チョコレートムースの承
広瀬比呂巳は弥恵と同じ地元の中学に通う現在中学一年生である。比呂巳と弥恵は家が隣同士ということもあり、小さい頃から弥恵と双子の姉妹のように一緒に遊んでいた。比呂巳は今でも毎日のように顔を見せ、かなりの頻度で高野家の夕食を食べて帰り、また自宅でも食べるという家族公認の間柄であり、純も妹のように比呂巳をかわいがっていた。
少々内向的でかなりの恥ずかしがり屋の弥恵と違い、比呂巳はレフト方向にすらりと伸る茶色いポニーテールを振り回し、きりりっと光る白い歯を覗かせる元気娘である。比呂巳の髪の毛が茶色いのは塩素によって脱色されたためであり、そこら辺の不良娘でないことをあらかじめ断っておこう。比呂巳は中学では水泳部に所属していて、しかも持ち前の器用貧乏なところを発揮してちゃっかり一年生で水泳部のエースになったという話である。ちなみに弥恵は吹奏楽部に所属している。弥恵が語るところによれば、音楽室の窓から丁度学校のプールが見えるようになっているらしく、比呂巳の水着姿をちら見するたびに鼻血を出してしまうそうだ。弥恵は「だってロリで貧乳なのよッ!」と純に力説した。兄妹でも性別が変ると性癖が変るらしい。ロリコンなのは変らないけれども。
そしてその比呂巳ちゃんを弥恵ちゃんがものにすべく、明日の午後六時に高野家にてパジャマパーティーが開催されることが純に言い渡されのは、夜の十時を回ってからであった。
「明日までに比呂巳を落とす方法を考えてよねッ!」
弥恵は昨日のうちにすっかり板の付いたツンデレボイスで純にそう言い放った。どの辺りがデレているかと……まあ、そこは純の妄想が働いている。
しかし妹一筋の純は恋愛など現実の世界で繰り広げたことは皆無であることは有無を言わせずもちろんであるし、昨日風呂場で純がチャベスに告白したように一本のエロゲすら器用にこなせない、まさに恋愛音痴、レンチなのである。
そんな純に何を期待するのか。思春期のロリ娘は何を考えているのかと純は自身に情けなくなりながらもそう思わずにはいられなかった。しかも相手が女の子で幼馴染の比呂巳であるから始末が悪い。まだ男の純の方が現実味を帯びている。
純はそこまで思考を巡らしたところではっと我に返る。少し危険な自分の考えが嫌になったのだ。純は弥恵のことが大好きだが、いつまでも自分の近くにいてくれるなんて甘い考えは持っていない。いつかは弥恵も恋をして、純とは違う別の誰かの腕の中にすっぽりと入っていくのだろう。弥恵は可愛過ぎるから相手なんて腐るほどいるに違いない。しかし、それまでは中睦まじく兄妹をしていたいのである。たまに度が過ぎてしまうこともあるが、弥恵は純にとっての最優先事項なのである。もし弥恵以外のロリ娘に本気で恋をしてしまってもそれは変らないだろう、そう純は自負していた。
そんな風に純は弥恵のために一途であるので、しぶしぶ協力することに同意したパジャマパーティーであったが、もんもんと万年床の上でそのことを考えているうちにその企みを成功させたいと思うようになっていた。成功させるとは、すなわち弥恵と比呂巳をカップルに仕立て上げることである。それより先はあまり考えたくはない。女の子同士がどうやって……まあ、そんなプライバシーに関ることはどうでもいいだろう。
ということで、純は比呂巳を落とす方法を考え始めた。考え始めてすぐに純の脳裏には一つの大きな問題が思い浮んだ。それは比呂巳の趣味嗜好に関る問題である。思春期の芽生えとともにヒステリーを兄に向って行使する実の妹と違い、比呂巳は純の変態っぷりを軽々と容認し、困ったことに少々の悪影響を受けてしまい、そして影響は比呂巳の中で純粋培養され、誉れ高いBL腐女子の境地に辿り着いてしまっているのだ。そのことが判明したのは「兄貴は掘られたことありそうだよね」という衝撃の一言。純は必死でその道から引き摺り下ろそうとしたが、時遅く、既に比呂巳のジャポニカ学習帳には腐女子歓喜の妄想激が描かれていた。ペンネームはチョコレート・ムースだそうだ。
その性癖は同性愛という点で等しいが性別という点で百八十度違っている。この類似点と相違点をどう考えればいいか。純は次第にこの問題は触れることすら許されない未知の領域なのではないかと思えてきた。圧倒的にそっち方面の恋愛事情に関しての知識が純の中に乏しいのである。おそらく同性愛というものには偏見やドグマが付きまとうものであろう。フェミニズム、ジェンダーの議論が世界中でどのように繰り広げられていようとも、その議論の余波は哀しいかな、この紀の国の大地で悠々自適に育った純の耳には届いていない。純の乏しい百合知識の中にあるのは、どうでもいい第四話だけである。その第四話ですら内海曰く、上級者用であるらしいので応用の聞かない純の頭では到底、それをうまく裁いて、そこから実用的なサムシングを取り出すことは不可能である。事実純は第四話を深夜零時に見返してさらに分からなくなった。何が分からないかって、何が分からないか分からないのである。それほど上級者向けなのである。チャベスは寝てしまって久しく純に何も言ってくれない。
しかし、弥恵の恋心を偏見や無知でこじらせる様なことはしたくはない。問題の対象に身を投じ、腑分けするのでなければ真の解決はえられない。
そんなことをちまちまと考えているうちに純が半ば身を預けている『美しき生命』の部室に大量においてある内海曰く、布教用に設置した百合本の存在を思い出した。布教されるつもりはないが、弥恵の恋を成就させるためである。今の純にとって百合本を読むことはやぶさかではなかった。
次の日。チャベスのお腹の中からはお通じと一緒にお守りもあっけなくコロンと出てきた。純はひとまず胸を撫で下ろすと水洗い、ファブリーズ、熱湯消毒、ドライヤーで乾燥の処置を繰り返し、制服のうちポケットに入れて学校へ向った。チャベスは急がなくていいといったが、持っていると不幸な惨事に見舞われるというお守りである。弥恵のキスを頂戴できたことはこの上ない幸福であったが、出来れば一刻も早く手放してしまいたい代物だ。並木教員が今日も学校にいるとは限らないが、一応会って話せる日を決めておきたかった。
昨日と同様、殆どの生徒は野球部の応援に出ずっぱりのため、学校はがらんどうとしていた。案の定、並木教員はいないようだ。職員室では日直の先生が一人でアイスコーヒーをすすっていた。確か三年生の物理の担当の先生であると純は記憶している。白衣よりもスーツを好む少し奇特な先生だ。職員室の中は冷房が制限されているのか、少し蒸し暑い。その先生はクールビズのいでたちで日誌に目を通していた。
「どうした?」
純が声を掛けると怪訝そうな表情をしてその先生は答えた。今日初めて人にあったようなぎこちなさがある。
「並木先生はいつ学校へいらっしゃいますかね?」
純は並木教員がいつ学校に来るかを訊いた。
しかし、返ってきた答えに純にとって予想外のものだった。
「並木先生は昨日学校をお辞めになったんだよ」
「えっ?」
無気力が学生の特権であると公に謳う純にしてみれば、いつになく力のこもった驚きが漏れた。昨日の今日である。この教師は一人の時間に介入してきたアホ面の名の知らぬ生徒に意地悪を仕掛けているのではないかと純は早合点してしまいそうになった。
「まあ驚くのも無理ないよなあ。私も今日の朝校長から知らされてな」
「一体どうして?」
「詳しくは知らないけど、放浪の旅に出るとかなんとか。行き先不明。軽い失踪だよな」
「はあ、旅ですか……」
そこで純は昨日のやり取りを思い出した。
純が純正の嘘十割で塗り固めた、壮大なプロジェクトを披露したときの並木教員はなんだか乗り気であったような気がしないでもない。もしかしたらまだそのときは旅に出ることを迷っていたのではないだろうか。そして協力を断ったときに見た並木教員の嬉しそうな顔と、その合間に見せた寂しそうな表情も思い出される。確かに今にも俗世から旅立たんばかりの孤高の雰囲気を醸し出していたともいえなくもない。
もしかしたら純が最後に会話を交わした生徒ではないのだろうか。そして並木教員は純に理想の生徒の姿をみて旅立つことを決心したのではないだろうか。
そう思うと後味が悪い。俺を歴史の分岐点のように利用するな。人を自分の将来のきっかけにするな。
……しかし少し胸が痛むのはなぜだろう。
並木教員から滲み出ていたオーラは確かに純の心の中に植付けられていたようである。
「さすが倫理の教師。哲学者って感じだよな。物理の教師にそんな大それた真似できないよ。せいぜい宇宙に思いを馳せるくらいだ。で、並木先生に何のようだったんだ?」
訊かれて言葉に詰まる。さすがに精霊云々の話は言えない。
「……並木先生から本を借りていたもので」
おそらく哲学書なんて一生開く気のない純であるが、借りるくらいのことはまああるかもしれない。
「連絡先とか分からないですか?」
とりあえず、お守りをそのままにしておくわけにはいかない。もう片方のお守りの方を持っている人間の目星はある程度付けておかなくてはいけない。推測できるのはこの学校の生徒の誰かの手にあるかもしれないということだけである。いくら時限爆弾のように期限に迫られていないとはいえ、このまま不幸のお守りを所持しているなんてごめんだ。というか不幸のお守りのせいで並木教員はどこか行ってしまったんじゃないのか。
純はとりとめのない自分の不幸の際限の果てに思い巡らし、途方にくれた。
「あの人、今時携帯も持ってなかったしなあ。どこに住んでいたかは分かるけど、今日の朝一に日本を出たとか。一体どこに旅立ったんだろうねぇ」
そんなに急ぐ旅でもなかろうに。不幸を置き去りにして旅立たれて困る人間のことを考えてほしい。並木教員におそらく不幸を残していった直接の罪はないのだろうが、度重なる「探すな」といわんばかりのその素行を呪わずにはいられない。
純の青ざめた顔を見て物理の教師が心配そうに尋ねてくる。
「どうかしたか?」
「……い、いえ。何でも」
一応、純は並木教員の元の住所だけ訊いておいた。あまり期待してはいないが何か手がかりが残されているかもしれない。しかし、手がかりが残っていたとしても不幸のお守りがどうにかしてしまうんじゃないか、以下堂々巡りの議論になるのでこの辺で打ち切っておく。今度、チャベスと出かけてみよう。それだけ決めて純は頭の中を弥恵専用のピンクカラーに染めた。
せっかく暑い中電車を乗り継いで学校まで来たのだ。もちろん収穫なしでは帰れない。というか、ここからが本題である。
純は鍵を借り、これまた長い廊下をせっせと歩き部室まで歩いた。
部室に着くと真っ先にしたのは冷房をつけること。部室に込められた罪悪で修辞しなければ失礼であろう偉大なる不快指数は、純が感じ取ることの出来る数値を軽く凌駕していた。純はパイプ椅子にぺたっとすわり、うなだれ、冷房が効いてくるのをひたすら待つ。しばらくして、純は年代ものの狭い部屋に不相応な巨大な温度計に目をやった。メモリは丁度二十八度。冷房の温度は学校の規則によって二十八度以下には出来ない。いつまでもへばってばかりいられない。純はせいっと椅子から立つと部室の東側の壁一面に広がる本棚に向き合って腕を組む。
部室の本棚の一角にはおそらく今まで誰も手を触れたことのないだろう内海専用の百合本が意気揚々と陳列されていた。免疫の無い人間がそれを目の前にしたら思わずちょこんと鎮座してしまうに違いない。
内海曰く、古今東西の有名どころの百合本は網羅されているということである。純は満を持して人差し指でタイトルをなぞっていくが、有名どころといっても聞いたことがある作者は谷崎潤一郎ぐらいのもので、しかもそのタイトルも『卍』である。文学に滅法弱い純はナチスかよと勘違いしながら、その本を見事にスルーした。
「何やってるの?」
「うわっ!」
いきなり後ろからやさぐれた戸松遥ボイスが聞こえたかと思うと、案の定、ドアにもたれるようにして内海はどでんと立っていた。汗一つ掻かずに、いつものようなフルアーマーな衣装を纏って、徹夜明けのくすんだ瞳でギラギラと純を睨みつけている。弥恵の開かずの引き出しを物色しているのを見つかったときのように気まずい。しかも純の手には驚いてとっさに本棚から抜き出したコミック百合姫が掲げられていた。まるで預金通帳を持った泥棒が家主と鉢合わせになったみたいだ。
「えっと、」
内海の凸レンズが純の手にあるコミック百合姫にピントが合う。レンズの奥に隠れた表情が疑惑と怪訝でじっとりと歪み始める。
「……昨日突然百合に目覚めまして」
純はとっさに言い放った。さすがに妹の恋を成就させるための手がかりを探しに先輩の棚をあさりに来ましたとはいえない。が、かろうじて嘘は言ってないだろう。純は昨日の夜に突然百合の必要性に迫られたのである。
そもそも純はメンバーたちには妹がいることを内緒にしていた。もし純が目に入れても痛くない可愛いロリ巨乳娘を妹としているということを天野あたりに知られたら、下心が全面に出尽くした友好条約を持ち出してくるに決まっている。そして何より、今まさに目前にいる百合愛好者の内海の存在が一番危険だ。思春期で悩み事の多い弥恵である。ころっと騙されて、どうにかこうにかされて、最終的に食べられてしまうかもしれない。
「ふうん」
「……っ!?」
いつの間にか内海は純のすぐ側までやってきていて、純を検分するように内海は顎に手を当てて、上から下までなんだか嘗め回している。アライグマに睨まれたように純は動けなくなった。アライグマの行動基準は純が最も謎にしていることの一つである。まさかアカハライモリまで洗って捕食するとは予想外であった。
「で、何がきっかけなの?」
「は?」
内海の声音は、犯行動機は何だ、という刑事さん的な調子であった。そんな高圧的な態度に一体何のことを言っているのかと純は一瞬と惑ってしまう。
純が目じりの辺りにはてなマークを浮かべていると、
「だから何がきっかけで百合に目覚めたの?」
戸松遥声は一回で分かりなさいよ、という風に不承不承にご機嫌を悪くしていらっしゃるようである。まさか会って五分も立たないうちに話がこういう方向に進んでしまうとは、百合愛好者とは末恐ろしい。
興味の端緒など些細なことではないか、と純はやり場の無い主張を抱いた。
しかし内海の凸レンズの向こう側は変わらず純を睨みつけているままである。おそらく内海の問いに対して曖昧な返答をしてしまったらただでは済まないだろう。怠惰な生活に歪められた純の本能がそう継げている。
きっかけ、きっかけ……。
純はきっかけを探すが、当然のように趣味嗜好として純が百合に目覚めたわけではないのできっかけなどあろうはずがない。故にでっち上げなければならぬ。純が知っている百合アニメはもちろんあのアニメのどうでもいい第四話しかなかった。
「あの、第四話」
言って純は即座に後悔した。内海の反応は明らかに犯人の証言に矛盾を見つけた刑事さんの流し目具合、信憑性の欠片も無いと判断したような頷き具合である。
「ふうん。そう。じゃ、どういうところがあなたの心を震わせ、魅了したのか、私に教えてくれない?」
純はその妖艶な声音にどきりとしてしまった。内海は鎌をかけるように容姿に似合わず、可愛い声を出したのだ。陰鬱で、陰湿なのは相変わらずであるが。
って、意表を突かれた様に発せられた声音にいちいち一喜一憂している場合ではない。目の前の上級生は魔女裁判にかけるように百合裁判をこのクーラーの利きの悪い八畳の個室で始めたわけだ。
といっても裁かれるのは百合のゆの字も知らぬ、自慢じゃないがロリッ娘大好き普通のオタク高野純である。
純は必死に第四話のエピソードを思い出す。不幸中の幸いにして、本日の深夜にその話を視聴していた。が、全くといっていいほどあらすじが思い出せない。思い出そうとすれば思い出そうとするほどその不鮮明な記憶は小走りで忘却の彼方へと駆けていってしまう。
そして純の手元に残ったのは唯一記憶に焼きついたあの場面だけであった。純は意を決して口を開く。
「親友がおねしょをしてしまったときの愛梨の一言だ」
「その一言とは何?」
内海の問答が入り込む。それは純の恥じらいを打ち消す、絶妙な誘導であった。
「いい加減にしないと、もう一緒に漏らしてあげないんだからねッ!」
演劇部も思わず嘆声を漏らすほどの純の猿芝居とともにその一言が部屋中に轟いた。さすがに高校生男子の女声は聞いていて胸糞悪い。更に言おう、気持ちが悪い。しかし熱情に満ちた壮大な一声であった。純の瞳は凸レンズ越しに内海の瞳に見据えられたまま動かない。
内海は青白く不健康な眉間に少しむっとしたようなしわを作るとくるりと純に背を向けた。
純は息を吐いてうなだれる。
……駄目だったか。しかし不思議と気持ちが清々としている。このまま内海にどうとでもされて構わない。年上で、ロリでないことはいただけないが一応女子である。さあ、どこからでも掛かって来い。
純はばっと腕を広げた。まるで生贄、いいや、まるで自ら神に身を捧げた殉教者のように至高の微笑を浮かべている。
しかし、純のMの決意と裏腹に返ってきたのは内海の予想外の反応だった。
「……あら、意外とあなた話が分かるじゃない。あの話は上級者向けだから、素人が見たって本当に大事な部分を取り出すことはできないの。あなたを魅了した愛梨の発言は物語の局面を大きく左右する重要な一言。悔しいけれどあなたが目覚めたことは本当のようね。……疑ったりして、その、ごめんなさい」
内海は伏し目がちに、ゆっくりと純の方に向き直ると小さく頭を下げた。そして恥ずかしそうに顔を赤らめ以下のように続けた。
「……だ、だってあの話から目覚めてしまう人なんていないと思っていたから。日本に、いいえ世界に五人いれば充分。あなたのセンスを認めなければいけないようね。うん、少し見直した……ただのロリ巨乳なら見境のない腐れ外道かと思っていたけどね」
少し声が弾んでいるように聞こえるのは純の気のせいだろうか。ともあれ、最後の一言は少なからず純にショックを与えたが、内海の心に純の熱意が曲がりなりにも届いたようである。純はほっと胸を撫で下ろす。
しかし内海はまだ何か言いたそうに純の目の前から動こうとしない。
「あ、あのー」
「どんなのが好みかしら?」
またしても唐突にそう言い放った。検分が済んだら済んだで、純を百合色に済め上げる気であるらしい。百合に目覚めてしまったことが第三者に確定されてしまった手前、断ることなど出来るはずがない。
しかし、この機会を利用しない手はないだろう。丁度純は百合という数学よりも不可解な未知の課題を前にして一人で手をこまねいていたところでもある。
「……同い年の幼馴染で」
純は弥恵と比呂巳を想像しながらそう呟いた。
「幼馴染ね」
内海は本棚にスタッと向き直り、真剣に、いや、どちらかといえば若奥さんが一歳の娘の洋服を選ぶように楽しげな表情で百合本の吟味を始めた。つまり純にはその本の何がいいかは分からない。
「これなんてどう? ああ、これも捨てがたいわね。幼馴染でしょ、あー決めがたいわね」
内海は子供に服をあてがう若奥さんのように次々と本棚から取り出し、純に本の表紙を一瞥させてはテーブルに並べていった。おそらく内海の頭の中には話の内容が全て詰まっているのだろう。しかし純はその本群の中身を一切知らないので呆然とその作業を見つめるばかりである。
「あ、あのー。……そんなに悩まれなくても」
内海があまりにも真剣に選んでいるので純は恐る恐る声を掛ける。
「駄目よっ! 何事も出だしが肝心なの。最初に見た作品、呼んだ作品が人生感、いいえあなたの百合感に大きな影響を与えるの。あなたはセンスがいいのだから変な癖をつけてしまってはいけないわ」
内海の底知れぬ善意に圧倒され、純はおよおよとたじろぐばかりである。
気付けばテーブルには五十冊以上の百合本が並べられていた。小説、漫画はもちろんなにやら研究書のようなものまであり、背表紙が百合色に光っていらっしゃる。これらの本の全てに百合で幼馴染が書かれているのだろう。幼馴染だけでこれほどの数の百合物語が展開されるわけだ。百合の奥深さに純は眩暈がするようだった。今までロリで巨乳であれば見境のなかったつけがここに来て回ってきたらしい。
内海は並べた百合本を前にして、なにやら聞き取れないほどの小さな声でぶつぶつと何か言っている。ふと途方にくれている純のほうに顔を向けると「今日のご夕食は何をお召し上がりになる?」という風に、
「どんなシチュエーションがお好み?」
と聞いた。もちろん考える必要はない。シチュエーションは既に現実にあるのだから。
「……幼馴染の同級生の二人が中学に上がって、思春期を迎えるとAがBに恋の感情を抱いていることに気付いて、満を持してパジャマパーティーを開いて告白するっていう感じでお願いします」
純は弥恵と比呂巳を想像しながら人差し指を天井に向けて頼んだ。
すると内海はなぜだか不思議そうに純を見つめた。「何でお前がそのことを知っている?」という風な驚きの表情に見えないこともない。
あれ? なにか、まずいこといったか?
