つめて、殴られるまで見つめて続けて、弥恵を正しい方に導きなさいっ!」と一気に吐き出した。「純は弥恵のお兄ちゃんなのよッ!」
そう怒られてはっとする。
俺は、俺は、俺は弥恵のお兄ちゃんじゃないかッ!
「母さん、悪かった。変な気使わせちまったみたいで。ざまあ、ないな。俺が弥恵のことで悩んじまうなんてな。笑っちまうよな」
そういうと純は出掛ける準備を始めた。
「やっと気付いたようね。そんなの純らしくないわ」
「弥恵はどこにいくっていってた?」
「遊ぶところと行ったらあそこしかないでしょうね?」
「そうだな。ありがとう。母さん」
純はそういうと部屋を飛び出し、どどどどどと転がるように階段を駆け下りて、リビングで骨を噛んでいるチャベスを小脇に抱えると一目散に家を飛び出し、こう叫んだ。
「へい、タクシー!」
しかし、タクシーは愚か、ヒッチハイクの出来そうな自動車すら走っていない。本当に国道かと疑いたくなるような静けさである。
やむおえん、と純は自転車の籠にチャベスを放り込むと自転車に跨いだ。
駅前までは本気を出して自転車で三十分の道のりだ。弥恵はおそらく一時間に一本のバスに乗って駅前に向ったのだろう。充分追いつける。問題は体力の限界がいつ訪れるかということだ。
しかし背に腹は変えられん。
純は自転車のペダルに力を込めて漕ぎ出した。純は夏休みに宇宙旅行で宇宙食ばっかり食べていたかのような筋肉の衰えを感じた。純は生きて帰れないかもしれないなあ、と覚悟した。ガガーリン船長の気持ちを軽く看取しつつ、純は弥恵を追って走り出した。
生き長らえた。
息も絶え絶えになって純は駅前に敗戦の将のように姿を見せた。純の脆弱な太ももは既に明日の筋肉痛を約束しているように、がくがくとぎこちない。
純は駅前のハイテクチャリ置き場に自転車を預けると、ファーストフード店のソファに誘惑される足に鞭打って、弥恵を探し始めた。「弥恵、一体どこだ?」
「おい、少年よ!」
そこでチャベスが純に話しかける。その豊かな表情によるとさっぱり事情が飲み込めない、ということを純に訴えたいのだろう。「一体、これからどこへ、何しに行こうというのか、というかなぜ私が連れてこられたのか、私に教えてくれ」
純はここへくるまでの間、チャベスに何度もそう問いかけられたが自転車を漕ぐのに精一杯で「察しておくれ」のサインしか出していなかったのである。純はそのサインの出しすぎで、チャベスが事情を汲んでいると勝手に思い込んでいた。チャベスの問いは至極当然のことであったが、純は「弥恵をたぶらかしている人間をとっちめんだよ」と物騒な言葉で返すだけで、詳しいことをチャベスに話そうとしないで、周辺を喧嘩に飢えた不良高校生のようにギラギラと睨みまわしている。どうやら相当頭に血が上っているようだ。
チャベスは何のことやら、と前足で耳の後ろを掻くばかりである。「やれやれ」
純は腕の中で困惑の表情を見せるチャベスをお構いなしに弥恵の出現ポイントを絞り込んだ。考えるでもない。大抵の若者は一年前に出来たばっかりの渋谷のモアイ像ならぬ、備長炭像の前で待ち合わせをしているのだった。日本の辺境地帯紀州和歌山にはいち早く「萌え」が最新のトレンドとして立派に文化として浸透して始めたようであった。ミーハーな弥恵はそこにいるに違いないと純は半ば確信し、その周辺に睨みを効かせながら探し始める。案の定、すぐに弥恵は見つかった。弥恵は備長炭像の前のベンチにちょこんと座り、手鏡で髪の毛をチェックしていた。背丈を考慮しなければまるで彼氏を待つ現役女子高生である。
純は弥恵に見つからないように物陰に隠れると、備長炭像の頭の天辺に思わず見ているほうが傾きたくなるようなアンバランスな姿勢で固定された時計を見やる。先の事情により正確な時刻は分からないがおそらく今は十時五十分ぐらいだろう。待ち合わせの時刻は十一時きっかりと純は推測した。
弥恵は手鏡を閉じ、落ち着きなく足をぶらぶらとさせている。その様子から結構長い時間ベンチに座っていることが知れた。興奮して早く来てしまったのだろう。
なんてけなげな妹なんだ。
そして、こんなけなげな妹を待たせるとは何様だ、ごらあ、と純は喉の奥のほうを鳴らした、
ふと、弥恵は顔を挙げた。純も袖を捲くり、戦闘体制に移る。
しかし……。
男?
以外にも弥恵の目の前に現れたのは女の子ではなく、いかにもな不良A、不良B、不良Cであった。弥恵の様子を見ると、その不良たちはどうやら待ち人ではないようである。弥恵はあからさまにそいつらを鋭い眼光を浴びせると、いとも容易く不良たちを叩きのめした。不良たちは捨て台詞を吐いて逃げていく。純はさもありなんと逃げていく不良君たちの後姿を見送った。
「捨て台詞の練習でもしてきなっ!」
弥恵のたくましい罵声に惚れ惚れしながらも少し複雑な純であった。もう少しおしとやかでもいいんじゃなかろうか、と。
しかし息つく暇もなく、なんだか大学生のような落ち着いた雰囲気を持った女性がすたすたと弥恵に近づいていった。
物凄い美人である。ロリ娘にしか目のゆかない純でさえも思わず息を呑んでしまうほどに。
その女性を見て純ははっと思う。まるで……。
まるで、弥恵が大きくなった姿を見ているようだ。
同じような質感の黒髪と、同じような輪郭を持つ濃い瞳と、同じ白色で塗りつけたような肌。
本当に血の分けた姉妹のように、その姿はともに美しかった。
弥恵はその女子大生のお姉さんをそのつぶらな瞳に映すと、ぱあっと明るい表情を浮かべた。そして純が注視していることなどお構いなしに、ふわっと女子大生のお姉さんの腕にしがみついた。
純、呆然実質。
これはどう理解したらいい。
一介の女子中学生が女子大生のお姉さんと知り合う機会なんてないだろう。
まさかエンコウか。
援助交際なのか?
うがーっ、と純の頭は破裂寸前である。
「チャベス。あれは一体なんだ?」
純の人刺し指は、きゃっきゃといちゃつく弥恵と女子大生のお姉さんにわなわなと向けられた。純の頬には夏の暑さと思いもよらぬ女子大生のお姉さんの登場で汗が滴り落ちている。
チャベスは淡々と、
「私は何もみていない」と言うと、視線を近くのペットショップのワゴンセールに向けた。
なんて、なんて日和見主義的なことだろう!