「……なんだか実際に犯行現場を目撃してきたように言うのね?」
純は心を見透かされているような気がしてギクッとなった。内海はじっとりとした視線を眼鏡越しに純に向って送っていたが「まあ、いいわ」と重たい黒髪を払い、こう続けた。
「……でもありきたりすぎるわね。あなたの想像力のなさを痛感して先が思いやられるわ」
そう毒づきながらもとてもうきうきと、声音が戸松遥に酷似してきたのは純の気のせいだろうか。
そうこうしているうちに内海は純のシチュエーションに沿う物語の選定を済ませたようである。一冊の本を手に取ると、パイプ椅子を引いて腰掛ける。
「まあ、さすがにパジャマパーティーそのものを題材に描いた作品はないけれど、」
そう断って内海はその本を純の前に置いた。
「お泊りをして、お風呂やベッドの中っていう非日常の空間で急接近するパターンは意外と多いの。誰にも邪魔されない場所だからね。でも誰かに邪魔をされてしまうっていうのは秘められた恋には付き物でしょ。それは百合作品にも例外ではなくて、特に百合は恋そのものが秘密を孕んでいるようなところがあるから、そういう場所が好まれるのよね。王道といえば、王道であまり捻りはないかもしれない」
「はあ」と純。
「でもね。いつだってドキドキさせられちゃうの。胸をキュンと締め付けられてしまったのなら、その物語の尊さを認めないわけにはいかないわ。人間はどこか合理的に裁きたくなるようなところがあるじゃない? けれど恋っていう感情に限って、……恋っていう感情に満たされてしまったのなら非合理って言うのかな、説明のつかない気持ちを正直に受け止めなきゃいけないと思うの。多分その人が心の底で求めているのはそういった切ない気持ちであるから」
内海はどこか遠い眼をして、手をぎゅっと胸の前で軽く握り締めながら、思い出を整理するようにしゃべっていた。その横顔には赤みがさし、語る口元には実感が込められていて、どこか寂しげで、儚げである。純はそんな風に感じて、内海が経てきた過去に何があったのだろうかという想いを抱かずに入られなかった。そう語らせている、内海の奥にあるものはなんだろうか。純が堪らずに口を開きかけたところで、内海の言葉の続きがそれを遮った。
「『愛し愛され恋をする』。この本は私にそういうことの大切さを教えてくれたわ。この本の内容を話し出すとネタばれしそうだからやめておくけれど、あなたが百合に求めていることが見つかると思う。少なくともあなたがどのようにこれから百合と接していくかっていう手がかりは、つかめるはずよ」
純は目の前に置かれた、薄い文庫本を手に取り、ペラペラと捲ってみた。本嫌いの純でも読むことの出来そうな比較的簡単な言葉で書かれているようである。純はお礼を言って内海に頭を下げた。
「ちゃんと読むのよ。そして感想を拵えてくること」
そういう内海の顔からはさっきのような寂しげな表情は綺麗さっぱり消えてしまっていた。だから純はなんだか訊いてしまってはいけないような気がして心に抱いた疑問をそっと奥の方に押しやった。その代わりに内海にどうしても訊いておきたいことがあった。
「……先輩、一つ訊いてもいいですか?」
「なに?」
「普通の恋愛と女の子同士の恋愛、何か違いがあるんでしょうか?」
弥恵は比呂巳への恋心をどのように受け止めているのだろうか。
純は弥恵と比呂巳の恋を成就させると決心したが、弥恵の気持ちは全くといっていいほど分からない。だから内海の本棚にやって来たのだ。
内海は少し考えるような仕草をしておもむろに口を開いた。
「あるわよ、もちろん。女の子同士の恋愛のほうが綺麗だし、ドキドキしちゃうし」
そこまで言って内海は頬杖をついた。
「……少し、怖いしね」
「怖い?」
純はなぜ怖いのかと聞き返した。純は一度も女の子を怖いと思ったことはない。いや、女の子同士だから怖いのだろうか?
「怖いのよ。いろんな意味でね。女の子ってヒステリーの塊のようなものだから」
そういって内海は純に珍しく笑いかけた。
確かに弥恵はヒステリーの塊のようであるけれども、と純はさらに分からなくなる。
「でもね……私は本質的な違いはないと思ってるの。……人は誰でも自分にないものをもった誰かに惹かれるものじゃない。そして好きになってしまったのならその人しかみえなくなっちゃう。そう考えれば、同じでしょ」
純は頷いた。内海の言葉は純の弥恵に向ける気持ちを代弁してくれていた。純は弥恵に惹かれ、弥恵のために、弥恵のことを考えている。弥恵の比呂巳への気持ちもそうなのだろうか、と純はなんとなく思った。これを読めば分かるのだろうかと『愛し愛され恋をする』と銘打たれた本に純は少しの期待を寄せた。
「そういえば先輩は何で学校にいるんすか?」
「少し用事があって……それに」
「それに?」
「気持ちがざわついていたから」
内海はふうっと息を吐くと、「じゃあね」と部室から去っていった。
私は窓際に手を掛けて彼女が来るのをいまやおそしと待っていた。
この感情は一体何だろう。腹立たしくなったり、急に切なくなったり、理解が追いつかなくてもどかしい。私は爪を立てて首筋をかきむしった。
そうしなければ私の抑えきれない衝動で薄く汚れたガラスが砕けてしまうかもしれないから。
早く来てよ。早く私のところに来てよ。
私は涙を流した。理由の分からない涙のせいで余計に悲しくなって、私はまた首筋をかきむしる。
ふと、窓の外に彼女の姿が見えた。彼女は無邪気に私に手を振っている。彼女の笑顔に私はいつも救われてきた。涙なんて一瞬で乾いてしまう。
多分それは、今まで彼女に抱き続けて存在してきた分からない気持ちは、私の愛。
私は彼女を愛してる。
多分私は恋してる。
カノとミヤは幼馴染でいつでも一緒だった。
同じ中学を卒業し、同じ高校へ進学する。そうなるものとミヤは疑わなかった。カノもずっとミヤにそう言っていた。
しかしカノには夢があった。その夢のためにはミヤと離れ、別の所にいかなければならない。
ミヤは笑顔を作り、カノの夢を応援すると言った。
けれどミヤと離れることが決まってから、カノはあふれ出てくる理解不能な感情に苦しむことになる。
その感情を解釈できないまま、歳月は流れ、出立の日が間近に迫ったある日、ミヤからカノへ電話が掛かる。「一緒に昔のアルバムでも見ようよ」
次の日、カノとミヤはカノの部屋で一日中アルバムを捲って、二人の思い出を出会った日からゆっくりとなぞっていく。
カノの気持ちは次第に整理され、ミヤへの気持ちが愛であると理解した。
ミヤはカノの家に泊まり、次の日の朝、いつの間にかカノと同じベットに潜り込んでいたミヤが言う。
「多分私、カノに恋してる……かも……」
――かいつまむと、『愛し愛され恋をする』はそういう内容だった。
「……えっぐ、……えっぐ」
「これまた一体全体、どうしてしまったんだ、少年よ?」
純が家に帰るなり、リビングで冷房に浸かりながらとろけてしまいそうになっているチャベスに見せたのは幼稚園児もドン引きの豪い泣き顔であった。その涙腺の緩みようが半端ではなかったので、チャベスは驚きながらも尻尾を振って純に近づいていく。チャベスの声音は神妙であったが、いかんせん尻尾は正直である。
「……これ」
純は溜まった涙をワイシャツの袖で拭いながら、手に持っていた文庫本の表紙をチャベスに向けた。
「その本がなんなんだ?」
純は既にもうチャベスを人間と同じように接していたので当然字も読めると思い込んでいるらしい。しゃべることが出来るけれども一応生物学上は犬であり、ダックスフントなので本であると分かっても、題名からその中身を類推するなんて器用なことは出来やしない。チャベスはそのことについて朗々と文句を述べようとしたが、
「……感動した」と純はポツリと呟いた。
「……は?」
「チャベスッ! 俺は今、猛烈に感動しているッ!」
どうやら純はその本を読み、猛烈に感動したらしい。純はその本を胸に抱きしめて、背景を百合色に染めながら、どこか遠くのほうに視線を泳がせている。心なしかまた潤んできているようだ。
それを見てチャベスは条件反射的に「うわっ! きもっ」と口走る。
しかし純は意に介さずという風に、ひとり、敷居を跨ぎながら物語の余韻にひたひたに浸りきっている。
「ふん。言いたいだけ言えばいいさ。今の俺は愛犬の些細な罵声など汲みはしないよ。そんなものは右耳から左耳へすっと抜けていってしまうよ。僕はこの物語の素晴らしさを知ってしまった。瑠璃光寺の宝物で酒を煽ったような、贅沢にひたひたに浸りきった気分だよ」
聞けば、電車の中で数十ページ読んでしまっただけでこの有様だという。
『愛し愛され恋をする』、この物語がたった数十ページで幻想の世界へ連れて行ってくれるほどの破壊力を持っているのか、それとも純の感受性が健全な高校生ほどに設定されてないのかは分からないが、まあおそらくは後者であろう。起承転結の起の時点で泣かれてしまっては筆者の方も堪らない。余韻も何もあったものではないではないか。
だいたい、とチャベスは思う。人間は感動したらその物語のあらすじを話して聞かせるものじゃないのか。純は一向に「感動、感動」というだけで主人公の名前すら伝えようとしない。まあ、見てもいない映画の話をされるほどつまらないことがないように、チャベスはその物語の詳細などにいささかも興味関心はなかった。
「その余韻に浸っているところ悪いんだが、並木教員とは会えたのか?」
このまま放っておくと一生ふわふわしていそうなので、チャベスは話題を変えた。純ははたっと余韻から冷めると「ああ、そうだった」とチャベスを抱きかかえて、椅子に座る。
「その件なんだがな……」と純は一部始終の事情を話した。チャベスはさすがに旅に出てしまったことを聞いて少なからず驚いていたが、
「そうか、まあそのうち見つかるだろ」とあまり急いてはいないようである。
「随分、切迫感がないなあ」
純は先ほどと打って変わり、冷静に事態の把握に努めようとしながら、なんだか心配になる。
「もう片方のお守りを見つけた人間も同じように探してくれているかも知れない。お守りが離れてしまって起こる実害は所有者の不幸だけだ。どこぞの秘密結社がこの力を狙っているとも思えんしな。こんなちっぽけなお守りに込められた精霊の力なんて弥恵君の怒りに打ち勝てないほどに弱いんだ。それに世の中、私が持った力よりも何倍も強力なものがごろごろしているだろうし。その点紀州は神様がうようよとしている。私の力などそれに隠れて見向きもされんよ」とチャベスは自虐的に言いながらも、けろりとしてそう言った。
純も「そうだな」と頷きかけたところではっとする。
「不幸は俺に降りかかるんだろッ! 他人事だと思って」
「不幸といっても、タライが落ちてきたりとそんなことだろう」とチャベスは他人事のようにキャンキャン吠えている。
「そんなことでもめぐり合わせが悪すぎる。俺の不幸を楽しんでいるとしか思えないほどに絶妙だ」
昨日繰り広げられた熾烈な防衛戦思い出す。精霊の力によって見方によれば両想いになったようなこともないが、合いの手のように指し込めれる不幸によって、純の純真無垢の愛情はおそらく弥恵に届いていまい。
「それも含めてそれだけのことじゃないか」
純はなんだか釈然としないが、確かに「それだけのこと」といえばそれだけのことなのである。実害は弥恵の拳であったり、罵声であったりで許容範囲内でないこともない。
それに、と純はファーストキスを思い出して授業の内容が頭に入らない現役女子高生のように顔をポッとさせた。
「弥恵君の唇は柔らかかったろう? なあ?」
「うん」
絶妙な幸福も巡り巡ってくるらしいので、弥恵のキスを味わった頬を擦りながら純は頷いておいた。純の心はキス一つで迷走してしまえるほど繊細だった。
「……本当はもう相方に会いたくないんじゃないのか?」
そこで純がなんとなしにそう口にすると、はたっとチャベスの瞳が一の字型に細まる。
「どうした?」
「その件については……精霊は俺にないも言ってくれないようだ」
そのことはつまり図星ということだろう。他人の不幸に目聡い純はニタニタと笑い出し、
「訳ありのようだねえ。倦怠期だったんじゃないか……、だから牝牛のお守りの方はどこか遠くの方へ行ってしまった」との安い推理を人差し指を天井に向け、朗々と吟じ始めた。
精霊が喧嘩するとは思わない。が、何せ精霊と関わることが初めてである。猪口才にも人間レベルでの思索しか出来ないが、でもしかしお話に登場する神様はいつだって現代人より人間的である。
「相方探しを急いていないのは、出て行った女房に会うのを躊躇っているからだ」
「その辺は、少年、……プライベートなことだろうよ」
純はチャベスの体温がどんどん暖かくなっていくのを抱いていて感じた。チャベスの精神と精霊は混ざり合っていると言っていた。つまり精霊の動揺はチャベスの感情を左右するということだろう。純の単純な推理のような推測は大まか的を射ていたようである。
「ってそれよりも、」
純は携帯を取り出し、人差し指でボタンを押し始めた。人差し指なのに携帯を打つのが早い。傍から見ていて、ある種の苛立ちを撒き散らす、むずがゆい行為であるが、これも純の特技の一つである。
「誰に電話を掛けるんだ?」と、チャベス。
「比呂巳に」
「どうして?」
「打てる手は打っておかないと」
純はそういって満面の笑みをチャベスに向けた。チャベスは何か言いたげにしていたが、既に純は比呂巳の携帯にダイヤルしていた。
「もしもし?」
ワンコールで比呂巳は出た。さっき家に帰ってきたところらしい。まだ部活のテンションが冷めやらぬのか、声が大きい。まあ、元気で何よりである。
「今日のこと忘れてないよな?」
「パジャマパーティーのこと?」とポテチをかじる音が純の耳に入る。「忘れるもなにも家が隣同士なんだからパーティーもないでしょ。弥恵ったら急にどうしちゃったんだろうね。それよりもう行っていい? 帰ってきたら暇で暇でしょうがなくて」
「駄目だ」と純は強く断った。
まだ弥恵はパーティーの買出しに出掛けていて留守であるし、準備はこれから始める予定である。それにまだ弥恵との最終の打ち合わせも済んでいない。純の感受性は必要以上に研ぎ澄まされ妙案が七光しているところなのだ。ここで来られてしまっては計画が全ておじゃんになる。
「どうしてさ?」となんだかふてくされたように比呂巳は言った。
「ちゃんとおもてなししたいからな。比呂巳は舞踏会に招待されたお姫様の気分でいてくれ。きっかり六時にチャイムを押すように」
お姫さま、という言葉に機嫌をよくしたのか、「へへっ」と笑い、
「はーいはい、分かったよ」と比呂巳は続けた。根が非常に真っ直ぐな娘なので、約束を破ることはしないだろう。とりあえず一安心である。
「それと」
ここからが肝心である、と純は言葉に力を込めた。
「……ん?」となんだかいきなり真面目な口調で話し始めた純に比呂巳は少々戸惑い気味である。
「大事な話があるから」と純は恋人にプロポーズをけし掛ける様な口調で言った。
チャベスは純の腕の中で「一体何を考えているんだ?」と驚き顔で根拠のない自信で彩られた得意顔を凝視する。
純は何を考えているのか。それはそれは簡単なことである。純は『愛し愛され恋をする』にいとも容易く影響され、弥恵と比呂巳の恋を絶対に成就させようと勇み立ち、事前に比呂巳にも心の準備をさせておこうと思い立ったのである。「打てる手は打っておかねばならぬ」との純の思いは立派である。しかし、ここに至り純の本意を理解するためには源氏物語の「浮舟」並みの主語の不足を掻い潜る程の読解力が必要不可欠であった。
そのため、まるで純が比呂巳にプロポーズをけし掛ける風にも聞えてしまう。純の弥恵への気持ちは真っ直ぐであった。そうであるから比呂巳にも真っ直ぐに純の熱い気持ちが曲がりなりにもズッキューンと届いてしまったようである。
「えっ? な、何だよ。そんな……いきなり……さあ」
と困惑、動揺を含んだ比呂巳の声が携帯から漏れる。声のトーンが明らかに先ほどとは違う。快活さが消え、恥じらいで形容されるべき、理想的な尻すぼみ加減が比呂巳の口から発せられているのだ。
案の定、比呂巳は純の言葉を勘違いしてしまったようだ。
もちろん、年下の気持ちに対して鈍感に出来ている純は比呂巳が勘違いしてしまったことなど一切気付かない。
「そのときは話を聞いても笑わずにちゃんと答えて欲しいんだ」
「……う、うん」
トレンディードラマの真似事のような台詞が巧みに純の口から選ばれる。とても純に似合わない台詞であるが、幸か不幸か比呂巳の心の機微をがっちりと捉えてしまっているようである。頷く比呂巳の声音は冬の日、缶コーヒーから立ち上る湯気のように温かみに満ちている。外は夏真っ盛りだが。
そしてさらに誤解を深めかねない一言を純は付け加えた。
「出来ればな……その、いい返事をくれると嬉しいんだが……」
その一言で電話の向こう側から布が擦れたような雑音が聞えてくる。まるで電話の先の比呂巳が塩素で茶色に薄まった毛先を弄繰り回してから、中学校指定のジャージのファスナーを突っついて、そして枕に顔を埋めて悶えているような雑音である。
「比呂巳?」
少し無音状態が続いたので、純は不安になって声を掛けた。
「は、はいっ」
「どうした?」
「な、何でも……その、だ、だから今日、わざわざ?」
「もしかして、……比呂巳は気付いていてくれたのか?」
「う、うん。そ、そっかあ。……変だと思ったんだよ。いきなりパジャマパーティーだろ。や、弥恵のやつ、気の使いすぎだよな。ははっ」
比呂巳は動揺を隠すように取り繕うが、若干の中学一年生である。トレンディードラマの女優のように上手く演じるのには無理がある。その無理は、比呂巳は弥恵の気持ちをきちんと理解しているという風に純には理解されたようである。純は電話してよかったと少しほっとして胸をなでおろし、誰に見せるでもなく自慢のストレートヘアを掻き上げた。
「弥恵も少し不器用なところがあるからな。弥恵の気持ちっていうか、頑張りも汲んで欲しい」
と純はふっと笑いかける。チャベスはうげーっと舌を出した。
「じゃあな」と純は通話を切ろうとした。
しかし、
「ねぇ、兄貴」と比呂巳が呼び止めた。
その声音には、今決心をしましたというような小さな重みを純に感じさせた。
「ん?」
「……まだ、ちょっと整理がつかないっていうか、もうちょっと未来の話だと思ってから、まだドキドキが収まんないんだけど」
そういって、比呂巳は唾を飲み込んで、優しげにゆっくりと、
「……いい返事を期待してて。私もずっと同じ気持ちだったから」と言った。
どうやら比呂巳も弥恵のことをずっと好きでいてくれたようである、と純は理解し、『愛し愛され恋をする』の強壮作用も手伝って、思わずぶわっと涙ぐんでしまった。純は目元を押さえながら、
「……比呂巳、あ、ありがとうしゃいしゃいっす」
と涙ながらにお礼を述べた。最後の方はもう言葉になっていない。
「ううん。私も、その、嬉しい……弥恵にありがとうって言っといて。弥恵の気持ち、とっても嬉しいよって」
そして電話を切った。純の心の内は言い尽くすことの出来ない幸福感に満ちていた。
それと裏腹にチャベスは飼い主のために先ほどのやり取りから推測されるおそらく不幸の事態を回避すべく口を開きかけた。
「おい、しょうね、」
「たっだいまー」
しかし、そこで丁度弥恵が買い物から帰ってきた。
弥恵は大量に買い込んできた食材に引っ張られるようになりながらも、それらをどかっとテーブルに放り置くと、「さあ、頑張るぞいぞいっと」と少々半狂乱気味に拳を振り上げる。
そんな恋に一途な弥恵に顔をほころばせながら、純も拳を作り、「ぞいぞいっと」と呼応する。
純は比呂巳に電話したことを黙っておこうと思った。ハッピーエンドで終わる結末であるならば、サプライズは大いに歓迎されるはずだ。
一方チャベスは「運がないなあ」と憐憫の情を純に注ぐのだった。
弥恵と純は近年まれに見る兄妹仲を発揮し、手分けをして準備に勤しんでいた。工事の現場監督のように弥恵の口から純に指示が飛ぶ。罵声も飛ぶ。
一方チャベスはずっと純がひとりになるのを見計らいながら、「少年は聡明に過度の角の立つ勘違いをなされている」と伝えようとやきもきしていた。しかしこれもお守りの不幸かどうか、純に声を掛けようとするときになって弥恵はひょこひょこと純の側にやってきて、いつになく頼りにし、まあ奴隷のように扱い、野放しにはしてはおかないのであった。ということでまだ勘違いは続いたままである。純の自信に満ち溢れた表情と一仕事終えたような満足げな表情は見ていて非常に痛々しい。一応長年連れ添った中であるので、なんとか未然に悲劇を食い止めたいのだが……。しかし純はそんなチャベスのそわそわした様子に「おしっこか?」と問いかけるばかりである。そわそわしている人を見るとすぐに「おしっこ」に繋がるところが純の通常の反応であった。チャベスは首を横に振るとふてくされたようになって「もうどうでもいいか」と耳を垂らして事態を傍から見守ることに決めてしまった。諦めの早いのは飼い主譲りということだろうか。
そんな風に腰をどっしりと据えてしまったチャベスがいる一方で、ピアノコンクールの直前、舞台袖で小さく震える五歳児のように、体の芯からそわそわしているのは本日の主役の弥恵であった。
正月の大掃除よりも気合の入った掃除が済むと弥恵はたすきを掛けるように袖を捲くり、純白フリフリのエプロンを颯爽と身に付けると料理に取り掛かった。純はそのエプロン姿を何度も目にしているが、今日という日も弥恵を目の前に幼な妻を妄想して悦に浸っていた。弥恵はその視線に慣れっこであるが、妄想されて気持ちのよいはずはない。弥恵は純のバーコードのようになった瞳に目潰しを食らわせた。「さっさと準備してッ!」
純ははっと我に返り、小学校のときの家庭科の時間にミシンを三台資源ごみにして完成させたチェック柄のエプロンを探しに行った。しかし見当たらないので弥恵と同じ純白フリフリのエプロンを拝借し身に付ける。おそらくママさんのだろう。「よし」
「うっわぁ……」と、純のエプロン姿を見て弥恵は苦虫を噛み潰したような顔で実の兄を二度三度ちら見する。
「わ、悪いかよ。これしかねぇんだからしょうがないだろ」
そうはいいながらも純はリビングのスタンドミラーに自分の姿を映した。弥恵が向こうを向いたところで一回転してみる。「なかなか似合うじゃないか。なあ、チャベス」
「……」とチャベスは軽蔑の流し目を送ったことは言うまでもないだろう。
純は弥恵に言われるままに、何に使うか知れない緑色の粉と鶏ではないアフリカから密輸入してきたような巨大な卵と色彩豊かな調味料の混ざった液体を掻き混ぜたり、弥恵が裏山で掘ってきたという自然薯をすったりといいように酷使されていた。時折、慣れない作業に手をこまねく純の前に小皿が差し出され、弥恵に味見を頼まれる。弥恵の作った料理なので全て美味であることは全人類に知れ渡っている既知であり、有難いことこの上ないのだが、しかし、ここに来て弥恵の精神は期待と不安でどうにかなりそうな按配である。単純に「うまいっ!」と言っただけでは茹で立てのパスタを頭から掛けられそうなので、純は気の利いたコメントをそのつど用意した。しかしそのつどにパスタを茹でるために用意された沸騰済みの水道水をかけられた。「一体なんて言えば笑ってくれるんだ」と純は小さく唸った。一見すれば夫婦のように見えなくもないなんともうらやましい光景である。けれど魔法学校に通う少女が夜な夜なほれ薬を精魂掛けて作っているようなどす黒いオーラが弥恵の全身から滲み出ていて純は気安くそんな思索に励むことは出来なかった。
そんな風に繊細な純の神経が弥恵の機嫌に対して恐れ多さをぶるぶると感じている内に料理は一通り完成したようである。
「で、出来たわ」と、弥恵はほれ薬を完成させた魔法少女のように瞳をぎらぎらとさせて、感歎の息を大きく吐いた。まるで町内を一週全力疾走してきたように弥恵は疲れ来っている。「完璧……だわ」
バタッ。
「や、弥恵ッ!」
突然、膝から崩れるようにして弥恵が倒れた。慌てて純は駆け寄り、弥恵の顔を覗き込んだ。切りそろえられた黒髪の隙間から血の気の引いた真っ青な肌が覗く。「し、しっかりしろ」
その瞬間、どこからか降ってきたお玉がコンと純の脳天を叩いた。「痛い」
「だ、大丈夫よ。……あれを飲めば」と弥恵は腕を冷蔵庫の方へ持上げた。
弥恵があれといったら、あれしかない。あれを幼少のころからぐびぐびと飲んで弥恵はこんなにも立派に育ったのだ。純は弥恵の胸元を一度視界に入れると、冷蔵庫を開き、そこからあれを選んだ。
「ほら、牛乳だぞ」と純が弥恵の前に差し出したのはコップに注がれた脂肪分たっぷりの牛乳である。どうやら純の頭はお玉に叩かれた影響で一時的にお馬鹿になってしまったようである。
弥恵の目が点になり、そして猛獣のように喚いた。
「ちっがああああううううううわああいっ!」
弥恵は眉間にかわいらしく皺を寄せ、牛乳の入ったコップを純の手からひったくると純の頭にどぼどぼとかけた。弥恵はコップを純の手に握らせると、なんともなかったように立ち上がり、冷蔵庫の中からタウリンが高濃度で圧縮された中学生にはまだちょい早い飲み物を取り出した。
弥恵は腰に手を当てぐびぐびと一気に飲み干した。「ぷっはー」
「うぷっ」となんだか酔っ払ったようになっているのは気のせいだろうか。ひとまず弥恵は完全回復を成し遂げたようである。
うっすらと頬っぺたに丸くピンク色を浮かべながら恍惚の表情の弥恵を尻目に、純はヨーロッパの小公女のようにせっせとタオルで牛乳を拭っていた。水分をふき取り終えると、魔が差したように純はタオルの匂いを嗅いだ。「うっ、くせえ」
純が洗面台で牛乳によってクリーミーに仕上がった頭を洗い、匂わないかなあと不安になりながらリビングに戻ると弥恵はチャベスをがしっと捕まえ、その困り果てた顔に向けて「大好きだよ、比呂巳」「愛しているよ、比呂巳」「比呂巳の前髪に触れてもいいかい?」と宝塚の男役を模したような低い声で告白の練習をしていた。
「なるほど弥恵は攻めか」と純は理解した。「なるほどさもありなん」
純は最初の内は傍らでそれを微笑ましく眺めていたが、次第に弥恵の言動はエスカレートしていき、電波に乗せてお届けできないNGワードも飛び出すようになってきた。タウリンの効果か、緊張の仕業か分からないが、弥恵の白目の部分は目蓋をそっと塞いでしまいたくなるほどに充血している。
「一体いつどこでそんな下品かつ卑猥な言葉を操れるようになってしまったんだ」と純は妹の不健全な成長に思わず苦悶の表情を浮かべるしかない。
「弥恵、そこでストップだ」と、純はチャベスと弥恵の顔の間に手の平を差し込んだ。
「チャベスを見ろ。すでに疲労困憊の体だ」
人間の言葉が分かるゆえに、告白の練習相手は少々チャベスには荷が重かったようである。解放されるやいなや、チャベスは自分の城に駆け込んでいってしまった。それ程に弥恵の発したNGワードが辛かったのだろう。「弥恵、お前のお相手は比呂巳だ?」
「……わざわざ諌言しなくてもいいわよ。気持ちが萎えないように私は自分を鼓舞していただけ」という弥恵の言葉は弱々しかった。「ちゃんと理解しているもの」
そういう弥恵の横顔には戸惑いがはっきりと浮かんでいた。けれど譲れないものへの想いをはっきりと自覚した強い想いを、信念を純は感じ取った。しかし純はそれを喜ぶ一方で、少し複雑な気持ちになった。「勝手に大人にならないでくれよ……」
「あ、いけない。大事なこと忘れてたッ!」と、弥恵はいきなり飛び上がるようにそう叫んだ。
「えっ?」
何かやり残したことはあったか? 料理も完璧、掃除も完璧、浴槽なんて弥恵と比呂巳のお風呂シーンを妄想しながら掃除したのでピッカピカである。おそらく今夜、初夜を迎えるであろう掛け布団は夏の日差しに照らされて、ダニの一匹もその生存を許していない。枕もベットに二つ、弥恵に内緒で枕元にはティッシュを置いておいた。準備は完璧のはずだ。比呂巳の気持ちも既に確かめている。
と、純は勘違いを植え付けたと知れずに、完璧に遂行された準備の落ち度を探していく。が、見つからない。純は弥恵に目を向ける。一体何が欠けているんだ。
「何、着ようかな?」と弥恵はポツリと言った。どうやらお色直しについて思案しているらしい。
何もしていなくても充分に可愛いので純はそこについては考えが及ばなかった。
「いつもの服じゃなんだか味気ないし、だからといって変に着飾ると……」と弥恵はぶつぶつと小さい顎に小さい指を当て考え始める。
「思い切っておしゃれした方がいいんじゃないか。後悔を残さないために」とおしゃれに疎い純は適当に口をはさむ。「後悔先に立たず、だ」
「とにかく、来て」と弥恵は純の手を引っ張って自分の部屋に何の躊躇いもなしに連れ込んだ。目的のためなら手段を選ばずといったことだろうか、純は日頃招かれざる客で客扱いされないので歓喜に顔をほころばした。
弥恵は開かずのクローゼット(純はそう呼んでいる)に手を掛けた。純は思わず歓喜の歌を口ずさむ。何度弥恵の目を盗んで、そのクローゼットを開けようかと思い、実行し、失敗したかは分からない。そのクローゼットには夢が詰まっているはずだ、と枕元にそっと置かれたクリスマスプレゼントを開けるときみたいに純の胸はドキドキと高鳴った。
バタッとクローゼットが開かれる。
まるで天国への扉が開いたようだと、純は五指を組み、両の瞳をぱっちりと見開いてその中身を注視した。もうそこしか視界に入らない。純は掠れた声で歓声を上げた。「はあー」
が、しかし……。
あれ? なんだか……あまり……華やかじゃない?
純はそのクローゼットからどんよりとした重たい空気を感じた。思わず両腕で目の前の視界を遮りたくなる。
そんな純の些細な疑問と理解不能な拒否反応を置き去りにして、弥恵はクローゼットの中から服を何着か選び、ベッドの上にどさどさっと放り投げる。
その放り投げた洋服もなんだか……華やかじゃない。
「どうしたの?」と弥恵はローテンションではてなマークを頭上に浮かべ、なにやら思案している純を不思議に思ってか、声を掛けた。弥恵の部屋にいる時はいつでも無駄にハイテンションな純であるから変に思うのも当然だろう。「変なの」
そうなのか? おそらくそうだろう。弥恵の言うとおり俺の目が「変なの」だろう。そう純は無理やり自分を納得させた。しかし……華やかじゃないなあ。
「これなんてどうかな?」
弥恵は服を自分に宛がい、純の方に見せる。
するとどうだろう。さっきまでまるでボロ雑巾のように地味であった洋服がまるでシンデレラの纏う魔法のドレスのように輝いて見えるのだ。
純は信じられないといったように目を見開き、それを凝視した。
これは目の錯覚だろうか、と純は目を擦り、もう一度目をやる。しかしその服の輝きは失われない。
「凄くかわいい」と純は思った通りに口にする。
「じゃあ、これはどう?」
と一瞬さもありなんとの満足げな表情を見せ、弥恵は宛がっていた服をぽいっとベッドの上に放った。弥恵の手から離れた瞬間、さっきまで輝いていた洋服は元のボロ雑巾に戻ってしまった。そして新たに宛がわれた、百均で売っているフェルト生地を粘土で無理やり粘着させたような前衛的な洋服は天女の纏う金色の羽衣のように豪華絢爛の趣向を凝らした雅なものへと変幻した。
「凄くかわいい」と純は思った通りに口にする。
「もう、そればっかり」と、弥恵はぷくっと頬を膨らませた。「ちゃんと見てよね」
これは一体どういうことだろうと純は頭を悩ませた。
そういえばと純は、ママさんが「弥恵は私の若いころ以上に可愛いくて巨乳だけど、抜群にファッションセンスがないのよね。こればっかりは直しようにないから大変だわ」と嘆いていたことを思い出した。しかし、それを言われたときは弥恵のファッションセンスのなさに気付かなかった。なぜならいつだって弥恵は凄くかわいくて洋服を選ばなかったのである。
けれどその洋服の本来の姿を見てしまった純には分かった。弥恵は己のかわいさでファッションセンスの悪さを打ち消し、虚構の美しさを純の瞳に見せていたのである。だから「凄くかわいい」弥恵の私服姿は純にとって「凄くかわいい」均一でしかないのである。
純はそのように理解した。そしてその矢先である。
「まあ、兄貴はセンスがないからな。仕方ないか」
弥恵は美術教師のような達観とした口調で、出来の悪いリコーダーとそろばんのデッサンを描いて持ってきた生徒を嗜めるように言うのだった。「兄貴はセンスゼロだもんね」
いいや、少なくともお前よりは……。
ロリ巨乳に見境はないが、かわいさの追求には他者の追随を許さない純である。おそらくママさんの指摘するようにこのファッションセンスを悔い改めることが出来れば弥恵のかわいさは二倍、三倍いいや五十倍と膨れ上がるのではなかろうか。しかしそのためには弥恵を諌めなければならない。その豊満な胸の奥に隠された繊細な心を、もしかしたらちくりと傷付けることになるかもしれない。けれど弥恵のためでもあるんだ、と純は葛藤を経て決意した。
弥恵、すまんが、その台詞をそっくりそのまま返させてもらうぞ。お前の服は……。
「センスがない」
「へ?」と弥恵は別の洋服を宛がいながら、不意打ちを食らったようなかわいらしい間抜け顔で振り向いた。
「もう一度言うぞ。お前にはファッションセンスがない。欠片もない。人類皆共通して普遍的に持つ美の感覚、そこに本来あるべきものがお前の中では圧倒的に欠如してしまっている。皆無。絶無。そこに罪と罰を加えてやってもいい。それほどお前のファ、」
パチン。弥恵は才能を持つ弟子を認めたがらない西洋美術画家のような剣幕で純の頬を叩いた。純は寝違えたようになった首を両手で直した。「痛いじゃないか」
「センスがないってどういうこと?」
「つまりダサいってことだ」
パチン。弥恵は外国で評価されて少し調子に乗っている現代美術家が本国での批判をあしらうように平然と純の頬を叩いた。純は寝違えたようになった首を両手で戻そうとするが、なんだか引っかかっていて上手く戻らない。「あ、あれ? ちょ、ちょっと弥恵ちゃん」
弥恵はしぶしぶといった風に純の首が傾いた方からビンタを食らわせた。すると元に戻った。くどいようだが根は優しい子なのである。
「私だって、」と首を擦っている純に背を向けて弥恵は言う。
「私だって、……センスがないのは薄々分かっていたわよっ!」
薄々かよっ、と思わず突っ込みを入れたくなったが純は必死に左手で右手を押さえ込んだ。
「だからって……」
「だからって?」
「だからって妹に向ってそこまで言う兄がいるかっ!」
弥恵の反論も至極もっともである。しかし一度そのファッションセンスを諌めると決めてしまった以上、純は引き下がることをしない。さらに弥恵の愚考を問い詰めにかかる。
「弥恵、現実を見ろ。リアルを見据えろ。不条理から目をそらすな。そしてこの服を、その真ん丸の瞳を凝らしてよーく見るんだ。そしてこの服の酷さを見極めるんだ」
純はそう言って手にとった服を弥恵の前にかざした。
そうでも言わないとママさんを嘆かせる頑固者の弥恵を気付かすことなんて出来やしない。
「見極めてやろうじゃないのっ!」と、弥恵は腕を組み、眉をしかめて自分の服を睨むように観察し始めた。その瞳には「大げさ過ぎる」と言いたげな反抗的な主張を含んでいた。
しかし、一秒、二秒と純の知らぬ間に部屋の住人となっていたユリックマ時計の秒針がコッチコッチと進むごとに、弥恵の目元は曇り、徐々に眼光の鋭さに錆が目立ってきた。
「……もういいよ。兄貴、その服を煮るなり、焼くなり、闇鍋に放り込むなりしてくれ」
弥恵も薄々ではなくはっきりと気付いたようである。「なあ? どうみても日曜の昼に起きだして新聞片手に競馬に勤しむ四十代後半のお父さんの衣装だろ」
「……タバコとカップ酒がよく似合いそうだな」と弥恵は自虐的にそう漏らした。
「よかったな。気付くことが出来て」と純は満足げに頷いている。
しかし弥恵の張り詰めていた気持ちは堤防が決壊したがごとくに一気にネガティブの方向へと傾いた。弥恵は頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。
「よくないよ。私はどうしたらいいんだよ。着る服無いよ。溜めておいた自信も一瞬で高野山の向こう側まで飛んで行っちまったよ」
そういう弥恵の声音には料理をしていたときと打って変わって覇気の欠片も感じられない。
弥恵はとうとう「う、う、う、う、……うえええええええええええええええん」と、幼稚園児が母親を求めるように泣いてしまった。しかし、ママさんは「弥恵を邪魔しちゃいけないわね」と気を遣って、朝から会社の女の子たちを連れてUSJに遊びに行っている。なぜだか明日の朝まで帰ってこない予定である。純はその辺り深く考えないようにしている。
純はまさか泣いてしまうなんてとそこであたふたするばかりである。
しかし、後悔してももう遅いのだ。もう弥恵が自身のファッションセンスに根拠なき自信を把持していたときにはもう戻れない。純は弥恵の中の赤く灯った警報ランプを気付かせてしまったのだから。
純は服、服と脳内で連呼して、はっと脳裏にひらめくものがあった。純は涙を流し続ける弥恵の肩に手を置いて力強く言う。
「安心しろ、弥恵。俺が何も考えていないとでも思ったか」
「うう、えっぐ。お察しの通り、うう、えっぐ。何も考えてないと、うう、えっぐ。思っておりますよ」
弥恵は涙ながらにもそう毒づいた。「ええ、思っておりますともさっ!」
まだ俺を罵る力が残っているじゃないかと純はなんだか歪んでいるなあと思いながらも安心した。
「お兄ちゃんを甘く見るな。こんな日が来ることを見込んで捨てずにきちんとタンスの肥やしにしておいたハイセンスな服がある。待ってろッ!」
純はそう言い放つと一目散に弥恵の部屋から飛び出し、階段をどどどどっと転げ落ち、和室へと向った。純はママさんの大雑把な性格を手がかりに大正の御時から伝わる桐ダンスを下から順に探していって下から四段目にそれを見つけた。ちなみに上から二段目でもある。「よし、見つけたッ!」
純は探索作業によって掘り起こされ、犠牲になった服をそのままに、和室から出て二階へと忍者走りで駆け上がる。そして弥恵の部屋に「とうっ」飛び込び、カッコ付けて以下のように言い放つ。「弥恵、待たせたなッ!」
「大分ね」と弥恵が頬杖ついて、溜息を付きながら言うとおり、結構な時間を純は探索に費やしていた。元来、手際が悪いのである。弥恵はすっかり泣き止んでいて、中学生女子御用達のファッション雑誌を見て少しでも自身のファッションセンスを改めようと努力していた。雑誌を捲るたびに落ち込んでいくのが分かる。「私って、凄くダサかったんだな……」
「で?」と弥恵は純が手にしている服を目にして、厳しい視線をギロリと純に浴びせた。「それがハイセンスな服って訳?」
「ああ」と純は眉をキリッとさせて弥恵の憤りに気付かずに自慢げに頷いた。「どうだ? ハイセンスだろ?」
そう言って純は「ほらほら」とその服を弥恵に宛がうようにして近づいていく。無警戒にも程がある。
弥恵は椅子からふらりと立ち上がり、純との間合いを一瞬で見極めた。弥恵の小さい姿態が沈んで純の懐へと潜り込む。その刹那、純の言うハイセンスな服を挟んで純の腹部に捻りの効いた拳がドスッと突き刺された。「ぐはっ……」
「……ど、う、し、て」と純はお腹を押さえて前のめりにうずくまった。
「どうしたも、こうしたもないッ!」と弥恵は服を指差し言った。「メイド服なんて着れるか!」
弥恵の言うとおり、純が所有していたハイセンスな服とはメイド服のことだった。
なぜ純がメイド服なんぞをタンスの肥やしにしているかというと、去年の文化祭にまで話は遡る。毎度のこと不健全な活動ばかりをしている『美しき生命』には、先生方からは「今年こそはボランティア団体らしく、その活動報告を展示すべし」とのお達しがあった。しかしそれにもかかわらず『美しき生命』先代の会長は「逆らうのってオルタナティブでカッコいいわよね」と軽いレジスタンス精神を発揮して、なんとも不健全極まりのないオカマバーを部室塔の辺境の地『美しき生命』の部室で開催したのである。「ニューハーフ・メイドクラブ~テラスドール・シスターズ~」と銘々されたオカマバーは、これが意外や意外に好評を得た。
前評判は学園のプリンセス・プリンセスこと桜吹雪屋愛染錦率いるテニス部が開催した、客と野球拳をしてお互いのお凸を触り合うというちょっといかがわしい「カチューシャ・メイド喫茶~お凸に触っちゃいけませんっ!~」の一人勝ちとのことだった。
しかし、当日蓋を開けてみればどこのクラスもクラブも似通ったメイド喫茶で健全な男子を満足させるばかりで、健全な女子の通う場所がなかったのである。そんな中でアマゾンの密林の中の泉のごとく女子たちの目に留まったのが『美しき生命』がゲリラ的に開催したオカマバーだったのである。ゲリラ的といっても当時在籍していた三年の男子の先輩が一人と現会長と純と天野は一ヶ月もの間オカマになる訓練を受けていた。オカマ言葉を毎日練習させられ、内股を強制させられ、コップを持つときは小指を立てるように支持され、一週間前からは会長がまとめ買いしてきたという女物の縞々のパンツとブラジャーを装着するように命令されて、文化祭当日には身も心もオカマになっていた。だから今でもたまにオカマ言葉が純の口から発せられるのである。