今までなんとも思っていなかった日本の陋習を純は一気に体内で昇華して怒りに変えた。
「これは知らぬ、存ぜんで済まされる話じゃないッ!」
純は血相を変えて今にも駆け出さん勢いなので、チャベスはがりっと純の指をマジ噛みして止めた。
「いったああああああっ。おい、チャベス、何をするぅ!」
「少年、今出て行ってはいけないっ!」
「弥恵の危機なんだッ!」
「だから聞けってッ!」
チャベスはまた同じところをマジ噛みした。
「いああああ」と純の声にならない悲鳴が上がる。「な、何をする」
純の目じりからは涙がポツリと落ちる。その涙には弥恵への愛も多分に含まれているようだ。純は潤んだ視線は弥恵の背中にじっとりと注がれている。
チャベスは純の気持ちもわからなくはない、と前置きしてから、
「ここでことを荒立てるよりは弥恵君から直接話を聞いたほうが言いといっているんだ。少年の気持ちもわからんでもないが、ここで飛び出していってまたいさかいをおこすぞ」
と鷹揚に主人を諌めるが、純は生気のないうつろな目で、
「で、でもこのままじゃ弥恵が食べられてしまうかもしれない」とぼんやりとした声音で言う。
「少年落ち着け、弥恵君には分別があるだろ。良識もある」
「精霊の力で分別がなくなっているのかもしれない。良識に逆らっているかもしれない」
「少年っ! 精霊の力はもうないんだ。少年の失態が精霊の力を消してしまったんだよッ!」
「いいや、きっとまだ弥恵は精霊の力に掛かっていしまっているんだ」
ふと、純が視線を弥恵と女子大生の方へ向けると純たちに背を向けてどこかへ歩き始めていた。
「……後追うぞ」
何かしら喚いているチャベスに耳を貸すことなく、純は得意の忍び足で弥恵と女子大生のお姉さんを付け始めた。
弥恵と女子大生のお姉さんは傍からどう見てもラブラブしていた。ラブに飢えている人間を撲殺せんばかりにラブラブしていた。ライクではない、ラブでもない、ラブラブである。友達同士で遊びにいくのとは全く違う、一線を跨いでいるような雰囲気がパヤパヤと漂っては枯渇する様子は一向にない。
一緒に試着室に入ったり、エスカレーターに乗るときにやけに引っ付いたり、クレープのクリームが口元についてしまったのを指で拭いて自分の口に放り込んだり、お揃いのアクセサリーをきゃっきゃしながら買ったり、…………以下多すぎるので省略。
その行為は主に弥恵から差し出されていたのだが、純の盲目的な眼には全て女子大生のお姉さんがけしかけているように映ったのだった。純は心の中で女子大生のお姉さんを何回辱めたか分からない。現実にそれが起こらないのはチャベスが逐一噛み付いているからである。駅前の治安は一匹の犬に守られているといっても過言ではないだろう。
そして現在、純とチャベスはア二メイトの前にいた。弥恵と女子大生のお姉さんは仲良く手を繋いで、堂々と青い看板を潜っていったのだ。おそらく二人で百合コミックを物色しているに違いない、と純は勝手にそう推測し、目付きをナイフのように尖らせ、雌犬に雌犬を取られた雄犬のように唸っていた。
おのれ、影響されやすい弥恵をコミックスのような過激な関係に貶める気だな、ぐぬぬ。
チャベスを抱いた純は周りから不審に思われていることなど一切気付かず、アニメイトの入り口が見える、今となっては珍しき公衆電話に陣取り弥恵と女子大生のお姉さんが出てくるのを待った。
「チャベス、どう思う?」
と今まで憤りを言葉に出さずに沈黙を続けていた純がここで口を開いた。喉がカラカラに渇ききっているようで、純の声は風邪を引いたみたいに聞き苦しい。
「……どうってただ買い物をしているだけにしか見えないよ。中睦まじい姉妹のようだ」
チャベスは「ふにー」という疲れきった顔を作って正直に思ったことを述べた。もう純の独り相撲に付き合うのはうんざりだと言わんばかりに。「いい、お姉さんだ」
純はその回答に当然納得がいかないらしい。
「そういうことを聞いてるんじゃねえよ! 怪しいか、怪しくないかだ!」
「見ての通りだ。怪しくない。あの女子大生のお姉さんから怪しさを感じろ、というのは無茶な話というものだ。おそらく、いいご両親に育てられたんだろうな。物事の分別をわきまえている、聡明さを彼女から感じるよ。少年の曇った眼では分からないだろうが、彼女からは気品がにじみ出ている。ゆえに弥恵君の心配は少年の杞憂ということだ。弥恵君には弥恵君の交友関係があるんだ。さっきも言ったが弥恵君には分別があり、良識がある。その良識をもって弥恵君は女子大生のお姉さんと関係を持ったのだろう。女子大生のお姉さんの瞳を思い出してみろ。弥恵君を柔らかく包むような、優しそうな瞳をしていたじゃないか」
純は「いいや、違う」と首を横に振った。
チャベスのその物言いに了解を示す気は最初からないらしい。なら聞くなよ、とチャベスは思わざるを得ない。
「あれは獲物が隙を見せるのをじっくりと待つ珍獣ハンターの目だ! おお、こわっ」
純はわざとらしくぶるぶるっと体を震わせた。「お前の目はすでにストーカーの目だよっ!」とチャベスは言いたくなったけれど、無駄な喧騒が始りそうなので止めておいた。
「……もう帰りたい」
とチャベスがそう口にしたところで弥恵と女子大生のお姉さんは店内から出てきた。力持ちの弥恵の右腕には青い袋。
そこに百合コミックスが何冊も入っているに違いない。
おのれ、女子大生のお姉さん! あんたの思い通りにはさせないぜ!
弥恵と女子大生のお姉さんは純たちのいる公衆電話の反対側へと歩を進めた。純は公衆電話から出るとストーキングを再開した。
そして丁度アニメイト前を素通りしようとしたときだった。
「純?」
「なんだよ、話しかけんな!」とチャベスだと思ってその呼びかけを振り切った。
「おいったら」と今度は肩を掴まれた。
「うるせぇ!」と言ったところで、チャベスは人間のような器用な手は持ち合わせていないと思い直す。そして振り返った。「よおって。会長じゃないですか」
そこにいたのはこの炎天下の中で目元涼しげな会長であった。背は純よりも少しばかり高いが、いつ見ても華奢であり、いつ見てもなんだか女子が男装をしたような綺麗な顔をしている。それなのにやたら会長っぽい言葉遣いなのが、ギャップ萌えというやつなのだろうか。
「やあ、奇遇だね。純」と会長は同志に会ったように嬉しそうである。それになんだか機嫌もよい。「買い物かい?」
「ええ、まあそんなとこです。……それより会長は何でこんなとこにいるんです?」
聞かれると、会長はなんだか得意げな顔つきになった。
「愚問だな。ここはどこか知っているのか?」
「アニメイト前です」と青い看板を「んあー」と見上げながら純は言った。
「そうアニメイト前だ。アニメイト前が俺たちの故郷だろ?」
「俺の故郷はゲーマーズです」
純はアニメイトよりもゲーマーズのあのえもいわれぬ落ち着いた空気の方が自分の性に合っていると自覚していた。
「そうか。まあ、俺もゲーマーズを故郷としたくなる日もある。がしかし、今日、一体全体何の日だね?」とさらに得意そうに人差し指を立てた。
純は「面倒臭い問答が始りそうだな」と面倒臭くなってぶっきらぼうに言った。
「なにって、会長のえこひいきにしてるキャラの誕生日かなんかですか?」
即座に否定の「ぶぶー」が飛んできた。会長はたまに童心に戻るときがあるらしい。「ヒント欲しい?」
「いいっす」と純は即座に回れ右をして弥恵と女子大生のお姉さんがある言っていった方向へ足を向けた。申し訳ないがヒントを五回目にしてやっと答えることの出来そうな質問に付き合っている暇はない。「忙しいんで、じゃあまた」
けれど、「つれないなー、聞いてくれよー」と未だ童心の様子で純の袖を引っ張った。
「そんなに言いたいんだったら、最初から言えばいいじゃないですか!」
そう言いながらも会長に敬意を払い、話を聞く気になっている純である。
「なんていうか。まあ、お約束だし」
「で、今日は何の日なんですか?」
「聞いて驚くなよ!」