一番人気は現会長、源氏名は「せりほ」で、その淡々とした人生相談には長蛇の列が出来ていた。その人気ぶりは現会長に「俺、オカマになろうかな?」と思案させる程だったという。そんな中で不健全な女子こと女の子大好きな先代の会長と内海は学校中のメイド喫茶を豪遊し回り、天野はお触りに顔を真っ赤にし、純は見事にドジッ娘メイドを演じていた。ちなみに純の源氏名はそのまま「じゅん」であり、「じゅんちゃん」のご指名は滅多にかかることはなく純は人知れず落ち込んでいたという。「だって眉毛が濃いんだもの」との源氏名「おみつ」こと天野談である。
まあ、そんな黒歴史のような過去があり、純はメイド服を所有していたのである。そのメイド服は本場イギリスから取り寄せた高級品で、確かに弥恵の服よりはハイセンスではあり、この服を着た弥恵に「お帰りなさいませ。ご主人様」と言われたらたまらなくかわいいとの純の願望混じりの考えもあった。けれど恥ずかしがり屋の弥恵ちゃんがメイド服を着て、比呂巳に向って「お帰りなさいませ。お嬢様。ペコりんちょ」なんて出来るはずがない。
「少しでも期待した私が愚かだったわ」
弥恵はそういうとファッション雑誌を持って部屋を出て行こうとする。今から服を買いに行こうというのだろうか、もう時間があまりないけれど。そう思って純は声を掛けた。「どこ行くんだ?」
「ママの服があるじゃないの」と言って弥恵は純を部屋に取り残し、とんとんとんとかわいい音を立てて階下へ降りていった。純もまだ痛みの残る腹部を擦りながら弥恵の後を追った。
しかしそこからが大変だった。ママさんと弥恵は背丈もサイズも殆んど一緒だったのでそのあたりの問題はなかったのだが、問題は服のデザインにあった。純のあまり頼りにならない目からみてもおそらくそのデザインはとてもセンスのいいものなのだろう。
しかしいかんせん、
「こんな露出の多い服、着れないわよぉ」と弥恵が嘆くように布が少ないのである。特に胸元を中心に。思わずポロリも期待できそうなセクシードレスである。「何で普通の服がないのよぉ」
そんな弥恵と裏腹に、純は口を真一文字にして一心不乱に顎を人差し指で擦りながら、目の前に燦然と輝くセクシードレスを妄想の中の弥恵ちゃんに着替えさせていた。「い、いかん。鼻血が」
純は「とりあえず」と妄想だけではもったいないと目の前の事態を憂慮し、勇気を出して「これから着てみようか?」と一番布の少ない服を手に取り進言した。弥恵は目だけを純の方向に向けると、うんざりとしたように黙り込んだ。「……すまん。つまらない冗談だったな」
しかし黙り込んでいても何も解決はしないだろう。約束の時間までもうあまり猶予はない。
「もう時間がない。弥恵は比呂巳とあんなことやこんなことしたいんだろッ! ならこの程度の露出我慢できなくてどうする!」
「兄貴……」と弥恵は少しの間俯いて悩んでいたが。
「よし、私、腹を括った。私、何でも着るっ!」と純に向って勇ましく宣言した。
弥恵は布の多めの服を選ぶと、といっても露出は多めである、弥恵はエプロンを解いて、服を脱ぎ始めた。しかしシャツをたくし上げたところでピタッと服を脱ぐ手が止まり、正座をして準備をしている純を睨みつける。
「で? いつまでそこにいるのよ」
「ごめんなさい」
しかしそこからがまたさらに大変だった。弥恵は自らのファッションセンスのなさを自覚したが、だからといってファッションセンスが一朝一夕に芽生えるはずもなく、服選びは難航を極めた。組み合わせの問題なのか、もはや熊野の神々が意地悪をしているとしか思えないほど、弥恵が襖を開いて純に見せるその姿には、常になんらかの違和感が付きまとっていたのである。口下手な純はそれを上手くその違和感を説明出来ないでいる。これではファッションショーをする意味がない。
「どれが一番よかった?」とおずおずしながら弥恵が聞くも純には判断できなかった。弥恵はもう既に自分の目を疑って久しい。
仕方がないので弥恵と純はファッション雑誌片手に協力してコーディネートを考えようということになった。センスのなさに定評のある兄妹は何十回もの試行錯誤を重ね、やっと何とか人前に出せる程度のものを完成させた。少々露出が多いのが気に掛かるが弥恵に依存はなかった。もう何十回も着替えさせられた弥恵の性根は尽き果ててしまっていたのである。逆に純はファッションプロデューサー気分を味わいながらなんだかんだで結局は楽しんでいた。
ふと純が時計を見ると約束の時間まであと十分と迫っている。
とにかくやることは全部やった。後は比呂巳の登場を待つばかりである。
弥恵はリビングに戻り、席に着くとお行儀悪く、頬杖ついて、瞳の焦点は定まらず、お箸をくるくると回し始めてアンニュイな表情を見せ始めた。お箸はその役を嫌ってか、なかなか弥恵の言うことをきいてくれないようで、もう何度目か、弥恵は床のフローリングに落ちたお箸を拾い上げている。
「少し落ち着いたらどうだ?」と、いつになく全身を強張らせている弥恵を見かねて声を掛ける。弥恵は兄と気心の知れた比呂巳に向かっては縦横無尽に本能の丈をぶつけてくるが、一旦外に出てしまえば、誰しもが悪戯をけしかけたくなる程の恥ずかしがり屋ロリ娘なのである。その内弁慶の性格が純の保護欲、支配欲その他諸々の煩悩に火をつけ、兄妹喧嘩に発展するというわけだ。この瞬間も純は弥恵に悪戯したくてうずうずしている。
しかし、ここは我慢である。
ピタッと弥恵がお箸を回す手を止めた。
「ねぇ、兄貴。もうすぐだから、一応、おさらいしとこうよ」
「ああ、そうだな」と言いながらも純は比呂巳の気持ちはもう確かめているからなあ、となんだかニタニタと余裕の表情である。それを見かねて弥恵は渾身の睨みを利かせ、どんっとテーブルを叩いた。「……」
弥恵がここでおさらいと言っているのは、比呂巳を恋に陥れるために兄妹が考案したこれからけしかける企みについてである。企みといっては企みを日夜こしらえている秘密結社に失礼であろうからお遊びくらいに留めておこう。純と弥恵はどんなお遊びを比呂巳にけしかけるのか。それは、
「大丈夫、うまくやるよ。弥恵と比呂巳が部屋で二人っきりになったところを見計らって俺がブレーカーを落とす。弥恵はどさくさに紛れて比呂巳に抱きついて、そのまま愛の告白だ」というちんけな物だった。少々回りくどく、卑怯な感じがあることは否めない。
この案、つまりブレーカーを落としていわゆる吊り橋効果を狙うというのは純の提案である。比呂巳は「面と向って告白なんて出来ないっ」と身を悶えて恥ずかしがるので、純は「なら暗くしたらいい」と進言した。『愛し愛され恋をする』を読み、百合の何たるかを知った純は出来ることなら、物語の中のカノとミヤのようにカーテンから漏れる光の中、お布団で添い寝しながら告白してもらいたかったが、まだ純真で初心な妹ゆえ、仕方ない。
「愛とか……いうなよ。は、恥ずかしいから……」
「お前の愛は本物だろ」
「だから、いうなって。は、恥ずかしいから……」
「安心しろ。うまくやるさ」と、純は親指を立て、ペロッと舌を出した。
「……その自信の根拠はどこにあるのさ?」
「俺の弥恵に対する愛の気持ちじゃいけないかい?」
そうやって中身のまるでない台詞を連発するのだから、弥恵の兄に対する信仰心はポッキーのようにいとも容易く折れてしまう。袋を開ける前から既にもう粉々である。
「うう、もう信用できない。絶対失敗する。失敗してもう比呂巳と一緒にお風呂に入れなくなるぅ」
弥恵は兄の頼りなさを改めて思い返して頭を抱えた。「ああ、ぜ、ぜったいぃ、ら、らめぇ!」
「……なんでそんなに悲観的になる?」
そういう純はあからさまに不服そうである。そんなに頼りにならんのか、俺は。
「だって今までの兄貴を見てたらそうなるよッ!」
ならば純の手助けなどかりなければいいのだが、恥ずかしがり屋の弥恵ちゃんである。放課後に体育館裏、はたまた早朝の屋上、もしくは昼休みの図書準備室に比呂巳を呼び出し、告白するなんて芸当が到底ひとりで出来ようはずがない。「信用できないっ!」
弥恵にズバッと「お前なんて信用してねぇ」と言われ、純は少しばかり凹んでいたが、兄妹共々に凹んでいては上手くいくことも上手くいかないだろう。弥恵には黙っているが、純は既に比呂巳の気持ちを確かめ、相思相愛であるという妹たちの気持ちを分かっているのだ。強気にならないでどうする。あとは兄である俺が二人を後押しすればいい。簡単なことだ、と純はテーブルの下で拳を握り締めた。
「今回ばかりは信用してくれ。弥恵の一世一代の愛の告白を助けるんだ。へまなんてしない」
「兄貴……」
兄貴の雰囲気がいつもと違い、それっぽさが滲み出ているのを弥恵も感じたようである。弥恵はおずおずと「……今日は頼りにしてあげる」と口にした。
「おう。まかせとけ。もう覚悟は出来てるんだろ?」
弥恵は小さく頷いた。けれど不安であるのは変らないようだ。
「大丈夫だ。吊り橋効果は伊達じゃない」と純は励ます。
「そ、そうだな。なんてたって吊り橋効果だもんな」と、二人は微笑み合った。
そんな兄妹の会話を後ろの方に聞きながら、チャベスは「吊り橋効果で出来たカップルって長続きしないんじゃなかったけ?」とどこで仕入れたか知れない雑学を人知れず思い出していた。
「吊り橋効果で比呂巳は弥恵のものだ。そうだろ?」
「うん」と弥恵は催眠術を掛けられた風に勢いよく頷いた。どうやら精霊の力と極度の緊張によって弥恵は催眠に掛かりやすい状態になってしまったようである。
「比呂巳は私もの」と弥恵は繰返す。そして、
「弥恵はあぁたぁしのものなんだからねッ!」
弥恵はいきなりドカッと席を立ち、天井に向かって拳を振り上げた。突然ツンデレのような、ツンデレでないような台詞を吐いた弥恵に驚き純は椅子からどでっと落ちた。しかし落ちながらも津波のように脈打って揺れた露出の多い胸元を純は決して見逃しはしなかった。
そしてトランス状態の弥恵は何の脈絡もなく、
「キ、キスの練習しなきゃ」
とあわあわと慌てふためき始めた。「ど、どうしよ」と両手で口元を押さえながら、リップクリームを探すように辺りを見回し始めた。
そこで弥恵のつぶらな瞳にロックオンされたのは純の潤う予定のない乾ききった唇であった。
「ろっく、おん」と弥恵は片目を閉じて、手で窓を作り、標的に狙いを絞る。
「え?」と弥恵が自分の唇を狙いに入れたことなど気付かずになにやら言行のおかしくなってしまった妹に戸惑うばかりである。
弥恵は純を再び椅子に座らせると「私と比呂巳の身長は一緒くらいだから」と言って目線を純に合わせた。
「な、何を?」と声変わり前のような上ずった高い声で純は言う。「キスするのか? 俺と弥恵が?」
「すぐに終わるわ」と弥恵はなんとでもなさそうに目を瞑った。弥恵の潤った唇がゆっくりと近づいてくる。
駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、唇と唇、まうすとうまうすは、らめぇ!
純はふつふつと沸き上る煩悩を必死に抑え込む。
「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待てぇぇえぃ!」と純は唇の触れ合う寸前で弥恵の肩をつかんで顔から離す。
「何?」と弥恵は甘ったるい声を出す。
純は呼吸荒く「キスなら母さんと経験済みだろ? 今更練習しなくたって」と何とか言うことが出来た。
しかしトランス状態の弥恵は「でも」と艶かしく吐息を漏らした。
「比呂巳に上手ねって言われたいの。少しでも比呂巳をリードしていたいから」と弥恵は今夜比呂巳を攻める気満々であるらしい。そしてうるうるとした上目遣いで付け加える。
「どうしても、駄目……なの?」
「いいえ」
即答だった。純はぎゅっと目蓋を瞑るといろんな文化圏を統治する神様、今までお世話になった諸先生、諸先輩方、ご来賓の皆様、会ったことのないご先祖様、そして父ちゃん、母ちゃんに全身全霊で平謝りをした。
だって弥恵の方から迫ってくるんだもの。拒めるわけないじゃないのよ!
心の中で白いハンカチを噛んでオカマ口調の言い訳をすると、純は「ではさっそく」といった風ににゅーっとタコのように唇を尖らせた。
しかし、まさにそこで、
ピンポーン
と、チャイムが鳴った。
比呂巳様がご到着のようである。
はっとそこで弥恵は催眠から目覚めたようになり、硬直したまま唇を尖らせる純を椅子ごと押し倒して玄関口へと向った。
「まあ、こうなることは分かっていたさ」
純は半泣きになりながらも、床にぶつけた後頭部を擦りながらお出迎えに向う。
「おじゃっましまーす」と比呂巳はいつものように勝手にドアを開けて入ってきていた。
「いらっしゃい。比呂巳」と弥恵が息せき切って玄関に出迎えると比呂巳は靴を脱いでいるところだった。比呂巳はなぜだかきつく紐を結び過ぎてきたようで「あれっ、ぬ、脱げな」と手間取っている。その仕草が小動物のようにいちいち可愛いので思わず弥恵は決死のダイブで襲い掛かりそうになる。この辺りのいかがわしい遺伝子を純と弥恵の兄妹はともに仲良く保有しているらしい。弥恵は妄想を抑えながら、必死に比呂巳との日常を思い出し、平静を装う。弥恵は少しでも比呂巳をリードしていたいという気持ちがあって、比呂巳の前では努めて大人を演じていた。それが逆に比呂巳に子供っぽいと思わせているなんてことには、弥恵は当然気付いていない。
ともかくも、弥恵が蓄えてきた緊張感は比呂巳に会った瞬間に綺麗さっぱり消え失せてしまっていた。親友とはかくあるべきものだろう。しかし今度は逆に襲いたくなるのを必死に堪えるのに弥恵は精一杯だった。感情の変遷に忙しい少女である。
比呂巳はいつもよりも少しおめかししているようで、少しといっても弥恵のファッションセンスを遥かに凌駕してことは言うまでもないが、弥恵は非日常的な比呂巳の艶やかな姿に胸をキュンキュンと高鳴らせていた。比呂巳に関わることは些細なことでも見逃さない。それがいわゆる、愛である。
ああ、、私、駄目かも、と仏頂面の仮面の下でとろけきった本当の顔は初めて女の子の部屋にお邪魔した男子中学生のようである。
弥恵は必死でお触りは駄目よ、と自分に言い聞かせていた。といっても普段から弥恵は親友であり、同性であることをいいことに比呂巳のあらゆる部分をペタペタとお触りっぱなしなのである。一応弥恵の保身のために断っておくと自分からキスはまだしかけたことはないし、比呂巳の大事な部分にも手を出したことは……なかったはずである。
兎にも角にも、今回ばかりは淑女として立派にならねばならぬ。目的は比呂巳と相思相愛になることである。まあ、手段は吊り橋効果という卑怯に満ちたものであるが……。元来が目的のためなら手段をえらばぬ少女であるのでその辺りは見逃しておこう。純には内緒にしているが、ママさんに調合してもらった先祖代々伝わる媚薬も料理に混ぜておいた。「それじゃあ、純も媚薬の効果に掛かっちゃうんじゃないか?」との意見が飛び交いそうだが、その辺り抜かりはなかった。なんと女の子にしか効かない媚薬なのである。
気付けば、弥恵の手は見事勝手にわなわなと比呂巳が無防備にも見せ付けられたうなじに伸びかかっていた。もう少しで届いてしまうというところで、その手がぎゅっと比呂巳の手によって握られた。弥恵の妄想は一気に飛躍する。弥恵は比呂巳王子に手の甲にキスされたような妄想を即座に作り出して「攻められるのも悪くないわね」と思わず声が出てしまって慌てて口を塞いだ。
比呂巳はただ単に硬く結びすぎた靴紐が解けたので、比呂巳の手をとって立ち上がっただけであるが。
比呂巳は「ん?」と不思議そうにやっとこさ視線を上げて、弥恵の全身をそこで初めて目に入れた。「あれま」と比呂巳は少し驚いたような声を出して、じろじろと弥恵の姿態に目をやる。「や、やっぱりこの恰好、おかしい?」と弥恵は冷や汗を手に掻きながら、比呂巳に聞いた。すると。
「かわいい」
「へ?」
「弥恵はいつもの地味な恰好よりそういう子供っぽいふりふりした服が似合うよ」と邪気のない天使のような笑顔を「えへ」と弥恵にプレゼントした。「うん、かわいい」
比呂巳は弥恵のファッションセンスのなさにどうやら完璧に気付いていたようであるが、しかし純が半ば楽しみながら、弥恵は披露困憊になりながら試行錯誤の末に辿り着いたファッションは「かわいい」の一言を比呂巳から引き出したのだ。
「ほ、本当!」と弥恵は比呂巳に迫る。子供っぽいというところに少し引っかかるが愛しの比呂巳から「かわいい」と言われてしまった。「かわいい、って本当!」
「嘘ついてどうすんだよ。何かくれんの?」という比呂巳は妙に大人っぽい。
「えへへ」と弥恵は子供のように頭を掻いている。大人っぽさの仮面は容易く剥がれ落ちてしまった。弥恵はそんなことはお構いなしに「かわいいって、かわいいって」と呟きながら不気味に喜んでいる。「かわいいって」
「おーい、弥恵ちゃん。どこに行っちゃったのかな?」と比呂巳は弥恵の顔の前に手の平をかざす。どうやら弥恵の思考が吹っ飛ぶのには慣れているようである。「どこにも~行った~り~しない~わ~よ。えっへっへっ」
弥恵は喜びのあまりに「いやあ、いらっしゃい」と後頭部を擦りながら遅れてやってきた純に生まれたて新鮮さが売りの天真爛漫な微笑みを見せ付けた。そしてその笑顔に隙を見せた瞬間、弥恵の小さい体はふわりと回転しながら浮き上がり、禁じ手の肘鉄が純の喉元に襲い掛かった。
「がっ……」と純は倒れ、咳き込む。
「……な、ん、で?」
確かに弥恵と比呂巳のやり取りを知らない純には不条理極まりない仕打ちではある。「なんでもいいでしょう~なんでも~」
脳内で百合専門の花屋を営為開業中の弥恵をそのままにして「どうもお招きにあずかりまして」と比呂巳は姿勢正しくぺこりと、純の方に向って頭を下げた。なんだか少し声が上ずっているのが分かる。純は比呂巳も緊張しているのであろうと察して期待交じりの視線を送ったが、比呂巳はちょっとびくっとしたように純から目を逸らした。
「ほら、早く。ご飯出来てるし」と弥恵は比呂巳の右手を掴み、純を先頭に三人はリビングへと向う。「お邪魔しまーす」と改めて比呂巳は言った。
そして「お邪魔しますわ」ともう一声。
「ん?」
今「お邪魔しまーす」が二回聞こえなかったか? いいや正しくは「お邪魔しまーす」と「お邪魔しますわ」だ。
そこで純は振り返る。
比呂巳の後ろに純粋結晶に混じりこんだ不純物のように忌々しい、招かざる客が能天気で平和な気品を携えてそこにいた。
「純殿。ご機嫌麗しゅう」と純は純を純殿と呼ぶ人間を幼稚園梅組みでお世話になった戦国武将オタクのちょっと変った先生以外にただ一人しか存じ上げていなかった。「元気にしていて? あ、もちろん私がいなくて純殿が夜な夜な私を欲しがっていたのは知っていてよ」
そこにいたのはゴスロリを身に纏った少女だった。肌の色が磨き抜かれた大理石のように白く透き通っていて、北欧の女性のように髪の色は薄い金髪をしている。その日本人離れしたはっきりとした瞳からはエメラルドのように輝く碧色の光が鋭く放射されている。そして胸元は見事にぺったんこで、つまり弥恵好みの貧乳に仕上がっていた。
「か、かわいい」と弥恵は目一杯に瞳を開いてまるで地上に舞い降りたエンジェルを見るように少女に見とれてしまっている。先ほどまで比呂巳の一言に悶えていたのが嘘のようである。どうやら素敵な女の子であれば見境はないようである。少女がなぜいきなり現れたのか、なんて疑問は弥恵にとってどうでもいい些細なことだった。「……妹候補に入れましょう」
一方で純の顔はなぜだか見る見るうちに青ざめていく。
どうやら予想外の人物が突然ご登場したので、純はしばし言葉を忘れてしまったようである。口をあんぐり、そしてパクパクしている。
「あまりにも私が美しいので忘れてしまったのかしら?」
「えっ?」
こいつは何を言っているのか、とっさに分からなかった。純が声を上ずらせながら聞き返すと、彼女は「言葉よ。あはっ」ときゃっきゃっと笑った。「それにしましても純殿は罪作りなお方ですわ。あれから一度も私に会いに来てくれないのですから」
そう少女が口にしたところで純は腕を捕まえて「ちょっとこい」とパパさんの書斎に連れ込み、そのままの勢いでソファに放り投げて、マウントポジションでフリルとレースが必要以上に付いたゴスロリのファッションに身を包む少女をがしっと押さえつけた。そうでもしないとあれよ、あれよのうちに逃げられてしまいそうだったからである。
「あーれー、乱暴はお良しになってぇ」と少女は京の島原で訓練されたような艶かしい悲鳴を上げた。けれど、純は珍しく一ミリも反応を示さない。
それどころか「変な声出すんじゃねぇって」とまるで強姦魔の台詞が純の口から飛び出した。この光景をドアの隙間から見てしまったら、ひとえにそうとしか思えない。
「そんなに私の体が?」とそのゴスロリ少女はポッと顔を赤らめた。確かにその人物の容姿は純好みのロリに仕上がっている。しかし、一向に純の気持ちは揺るがない。磐石である。頑なすぎる。なぜだろうか?
いかんせん胸が見事なまでにまな板であることが要因であろうか……。
「そうじゃなくて、」と純は大げさに首から始まり全身を振り、否定の意を表した。「ああ、そうじゃないっ!」
なんだか恐怖を振り払うように大声で怒鳴りつける。そしてぐっと顔を近づけ、「なぜお前がここにいる?」と純は訊いた。「答えろっ!」
少女は純に冷え切った鋭い視線を返した。「乱暴なのね」
互いの視線がピシッと交錯する。純の目尻は吊り上り、今にも少女に乱暴を仕掛けんばかりの勢いである。一方少女は冷めた表情を崩さない。
そんなこう着状態が何秒か続き……。
チュッ。
一瞬の隙をつかれ、純の鼻先に少女の唇が触れられた。「ひぃっ」と、純はとっさに身を起す。なんとか唇だけは守り通したと純は九死に一生を得た気になった。
一方慌てる純の挙動を見ながら少女はクスクスとかわいらしい笑窪を浮かべ、人を小ばかにするように笑っていた。自分のことがめちゃくちゃかわいいと理解している笑い方だ、と純は腹を立てた。「てめぇ、一体目的は何だ?」
「知りたいの?」
そう言ってゴスロリ少女はまた顔を近づけてきた。マウントポジションで組み伏せているのにもかかわらず、まるで純の劣勢である。純も負けじと睨み返す。
「……知りたくない。教えなくていい。これから妹はこれからの人生を左右する大事をやる。つまり、いわゆる正念場。そのために今日は準備を徹底的にやった。抜かりは無い。抜かりは無いがお前が俺の前に現れた。これはどういうことか分かるか? 考えなくても分かるだろ。邪魔ってことだ。お前は大事を妨げる障害物以外の何者でもない。お願いします、帰ってください、……っていうかもう帰れっ!」と純は玄関の方を指差し、吠えるように捲くし立てた。
そこまで言われゴスロリ少女は精神的に参っているんじゃないかと思いきや、
「もう、連れないのですから。久方ぶりの再会ですのにそれはないでしょう?」とけろりとしている。
確かに純がこのゴスロリ少女に会うのは久しぶりであり、「連れないのですから」といわれるような関係であったりなかったりすることは純の記憶を辿ると事実だった。目の前のゴスロリ少女は他称「高野山の姫君」こと高野山で密教修行に励む、現代に在って仏様に献身的な十一歳児、結城雫である。ちなみに本名ではないらしい。
純が雫と会ったのは忘れもしない去年の冬の日、『美しき生命』のメンバーで白浜温泉に旅行に出掛けたときのことである。あまり思い出したくはないけれど、純はそこで遭遇した雫の美しさにころっと騙されて、虜になり、危うくこれから先の長い人生を棒に振りかねない失態を犯していた。純の脳裏にははっきりと湯煙の中の雫の裸体が焼きついている。思えば純はその雫のあられもない姿を見てしまい、そのときのトラウマによって巨乳でロリでないと駄目になってしまったのである。「まな板など信じられん」と純はこのとき悟ったのである。雫には旅行中、トラウマを植え付けられる以外にもいろいろと世話になっているのだが、まあ機会があればまた述べよう。とりあえず、雫が危険ということ、純と雫がやんごとない関係であることだけ分かればいい。
純は封印していた黒歴史が頭の中で渦巻いてくるのに必死に堪えていたが、次第に心の内で制御することが不可能になり、ぼわっと鼻血が決壊した。雫の白く透き通った頬にぽたっと一筋、二筋血が垂れた。
「す、すまん」
「あら? まさか興奮していらっしゃるの?」と、雫は十一歳児とは思えない甘ったるい声を出し、純の興奮に拍車をかけた。「もう、しょうがないんですから」
「ち、ちがっ」
鼻血をぽたぽたと垂らして言っても説得力がついてくるはずがない。「これは我慢できなくてだなあ」
「我慢なんて、しなくていいんですのよ」
雫は嬉しそうに身をくねらせながら自分でゴスロリの服を緩め始めた。そして感慨深げに「温泉での純殿は激しゅうございましたわ」と雫がふと漏らす。
そこで純の容量は破綻を来たしてしまった様である。「もう、いやあ」と、純が今にもおいおいと泣き出さん様子。それを見て、「もう……冗談ですのに。冗談の分からない男性はもてませんわよ」本当に十一歳児かと思えるようなお姉さん口調で純を宥めすかす。
冗談であったのかは雫が残念そうに吐息を漏らした仕草からでは分からない。しかし一応危機からは逃れることが出来たようであると純はほっと胸を撫で下ろす。
が、その隙に雫は純の体をぐっと引き寄せるとその唇を耳元に近づけた。「な、何すんだ」と純が暴れだそうとするところ、「いいから黙ってお聞きになって」と雫は囁くように言う。
「……悪い気を追って参りましたら、純殿の家に辿り着いたのです」
それを聞いて純はジタバタするのを止めた。「悪い気って?」
「詳しくは分かりません。だからここまでやってきたのです。そしてその悪い気は、純殿から、とても、強く……感じます」と雫は純の首筋をまるで犬のようにクンクンと嗅いだ。雫の吐息が触れ「ひゃうっ」とかすれた声が純の口から勝手に漏れてしまう。
「ちょっと、変な声出さないで下さいます?」と雫は更にクンクンと純の首筋から胸元にかけて匂いを嗅ぐ。純は「キャバクラ帰りに鬼嫁に尋問されるのってこんな感じなのかな?」と見当はずれなことを思い、そしてまんざらでもないように「汗臭くないかな?」といらん心配も始めた。
……って、そんなことよりも悪い気って、……まさか?
「やっぱり致しますわっ! 悪き気の匂いがぷんぷん純殿の首筋からいたしますわっ!」
雫は確信したように声を荒げると、もう用済みとでも言わんばかりに純を軽く押しのけ、起き上がった。最近メタボ気味の男子高校生を簡単に放り投げるとは、さすが毎日高野山で修行に励んでいるだけのことはある。人差し指をくわえながら、純は捨てられた子猫のような眼差しを雫に向けた。やはりまんざらでもなかったようである。
「日本的……じゃないですわね。限りなく日本的じゃありません。少しキリスト教的かしら? いいえ、違います。イスラム的でもありません。ヒンドゥー的でもありません。しいて言えば」
雫は顎に手を当て思案していたが、繰り出された結論は極めて明快だった。
「南米的」
ギクッと純はうろたえた。その反応を目聡い雫は見逃さなかったようだ。
「えっ! まさか純殿、何か心当たりが?」と床にへたりと座り込んでいる純に向って雫は四つん這いになって近づいてくる。
「い、いや……別に」と、純は心を読まれないように顔を逸らした。
「そうですか。まあ無理におっしゃっていただかなくても。しかし……少しだけでも、お願い致しますわ?」と雫は手を合わせて甘声で頼み込んだ。「少しだけでも」
「少しでもその、駄目なものは駄目なんだ」とぷいっと純はあともう一押しで全てしゃべってしまいそうではある。「駄目だ、駄目だ」
「やっぱりあるんですわね」
「あっ、しまった」と今更かまに掛けられたことに気付いたようである。
「ちょろいもんですわね」と雫はスクスク笑う。「しかし無理に話していただかなくても結構ですわ。見たところあまり……あまり危害のあるようなものじゃないみたいですし。密教の力もおそらく必要ありませんわ。それにわんこさんもそれを望んでいないようですし。ね?」
そう言って雫は思わず背筋がぞっと凍りつくような視線をドアの方へと送った。廊下の方からばたばたと走り去るチャベスの独特の足音がした。おそらく悪い気こと精霊の力を宿したチャベスはドアの外で様子を窺っていたようである。「おのれ白状もの。っていうか助けに来い」と純はチャベスが逃げていった方向へ向って口をパクパクとさせた。
「ただ。一応、高野山の上層部の方に報告しなければならないの。それで、その、私がこのことを黙っておく代りにお取引といきませんか?」
そういう雫はなんだか恥ずかしそうにもじもじとしている。
これは、まさか……。
純は貞操の危機を感じながら、自分の股を両手で塞いだ。高野山の修行僧たちは一人残らず雫の餌食となったと聞いていたからだ。しかし、そこまで雫は見境がなくはなかったようである。
「お友達」
「へ?」
雫の口から出てきたのは予想もしていなかった「お友達」という単語だった。
「お友達が欲しいんです、私。女の子のお友達が」と雫は自らの夢を告白するように言った。雫は生まれてからずっと高野山で修行の身だというから、女の子の友達を作ることが出来なかったのだろう。そんな雫に少し同情してしまう。
「いいよ。紹介してやる」
「ほ、本当ですか?」
「ああ」
雫は純に抱きついた。その笑顔は純真な十一歳児である。だから純は肝心なことを忘れかけ、危うく頭を撫で撫でしそうになる。こいつの正体は……。
「純殿、ラヴですわ、ラヴですわ」
「そう頻繁に甘声を出すな。甘声を出して許されるのはロリ美少女と相場が決まっている」
「あら、私だってロリ美少女に違いはありませんわ」
「お前は立派な男の子だろうがっ!」
そういって純は雫の大事な息子さんをお持ち上げになった。
「はうっ」
結城雫はとてもかわいらしい男の娘なのであった。
純は雫を連れてリビングに戻ると即座に弥恵に尋問された。「このかわいい子は誰なの?」
純は慌てて虚構が多分に含まれた事情を話すと「というわけで」と弥恵と比呂巳の両名に雫を紹介した。
「結城雫、高野山で働いていおります。十一歳ですわ」と純と話すときの高飛車な声音はどこへやら雫はおずおずと二人に向って頭を下げた。「よろしくお願いいたしますわ」
「うん、よろしくね。私、広瀬比呂巳。でこっちが純兄貴の妹の弥恵」と比呂巳は雫の手をとって、弥恵に目配せをする。
「かわいい、……じゃなくて。よろしくね」と半ば昇天している弥恵は比呂巳が握っている方の反対の手をとってぎゅっと握り、お姉さんっぽく笑いかけた。「手も小さいわあ」
弥恵の手も小さいのだが、雫のそれはもっと小さかった。一歳しか年が変らないのに弥恵と比呂巳よりも十センチ以上も頭の高さが違う。やはり男だからだろうかと納得する。男子の成長期は女子よりも遅い。
最初は二人ともゴスロリの闖入者に驚いてはいたが、年齢もそう違わないのですぐにきゃっきゃうふふと打ち解けることが出来たようである。雫も楽しそうにしているのでなによりである。
純は「高野山からのお払いに来てもらった」。でも「日にちを間違えたらしい」と二人には説明した。ひと思いで嘘とばれてしまうような説明であったが、弥恵は目の前に棚から転げ落ちてきた牡丹餅のように雫を堪能しようとしているし、比呂巳も持ち前の放胆さでそんなことはどうでもいいようであり、ばれる要素は一ミリもなかった。
「お腹減った」と比呂巳は飯に飢えている。
純はなんだか面倒臭くなりそうなので男だということは二人には黙っておいた。雫本人も女の子で通したいということなので、まあ黙っていれば男だと分かることはないだろう。近くからみてもその肌理の細かい白い肌に男の匂いを見出すことは限りなく不可能であるし、純も露天風呂でその雌雄を決する大事なものを二度見、いや三度見しなければ男だと信じられなかったほど、雫はロリで美しかったのだ。だからといって純は今巷を賑わせている男の娘に心を奪われるほど形而上の思考形態を把持してはいなかった。純は性的に雫を拒んだのである。雫からすればひどい話では……ある。
それはさておき、開始直後から出鼻を挫かれる事になってしまったパジャマパーティーではあるが、
「じゃあ、カンパーイ!」と比呂巳の雄叫びのような音頭で幕は開かれた。テーブルには純の隣に雫が座り、雫の向かいにニヤニヤが止まらない弥恵、その隣に比呂巳が座る。
弥恵は純の心配を盛大に裏切り、雫にばっかり構い始めた。弥恵はいちいち料理を雫の小皿にとってやると「はい、あーん」と雫のお口に料理をせっせと運んでいる。
「この料理作ったのは弥恵様ですか?」
「うん、どう結城さんの口に合うかしら?」
「はい。とってもおいしゅうございますわ。それと私のことはシズクとお呼びになってください」
「じゃ、じゃあ。雫、私のことは、お、お姉さまって呼んでいいですことよ」
「お姉さま?」
「い、いやならいいですことよ」
「そんなことありません。私目が弥恵様をお姉さまのようにお慕いしてもよろしいのですか?」
「も、もちろん」と高飛車を気取った弥恵はどうやら雫を妹に迎えようという算段であるらしい。小さい声で「願ったり、叶ったりよ」と純の耳に聞えた。
「はあ、こんなに嬉しいことはございませんわ。弥恵お姉さま」
雫も演技なのか、本心なのかは分からないがまんざらでもなさそうに言うので弥恵はすっかりその気である。純は雫にパジャマパーティーの目的を話し、それとなく協力を求めていたのだが二人のやり取りを見ているとどんどん不安にならざるを得ない。
一体弥恵は何を考えているのだろうか?