そうもったいぶると「どぅるるるるうるるるるるるるるるるるっ」と会長は自らドラムロールのような効果音を出し始めた。
「今日は戸松遥(嫁)のサード写真集の発売日でしたっ! アニメイトではなんとブロマイド付。さすがアニメイト、随分とまあ、粋なことをしてくれるじゃないっ!」
興奮気味の会長は語尾が少しオカマ口調になっていた。
「…………」とローテンションでいる純にお構いなしに、会長は青い袋から写真集を取り出して雑踏が通う中でページを捲り始めた。袋の中には案の定、写真集が三冊あった。
「見て! この水着なんて最高にエロ可愛いわ。わきわき」
と会長は純にそのページを見せながら、脇をわきわきさせて喜んでいる。
純は「俺、声優さんには興味がないんで」と最初は拒んでいたのだが、しかし戸松遥のエロ可愛い姿態を見せられて目を背ける若者はそうそういないだろう。それに純は影響されやすい性格の持ち主である。次第に「むふふ。コレはなかなかいいものですな」と会長とともに写真集を路上で眺め始め、そして結局、最後まで堪能してしまった。「ふぅ……」と会長と純は満足げな表情で同時に息を吐く。
「部室に一冊置いておくから、二次元に疲れたときに見るといい」
そんな会長の好意に純は深々と「しぇいしぇい」と頭を下げた。そこでやってしまった失態に気が付いた。とっさに後ろを振り返る。
もちろん、弥恵と女子大生のお姉さんがのこのこと歩いているはずがない。
「アッー、見失っちまったァアアアアアアアアアアアアア!」
「お帰りなさいませにゃ。ご主人様。にゃんにゃん、にゃ、にゃ~ん」
完全に弥恵たちを見失ってしまい、純は仕方なく会長に協力を求めることにした。現在純と会長は駅前界隈で最近人気を博しているファミレスのような少し大きめのメイド喫茶『あにまるメイド喫茶にゃんにゃん、にゃ、にゃ~ん』に入り、向かい合って座っていた。ここならペット同伴も可能であったので都合がよかった。チャベスを一人きりにはしておけない。いや、一匹きり。
両者こう見えてもメイド喫茶に入店するのは初めてであり、少々緊張していたのだが、先駆者の言うようにウェイトレスさんがかわいいメイド服を着て、動物の耳のカチューシャ付けて、語尾に「にゃん」「わん」「ぴょん」「ぺろんぺろん」を付ける以外は普通のファミレスとあまり違いはない。「ぺろんぺろん」って一体何の動物であるかは定かではないが。
会長はコーヒーを注文し、純は腹がすいていたので「ツンデレオムライスにゃ」を注文して入店時から目を付けていたロリ巨乳の梓ちゃんにフーフーしてもらい、食べさせてもらった。
「べ、別にあんたのためにフーフーしてあげてるんじゃにゃいんだからねッ! それに、これはセントラルキッチンで作ったのを解凍しただけにゃんだからねッ! 私が作ったんじゃにゃいんだからッ! これ食べたらさっさと出て行きにゃさいよねッ! はい、あーん。ど、どうにゃ?」
「もぐもぐ。おいしいれす」
「べ、別に嬉しくなんてにゃいんだからねッ!」
完璧である。しばし弥恵のツンデレにご無沙汰な純は歓喜の歓声を上げた。梓ちゃんの胸元のネームプレートを見ると十六歳と書いてある。「高二?」と純が聞くと「あ、高一ですにゃ。お二人は高校生ですかにゃ?」と普通に返答が来た。どうやらツンデレは作っているようである。当然だけど。純は「俺高ニ」、会長は「高三」と答える。
「お二人は高校どこにゃんですかにゃ?」と会長のコーヒーに砂糖とミルクを混ぜながら梓ちゃんは聞いた。会話を続けてくれるとは思っていなかった純は嬉しそうに高校の名前を言う。
「あっ、一緒ですにゃ」と梓ちゃんも嬉しそうにいってくれた。
なんだ、この幸福感は。
コーヒーを混ぜ終わると会長に向って「どうぞにゃ、ご主人様」と従順な召使のように梓ちゃんは微笑んだ。どうやらこちらが梓ちゃんの素のようである。優しさが溢れ出ているようだ。
「では、ごゆっくりしていってくださいにゃ。何かありましたら、このベルを使ってお呼びくださいませにゃ」と梓ちゃんは厨房の方に去っていく。
その後ろ姿を瞳に残しながら純と会長は、
「会長」「何にゃ?」
「うちの高校にあんにゃ逸材がいたんですね?」「全くだにゃ」
「癖になりそうですにゃ」「完全に同意見だにゃ」
と確認し合った。会長は梓ちゃんに掻き混ぜてもらったコーヒーを口に含むと「こんな上手いコーヒー飲んだことはにゃい」ととても幸せそうな表情を浮かべると、
「では本題に入ろうか」
と、会長は切れ長の瞳を更に鋭くした。
純は一切合財を会長に説明した。女子大生の説明部分には純の多大なネガティヴキャンペーンが盛られていたが、冷静な会長ゆえに冷静にその部分は受け流した。
「なるほど妹がねー」
それにしても会長はあまり純に妹がいる事実に対して驚いてはいないようである。純は不思議に思って「驚かないんですか?」と聞いてみる。「妹がいるんですよ? めちゃくちゃかわいいんですよ」
会長は目を伏せて、コーヒーを一口すすると「実は私にも妹がいてな」と実に淡々と言った。「二人」
純もオムライスにがっつき、もぐもぐと飲み込むと「紹介してください」と実に淡々と言った。「二人とも」
「嫌だよ」とそこで会長の妹話はあっさりと終了した。
純はいつか会ってやる、と人知れず決意した。
「でもなんで犬も連れているんだい。使い魔のようにいい知恵を貸してくれるわけでもあるまい」と会長は言って純の足元で萌え萌えドックフードなるものを食べていたチャベスのほうに視線を向けた。
さすが会長、無意識とはいえ鋭い突っ込みである。確かに使い魔でない動物など尾行の妨げにしかならない。
「……まあ、いないよりいた方がマシっていうか」と純はオムライスを一粒残らず口に掻き込んだ。「ごちそうさまでした」
「確かにストーキングには役に立つかもな」
「え?」
「犬の散歩を装えるじゃないか」
「ああ、そうですね」
さすが会長、目の付け所が違う。それにしても、と純は思う。一体弥恵はどこへ行ってしまったのだろうか。純は弥恵に思いを馳せながら、
「天野と内海先輩にはこのこと黙っていてくださいよ」と窓の外に目を向けて、お冷に口をつけた。このメイド喫茶はビルの二階のフロアにあって、街を行くカップルが自然と純の目に入る。忌々しいこと限りなし。「何やってるんだろうな、俺は」
「黙っておくって一体何をだい?」と純はいきなり問いかけられた。純は今更そんなことを聞く会長に少し不思議に思いながらも、
「だから俺に可愛くて、巨乳で、ロリで、ツンデレっぽい中学一年生の妹がいるってことをですよ」と非常に分かりやすい説明をした。これ以上分かりやすく弥恵の属性を伝えたものはないだろう。
「ほう、純、お前には妹がいたのか?」
「だからさっきからそう、」と純は会長を見やると「俺じゃない」と首を振って、純の後ろの方を指差した。そこで声の主が会長でないことに気付く。純は会長が指差す方に振り向くと、
「って天野のおおおおおおおおおおおおッ!」
そこには天野が立っていた。見事に吃驚仰天した純の咆哮は少なからず店内をざわつかせてしまう。会長はスタッと立ち上がると周りのお客に向って「すいません」と頭を下げていた。
そんな会長の善意をお構いなしに天野は「よう兄弟、それに会長。今日も地獄の業火に焼かれるように熱いですね」と言うと、純の肩に手を掛けるようにして隣の席にどかっと座った。マナーも何もあったもんじゃない。
そして天野はあろうことか近くを通った梓ちゃんを馴れ馴れしく呼んで「テーブルここに変えてもらえる?」と馴れ馴れしく言っている。梓ちゃんは天野が来ていることを知って、いとこのお兄さんに会った様な親しげな表情を見せると、「はい、はい分かりましたにゃ」と優しくたしなめている。「悪いね、梓ちゃん」
純はその親密な会話に完璧に腹を立てた。切れてしまった。
せっかく新たな心の拠り所を見つけて小さい幸せを手にしかけたというのに、あろうことか天野と親しい関係を作り上げていたなんて。
この怒りをどこにぶつけるべきか。決まっている。
目の前の天野以外にいない。いるはずがないっ!