二頭を追うもの一頭を得ずだぞ、弥恵。
ふと純は比呂巳の視線を感じた。純が見やると一瞬目が合ったが、はっとなって料理を慌てて口に運んでいる。瞳が少し潤んでいるように見えた。そして心なしか頬が少し赤く染まっていたような気がしないでもない。そしてなんだか時間が経つごとに比呂巳が静かになっているような気がしないでもない。おそらく比呂巳の気持ちはすでに固まっているのにもかかわらず、なかなか弥恵がアプローチを仕掛けてこない、あまつさえ弥恵が雫ばっかりに構ってばっかりいるもんだから嫉妬しているのだろう。そう純は考えた。
純は比呂巳を不敏に思い、弥恵が「トイレに」といって席を立つのを待って、問い詰めに動いた。
「一体どういうつもりなんだ?」とトイレから出てきた弥恵に純は言った。
「なに?」
言っている意味が分からないという風に取り繕って弥恵は洗面台で手を洗う。
「雫にばっかり構っているばかりで、比呂巳が、」
「分かっているわ。……兄貴は黙って見ていなさい」
そう言う弥恵の鏡越しに映った瞳は、まるで獲物に襲い掛かる直前の女王様の目のようだった。
純は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
弥恵は手をタオルで拭くと純に向き直り、手の平を天井に向けて諭すように告げた。
「今は比呂巳の嫉妬の炎を燃やしているとき。せっかく雫っていうかわいい女の子が襲ってくださいと言わんばかりにやってきたというのに利用しない手はないわ。比呂巳の目の前で他の女の子と仲良くしていれば、比呂巳は「弥恵ったら私以外の女の子と仲良くしちゃって、もう……、あれこの胸を締め付けるような切ない気持ちは何? まさか……今まで気が付かなかったけど弥恵のこと……。弥恵、私だけを見て」ってなるに違いないわ。そして「ああん、駄目よ。雫が見ているわ」「お姉さま、私も」的な展開が待っているのに違いないわっ!」
途中からうねうねと身を悶え始め、おぞましい欲望に身を委ねる妹におののきながらも、純は跪いて、そっとタオルを差し出した。
弥恵の顔の鼻から下を酸素濃度の高い新鮮な血液が赤く染めていたからだ。
「ああ、すまんな」
親方様が他藩からの手紙を家臣から受け取るように弥恵はタオルを手に取った。
「この奇癖は困りものだな」
「左様ですな」
同じ奇癖を持つものとして純はニヤリと笑い返す。
「それにね」
そう言って弥恵は心の中で「媚薬の効果がもう少しで現われ始めるはず。比呂巳も雫もゲットだぜ。うっしっし」と高笑いをした。
しかし弥恵の非科学的な企みにはいくらかの誤算があった。一つ目は弥恵自身にも媚薬の効果が表われて正常な判断を下せなくなること。二つ目は、雫は男の娘であるので当然女子専用の媚薬は効かないということ。そして三つ目は女子専用の媚薬だからといって女子を好きになるわけではなく、媚薬の効果で男性を好きになってしまう可能性があるということ。比呂巳が熱っぽい視線で純の方を眺め見ては淡々と静かに食事をしているのは多分ここに起因していることだろう。
そんなことには呑気に気付いていない弥恵は高笑いを噛み殺すのに必死で、意図せずかわいらしいロリ顔がかわいらしく歪んでしまう。
「それに?」と新品の粗品のタオルが血に染まっていくので心配になりながらも、純は弥恵の人が変わったような策士振りに惚れ惚れとするばかりである。
「いや、なんでもないわ」
媚薬のことは純には内緒である。
弥恵は気合で鼻血を止め、タオルと洗濯機に放り込む。
「兄貴の出番はないかもしれないわね」
出番といってもブレーカーを下ろすだけなのだが、その台詞に純は心打たれ妹への信望をまた一段と強くしたようである。
一方食卓に残された比呂巳と雫であるが……。
媚薬に頬を緩ませた比呂巳とニコニコと何にもないのに嬉しそうな雫の間には奇妙な沈黙が発生していた。
「……あ、あのさ。聞いていいかな?」
比呂巳は雫に絡むように顔を近づける。雫は嬉しそうに「はい。何ですか?」と頷く。
「……雫は兄貴とどういう関係なの?」
比呂巳の顔つきは神妙である。
性別は男のくせに乙女心を持ち、男女の機微に聡い雫は、
「あら、嫉妬ですか?」と嬉しそうである。
「そ、そんなんじゃないけど……」
比呂巳はおしっこを我慢しているようにもじもじと俯いている。「兄貴の周りに女の子なんていたことなかったからさ」
「……私と純殿はやんごとない関係ですわ」
「や、やっぱり」
「いえ、おそらく比呂巳お姉さまが思っている風な関係ではなくて、なんというか、」
「なんというか?」
「やんごとないんです」
「結局やんごとないのかよっ!」
「でも比呂巳さんには純殿よりお似合いの方がいると思いますわ。すぐ近くに」
「え?」
「私じゃありませんよ」
「ビックリした。雫、レズなのかと思った」
「私のことが好きだからってレズってことにはならないと思いますけど。あれ? でも女の容姿をしていて好きになったらそれはレズなんでしょうか? 自分の身のことながら分かりづらいですわね」
「?」
「いえ、こっちの話ですわ。それより比呂巳お姉さまは女の子同士の恋愛をどう思いますか?」
「え? ……やっぱり雫は私のこと好きなの?」
「違いますわ。比呂巳お姉さまのことは好きです。だからといって比呂巳お姉さまとあんなことやこんなことしたいとは思いませんわ。やって出来ないことはありませんが」
「……やっぱり私のこと好きなんでしょ」
「そういうことではなくて」
「仕方ないなあ。ほっぺにキスくらいならしてあげてもいいよ。私、結構学校の女の子にもラブレター貰ったりしてるんだ。なんてたってリベラルな思想の持ち主だからね」
そう言って比呂巳は雫の雪のように透き通った白い頬にキスをした。
「だから違いますっ」
そうはいいながらも、小さな温かみをその唇からしっかりと受け取って、雫は素の微笑みを比呂巳に見せてしまっていた。
「やっぱりレズなんじゃん」
「……」
「ねぇ、今日は泊まって行くの?」
「いいえ。門限がありますので」
「残念。女の子の抱き枕が欲しかったんだけどなあ」
「弥恵お姉さまがいるじゃありませんか?」
「……最近、抱かせてくれないんだ」
「どうしてですか?」
そう雫が聞いたところで弥恵と純が戻ってきた。
「兄貴の活躍の出番はないかもしれないわね」と弥恵は言ったが、一向に比呂巳が弥恵襲い掛かる兆候は見られない。雫も雫で中性的な距離感で弥恵に接している。どうやら弥恵の苛立ちは極限にまで達しているらしい。ムラムラ、いいやわなわなと比呂巳に熱っぽい視線を露骨に浴びせ始めた。しかし比呂巳は弥恵の真鍮を溶かさんばかりの熱視線に全く気付く様子はなく、比呂巳は比呂巳で熱っぽい視線を純に向けていた。では純の視線は、というとせっせと料理を口に運ぶ雫に向けられていた。その意図はというと「何か、この状況を打破する手立てはないものか」というものであり、聡い雫はそれを察してまるで女の子のようなウインクを純に送る。途端、純の全身は鳥肌に襲われた。ウインクによる悪寒とは別に、なんだか嫌な予感がしたがここは雫に任せることにする。
雫は嬉しそうに手の平を合わせながらこう言った。
「ポッキーゲームやりません?」
思わず純は飲んでいたお茶を吹いてしまった。俗世間に疎いはずの雫がまさかポッキーゲームを言い出すとは思わなかったのである。
「若い修行層たちが最近ポッキーゲームに夢中なんですの」
純は若い修行僧たちがお御堂の中で夜な夜なポッキーゲームという遊びにふける模様を想像して、すぐにその想像を追い出した。あまり脳内で再生してニヤニヤ出来るものではない。いくら遊びがないからといってポッキーゲームはないだろうに。
「ポッキーはないわね」
「そうそう弥恵の言うとおり、ポッキーゲームはないだろう」
「プリッツならあるけど」
「え?」
純が高野山に思いをはせているうちに、弥恵は俄然乗り気でママさんのお菓子袋からプリッツを持ってきた。弥恵は新しい武器でも手に入れたように目を血走らせて、息を荒くしている。
「それだとプリッツゲームですわね。サラダ味とは新鮮ですわ」と雫は呑気に「ふふふ」と笑う。
「じゃあ、あみだくじを書かなくちゃね」と小細工する気満々な不適な笑みを浮かべて弥恵は言う。「もちろん小細工なんかしないわよ」
しかし意気揚々といらなくなった紙を探しに出ようと席を立ちかけた弥恵に、
「お姉さまのお手を煩わせる必要はございませんわ」と雫は言うと、フリルのたくさん付いた、携帯ゲーム機ほどの小さいポーチから見慣れない棒状の仏具を取り出した。両の先端が尖っていて、武器のように見えなくもない。光沢はないが金色をしていて神秘的な力を秘めているような雰囲気がないでもない。悪霊退散のために常日頃持ち歩いているのだろうか?
「密教法具の独鈷杵です。高野山ではこれを使ってやっていますの」
「え、何? どっこいしょう?」
「どっこしょうですわ。ふざけないで下さいまし。殺しますわよ」
「……今さらっと酷い事言わなかった?」
密教法具でポッキーゲームをやる方がふざけてるんじゃないのかな、という議論は置いておいて、雫によれば全員で輪を作って、中央で独鈷杵を二回倒して、倒れた方向にいた人同士でポッキーゲームを行うのだという。おそらく雫はポッキーゲームを利用して若い修行僧たちを毎晩頂戴しているのだろう。
「ポッキーゲームを始めてから毎晩大盛り上がりですのよ」
と邪気なく笑っているが雫の恐ろしい本性を知っている純は全く笑えない。いくら品のいい言葉遣いでも、その仮面の下に潜む魔性の気配は純の首筋辺りにビンビンに感じられた。
それは兎も角、鼻息の荒い弥恵は速攻でテーブルの上を綺麗さっぱり片付けると、プリッツの封を切り、中身を全てグラスの中に入れた。それっぽい雰囲気を出すためか、弥恵は蛍光灯の明度を一つ暗くして「準備完了っ!」とプリッツをすでに咥えて恍惚の表情を浮かべている。
「お姉さま、お行儀が悪いですわよ。最初から咥えているなんて。それではポッキーゲームをやる意味がございませんわ」
そう言う雫からはポッキーゲームの全てを知り尽くした者だけが纏うことの出来る、煩悩に元素とする煙たいオーラがにじみ出ていた。それをひしひしと感じ取った弥恵は「ごめんなさい」としぶしぶプリッツをグラスに戻した。「咥えたなら食べればいいのに」と思ったのはどうやら純だけのようであった。
「ではさっそく」
と雫は独鈷杵をテーブルの中心に立てると先っぽを人差し指一本で軽く支えた。言わずもがな、これは出来レースなのだが雫の所作は妙な緊張感をテーブル上に演出していた。
「いきますわよ」と神妙な声音を搾り出す。
そこで純は雫に「分かっているだろうが、弥恵と比呂巳だからな」と目配せをする。雫は「分かっていますわ」の視線を送った。
純、弥恵、比呂巳の視線が雫の細い指先に集中する。弥恵に至っては五指を組んで、口元が「お願いします、お願いします」とせわしく動いている。
その緊張感の中で雫は責任重大と小さく息を吐く。「せーのっ!」
そして…………。
「ポッキーゲーム、ポッキーゲーム、ポッキーポッキーゲーム」と雫はいきなり某ランドのねずみのマーチの節で歌い始めた。
純、弥恵、比呂巳の三人は仲良く「だあああああっ」とテーブルに突っ伏す。
どうやら「せーのっ!」というのは歌いだしの掛け声だったようである。一瞬で決着が付くと思っていた三人の緊張の糸は一瞬でちょちょ切れてしまった。揃いも揃ってテーブルにぶつけたお凸を擦っている。
「あれれ? 一緒に謡って下さいませんの?」とそれにしてもこの男の娘、ノリノリである。
「なんだよっ、それ!」
「あ、ポッキーではなくてプリッツでございましたね。ごめんご」と雫は拳を作って自分の頭をコツンとやる。その仕草がこなれているのが余計に純の感に触ったらしい。
「そういうことじゃねぇよ! なんだよっ、その緊張感を削ぐマーチはよっ! ここはランドじゃねぇんだよっ! 和歌山なんだよ。アドベンチャーワールドなめんじゃねえぞ! ねずみよりパンダの方が食物連鎖の上にいるんだよ。笹しか食べないけどねっ! ってバカっ!」
純は乙女心に気を使いすぎたせいか、その突っ込みは無駄にハイテンションに仕上がっている。叫び終わって純は後悔した。俺はこんなキャラじゃない。
「それじゃ仕切り直して参りましょう」
雫は純の戯言など意に介さず、見事にスルーした。
「ってシカトかよっ!」
元来がドSなのである。場は雫の独壇場であった。ゆえに可愛らしい妹たちに、兄をフォローするだけの精神的余裕はなかった。
「お姉さま方、プリッツゲームでお願いします。ではご唱和お願いいたします。せーのっ!」
「プリッツゲーム、プリッツゲーム、プリッツプリッツゲーム」
と三人は雫の歌に合わせて手拍子、そしてプリッツゲームを連呼する。促音の位置が元ネタと違うのがいけないのか、なんだか言いにくくてむずがゆい。ポッキーのままでよかったなあと思う純であった。
しかしすでにやけになっている純と違って、弥恵と比呂巳は大マジである。弥恵は比呂巳の唇を手に入れるために。比呂巳は純とプリッツゲームをやるんじゃないかと平静でいられない。雫が仕掛ける「ほいやっ」「そいやっ」のフェイントに二人は仲良く一喜一憂している。雫は心底楽しそうだ。
そして四度目の「あいやっ」で独鈷杵は雫の人差し指から離れた。きちんと垂直のままで出来レースの影など見て取ることの出来ない、自然な「あいやっ」であった。
そして倒れた方向は……。
「比呂巳お姉さまですわ」
「へ? わ、私」
独鈷杵の先端は比呂巳を指していた。ひとまず純は胸を撫で下ろす。雫を見やると、やはりウインクをした。さっきのお返しにと純はスルーする。今回は鳥肌も立てなかった。
ともあれ雫はきちんと協力してくれるらしい。さすが男の娘。義理堅い。
弥恵を見やると空手の試合で優勝したとき以来の男勝りのガッツポーズを人知れず拵えていた。「おいおい、それじゃ比呂巳に下心がばれちまうよ」と比呂巳に視線を向けると「まだ心の準備が……」とかなんとか恥ずかしがっている。弥恵の下心がばれる心配は一向になさそうである。良くも悪くも。
「さてさて比呂巳お姉さまのお相手は誰になるんでしょうか?」
独鈷杵をマイク代わりに、いまいち盛り上がりに欠けるバラエティ番組の司会よろしく、雫は一オクターブ高い声音で場を沸かす。
「はーいっ! 私、私、私!」と若手芸人のようにしゃしゃり出る弥恵。その姿には昼間いそいそと準備に励んでいたときの面影はなく、「恥じらいなどくそくらえだっ!」と言わんばかりのはしゃぎ様である。媚薬は程よく弥恵を酔わしているようで、ほっぺたには朱色が浮かんでいる。そのハイテンションに素面の純は完璧に置いていかれてしまった。といっても追いかける気は毛頭ないが、しかし……。
「せーのっ!」と始められてしまってはやけになって歌うしかない、と純は思い至る。
どうやら雫は盛り上がらない純を見かねて、独鈷杵に人のテンションを無理矢理高める厄介な術を掛けたようである。それに加え、持ち前の場に流されやすい性格の純は「プリッツゲーム、プリッツゲーム、プリッツプリッツゲーム」と「リズム感などくそくらえだっ!」と言わんばかりのはしゃぎ様で歌い始めた。
それに呼応して弥恵はわしゃわしゃと垂直ジャンプを繰返す。どさくさに紛れて弥恵は比呂巳に抱き付くと一緒に垂直ジャンプを始めた。であるならどさくさに紛れて唇を奪っちゃえばいいという風に思われるかもしれないが、布越しの柔肌と唾液付の唇とでは雲泥の差がある。恥ずかしがり屋の弥恵の理性はその辺りを脳髄に叩き込んでいるらしく、本能のままに唇は唇に赴かないらしい。垂直ジャンプの間にも弥恵の唇は比呂巳のうなじ、小さな胸元に襲い掛かるが、決して「むちゅう」とはいかない。この面倒臭いところが弥恵の本質であるのかもしれないし、そうでないかもしれない。
まあ、そんなことはこの鈍ちゃん騒ぎの中でどうでもいいことである。この宴に理性はおそらく雫の中にしか存在していない。純はへらへらと手を叩いて歌うばかりである。
しかし、でも……雫のフェイントが「かなめもっ」と三十六回目に差し掛かろうとしたときである。
純の理性はドアノブで静電気に襲われたようにちろちろっと点滅した。その点滅に純はっとなる。純の第六感がこの場にデンジャラスの匂いを嗅ぎつけたのだ。
一体何の危機が俺の身に降りかかろうというのか?
純は冷静に働き出した理性の片隅でせせこましく現在の状況を整理した。
まず、現在、只今、高野家においてはポッキーゲーム、もといプリッツゲームの真っ最中である。
次に、すでにプリッツを咥える一人に比呂巳が選定されている。
そして、このゲームは純と雫の仕組んだ出来レースであり、雫は独鈷杵を弥恵の方に倒すことが決定されている。
それから、すっきり、いいやすっかり忘れていたが、不幸のお守りが俺に不幸を呼んでくる。
…………………………。
このパターンは……まさか!?
雫の独鈷杵が宇宙の物理法則を無視して俺の方に倒れてきて、俺と比呂巳がポッキーゲーム、もとい……ってそんな名称はどうでもいいっ! するはめになって、寸前で離すはずが宇宙の物理法則を無視して比呂巳と唇と俺の唇が「むちゅっちゅ」ってなって、弥恵がぶち切れて、死なない程度に殺されるパターンじゃないかっ! ぜってぇそうだよっ! マジ勘弁だしっ! 不幸のお守りとか超うぜぇしっ! って毒づいてる場合じゃねぇよっ!
と不幸のお守りの弊害に気付いてきた純であったが、不幸が一介の男子高校生の力でどうにかこうにかできるものではないことには、残念ながら気付いていなかった。
「ストオオオオオオップ!」
いきなりストップを掛けられて、驚かない男の娘はいないだろう。
「ひゃう」と三十七回目の「ハーマジェスティ」とフェイントを掛けようとしていた雫の人差し指は、雫の想いと裏腹に独鈷杵から離れてしまった。
「しまった」と思ってももう遅い。
これは神聖なる儀式である。やり直しはきかないのだ。どうしてか出来レースはありであるらしい。その辺りは高野山の姫君こと、雫の機嫌次第である。
独鈷杵は万有引力に逆らおうともせず、雫の機嫌を伺わずにコトリと従順に倒れてしまった。そこには出来レースなど存在しない。厳然たるペアが完成しているはずだ。
純は倒れた独鈷杵に一瞥もせずに首を垂れ、「すまん、弥恵」と呟いた。
「…………」
しかし弥恵から怒りの反応を窺うことが出来なかった。純が昨日今日で作り上げた弥恵ちゃんのお怒りゲージはゼロ地点に留まっている。
これはどういうことでしょう? 過酸化窒素並みに怒りの沸点の低い弥恵様が怒りの牙を尾剥き出しにならないなんて……。
純は顔を上げて独鈷杵を見た。
それ見ろ。独鈷杵は俺の方を指しているじゃないか。
……けれど、弥恵、どうして……、どうしてそんなにとろけるチーズのようなとろんとした食べちゃいたくなるようなロリ顔をしているんだい?
確かに純の言うようにとろけるチーズばりの緩い表情で弥恵は独鈷杵を眺めていた。けれどその表情には悲劇のかけらなど微塵も窺えなかった。むしろ歓喜に富み、唇は潤いに充ち、これから最愛の人にキスを仕掛けんばかりの至高の表情を創り出していた。
「弥恵お姉さまですわ」
純は雫の声を聞いてやっと状況を理解した。確かに独鈷杵は純の方に先端を向けていた。けれどその先端はテーブルについていた方だ。雫の人差し指に触れられていた、もう一方の先端がさしている人物は純の対角線上に座っていた弥恵ということになる。
弥恵はすっかり酔いが冷めたようになり、「ふうん、じゃあ、しよっか?」とすっかり「べ、別に好きでやってるわけじゃないんだから」の体裁を取り繕い始めた。
比呂巳は「あはっ」と笑って、
「何で緊張してんだよ?」と相手が弥恵だと決まってすっかり気の抜けた比呂巳は、弥恵の感情の機微を完全に見抜いていた。比呂巳はプリッツを咥えると「ほいっ」と目を瞑って手を後ろに組んだ。
「私が……攻め?」
「ひやなの?」
「ううん……願ったり叶ったりっ」と弥恵は差し出されたプリッツをかぷっと咥えた。
「それじゃあ、どうぞお好きなようにやっちゃってくださいまし」
雫は一仕事終えたような満足げな表情でそういうと、純にウインクを送った。純はウインクを取って捨てると、ほっと安堵のため息を漏らす。どうやら純の第六感はものの見事に気のせいだったようである。完全な独り相撲を演じてしまったが、不幸が訪れなかったことに純は「どうやら運が向いてきたようだな」と見当はずれなことを思い、そして……、
「あ、ちょっと当っちゃった」
「は、恥ずかしい」
滞りなく行われたポッキーゲームを目の前にして、結婚式でむせび泣く新婦のお父さんのように純は堪えきれずにむせび泣いた。「お兄さん」と雫が差し出したちょっと匂う台布巾を純は会釈をして受け取った。
まるで嵐が過ぎ去ったように高野家は静かになった。
「夜の修行がありますので」
そう言って雫は帰っていった。帰り際、雫は「気をつけてね」と純に耳打ちした。純は何のことやらさっぱりだったが、激励として受けって「おう」と応じた。
不幸はどうやら雫の神聖な力によって防がれていたらしい。
このことは俗世間の人間には内緒である。
その力によってか、チャベスは犬のようにすっかりと寝息を立てていた。せっかく弥恵と比呂巳が風呂に入っていて、純は一人で皿洗いに励んでいたのだが、これで誤解はそのままになってしまった。
純はそんなことなど意識に及ばせずに、弥恵と比呂巳が仲良く流しっこしているところを想像しては、皿を何枚か割ってしまった。いかんいかん、とわざとらしい素振りでお兄さんを気取っているうちに、皿洗は済んだ。やることもなくなってしまうと純はそわそわし始めた。誰かが背中を押してくれれば純は迷いなく風呂に乱入するだろう。そんな按配である。
一方、風呂場では弥恵は必死で鼻血を堪えていた。体を洗いっこしているときは好き放題あんなとこやこんなとこも触り、触られ放題だったけれども、二人で風呂に浸かってしまうと不自然に両者は黙り込んでしまった。高野家の風呂は女子中学生二人が余裕で入ることのできるぐらいの広さはある。丁度、向かい合って入ると足先がちょこんと触れ合うくらいの。
「あ……ご、ごめん」
「なんで謝るのさ」と比呂巳の言うとおり、「何で私、謝ってるのよっ」と悶える弥恵。
「……今日はなんだか弥恵が遠い気がする。そんな風に気を使わなくていいいじゃん」
比呂巳がここで言っていることは「いくら私と純兄貴をくっつけるためだからって、よそよそしく距離を置かなくたっていいじゃん」という意味なのである。けれど弥恵はそんなこと知るよしもない。その一言は一層、弥恵に追い討ちを掛けるだけだった。
「別に気なんて使ってないもの。ただ、不安なだけ……」と胡乱げに語尾を濁す。
「不安にならなくてもいいよ」
比呂巳はそう言って顔半分をお湯につけてぶくぶくとやる。ここで「不安にならなくてもいいよ」といったのは「純兄貴の気持ちにはちゃんと応えるから」という意味なのであるが、けれど弥恵はその言葉にそのような意味を見出せるはずもない。どうして「不安にならなくてもいいよ」といったのか、とさらに分からなくなる。さらに不安になる。その一挙手一投足、そして無防備に晒されたその裸体が弥恵を苦しめているとは比呂巳は一向に知るよしもない。
弥恵は比呂巳に告白すると決心してしまった。してしまったから、いつもみたいに比呂巳の細い腰にまとわり付いて、くんずほぐれつ、その柔肌に無為に触れることなんて出来やしない。
我慢大会か、このやろう。参加者一名だけど……。
「むっ」とした気持ちがそのまま顔に出て、比呂巳を睨みつけるように見てしまう。愛情と憎悪は紙ひとえ。弥恵はすぐに後悔した。でも、比呂巳の方はどうして弥恵が怒っているのか、知るよしもない。弥恵のヒステリー、いやストレスは極限にまで達している。血の気の多さも極端鼻腔に溜まってきている。マグマ溜まりみたいに。
言ってしまいたい。比呂巳への気持ちを全てぶちまけてしまいたい。
けれど、不安なんだ。気持ちを確かめたいけれども、不安なんだ。恐いんだ。踏ん切りがつかない。誰かに背中を押してもらいたい。
っていうか、ブレーカー落とすなら今以外にないだろっ!