純は梓ちゃんが遠くの方に行ったのを確認すると、いきなり天野の襟首を掴みあげた。
「おい、純、何すんだよ」
「天野、てめぇ、梓ちゃんとどういう関係なんだよ!?」
「はあ? 関係って、メイドさんと客に決まってんだろうが。何言ってんだ、お前?」と天野は純の訳の分からない剣幕に疑問を呈すのみである。
「そういうこと聞いてんじゃねぇ。少し馴れ馴れしすぎやしないかって言ってんだよ!」
「……お前まさか梓ちゃんに惚れてんの?」
天野は人の弱みを見つけたと顔をニヤつかせる。その顔に純はムカついたが、天野の言う通り純は梓ちゃんに惚れかけていたので天野に掴みかかったときの勢いはどこかへ言ってしまった。純は好きな子がばれてしまった小学生男子のように、
「そ、そんなんじゃねぇよ」
と強がり始めた。しかし、そんな低年齢な強がりが天野に通用するはずもない。
「はは、こりゃ傑作だな。二次元の貧乳でロリッ娘にしか興味がないって言い張っていた純が三次元の巨乳のロリッ娘メイドさんにハートを奪われるなんてよ!」
天野は純の背中をばしばし叩いては、心底嬉しそうなニヤケ面を見せる。「ねぇ、会長」
そう振られた会長も少なからず純と同じ気持ちだったようなので、ツーンと天野の視線を受け流した。
「それよりなんでお前がここにいるんだよ」
純はこのままでは分が悪いと話題を変えた。
「愚問だな。ここは一体どこだい? ええ、どこなんだい?」
純は軽い既視観を覚えながら、面倒臭いスイッチを入れてしまったと後悔したが、既に遅い。
「メイド喫茶だろ」と純はしぶしぶ答える。
「そうだメイド喫茶だ。メイド喫茶が俺たちの故郷だろ?」
「俺はメイド喫茶に来るのは初めてだぞ」
「お前の初体験に付き合う気は毛頭ない」
天野はぞんざいに純の初体験をあしらった。どうやら流暢に語っていたいらしい。けれど天野に一人語らせたくはないので純はあくまで突っかかる。
「同意させたいのか、させたくないのか、どっちなんだよ」
「そんなことはどうでもいいだろ」と天野は純の意見をあくまで無下にする気であるらしい。けれど「何で俺がメイド喫茶にいるのか。それはだな」とやたらもったいぶるので口を挟まずにはいられない。「早く言え」
「そうせかすなよ」
毎度のことながら、天野との会話は常に面倒が付き纏う。そしてお膳立ては済んだというように天野は語りだす。
「和歌山市内は今空前のメイド喫茶ブームだ。今月だけで十五もの新しい店舗が駅前には出来ている。この機会を逃す手はない。この機会を逃すなんてまるで正月にきな粉もちを食べないようなものだ。一年の哀愁を感じるには季節を味合わなければならない。つまりこのブームを体感しなければオタクでいる意味がない! 味わうのなら徹底的に、噛んで、噛んで、骨の髄まで噛み砕くのが俺の心情! 俺は決めた。メイド喫茶をとことん噛み砕いてやると。味わい尽くすためには何が必要だ。そう金だ。俺はお前がのうのうとロリ巨乳アニメを何度もリピート再生している間にせっせとアルバイトをし、金を溜め込んでいたんだ。夏休みにメイド喫茶で豪遊するためになっ!」
天野はそこまで言うと丁度梓ちゃんが「はい、お待たせにゃ」と運んできたクリームソーダをストローで一気に吸った。アイスだけ氷の上に不自然に乗っかっている。「あ、梓ちゃん。メロンソーダ追加で」
純は天野が言った内容の要らない部分を脳内から追い出すと、
「そういえばそんなこと言ってたな」と純は爪をいじりながら相槌を打った。そして思い出したという風に「ってなんで俺があのアニメを好きなことを知ってんだよ」と驚愕の目で天野を二度見した。純にとってそっちの方が重要だったらしい。
天野もそっちかよ、という感じで、
「え? マジで? お前あのアニメそんなに好きだったのか?」と聞き返した。
純の性癖から導き出した天野の推測であったらしいが、真実であったことがこれでばれてしまった。「い、いや別に」と取り繕ってももう遅い。
そこで会長が口を挟む。
「まあ、純の性癖に関する議論は毎度のことながら無駄に終わるからここではよしとして、」
天野は「経験からくる真理ですね」と頷いた。純が「だから俺は貧乳派」と抵抗の意志を見せたところで会長のストップが入る。
「これ以上嘘を重ねると偽証罪でロリコン警察が逮捕しちゃうぞ、だ」
純は先代の会長がよくそんなことを言っていたなあと思い出す。現会長は確かに先代の伝統をしっかりと受け継いでいるようだ。
「梓ちゃんと親しげにしていたということは、満はここに通っているんだろ? どうしてなんだ? お気に入りの子でもいるのかい?」
「まあ、それもありますけど、この店は俺の従姉がオーナーやってるんで、たまに顔出しに来るすよ。居心地いいし。つけもききますんで」
「へぇ、満にそんな従姉がねぇ」
「そして今日も至福の時間を堪能しようとこの店を訪れたんですが、聞き捨てならん事実が俺の耳にすっぽり、いや、ぬっぽりと入ってしまったということになりますね」
「いやらしい地獄耳だな」
「褒め言葉として受け取っておく。それにしてもまさかお前に妹がいたとはなあ。普段俺を見下したようにしていたのはそのためかあ? 勝者の余裕なのか? ええどうなんだ?」と純が予想していた通りの反応を見せ、メンチを切る天野である。
「メンチ切ってんじゃねぇよ」と弥恵のことになると熱しやすい純であるので当然純もメンチを切った。
「まあ、まあ、まあ」と会長が冷静に二人を宥める。会長にも妹がいることを知ってしまっている純は思わず、そのことを言ってしまいたくなるような冷静さである。
「まあつまり、俺が言いたいことはだなあ」と天野は二つ指を純に向け、
「ロリッ娘は人類の共通の財産である。イエスか? ノーか?」と問うた。
「はあ?」と純。
禅問答でもしようというのだろうか?
その内容では後にも先にも煩悩を払拭できそうにない気がするが。
とか何とか思いながらも煩悩にまみれた純である。当然、
「まあ、イエスだ。ロリッ娘は皆に平等にあるべきだ」と腕を組んで断定する。「不平等はいけない。不平等は」
その返答に天野は機嫌よく頷いた。
「その通りロリッ娘は皆に平等にあるべきだ。不平等はお前の言うとおり許されない。そのことは転じてつまり純の妹は俺の妹ということになる」
「なんでそういう理屈が成り立つんだよ。ああっ!」と純はまたしても天野の襟首を掴みにかかる。弥恵のこととなれば平静でいることが出来ないのが純である。
「理屈では計れないこともある。で、いつ紹介してくれるんだ?」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ。てか、顔が近けえ」
天野のニタニタとした顔面は吐息が掛かる程にまで近づいている。
「まあ、満。純が妹さんを満に紹介する、しないの議論をする前にひとつ大きな問題があるんだ」
「問題?」
「ああ、純の妹さんは、今まさに赤の他人に犯されてしまいそうなピンチにあるらしい」
「そいつは聞き捨てならねぇ超絶ピンチじゃないですかッ! くっはあ、これだからリア充はきらいなんだ。で、相手はどんな男なんだよ、教えろよ、純ッ! 今からそいつをとっちめに、」と一人冷静さを欠き、頭を抱え、激昂する天野に「男じゃない。女だ」と純は大事な情報を差し込んだ。「お、ん、なだ」
瞬間「は?」と分からないというような顔を純に向けた。
「会長、こいつに分かりやすく説明してやってください」
「以上ご静聴ありがとうございました」と会長は滞りなく純がこさえてきた話の要点を伝えると、深々と天野に頭を下げた。さすが礼節を重んじる会長である。
一方で会長の説明を聞き終わった天野は見事なまでのノーリアクションだった。事情を聞く前のあの激昂は一体なんであったのかと疑いたくなるほどの平静さと論理的思考を、その理屈っぽい顔から振りまいている。
「何か言えよ」と純は天野の肩を揺さぶった。「ご意見ご感想を聞かせて頂戴」
「……いや、カオス過ぎて」と少し顔を引きつらせながら、天野は胃に悪いものでも食べたみたいに食傷気味に「これはフィクションか?」と横目で純に問う。