糞兄貴は何やっているのよっ!
……………………でもぉおおぉ……心の準備がっ……ああああ…………あっ。
糞兄貴こと、純はそんな弥恵の気持ちに気付きもせず、煩悩を滅却するためにパパさんのアコギを借りて、「いもうとよ~」と弾き語っていた。まあ、ギターなんて弾けないのだが。
「もしかして」と比呂巳は「むっ」とした顔の弥恵に言った。
もしかして私の気持ちに気付いてくれたの? そう弥恵は一瞬、期待してしまったけれど、
「兄貴のこと好きだったの?」
弥恵がむっとしているものだから、兄貴が取られてしまうことに腹を立てているんじゃないかと比呂巳は思ってしまったようである。弥恵は一ミリも純に好意の気持ちを寄せてはいなかったので「はあ?」と眉間に皴を寄せた。
「あ、そんなことないよね。ごめん、変なこと聞いて」
比呂巳は弥恵の純に対する嫌悪感を重々承知しているので、すぐにその疑問を引っ込めたようだ。
純はくしゃみもせずに相も変わらず「いもうとよ~るるる~」と歌っている。くしゃみをする気配はない。やはり鈍感な男である。
なら、どうして弥恵は怒ったような顔を見せるんだろう?
比呂巳はその疑問を考えながら、目の前で裸体を晒す弥恵をじっと見た。
どうして比呂巳は私の体をじっと見てるんだろう?
弥恵は訝しげに小首を傾げる。
「おっぱいが大きい。わけて貰いたい」
比呂巳は何を思ったか、「えいや」と触ってくださいといわんばかりに晒された、二つの丸い脂肪の塊に両手を差し出した。
あまりに唐突、突然のことだったので弥恵は声も上げずにしょぼんとなってしまった。
「ご、ごめん」
「……」
ツーンと気まずい空気が湯気で煙たい浴槽にもわもわと立ち込める。いつもの弥恵に戻ってもらおうという比呂巳の算段だったが、弥恵はその行為にさらに頭を悩ませることになった。
いきなり胸を鷲掴みしてどういう気なの? 比呂巳も百合なの? どうなの?
襲うなら、早く襲ってきなさいよ。
「……」
「……」
「……」
「………………ねぇ?」と沈黙の間に弥恵は心を固めたようだ。
「比呂巳は女の子同士の恋愛ってどう思う?」
まず外堀から、弥恵は堅実家なのだ。
「え? 何、いきなり? もしかしてそれ、大事な話?」とまさかね、と思いながらも、比呂巳は一瞬「それが純の言っていた大事な話なのかな」と考えた。けれど「いいや、そういうんじゃないんだけど」とすぐに弥恵が否定したので少しほっとする。ここで肯定されたら比呂巳は独り相撲を取っていたことになる。といっても弥恵の否定は限りなく肯定の意を含んでいるのだが。
「……どう思う?」
なんだか、雫とのやり取りを思い出しながら、
「……もしかして、弥恵、私のことそういう意味で好き、なの?」と比呂巳。
その答えは至極正確だった。しかし弥恵は面倒臭い女だった。
「……違う」とそっぽを向いた。
その間はなんなの、と比呂巳は思う。雫にその間はなかったからだ。
一方、弥恵の不満げなその横顔に隠された心境は後悔、後悔、後悔、後悔。
後悔に四方を囲まれて身動きがとれない。硬直をしてしまった、ということになります。
せっかくの千載一遇の好機だったのに……、
はい、好きです、ってどうして言えないのよっ!
今すぐに襲い掛かかってもいいですかってどうして言えないのよっ!
めちゃくちゃにしてやるってどうして攻められないのよっ!
……今ならまだ間に合う、訂正の一言を……。
「本当に?」
そこに比呂巳の助け船が絶妙に差し出された。
いい、弥恵こと私。ここで「いいえ、あなたのことが大好きです」って言うのよ。いいわね。せっかく比呂巳が飛んで火にいる夏の虫のように首をもたげて「本当に?」と言ってくれているのよ。無下にしちゃならないのよっ!
「違うに決まってるもんっ! もしそうだったとしたら、私、比呂巳に襲い掛かってるでしょっ! お風呂場に裸同士で、裸で、それに裸で二人っきりなんて、もし私が比呂巳のことそういう意味で好きだったら、とっくに比呂巳の貞操を奪っちゃってるものっ! 生きてお風呂場から出れないんだからっ!」
なんでそんなに「裸裸裸」と怒っているの、と比呂巳は思う。雫は「本当?」と問い詰めてもここまで激昂したりはしなかったからだ。
一方、弥恵の勝気な横顔に隠された心境は後悔、後悔、後悔、後悔、後悔、後悔、後悔、後悔。
後悔が八方から押し寄せて来て八方塞の様相である。
せっかくの二度目の千載一遇の好機だったのに……、
バカやろう、このやろう、誰がバカだって? 私だよっ!
いいえ、あなたのことが大好きです、ってどうして言えないのよっ!
今すぐに襲い掛かかって下さいってどうして言えないのよっ!
めちゃくちゃにしてくださいってどうして懇願出来ないのよっ!
……もう間に合わない、……ならば最低限、現状維持である。
しかし、比呂巳は切羽詰り、受けに回った弥恵の気持ちを汲んではくれなかった。
「……じゃあ、レズなの?」と恐る恐る比呂巳は聞いてきた。
「うわっ、直球、…………………………って違う」と唇を尖らして言う。
その「うわっ、直球」とその長い間はなんなの、と比呂巳は思う。
弥恵は下手な口笛を吹き始めた。「ふぃー、ふぃーふぃっふ」
比呂巳はそれを横目に「う~ん」という大長考のすえ、以下のような結論を下した。
「私のことはそういう意味で好きじゃないんだけど、弥恵はレズなんでしょ?」
「違う。レズじゃない。百合。あっ、」と弥恵は条件反射的に答えてしまった。
比呂巳はポカンとした顔で弥恵を見つめ、おもむろに胸元をタオルで隠した。
「しまった」と思っても、風呂の中で鳥肌を立てても、脂汗を額に感じてもしょうがない。
もう比呂巳には弥恵が百合であることが知れてしまったのだ。
付き合うんだったら知れていなければいけないことだけど、でも……。
「あー、もう面倒臭いっ!」
弥恵は比呂巳の両の二の腕に掴みかかる。睨みかかる。息が荒い。
そしてお凸をくっつける。
「や、弥恵?」と困惑を込めた比呂巳の視線が弥恵の網膜にしっかり、くっきり、はっきり届く。
しかし、ごめん、されど、いろいろな神様、私の所業にどうか目を瞑っていてくださいっ!
さて、神様にお伺いを立て、吹っ切れた弥恵はもう「あんなことやこんなこと」まで畳み掛ける気になった。
面倒臭いっ! 面倒臭すぎて反吐が出るわっ!
段階を経る恋愛? はあ、何それ?
そんなの漫画と小説だけの小奇麗なお話よっ!
眼前に裸体を晒した女子がいるのに喰い付かない女子がいますかっ!
「そうよ、私、女の子が好きなの。女の子とあんなことやこんなことしたいのっ! でもレズじゃないもんっ、百合だもんっ!」
「同じじゃんっ!」
「違うのっ! そういった偏見が大きな争いを生むのよっ! それは宗教にも言え、」
そこで弥恵の唇は比呂巳の唇で塞がれた。黙らされてしまった。
何? なんで?
唐突過ぎる。いつだって比呂巳は唐突過ぎる。
頭の中が真っ白になる。思わず眼を瞑ってしまう。比呂巳、上手すぎ……。
弥恵の脳裏には、比呂巳とのファーストキスが過ぎった。比呂巳は忘れてしまっているかもしれないけれど、そのキスも唐突だった。
比呂巳の柔らかい唇がそっと離れた。名残惜しい。それを目で追ってしまう。
二人の視線が交錯する。真剣な眼差しの比呂巳。それが弥恵には居た堪れなかった。
弥恵は「潜水艦」とかわいく呟くと、その空気から逃げるように頭をお湯に沈めた。
「何、それ?」と比呂巳がおかしそうに笑った。「ぷっは」とかわいく顔を出すと「ドイツ製」と弥恵は答えた。「何、それ?」
答えたんじゃないもの。時間稼ぎだもの。
弥恵の鼓動は潜水艦を装っても、ドイツ製に扮しても、一向に治まらない。それは比呂巳に向けられた怪訝な視線に表われている。一分前にディープキスをしたとは思えない、あっけらかんとした比呂巳の横顔に向けられた、その視線に。
弥恵は待っていた。かわいく取り繕って、いつでも受け入れられるように。かわいく返事が出来るように。かわいくしていれば比呂巳はやってきてくれる、という思い込みが強く弥恵の心を覆っていた。
けれど、比呂巳はなんの脈絡もなく「ごめんね」と照れた調子で謝るのだった。
「ごめんね。今まで気付かなくて。嫌だったよね。私今まで弥恵の彼女みたいにさ、いつも一緒にいてさ。もっと綺麗な人と弥恵は一緒にいたいんだよね」
「え?」
「もしも弥恵が私のこと好きで、それに私が気付かないから怒ってるんじゃないかなって一瞬思ったんだけど。弥恵、私とポッキーゲームしたがってたし。いざやるとなると緊張するし。でも、それは私の買い被りだったみたいね」
「ええ?」
否定したいけれど、真っ白になって色を失ってしまった思考回路はなかなか言葉を紡ぎだしてくれない。なんていえばいいか分からない。
「もう上がろうか?」
比呂巳は立ち上がり、浴槽から片足を出した。
そして「あ、質問の答え」と弥恵を睥睨しながら言ってくれた。
「女の子同士の恋愛、私はあまり男とか女とか性別に拘らないから、やっぱり、その人によるんだと思う。好きになった人が女の子でも私はあんまり気にしないかな。逆に女の子が私を好きになってくれるんだったら、私もそれに誠心誠意答えたい、なんて思うかな。よく分かんないけど、でも……」
「でも?」
「もし弥恵が私のこと好きだって言ってくれたら、私も弥恵のことそういう意味で好きになったと思うな。……もう弥恵には振られちゃったけどね」
比呂巳はカラカラとドアを開ける。その背中にやっと電気信号の通い始めた思考回路で弥恵は問いかけた。
「なんでキスしたのっ?」
「嫌だった?」
「そういうんじゃなくて、……いきなりだったから」と弥恵は自分で何を言っているんだろうと思った。そういうんじゃないってどういうことよって。臆病になる暇が合ったら、しっかり否定しろって。弥恵の言葉にはまるで根拠がない。自分でも分かってしまうほどに。
「嫌いな女のキスでも、怒りが静まればと思いまして」
比呂巳の言葉には根拠があった。
弥恵は無意識に、比呂巳のそういったところに圧倒されている。素敵なところだと思ってしまっている。比呂巳の言葉、動作、思考には一見、唐突で、軽率なところがある。けれどそれにはいつだって根拠があった。それを今実感している。
なら、あのときの……キス……は?
比呂巳はいつの間にか扉の向こう側にいる。
だから安心して比呂巳の唇に触れた自分の唇に触れることが出来た。
熱い……。
確かに弥恵の刹那的な感情の高まりはそのキスによって静まったかもしれない。
けれど比呂巳のキスは弥恵の告白のチャンスを奪って、その秘めたままにされた恋心を一層熱くしてしまった。
「嫌いなわけないじゃん。バカっ」と弥恵は小さく唸り、「マッコウクジラ」と呟いてお湯に頭を沈めた。「潮吹き。ぴゅー。あ、鼻血」
髪を濡らしたまま風呂から上がってきた弥恵を一瞥して、純は心底驚いた。
「うっわぁ、茹でダコじゃないんだから」
「うっさいっ! 茹でダコより酢ダコの方が赤いわよ、ってタコでメタファーすんの禁止っ!」
純が思わず口に出してしまうほど、弥恵の顔は真っ赤に茹で上がっていた。おそらくタオル地のパジャマに隠されたその柔肌も酢ダコのように真っ赤になっていることだろう。
比呂巳は長い髪の毛をドライヤーで乾かしているところで、会話が聞かれる心配はない。純は「ぜいぜい」言ってスポーツドリンクをごっくごっくと補給する弥恵に、
「や、やっちまったのか?」と恐る恐る近づき訊ねる。「ついに大往生か?」
純が実の妹に「やっちまったのか?」と聞いてしまうほど、弥恵の全身から「やっちまった」感オーラが出ていたのである。まるで狩りを終えてきた百獣の王のように「がるる」といきり立っている。風呂場での武勇伝が聞けるとあって純のテンションは空気を読めずに鰻上りである。けれど弥恵の全身から出ている「やっちまった」感は好機を逃してしまった方の「やっちまった」感だった。
「……」
「いいじゃねぇか、教えてくれよぅ」と純は弥恵の無言の意味を履き違えたように騒ぎ立てる。普段の弥恵であれば、拳でその煩い口元を血だらけにするところであるが、スポーツドリンクを飲み終え、熱が冷めると、一転して悲しげな眼差しで純を見やる。
純もその様子に「あ、やべっ」と黙り込む。「駄目だったのか……」
途端、静かになったリビングではドライヤーの音だけが聞こえている。
純が慰めの言葉を必死に考えている内に、弥恵が椅子の上で膝を抱え、言い訳をするみたいに言った。
「……もう少しだったんだ。もう少しで比呂巳にあんなことやこんなことできたんだけど」
「駄目だった」
「うん。でも頑張ったんだよ。私、頑張ったけど、運がなかったっていうか。比呂巳の方が一枚上手だったっていうか。運がなかったっていうか。頑張ったけど巡り合わせが悪かったって言うか。もう疲れちゃった。……私、頑張ったんだよ。お兄ちゃん」
濡れた前髪をぺたぺたと撫で付けながら、そう弥恵は純にすがるように言った。そしてまるで「よく頑張ったな」と褒めてもらいたそうに純に潤み、少し充血した瞳を向けるのだった。そんな孤独に打ちひしがれるウサギのような目で見られては、と純の手は弥恵の額に伸びそうになる。けれど、純はそれをぐっと堪えた。ここで褒めてしまっては弥恵のためにならない。
「弥恵は本当に頑張ったのか?」
「お兄ちゃん?」と「よしよし」と頭を撫でてもらえる気でいた弥恵は面食らったように純を見上げた。
「頑張ったって言うけどなあ、本当に頑張った奴は頑張ったって言わないんだよ。弥恵だって気付いてるんだろ。もっと頑張れたって、もっとやれたって、もっと頑張ればやっちまえたって」
「…………」とあからさまに凹む弥恵。
その肩に純は優しく手を置いた。そして目元を涼しげにニコッと笑いかける。
「お前はやれば出来る子なんだ。もっと頑張れよっ、弥恵。まだまだ夜は長いんだからな」
頑張ったと言っている人間に「頑張れよ」は禁句である。ここで弥恵の弛んでいたヒステリーの糸は瞬く間に張り詰めた。
「……黙れ」とドスの効いた低い声がぷしゅーっと漏れる。
「お前がささっとブレーカー落として吊り橋効果を演出していれば、失態を晒すことはなかったんだ。面倒臭いことにならずにすんだんだ。そう、全部お前のせい、全部お前のせいだ。比呂巳にうまく告白できないのも、ファッションセンスが悪いのも、部活で先輩に怒られるのも、全部っ、全部っ、ぜーんぶっ、お前のせいだーっ!」
弥恵は地団太を踏み、一気に全てを純のせいにした。支離滅裂な甲高いロリボイスが純の耳に突き刺さる。けれど純は動じない。冷静に「最後の方は俺の責任じゃないだろ」と判断することが出来た。何故なら絶賛お兄ちゃんパワー発動中だったからだ。珍しく「えいっ」と捨て身の頭突きが襲ってきたが、お兄ちゃんパワーが発動中の純は難なくそれをさらっと避けた。「ああん」と弥恵はへなっと膝を突いて項垂れた。
「……かわい子ぶっちゃったんだ?」
純のその質問に弥恵は居心地悪そうに「…………そんなことないわよ」と答えた。弥恵の脳裏には「潜水艦」といってかわい子ぶった、数分前の自分の情けない姿が浮かんでいた。朱色が引いていた首筋に再び血流が巡り始める。
「……かわい子ぶっちゃったんでしょう?」と純は弥恵と目線を等しくすると、その小さい顎を持上げて「正直におっしゃいなさい」とオカマ口調で叱るように言った。
一旦観念したように弥恵は頷いたが、
「だって、だってっ! いきなりキスされちゃったのよっ! 長い長いディープキスよっ! そんなことされたらかわい子ぶっちゃうに決まってるでしょ。攻めることを由とする私でも、いきなり攻めに転じられたら守りに入るしかないじゃないっ! 受けるしかないじゃないっ!」とかわい子ぶったことは仕方がないことだとあくまで言い張る。
けれどオカマ口調になった純にはそんな言い訳は通じない。人生の何たるかを知った経験者としての振る舞いが源氏名「じゅん」ことじゅんちゃんにはにじみ出ていた。
「キスまでいったんなら、もう一押しじゃないのよっ!」
せっかく比呂巳は助け船を出してくれたというのに、弥恵のへたれっぷりといったらないわね、とじゅんちゃんは思わず溜息を付いてしまう。「もうこの娘っこは肝が据わってないんだからっ」
それにしても、と風呂場での事情を知らない純は思う。
比呂巳もキスをするぐらいだったら、さっさと相思相愛の関係になればいいじゃないのかしら。もしかして弥恵の方から告白させたいって奴? あーもうこれだから最近の若い子って面倒臭いのよね。
と恋愛の玄人のように考えをめぐらす。「風呂で裸体を付き合わせているんだったらすぐにあんなことやこんなこと出来るじゃない?」
「だ、だってぇ、」
「黙らっしゃいっ!」と純はどこから取り出したのか知れない扇子で弥恵の額をぴしゃりと叩く。「言い訳は息苦しいわよっ!」
「見苦しいでしょっ!」と弥恵は小動物のように叩かれたところを押さえながら「……恋愛したことない兄貴に何が分かるって言うのよ」とぼそっと呟いた。
「あーあ、それ言っちゃうの。お姉さん……もといお兄ちゃんに言っちゃいけない言葉、第一位でしょ、それ。前言を撤回しますって言いなさいっ!」
その高圧的な上から目線に弥恵が憤らないわけはない。
「……何度でも言ってやる。恋愛したことない兄貴に私の気持ちなんてわかる分けないっ!」
「いつも言ってるでしょっ! 私はお前がお嫁に行く前に女性とお付き合いする気はないって!」
「そういうのなんていうか知ってる? シスコンよ、し、す、こ、ん、シスターコンプレックス。うぜぇんだよ、そういうのっ! いつもぺったぺったしてきやがってよ。うぜぇんだよ、うぜぇんだよ、うぜぇんだよっ!」
「ちょっとあなた、うざい言い過ぎだからっ! うぜぇえって言われるとマジで凹むから。いいこと弥恵、私はあなたのためを思って、」
「迷惑なのよっ! 面倒臭いのよっ! ロリコンだったら他の娘とよろしくやればいいじゃないのよっ!」
「私はロリコンじゃないわよっ。それより、弥恵は充分ロリよ。ロリにプロが合ったらドラフト一位よ、あなた。プレミアリーグも夢じゃないわよっ!」
「はあ? 何言ってんの。私、すげー大人だし。比呂巳のママが私のこと凄く大きくなったって言ってたしっ!」
「弥恵ったら冗談きついわ。その主語は胸のこと、バストのこと、おっぱいのことよっ」
「おっぱいとか真顔で言うな、変態、唐変木、甲斐性なし」
「ともかくっ、世間では弥恵はロリなのっ! 弥恵はロリにカテゴライズされるのっ! 弥恵にはその自覚が足りないわっ。お姉ちゃん心配よ。ロリコンじゃないけど心配よっ!」
「勝手にカテゴライズしないでよっ! 一般論って大嫌いっ! 一般論を笠に来た偏見はもっと嫌いっ!」
「その通りよ。なんでアニメが好きだからって後ろ指差されなきゃいけないのよっ!」
「なんで女の子が好きだからって後ろ指差されなきゃいけないのよ。百合で何がいけないのよっ!」
「弥恵っ!」
「兄貴っ! いいえ、お姉ちゃん」
ひしっと兄妹は、いや姉妹は手を握り合った。純と弥恵の兄妹喧嘩は純が黙らされて終わるか、こうやってなんだか分かり合って終わるのである。
「おいおい、また兄妹喧嘩かよ?」
弥恵とお揃いの黄色のパステル調のタオル地のパジャマを着た比呂巳が、いつの間にかリビングで呆れた風に牛乳をぐびぐびと飲んでいた。おっぱい大きくなるかな、と考えながら。
「お前が言うなっ!」と純と弥恵。
「……なんで私が怒られなきゃいけないのかな?」と比呂巳は自分に喧嘩の発端があるとは夢にも思わないわけで。
兄妹喧嘩を経て、更に一層絆を深くした純と弥恵は一致団結して次の企みに取り掛かる。今度こそ吊り橋効果で愛の告白である。
「トランプでもやろうか」
牛乳を酒のように煽る、タオル地の二人を前に純はそう宣言した。弥恵は待ってましたといわんばかりに「じゃあ、私の部屋でやろう」と比呂巳を無理矢理二階に連れ込んだ。布団はすでにセッティング済みである。三人はその上に座り、ババ抜きを始めた。ここまでは計画通りである。あとは純が真っ先に上がって「ちょっとトイレ」と言ってブレーカーを落としに行く。そういう算段になっていた。
けれど……。
「あがったわ……」「あーがりっと!」と純は一向にあがらない。常に最下位の仕事でカードを切っている。シャッフルがそのつど上達していく様に弥恵は憤りを覚えざるを得ない。その気配を純はひしひしと感じているためか、余計上がれない。
「ちょっとトイレ」
そう言って部屋を出て行ったのは比呂巳であった。部屋にはババ抜きをする意味のない二人が残された。けれど律儀に純と弥恵はゲームを終わらせた。またしても純の負けだ。
「どうしてっ! どうして兄貴は勝てないのっ!」
「知るかっ! 俺が聴きてえよっ!」
「運が一〇〇パーセントを占めるゲームなのに……、この部屋に不幸が蔓延しているとしか思えないわ」
それにはもちろん心当たりが合った。純は今更のように不幸のお守りを思い出し「あちゃー」と顔をしかめた。
「仕方ない。細工をするわ」とそういう弥恵の目の下にはうっすらと隈が出来ていた。
「細工って?」
「私がババを隠して持っていればいいんだわ。そうすれば、」と必死の形相で山札からジョーカーを探す弥恵である。それを横目に純はあることに気が付いた。
「今すげぇことに気付いたんだけど、」ともったいぶった言い方をする。
「何?」とすがるように弥恵は純に顔を近づける。ぽやっとしたシャンプーの香りが漂い、純はふわっと幸せな気分になる。
「怒らない?」「怒らないわよ」「ぶたない?」「ぶたないわよ」「本当?」「本当」
「じゃあ」と純は口を開いた。「そんな小細工しなくても「ちょっとトイレ」って言って出て行けばいいんじゃね?」
ガツン。純の頬骨めがけて弥恵の左フックが打ち込まれ、部屋に鈍い音が響いた。
「ぶたないって言ったじゃんっ!」
「ぶったんじゃないわ、殴ったのよっ!」
「どうしたの?」と比呂巳は純の部屋から『るろうに剣心』と『スラムダンク』を抱えて持ってきた。「完全版はいつ買うのさー」
「おいおい、自己破産だよ」
人生ゲームだとどうなるんだろう、との純のどうでもよろしい好奇心のため、片付けの手軽なトランプから片付けの面倒な人生ゲームへと変った。純は序盤こそ、六本木ヒルズの最上階に住めるほどの資産を得たが、その引越しの直後、マネーゲームの失敗により、多額の負債を抱え込み、結局は破産した。ゲームとはいえ、少々、いやかなり凹んだ。これからの人生を暗示しているようで。天国から地獄の道のりはあっという間だったなあ、と路頭に迷ったITベンチャーの社長よろしく、純は感慨に耽る。
「感慨に耽っている場合ではないのではないですか?」
そういう弥恵はアイデア商品で一発当てたギャル社長で、セレブな生活を盤上で行っていた。比呂巳は逆玉婚でそれなりに豪勢な生活を送っている。妹たちが幸せであればいい、と純は感慨に耽る。
って感慨に耽っている場合ではない。ブレーカー、ブレーカー。
「ちょっとトイレに」
弥恵に流し目を送る。弥恵はこっくりと頷いた。念のため比呂巳にも流し目を送る。比呂巳はどきっとしたようになり、恥ずかしげに頷いた。
それが運の尽きだった。
純は言葉通りに用を足すと、別に足さなくてもいいのだが、ブレーカーを下ろしに台所へと向った。カチャリとブレーカーは落とすと一気に静寂が訪れた。簡単なもんだな、と余裕をかまそうとした瞬間だった。
「ひゃあ、何!?」
あれ?