「ノンフィクションだ。実在の人物団体名等に大いに関係ありだ」
「……要は純の妹が幼馴染の女の子に振り向いてもらえないから大学生のお姉さんにって話だろ。純が心配する気持ちも分からなくはないけど、でも純の妹がそっちだからって大学生のお姉さんがそっちってことないだろうし。……まあそうだったとしても、純が口を挟む問題じゃないんじゃないの? まだ中一なんだろ?」
「中一だから心配なんだよっ! っていうか、さっきまでの威勢はどこ行ったんだよッ!」
純はテーブルの上に置かれた角砂糖を口に放り込み、がりがりと噛み砕きながら、天野を下のほうから嘗め回すように顔を近づけていく。「高野山の向こう側かっ? ああっ」
天野は手の平で純の額を押し返す。脂汗がぐっしょりと感じられて天野は舌打ちをした。
「話が変ったんだよっ! なんつうか……純の妹は四次元に行っちまってんだよっ。せっかくの妹がレズビアンとはな。脈なし。手が届かない。なら放っておくのが一番。それに二人を探し出してどうすんの? 分かれろって強要すんのか? それは純、お前の勝手なわがままじゃねえのか?」
「ああ、わがままだよっ! 悪いかよ、お前に俺の気持ちがわかってたまるか!」
純は天野の胸倉を掴むとそう怒鳴りつけた。「っていうか、レズビアンじゃねえんだよっ! 百合だよ。百合」
「分かってるよ。百合だろ、百合。……会長はどう思います?」
天野はがるる、と今にも噛み付かんばかりの純をはいはい、と宥めながら、会長に意見を仰いだ。二人の喧騒を傍観しながら、会長は何やら眉をひそめて考えているようだったからだ。その表情にはこれから壮大なプロジェクトを実行するような勇み顔ではなく、計画の方向性を確かめ、再出発を決意した風な些細な安堵感が浮かんでいた。
会長は淡々と言う。
「満の意見と同じだ。純の主観を取り除いて、話を分析する限りでは純の妹はあまり危険ではないということになる」
「会長……」
会長にそういわれてしまっては年功序列に従順な純は項垂れるほかない。純は弥恵と女子大生のお姉さんのいちゃつく姿を脳裏に描きながらぎりぎりと奥歯を噛んだ。そして途方に暮れる。ママさんに向けた勇壮な顔は苦悶に歪む。純の決意の一旦に疑いと迷いの兆しが見え隠れしてしまう。
会長と天野が言うように別にこのままでも問題はないのではないだろうか……。
しかし、弥恵の気持ちは……。
そんな風に悶々と瞬きを繰返す純を、人の出来た会長はどうやら見捨ててはいないようである。小さく一息吐くと、
「純。何も協力しないと言っているわけではないだろう? せっかく三人の人間が揃っているんだ。純の問題を一つ一つ洗って、取り除いていこうじゃないか。焦って妹を追いかけまわっても問題は解決しないだろ。な?」
「か、会長」と純は会長の手をとって、ひしっと握り締め、そして「好きです」と一言。
「……は?」と、その一言に会長と天野は目を点にする。そんな二人にはお構いなしに純は涙を流しながら「俺、妹のことが大好きなんでしゅ」と気持ちを打ち明ける。性癖を他人に語らったのは純が生まれてからこの方、初めてのことである。
しかし、そんなことはお構いなしに、
「ああ、ビックリした。頭がおかしくなってホモになったかと思った」と天野はほっと胸を撫で下す。
「おい、冗談言ってんじゃねぇよ」と純は真剣なまなざしが天野の眉間に突き刺さる。「本気なんだよ。マジなんだよ。ホモとかレズとか、いちいちうっせんだよっ! 人間の価値は性癖で決まるもんじゃねぇだろッ!」
その剣幕に圧倒されて天野は「は、はい」と静かに頷く。「すげー正論っす」
会長は純が落ち着いて席にゆったりと座ったのを確認すると、一つ咳払いをして、
「えーっと、まあ、話を進める前にだな。……前提としてそもそも私たちはレズビアンについてよく知らない」と話のお膳立てを取り仕切りに掛かった。
その指摘は最もだと純は首を大きく縦に振る。『愛し愛され恋をする』に感化され、一応全篇読破した純であったが、なにせ百合の世界に飛び込んだばかりである。日ごろ傲慢さを笠に着た純であるが、秘密の花園の全て事柄を分かりきったなどとさすがに思ってはいなかった。
「まあ、その機微であったりと、いろいろとレズビアンには分かりづらいところがあるだろ? ということでレズビアンに造詣の深い内海君をここに呼び出そうと思うのだが」
そう提案しながら会長は自分の携帯電話を取り出して、内海の野暮ったい顔の写メールと一緒に電話番号を画面に映し出し、純と天野に見せた。「いい?」
「あの、とりあえず、レズビアンじゃなくて百合って言ってもらえませんかね?」
純は内海を呼び出す提案よりも会長がいちいちレズビアンというのに引っかかったらしい。
「ああ、すまんな。……百合だな、百合」
「気を付けてくださいよ。俺らには小さなことかもしれないですけど、そういった小さなことが紛争の引き金になったりするんですよ」
「それは宗教にも言えることだな」となんだか高尚な議論をしている風に会長。
本当に分かってんのかな、と純は会長に滅多に抱かない不安を抱かざるをえない。
「確かに内海先輩ならその辺も心得てそうですしね」とすでに他人事と決め込んだ天野は、なぜか顎をしゃくりながら、角砂糖でピラミッドをちまちまと建設していた。
そして天野は「出前でも取りましょうか?」という風に、
「じゃ、来てもらいましょうか。家は駅前の近くって言ってましたし。俺、内海先輩の私服姿見たことないんですよね。ちょっと楽しみかも」
そこで純は気付く。
「う、内海先輩呼ぶんですか!?」
純が腰を上げ、勢いよくテーブルに手をついたのでピラミッドはいとも容易く崩壊した。
「あー、俺のピラミッドぉ! ホワイトシュガーピラミッドぉ!」と小さなことをねちねちといつまでも覚えている天野は恨めしげに純を見やる。「せっかく十段まで積んだのによっ!」
小さなことで憤る天野は無視して、会長は内海に異様な拒否反応を見せる純に、
「何か問題があるのか?」と聞いた。「確かに純と内海君は仲があんまりよろしくないが」
「い、いえ。そういうんじゃないんですけど」と言葉を濁しながら、純は考える。
相談したところで女の子スキーの内海先輩のことだから、俺の意見なんて耳を貸さないんじゃなかろうか。……ていうか百合で粋な妹が女子大生のお姉さんと付き合っているということを知ったら、内海はその関係に無理矢理に介入して、どろどろの昼ドラ的三角関係を作り出すんじゃなかろうか。そして弥恵はころっと騙されて、どうにかこうにかされて、最終的に食べられてしまうんじゃなかろうか。でも、しかし以前部室で二人っきりで話をしたときにしてもらったアドバイスはそれなりに価値のあるものだったし、誠心誠意、俺の気持ちを伝えれば、可愛い義妹を欲しがっているとはいえ分かってくれるんじゃなかろうか。
結局、内海を頼りにするしかない。会長が言うように「三人の人間」が揃っているが、揃いも揃って乙女心の分からぬロリコンなのである。
純はテーブルに手を付いたまま、会長に向けてコックリと頷いた。
「専門家の意見を伺いましょう」
「意見はまとまったな。それじゃあポチっとな」
純はドカッと腰を降ろすと梓ちゃんを呼んで「オレンジジュース。濃い目でお願いしますにゃん」と頼んだ。
「あれ?」
と会長は頭を掻いた。頼みの綱の内海はなかなか電話に出ないようである。
純はふとぼんやりとメイド喫茶の入り口の方を見た。丁度可愛い女の子と綺麗な女子大生のカップルが扉を開けてご来店しているところだった。梓ちゃんが「お帰りなさいませにゃ。お嬢様。にゃんにゃん、にゃ、にゃ~ん」と応対している。「こちらですにゃ」
「おい、純見ろよ」と天野もそのカップルの存在に気付いたようである。天野が指差す方へ会長も電話を切って視線を向けた。「あの子めちゃくちゃかわええ」
天野が鼻の下をだらんと伸ばして言うように。そして純も倣って鼻の下を伸ばそうとしたところでやっと気付く。
って、弥恵と件の女子大生のお姉さんじゃねえかよっ!
あまりに予想外の事態、そしてあまりに浮世離れした百合色の美しさを放っていたので純は血の繋がっていない他人であると誤認してしまったようである。
純は慌てて椅子から擦り落ちるようにしてテーブルの下に隠れた。
「どうした?」と天野が言う。
純は「しっー」と唇の前に人差し指を立てた。
純はゆっくりと机から半分顔を出して店内を見回す。
「いた」
幸いなことに弥恵と女子大生のお姉さんは純たちが陣取るテーブルから一番遠い、入り口に一番近いテーブルに案内されたようである。純は二人を案内した梓ちゃんにチップを渡そうかと本気で思った。しかし金がないので思うだけで済ましておく。
そして、これまた幸いなことに弥恵と女子大生のお姉さんは四人がけのテーブルに案内されたにもかかわらず、向かい合わずに純たちのテーブルに背を向ける形で、隣同士寄り添うように座っていた。「弥恵から離れろ」と思う気持ちと裏腹にほっと胸を撫で下ろして、純はそっと席に戻り、純は警戒するようにテーブルに上半身をぴたっとつけて会長の影に隠れるように陣取った。
その様子を見て会長と天野は悟ったようである。
「おい、まさか」
純は目だけで頷いた。店内はお昼時を過ぎ徐々にお客が減ってきていたからだ。むやみに大きい声を出せば気付かれてしまう。会長は察してか、姿勢崩さず泰然としていて、天野の声も囁くようになった。
「あの黒髪のカップルがそうなのか?」
「カップルじゃねえッ!」と純は小さく唸った。
「分かってるよ。便宜上だよ。便宜上。あの仲良さそうに座ってるカッ、」そう天野が言いかけたところで、純は天野の太ももを抓ねる。「おい、痛いって」
「満にはどう見える?」と会長はさっと後ろを振り返り、弥恵と女子大生のお姉さんをもう一度確認したところで天野に聞いた。「率直な意見を頼む」
「そうっすね」と天野は太ももをメニューでガードしながら少し思案してこう続けた。
「まるで仲のいい姉妹ですね」
「にゃにおー」と純は猫がねずみに飛びつくように天野の盾となっているメニューに襲い掛かる。
「同感だ」と会長はコーヒーをすすった。「それ以上でもそれ以下でもない。完璧な姉妹だ。あの雰囲気を姉妹と言わずして何が姉妹か。純悪いことは言わない。もうこのことから手を引いた方がいい」
正に百聞は一見にしかず。思いのほかに艶を等しく授かった黒髪をさらさらと揺らす、お似合いのカップルであったので会長と天野はそこに付け入ることは不可能と判断したらしい。
「…………」と純はあからさまに肩幅を狭めると、あからさまに意気消沈して、テーブルに顔をぐりぐりと押し付けて、あからさまに涙を堪えていた。「…………」
確かに純の目にも本当の姉妹のように仲良さそうに見えた。だから悔しい。認めたくない。弥恵は女子大生のお姉さんに自分から喜んで寄りかかっているように見えるし、女子大生のお姉さんもそれを暖かく迎えている。その仕草、振舞い、メイド喫茶にあっても揺るがない二人の絆は紛れもない姉妹である。
しかしテーブルに突っ伏した純と裏腹に、
「しかし、だ。なあ、満」と会長は不敵な笑みをその薄紅色をした口角に現した。
「そうですね。会長」と天野も不得手な微笑を作ってそれに応じる。
そして会長と天野はテーブルの中心に顔を寄せる。
「事情が変った。純、なんとしてでも妹を悪の女子大生のお姉さんから取り戻すぞっ!」
「ぷっは。か、か、会長ぉ!。あ、あ、天野ぉ!」
正に百聞は一見にしかず。思いのほか弥恵と純の遺伝子配列が対になっていることが見て取れたので会長と天野は容易く意見を翻した。
誰も異論はなかった。あるはずがない。
このテーブルに会した人間は全員、純正のロリコンで構成されているのだから。
「どうにかして会話を聞くすべはないものか?」と会長。「まず二人の関係性を確かめないとな」
「……天野?」
天野が頭悪そうにニヤついている。「ありますよ。妙な案が」
「本当か?」
「ああ」と天野は近くを通った梓ちゃんに「ちょっとオーナー呼んできてくれない」と頼んだ。
梓ちゃんは腕時計を見て時間を確認した。
「まだ少し時間が早いですが、掛け合ってみますにゃん」
純も携帯を取り出して同じく時間を確認する。午後二時四十五分とのデジタル表示。確か五分進んでいたはずだから、現在は午後二時四十分。
「何か余興でもあるのか?」と会長が不思議に思って聞いた。そういえば引けていた客席が、また次第に埋まり始めていた。
「まあ、待っていてください」との不適な笑みになんだか不安になる純であった。
梓ちゃんの後姿を追うと、スタッフルームと書かれた個室に入っていった。一分もしないうちに梓ちゃんはそこから出てきた。その右手にはマイクが握られている。
梓ちゃんは左手を高々と挙げ、すうっと息を吸うとマイクに向い、声を張り上げた。
「三時のおやつよろしくぅー、お色直しはいりまーすっ!」
甲高い声がフロアに響く。それに呼応して給しに励んでいた、あにまるメイドさんたちは「はーいっ!」とそれぞれ黄色い声を上げて、持ち場を離れ、スタッフルームへとはけていった。
周りの常連客と見られる紳士たちはところどころで「いーやっふぉおぉ」と歓声を挙げたり、仲間とハイタッチ、そしてがっちり握手なんかをしている。
「一体何が始まるんだ?」
「まあ、待ってろって。あ、とりあえずこれ持っといて」と言って手渡されたのは角砂糖の入った瓶の隣に並べられていた、用途不明のろうそくと燭台であった。高野家の仏壇に立ててあるものよりも少し太い。純は天野に言われるままにろうそくを燭台に刺した。天野はそれにチャッカマンで火をつける。意外と強い炎を上げてろうそくは燃え始めた。
天野はチャッカマンを「ふっ」と銃口を吹き消すように消した。「これで準備オッケー」らしい。
そして待つこと、およそ三分。
何の前触れもなく、ウィーンと全てのカーテンが自動で閉まると、ぱっと店内がいきなり暗くなった。ざわついていた店内が一瞬でしーんと静まり返り、テーブルごとにろうそくが一筋、ぼやっと不気味なオレンジ色の明かりを発している。これから百物語でも始めようというのだろうか?
純はぶるぶるっと震えた。「ちょっとトイレいってくれば良かった」
そして……。
トントンチキチン、トンチキチン。
トントンチキチン、トンチキチン。
なんともへんてこりんなお囃子が聞えてきた。
そしてカラオケの安っぽいメロディーがどこからともなく流れてくる。純はこのメロディーに聴き覚えがあった。
一体なんだろう? 確か名曲だった気がする。あっと思い出す。
『天城越え』だ。
そして照明がある場所を照らし出した。幕が揺れている。今まで気付かなかったが、どうやらそこには小さなステージがあるようだ。奥に人型のシルエットが見える。
そしてイントロが終わってAメロに差し掛かる直前。
「天月様のおな~り~」
マイク越しの梓ちゃんの透き通る声が響き渡り、幕がぱさっと下ろされる。
「うっわ!」と純は驚きのあまり声を上げてしまう。
そこにはマイク片手に腰ほどまである長い黒髪を肢体に這わせ、花鳥風月をそこにあしらったような朱色の着物を見に纏い、高らかに『天城越え』を歌う女性の姿があった。
いきなり始まった盛大な余興に純と会長は目を見開き、口をあんぐりと空けて、唖然とそれを見つめるしかない。けれど目を離すことがどうしても出来ない。その御姿はくっきりと網膜にじりじりと強烈に焼き付けられている。『天城越え』の紅い女の姿は夢にまで出てきそうなほど浮世離れだった。
おそらくステージで涙ながらに熱唱しているのが天野の従姉、そして天月様こと、このメイド喫茶のオーナーなのであろう。
先ほどまでメイド服を着ていたあにまるメイドさんたちは、着物に衣装を変え、歌に合わせて天月様の周りでくるくると舞い踊っている。獣耳はもちろん付けたままである。そこんところはちゃんと分かっているようだ。
それにしても下手糞な歌である、と純は自分のことを棚にあげて思った。音痴よりも下手糞だ。声優さんの黒歴史よりも痛々しい。どう聞いても歌に聞えない。試しに逆再生してみたららいい歌に聞えるかもしれない。
でも……妙にいい声をしていて、これもまあアリなんじゃないか、と思わせるほどの拳が利いていなくもない。生命の原初的な躍動を感じる。よくわからないけれど。兎も角、こんな歌を純ははじめて聞いた。
珍しく冷静に状況を分析する純の一方で、天野含め周りの紳士たちはノリノリで手拍子をしたり、いつの間にかバチバチと激しく燃えているろうそくをサイリウムのようにメロディーに合わせて振り回したり、メロなのか、サビなのか分からないところで合いの手も入れてたりしている。
「あなたを殺していいですか~」に対しての「オッケー! オッケー!」はお客の寛容さと懐の深さと受け取ればいいのだろうか。
「っていうか演歌だろうが」と純がどう突っ込んだらいいか考えているうちに『天城越え』は終了した。周りの紳士からは「天月様~」「いっそ俺を殺して~」と涙交じりの歓声が上がっている。これが宗教の始まりか。
純は俺には理解できない、と首を振りながら同意を求めて会長を見やる。しかし純と同じように冷めた視線を送っていると思いきや、会長は涙ながらに淡々と拍手を送っていた。「ヤンデレ、ここに極まれり」と会長は漏らした。「えっ、会長も?」
「みんな~ありがとう~ござい~ま~しゅ~」
天月様はなんだか眠くなるようなゆらゆらした声でそう言うと、満足げに長い振袖を振り回し、深々とお客に向って頭を下げた。