なぜだか、弥恵の部屋にいるはずの比呂巳の悲鳴が後ろから、それもすぐ近くから聞える。
なぜだろう? 分からない。
今、比呂巳は弥恵とよろしく吊り橋効果なはずである。
しかし、比呂巳は純の目配せに「大事な話をするからおいで」的な意図を間違って読み取ってしまったのである。レジにシーチキンを通したらベビードールと表示されるみたいに。
「ひ、比呂巳?」と純は暗闇の中、比呂巳を呼んだ。
「て、停電? びっくりした」
どうやらブレーカーを落としたところは見られていないようであるが、このままでは計画が台無しである。まあ、弥恵と比呂巳が同時に部屋にいない時点で既に失敗しているのだが、純は気が動転してしまって慌ててブレーカーを上げに手を伸ばす。しかし暗闇の中で何も見えず、光の耐えない現代社会で頼られなくなって久しい三半規管は不覚にも機能しない。
純の両腕は暗闇をおっとりがたなのようにふらふらとさまようと、何か柔らかいものを掴み取ってひたっと安定した。
一体なんだ?
あまり大きくない。けれどこの柔らかくてマシュマロのような弾力を持ったものは?
まさか……この感触は?
「ひゃあ」
比呂巳の悲鳴が今度は前方から聞えたような気がする。
普通ブレーカーというのは間違って下ろされないように高いところにあるはずである。最近は節約志向も高まり、手の届くところに設置されている住居も増えてきているようであるが、しかしここは日本の辺境地帯紀州和歌山である。そんな都会的なトレンドが伝わっていようはずがない。まして旧来の陋習を重んじる高野家は質素倹約を旨としながら節約などには無頓着というなんとも矛盾に満ちた家柄として有名である。とどのつまり純が手を伸ばしてやっとのところにブレーカーはあるのであって、ロリ娘の胸の位置にはブレーカーなどないということをこの際言っておきたい。
しかし純の両の手は一寸のくるいなく比呂巳の年齢にしては多少小ぶりなまな板としばし揶揄される女の子の神秘をがっちりと捕まえていた。
捕まえただけではなく、純は掴んで中々離そうとしない。
「ひゃあ」
「す、すまん」
思わず(?)力が入ってしまったらしい。中学生の悲鳴を二度も奪って、やっと純の手は離れていった。
沈黙。互いの胸の鼓動は互いに聞えているんじゃないかと思えるほどに高鳴っていた。
いわゆる、吊橋効果ってやつですね。
「……い、いいよ。兄貴なら」と沈黙を破ったのは比呂巳だった。女子相手だったらどんなことがあっても気持ちを自由にコントロールできる比呂巳だったが、男子を前にそれは難しいらしかった。弥恵と比呂巳の通う学園は小学校から大学まで一貫して女学校である。年頃の男子は純しか知らない。しかも比呂巳は純が大事な話をしてくると思っていたので、余計気持ちが高まってコントロールできなかった。
しかし純はそんな比呂巳の気持ちを露程も知らない。弥恵と比呂巳はともに百合だと確信しているのだ。
「え? 何がいいって」と純は比呂巳の贔屓にしているバンドのニューアルバムの出来が凄く良くて、そのCDでも貸してくれるのかな、なんて見当はずれなことを考える。
目の前にいる比呂巳がぷくっと頬を膨らましていることは暗闇で分からない。
「だ、だから、その兄貴になら、そのごにょごにょ」
「ごにょごにょじゃ分かんない。それよりもブレーカー、ブレーカー」と純の手を伸ばす。その手は比呂巳の手に包まれるように握られた。小さな両手が純の右手を離さないようにぎゅっと強く握っている。かなり手汗を掻いている。熱でもあるのか、と純は不安になって問いかける。「比呂巳?」
どっくどっくと血液が流れる音が純にも分かる程、比呂巳は極度の緊張を味わっていた。
「いつになったら大事な話、してくれるの? いい加減、待ちくたびれちゃったよ」
か細い声が暗闇を漂う。女の子に告白されたり、ラブレター貰ったりするのとは勝手が違う。男の人と付き合うのって良く分からない。だからどうでもいいことばっかり考えちゃって比呂巳はもう「待ちくたびれてしまった」のだ。
そんな気苦労をしているとは知れず「大事な話はこれから弥恵がする予定なんだがな」と純は、「じゃあ、比呂巳の方から言ってくれない。どうにもこうにも、いざとなると決心が鈍るっていうかさ」と軽い感じで頼み込んだ。
「え? 私が、するの?」
「やっぱりされたいのか?」
「別に……でもそういうのって、普通、男の人の方がするんじゃないの?」
「男? ……それはいわゆる攻めか、受けかってことか?」と純はBLを例えていっているのか、と勘違いする。あながち間違いではないので「極端に言えば、そうなるのかな」と比呂巳も同意を示す。
「だったら比呂巳の総攻めだろ。それで速攻でリバが発生で比呂巳の総受けになる。どうだ?」
純のカップリングの構図は基本比呂巳×弥恵らしい。リバは週に一回のペースで発生したら丁度いいんじゃなかろうか、との考えである。
「どうだって言われても……兄貴、卑怯だよ」と告白した途端に押し倒されてあんなことやこんなことをされちゃうところまで想像してしまい、一人「かあーっ」となっている比呂巳であった。
「そこを何とか、お願いします。弥恵のために」
そうね、せっかく弥恵がセッティングしてくれたんだから、親友としてそれを無下にするなんて出来ないわね、と比呂巳は腹を括った。
「分かった。する。するからねっ!」と快活な声が飛び出す。
告白なんてしたことないから、比呂巳は祈るように純の手を強く握った。すると純は条件反射的に握られたので握り返してしまう。それが比呂巳の純粋無垢な心に勇気を与えたらしい。
「私、広瀬比呂巳は高野純が大好きです」
「……はい?」
「これでいい? ちゃんといい返事したよ?」
「……ええッ!」
「なんでそんなに驚いてんのさあ?」と不服そうに比呂巳は言った。純は比呂巳が言うように驚いていた。だって比呂巳は弥恵が好きで、弥恵は比呂巳が好きで、俺は哀しいかな蚊帳の外のはずだ。悲しいけれど、ちゃんと自覚はしている。
「それはどういった意味で?」
正直、比呂巳の告白を素直に受け止められない。変んな風に誤解が付属しているかもしれない。そうとしか考えられないから、聞いてみる。
「それはその、兄貴とあんなことやこんなことをしたいって意味だよ……、言わせんなよ、こんなこと」
なんだそのマジで俺にラブしてます的な雰囲気はっ!
暗闇の中でも比呂巳が嘘を言ってないことは純にも分かった。けれど申し訳ないが純は妹の友達以上の感情を比呂巳には抱けない。そしていくら吊橋効果だからといって限度があるということことを純は知った。まあ、付き合いの長い者同士が吊橋効果を狙ってもあまり意味はないのであるが、そのことを純は身をもって知ったのだった。
というか、そんなことよりもどうして比呂巳は俺に告白を迫っているのだろうか?
「……比呂巳の気持ちは嬉しいが、でもお前は弥恵のことを好きなんじゃなかったのか?」
「好きだよ」
そう即答したように比呂巳は弥恵を好いているはずだ。
そして、聞いてみる。
「それはどういった意味で?」
「親友って意味に決まってんだろっ!」
あれ?
「……弥恵とあんなことやこんなことしたくないの?」
「そんなことする気はないよ。弥恵も私とあんなことやこんなことしたくないって言ってたし」
「?」と純は頭の上にはてなマークを作らざるを得ない。弥恵あんなことやこんなことをしたいほど比呂巳を好きだけど、あんなことやこんなことはしたくないのか? プラトニックなのだろうか?
「そうなのか? で、でも、弥恵にキスしたんだろ?」
「するよ。女の子同士だもの。ごめんねのキスぐらいするよ~」
なるほど……ん?
女の子同士のキスは普通という比呂巳の意見。
そして比呂巳は親友という意味で弥恵が好きだから……つまり、比呂巳は百合っ子じゃないってことか?
「……比呂巳は女の子同士の恋愛ってどう思う?」
「なんなの雫も弥恵も兄貴も、そんなに私に同性愛についての意見が聞きたいの? BLの知識でしたら好きなだけご披露しますけど。あっ、もしかして兄貴ホモなの」
「ちげーよっ、も、もしもだ。お前のことに特別な感情を抱く女の子がいたとするだろう? そしたらどうする?」
「それはどういう意味で?」
「そりゃあ、あんなことやこんなことをしたいという意味でに決まっているだろ」
「……まあ、相手によるよね。私はリベラルな人間だから男とか女とかあんまり気にしないし」
だから比呂巳は弥恵の気持ちに応えてくれるんだろ?
「弥恵があんなことやこんなことをしたいって言ったら?」
「だから弥恵は私をそんな目で見てないんだって。それより、兄貴の返事まだ聞いてないっ! 早く答えてっ!」
……返事?
「私が好きなんでしょっ! 付き合うんでしょっ! だから今日パジャマパーティーをしたんでしょっ!」
…………………………は?
比呂巳の剣幕は純の心を素通りした。「なんだそれ?」という感じで。
「悪い、多分、比呂巳は勘違いしている」
「……へ?」
「言いか、よく聞け。俺はお前のこと大好きだよ。もちろん妹の親友という意味で。でも大好きの性質は遠目から見てもはっきりと違いが分かるほどに乖離しているのは分かるか? 比呂巳の愛はきちんと俺には届いた。しかし比呂巳との云々に関して俺にはゆがみがないんだ。とどのつまり、俺は比呂巳に欲情しないんだ。これっぽちも、欲情した試しがないんだ。それはなぜか? 第一に比呂巳は妹の親友である。第二に俺はロリコンじゃない。そして第三に」と純は一息ついてから、
「お前は貧乳だ。さっき確かめてそれがはっきりした」とまるで人が変わったみたいに抑揚をなだらかにつけて、プレゼンテーションをするように言った。「これで俺の気持ちは確かに伝わっただろう」となんだか満足げの純であった。
一方、純の「よく聞け」の言い付けを守って、よく聞いていた比呂巳はその言われように理不尽極まりないご様子、ぷんぷんといきり立っている。
「なんだよ、それ? なによ、その言われよう! 私、兄貴に振られたってこと!?」
「そういうことになるなあ、残念でした」
平然と言い放つ純の襟首に比呂巳の手が伸びる。暗闇なので首を絞めたくても捉えられない。
「くっはあー。人の良心に付け込みやがってこんちくしょー。兄貴なんてこれっぽーっちも好きじゃないんだからなっ! 兄貴なんて大ッ嫌い! このバカちんっ!」
どうして純なんかにコロッとやられてしまったのだろう。比呂巳は自分の惚れっぽさをつくづく後悔した。振られて、冷静になってみれば純なんかを好きになるはずがないのだ。純を好きになるくらいだったら弥恵を好きになってめちゃくちゃにしてやる。そっちの方が形而上学的で、なんだか文学的で、甘酸っぱい一夏の経験としてふさわしい。
比呂巳は今日というこの日を抹消することに決めた。
二度と思い出すもんかっ!
しかし、封印の作業を妨げるように暗闇の中から純のニタニタとした表情からこぼれる野次が飛ぶ。
「比呂巳、それはもしかしてツンデレってやつか?」
「デレる要素がこれぽっちもねーよッ!」
「比呂巳、俺はお前の告白を一生忘れないぜ」
「消せー、記憶から消ーせっ!」
「比呂巳、兄貴のこと大好き。ふふっ」
「やーめーろー」
「いつだってお前はおっちょこちょいなんだから」
「兄貴が電話なんか掛けてきて、もったいぶっていうからだろっ!」
「火の無いところに煙は立たないっていうよね~」
「ちがうわい! ……そもそも、大事な話があるって言ってたのは一体何だったんだよ?」
もしかして弥恵が私にレズだって告白したことかな? 比呂巳は内心そうだろうなあ、と当て推量した。多分、協力して欲しかったんだろう。昨日のイベントで会った、先輩に告白するために。
そう考えたところで心の中で小さい嫉妬心が生まれていることに比呂巳は気付いた。
あれ? もしかして、私……。
そんな風にやきもきと考えている乙女の傍らで、純は企みもおじゃんになってしまったし、比呂巳も全く百合に否定的でもないようだし、弥恵の気持ちを話してもいいんじゃかろうか、なんて思っていた。それが弥恵のためだろう。その判断は物凄く正しかったし、比呂巳の気持ちも純には知れていないが、この瞬間揺れていたのだ。吊橋効果とはちょっと違うが、暗闇は人の些細な気持ちを肥大化させる効果を持っていた。
けれど、やはり不幸は襲ってくるもので、
「比呂巳、実はな、」
と言いかけたところで純はパジャマの裾を踏んづけてしまい、躓いてしまった。そしてあろうことか純の体は比呂巳に覆いかぶさるように倒れてしまったのだ。すでに愛しのお兄様ではなくなったただのロリコンに襲われたとあっては盛大に叫ばずにはいられない。
「いぃぃぃぃぃやああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
と、そこで。
ピカッ。
フラッシュがたかれたように辺りが急に明るくなった。
純が「ぷはっ」と比呂巳の柔らかい体から体を持上げた。明順応が追いつかないがどうやら比呂巳の後ろには弥恵が立っているようである。なかなか戻ってこない二人を心配して階下に下りてきたのであろう。弥恵は暗いところが大の苦手であることを純は知っていた。小さいころ、お化け屋敷に無理やり連れて行ったことがある。そのときの弥恵の怖がりようといったらなかった。にもかかわらず、暗闇の中、ブレーカーを上げてくれたのだ。なんと優しい妹だろうか。純は天使を見るように弥恵を仰ぎ見た。
しかし、次第に機能を回復した純のつぶらな瞳が映し出したのは、般若のような形相をした弥恵の顔であった。
「や、弥恵ぇ、私、襲われちゃったぁよぉ。変態に変態されるところだったよぉ」
比呂巳はいつの間にか純の体の下からすり抜けて、弥恵の足元に擦り寄っていた。弱々しい声音と裏腹に、「ざまあみろ」と言わんばかりのあっかんべぇが繰り出されていた。散々からかわれたことへの仕返しだろう。
「あっ、比呂巳、てめぇ、」
そこで純の無駄口が塞がれた。「んあっ……」
「……一遍、死んで見る?」
その充血しきった瞳、黒髪に隠れた無表情な白過ぎる顔。
その御姿はまさしく地獄少女。
リビングは一瞬で血の匂いの立ち込める、まさに地獄と化した。
比呂巳はその光景に堪えられなくなって、逃げるように高野家から走り去っていった。