そして店内は明るくなり、カーテンも開かれた。メイドさんたちは着物姿のまま仕事に戻るらしい。着物にたすき掛けをしたメイドさんがこうもそろうと大奥のお家騒動の現場に立ち会ったようでなんだか圧倒されてしまう。
肝心の天月様はマイク片手にまだステージ上で、歌は終わったはずなのに、何かを待っているようにいじらしい素振りでゆらゆらと立っている。
そこで紳士の一人が野太く叫んだ。
「ルナたん回ってー」
「え? なになに?」とルナたんこと天月様はわざとらしく聞き返した。絶対聞えていたはずだ。その紳士はステージのすぐ近くのテーブルにいる。そして「何言ったか分かんなーいっ」と同年代の女性の反撥を買うこと間違いなしのかわい子ぶりっ子が飛び出す。
その一言で封切られたのか、各テーブルで「回ってー」の声が上がる。
「回る? 回る? えー、どうしよっかな」とうつむくルナたん。それに反応して「回ってー」がさらに飛び交い始める。理性を押さえ込んでいた会長も溜まらず「回ってー」と叫んでいる。
「わかったよ~、もうしょうがないなあ。はいっ」とくるくるとルナたんは回った。
どっと客席が沸き、拍手が飛び交う。
「何だあれ?」と声優さんのコンサートには行ったことのない純には奇妙な茶番にしか見えない。「突っ込むところ多すぎだろっ! 何か俺、恐くなってきたしっ」
「ああ、あれ? いつもやってんの。あれやんないと始まんないんだってさ」
もう一回、回ったところで天月様は「今日は楽しんでいってくださいね。じゃあ、梓、バトンタッチ」と言ってステージを降りた。
今度は梓ちゃんが歌うらしい。これは目が離せない。
梓ちゃんの毒のない『そばかす』をBGMに、天月様はステージに近いテーブルのお客さんと握手したり、短い会話をしたりしている。その振る舞いの仕方はまるでホステスのママさんという感じで、童顔な顔立ちで、背もそんなに高くはないのに大人の色香を辺りにぽやっと漂わせている。
「一体お前の従姉は何者なんだ?」
「見ての通りここのオーナー。そして大手企業の重役も黙り込む元秋葉原の女王」
「秋葉原で成功した人がなぜ和歌山に?」
「詳しくは聞いたことがないんですけど、まあ、なんか訳ありみたいで。秋葉原を追い出されたようなことは言ってましたけど」
「さぞ壮絶な過去を体験しているんだろうなあ」と会長はすっかり天月様の虜のようである。
しばらくして天月様は純たちのテーブルにさらっさらとした長い髪を揺らして颯爽とやってきて、天月様は会長と純に会釈をすると「何のよう?」とゆらゆらした言葉ではなくはっきりとした声音で普通に言った。まあ、当然だけど。
天野はあからさまにへりくだった態度を見せると、
「超小型盗聴器ってありやせんか?」と尋ねた。純は「妙案って盗聴器かよっ! ていうかそんなもの持ってるはずないだろっ!」と心の中で叫んだが、
「……私を誰だと思っているの。秋葉原の女王よ」と何食わぬ顔で天月様は言った。
「マ、マジでっ!」とこのテーブルで驚いているのは純だけのようであった。
会長は「さすがです」といったような緩みきった眼差しで天月様を眺めているし、「存じております」と天野はさらに謙った。
「少し待ってなさい」と大人の色香をテーブルに残して天月様は去っていく。純は秋葉原の脅威を胸に刻み、また一つ大人になったような気がした。
「どう?」と言って天月様が持ってきたのは、制服のボタンほどの大きさでフェルト生地くらいの厚みを持った超小型盗聴器だった。トランシーバーのような軍隊で使用しているようなごっつい受信機も三つ、天月様は気を利かせて持ってきてくれた。
そして少々自慢げに、
「GPSの機能を搭載した発信機もついてるの」と製品解説を始めた。受信機にはフルカラーの画面が付いていて、各国の人工衛星を違法操作して、そこに現在位置とターゲットがリアルタイムで表示されるということである。
純は超小型盗聴器の性能に「すげー、すげー」と阿呆のように歓声を上げていた。まるで至高の武器を手に入れたように思えて、なんだかすでに弥恵を救った気になっている。
「これで俺たち勝てるなっ!」と天野も買った気でいる。
そんな純たちの喜ぶ顔を見ながら、おもむろに天月様は口を開いた。
「十六万五千八百円」
それは超小型盗聴器の値段だった。ただで最新鋭の技術をくれてるほど、天月様は優しくはなかった。
「高過ぎっすよっ! あれ? 安いのかな?」
相場が分からないので純はなんともいえない。けれどそんな大金、一介の高校生が持っているはずはなかった。その辺りは天月様も了承しているらしく、
「適正価格よ。ここで現金で払えとは言わないわ。まあ、出世払いでいいわよ」
と寛容な取引を持ちかけてきた。とは言え、今のところ出世する予定はないし、借金のようなことをするのも抵抗がある。
「じゃあ、レンタルでどう?」
渋っている純を見かねて天月様は言った。これは有り難い。レンタル料金なら払えないこともないだろう。純はほっとした。
「それでお願いします」
「契約成立ね。じゃあ、契約書にサインして」と天月様は用意周到に書類まで作ってきていた。おそらくメイド喫茶以外にもいろいろな商売をしているに違いない。純は意外にも達筆な字体で自分の名前を紙面に記すと、天月様と握手を交わした。
「五万四千八百円になります」
「えっ?」
契約内容をよくご確認しなかった純にも一定の落ち度があろうが、レンタルに五万越えはないだろうと恨みがましく思わざるを得ない。純は手持ちの金が三千円と、CD一枚買ってしまったらなくなってしまう微細な現状だったので、天野の力を借りてつけにして貰った。
ともかくも盗聴器を手に入れた。「さあ、盗聴するぞっ!」と意気込んだところで即座に問題が浮上する。
どうやって弥恵に盗聴器を仕掛けるんだよっ!
そのことに全員同時に気付いたらしい。
「天野、行ってくれよ」
「……嫌だよ」
嫌も何も、あんなぽわぽわとした百合色の空間をあたりに漂わすカップルに男が近づいただけでも怪しまれるに決まっているだろう。
剣術の心得もないのに菊一文字を目にする農民のごとく、純たちはテーブルの上の盗聴器を凝視する。
頼みのつてはすでに他のテーブルで接客を行っている天月様以外にいない。
純と天野と会長はじとっとした目で天月様を眺めた。そしてふと純たちのテーブルに視線を向けた天月様と目が合う。やはり修羅場を潜り抜けてきただけの事はある。すぐにその視線が自分を呼んでいることに気づいて、面倒臭そうにやってきてくれた。
「まだ何か?」
事情を話すと天月様は「何、そのカオス?」と言いながらも「プラス一万円」で引き受けてくれた。レンタル料に比べれば、となんだか金銭感覚が麻痺したようになった純はその要求にすんなりと頷いた。それもつけであるが。
天月様は盗聴器を手にすると、先ほどまでいたテーブルに戻り、接客を開始した。怪しまれないように徐々に弥恵と女子大生のお姉さんに接近していくらしい。その所作はやはりプロであった。
段々と天月様は弥恵と女子大生のお姉さんのテーブルに接近していく。天月様は弥恵の隣のテーブルの接客を終えた。ついにターゲットの射程圏内に入った。
天月様は一度純たちに向って目配せをした。「私の偉業をその目をかっぽじって見ていろよっ!」と言わんばかりのしたり顔で。
純たちは一つの受信機をテーブルの中心において縮こまるようにして顔を寄せる。先ほどからじりじりとした緊張感のためか、皆一様に膝をがくがくと揺すっている。
「大丈夫。半月の辞書に不可能という文字はない」
半月は天月様の下の名前であるらしい。天野半月。略して天月。
天月様の手がゆらゆらと弥恵の肩に触れるのが見えた。超小型盗聴器であるために肉眼では確認できないが、おそらくぴたっと盗聴器が仕掛けられたに違いない。
それを見て、会長が受信機の電源を入れた。
「……女の子二人で私の見せに来てくれるなんて嬉しいわ。遠くから見てて気になったんだけど、どうなの二人は出来てるの?」
「出来てるだなんて、」
「はい、先輩の言うとおりまだです。でも今週中には出来るつもりですっ!」
「ちょ、弥恵ちゃん」
「二人はどういう関係なの?」
「強いて言えば……」
「強いて言えば?」
「私は先輩の舌の上で転がされているような飴玉のように唾液まみれな」
「ちょ、弥恵ちゃん」
「……君が転がしているような気がするけれど」
「いえ、私は転がされる方なので」
「いやああああああああああああああああああああああああっ!」
その甘々な会話に耐え切れずに発狂してしまった純は強烈な叫び声を上げながら、勢いよく立ち上がった。慌てて天野が純の頭を押さえてテーブルに伏せさせる。会長が「お騒がせしました」と頭を下げる傍らで、天野はギリギリのところで純の顔が妹に見られずに済んだと息を吐いた。会長と天野の姿はバッチリ、そのカップルの目に焼きついただろうが、まだ盗聴は続けられるだろう。何せ甘々会話しか、受信機から流れてこなかった。彼女たちの中を引き離すためには材料が不足している。何の妙案も思い浮かばない。
店内は純の金切り声で一時騒然としたが、会長の慈悲深い対応のお陰ですぐに店内は整然となってくれた。けれど受信機から漏れる女子大生のお姉さんの声音に少し違和感を持った。会長に目配せをすると、同じように会長もその違和感に不思議がっている。純はさっきからテーブルに突っ伏したままである。
「一体どうしたんでしょう?」
天野が聞くと、少し会長は思案してから
「……もしかしたら、」と口を開きかけた。そのとき受信機から「弥恵、そろそろでようか?」という声が聞えた。
何っ!
と思ってテーブルの方を見やると慌てるようにして席を立つ女子大生のお姉さんとしぶりながらもそれに応じている妹の姿があった。お姉さんは弥恵の手をとると足早にレジへと向って、会計を済ませている。
「いってらっしゃいませ、お嬢様。わんわんわんわん、わんだふるでいずっ!」
わん、という発音が上手な、犬耳をつけた女の子が玄関へ向って頭を下げている。天野はその子に見覚えがなかった。おそらく新しく入った子だろう。
それより、早いところ後を追わなければっ!
天野と会長はそれぞれ受信機を持ち、席を立った。
しかし、純の様子がなんだかおかしい。
「おいっ!」と言って天野はその肩を揺すった。しかし反応がない。天野は心配になって突っ伏した顔面をこちら側に向けて見た。
「うわっ!」
なんと純は目を開けたまま失神していた。それほどまでに甘々な会話がショックだったのだろうか。ともかく、懸案事項の張本人である純がいなければ始らない。天野はつけっぱなしだったろうそくを純の頬に垂らした。
「……あつっ! あつい、あつい! 何っ?」
とジタバタと目を覚ました。
「気を失っている暇はじゃねぇぞ」と天野は目を覚まさせるように純を揺さぶる。
「えっ? どうしたの」とまるで記憶を失ったように言う純に会長は弥恵と女子大生のお姉さんがメイド喫茶から出て行ったことを手短に話した。寝ぼけているようにポカンとしていた純であったが、事の重大さを把握するとはっと弥恵たちのいたテーブルを見た。すでに百合カップルからかけ離れたオタクのお兄さんたちが暑苦しそうに座っていた。
「猶予はない」と会長はかっこよく純に受信機を渡した。純もまるでこれから世界を救いに宇宙人に戦争を仕掛けんばかりの渾身のマジ顔で頷いた。
天野もその流れに順応して、
「梓ちゃん、今日もつけでっ!」と言い放つ。貯まるに貯まったつけはこれで十万円を超えた。
純たちは店から出て行こうとする。しかし、そんな高校生たちに待ったが掛かった。
「ちょっと待ちなっ!」
天月様の怒声が鋭く天野の背中に突き刺さった。恐る恐る振り返る。
天月様は非常にお怒りのご様子で立っていた。その磨きぬかれたご威光に逆らえる人間はそういないだろう。天野に全く関係のない客までが、天月様にひれ伏すように姿勢を正した。純と会長は天野の左右に背筋をぴんと伸ばして立っている。
天月様は天野の前に凛としたお姿で仁王立ちになる。
「次来るときまでに十万。分かった?」
「……は、はい」
天月様は青ざめた天野の頬をぺちぺちとやっている。そこからどんなお仕置きが待っているのかと思いきや、
「あんたたち、その恰好のままいくつもり?」
ととても優しげに仰った。しかし質問の内容が意味不明だ。天野たちは顔を見合った。
「あなたたちの姿はもう敵に見られているのよ。殺されにいくようなもんじゃない」
少々例えの度合いが高すぎるような気がするが、確かに姿を見られている点は尾行には不利な点である。しかし、今さら新しい服を買って着替えをする時間も金もない。天月様は一体どうしろというのだろう?
「私はあなたたちの伝説を知っているわ」
「伝説?」
「去年の文化祭あなたたちは何をしたの?」
文化祭、そういわれれば嫌でも思い出してしまう黒歴史。
――テラスドール・シスターズ
そこはオカマの園。
「ここにはあなたたちの伝説に触れて、メイドさんを志している人間が多くいるわ。あなたたちはあの時が一番輝いていた」
勝手にそう断定されてしまい、少々不満の残る三人だった。けれど、確かに当時、近所の女子高の演劇部に通い、オカマの訓練を受けながら、ちょっぴり善行も働いていた記憶を手繰り寄せてみるとそれに匹敵する輝きは見出せないような気もする。
先代の会長が最後に言った戯言を三人は思い出す。
「私がこのオカマバーを企画したのは、オタクっていうだけで後ろ指差される現状に反逆の意思も見せないあんたたちの根性を叩きなおしてやろうと思ったからよ。一人の女の子すら何人掛かっても泣き止ますことの出来ないオタクは人間でいる価値がない。でもあなたたちは身も心も女の子になってみて、いろんなことが分かったでしょ。身を投じて見えたことがあるでしょ。あなたたちはもうオタクだからって自分を卑下しなくたっていいの。あなたたちにそうなってもらいたかったの。それが動機。オタクでいいんだって、私は証明したかったんだ」
その戯言を思い出しながらなんだかふつふつと沸き上ってくるものがある。三人は顔を見合わせて頷きあった。
「では、こちらです」
梓ちゃんの案内の下、三人は奥のメイクルームに行く。メイドさんたちはなれた仕草で男三人をメイクアップしていく。メイクが住むとそれぞれメイド服を装着した。
ものの五分で立派なオカマの完成である。せっかくなので紳士たちにもお披露目しておく。
ステージの上で三人、客席に背を向けて立たされた。
まずは会長、振り向きざまにご挨拶。
「せりほです。得意料理は目玉焼きなの」
と黒髪ショートのせりほちゃんはは甘い声音で上目遣い。
「きゃー、かわいいっ! 男の娘っ! こんなかわいい子が女の子なはずがないっ! 目玉焼きは誰でも作れるからっ!」
紳士たちのテンションもあがりっぱなしである。つかみはバッチリ。
「おみつです。みっちゃんって呼んでください」
と茶髪ロングのおみつちゃんは恥らいながら深々とペコリ。
「きゃー、呼ぶ。呼んじゃう、みっちゃあん、みったあん!」
そしていよいよとりの純である。純は満面の笑みをご用意した。
「じゅんです。ドジをしても許してね」
「…………」
店内は一気に静まり返った。ちらほらと拍手も聞えるが、自分の容姿にまんざらでもない純は、「何じろじろ見てんだよっ!」と「がるる」と客席に喧嘩を売り始めた。その頭をおみつが叩いた。
「喧嘩売ってる場合じゃないでしょ」
「ごめんなさい。早く行かないとね」
「違うでしょ。名乗りがまだ済んでないじゃないっ!」とテンション高めの会長が言った。
会長の言う通り、先代の会長は名乗りまで用意していた。オカマに変身する際にいつもやっていた儀礼のようなものである。本来は四人であるが、ここは即席の三人バージョンでお送りしよう。
「(会長)白人よりも色が白い」
「(天野)スカートの中身は妄想してね☆」
「(純)私たち」
「(全員)テラスドール・シスターズ!」
決まった。
気合が入りきった純たち三人は「うおおおおおおおっ!」と雄たけびを受信機をそれぞれ持って店外へと走り去った。観客とあにまるメイドさんたちは拍手でそれを見送った。
ところで今の今まで空気だったチャベスはというと……。
少し息苦しそうに顔を歪めながら、犬耳を付けた新人メイドさんに抱きかかえられていた。
「いってらっしゃいませ、ご主人様。わんわんわんわん」




