名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
宮家の醜聞 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
宮中に届いた一通の密書。それは、皇族の婚姻を揺るがす禁断の恋と、一枚の似絵に隠された秘密の始まりだった。依頼を受けた中宮・彰子は、女房の赤染衛門とともに真相を追う。しかし相対するのは、美貌と才覚を兼ね備え、誰にも人生を委ねない謎の女・伊涼。変装、潜入、推理の果てに彰子は真実へたどり着くが、最後の最後で「かの人」は彼女の手をすり抜ける――。これは、"石の中宮"が唯一取り逃がし、生涯その名を忘れなかった宿敵との知略戦を描く、平安宮廷ミステリー。
彰子さまにとって、あの女は、いつでもただ「かの人」でした。
ほかの呼び方を、私はほとんど聞いたことがありません。美しいとか、賢いとか、気の強い女だとか、そういう言い方は、むしろ周囲の者が勝手に足すのであって、彰子様ご自身は、ただ「かの人」とだけおっしゃいます。
その響きには、軽蔑もなければ、媚びもありません。ただ一人、忘れがたい相手を記憶の棚から静かに取り出すような、妙に落ち着いた重みがあります。
もっとも、だからといって、恋だの憧れだのという話ではありません。彰子様は、人を好き嫌いで測るお方ではありません。
いえ、好き嫌いがないわけではないのでしょうが、それを前へ出して物を見ることが、ほとんどありません。
人の心がどこで揺らぎ、どこで嘘をつき、どこで守りに入るのか。そうしたものを、情に流されずに見抜いてしまう。
私は長くそのおそばにいて、つくづく思います。このお方は、人の情を知らぬのではない。知りすぎているからこそ、あえて距離を置いてご覧になるのだ、と。
でも、そんな彰子様にも、一度だけ。ほんのわずか、相手を認めて、しかも取り逃がした事件がありました。私はそれを、後に覚え書きにこう記しました。
――宮家の醜聞。
そして、その中心にいた女のことを、私もまた、心の中で「かの人」と呼ぶようになったのです。
その夜、私は久しぶりに梅壺へ上がりました。婚儀ののち、しばらく里に下がっていたので、御前から遠ざかっていたのです。
もちろん文のやりとりは続いていましたし、何かあれば呼ばれるつもりでもいたけれど、やはり同じ御簾のうちにいてこそ分かる空気というものがあります。
人の気配、女房たちの声、夜の灯、香の濃さ。そうしたものに触れると、私はようやく「戻ってきた」と思いました。
その晩も、ただご機嫌伺いのつもりで立ち寄りました。けれど、梅壺のあたりに近づくと、何やら様子が違います。女房たちが、いつもより声を落としています。廊を行く足音にも、どこか緊張があります。
嫌な予感がしました。御前へ通されると、彰子様は几帳のそばで、何やら一通の文を前にしておられました。私の姿を見ると、彰子様は珍しく、ほんの少しだけ口もとを和らげられました。
「衛門、よいところに」
「何かございましたか」
「たぶん、面白いことが起きます」
その「面白い」は、たいてい私にとっては面白くありません。死人や失踪や破談が近い時に、彰子さまはこうおっしゃるからです。
「それは、喜んでよい種類の面白さでしょうか」
「半分は」
「残り半分が怖うございますね」
私がそう言うと、彰子さまは文を差し出された。
「読んでみなさい」
紙は、ひどく上等なものでした。都でも一流の紙屋がそう簡単に出せぬほど、滑らかで、しかし腰が強い。白ではなく、かすかに薄紅を帯びている。香も焚きしめてあるが、女の文にあるような甘さではない。もっと乾いて、鋭い香りです。文面は、こうでした。
『今宵、亥の刻少し前、ある貴き人の使いとして、きわめて重大なることを相談したき者、参ります。近ごろ、中宮様が人の口に上らぬ事どもを静かに収め給うと聞き及びました。されば、顔を隠したる者が参るとも、お怪しみくださいますな。何卒、お目通りが叶いますよう。』
私は読み終えて、首をかしげました。
「何やら、もったいぶっておりますね」
「ええ」
「貴人の使い、と言いながら、自分で来る気満々に見えます」
「そのとおり」
「しかもこの文、少し変でございます」
「どこが」
「言葉の運びでございます。和文にしようとしておりますが、漢文癖が強いように感じます。都人の女房文ではありませぬ。男の文で、それも、普段はこういうやわらかな仮名交じりで書き慣れておらぬ方かと」
彰子様は、そこで目を細められた。
「よく見ていますね。珍しく当たりました」
「珍しく、は余計です」
私は咳払いしました。
「ほかには」
「紙が、都のものではなさそうです。越前でも美濃でもなく、もっと外の……いえ、分かりませぬが、とにかく珍しいように思います。香も変わっております」
「そこまで分かれば十分です」
そして彰子さまは、まるで歌合の評でも始めるような静かな口調でおっしゃった。
「この文の主は、高い位にある男です」
「やはり」
「しかも、自分で『使い』と言いながら、その実、他人を間に立てるのが不安なのです」
「つまり、本人が来る」
「ええ。また、顔を隠しても怪しむな、という一文。これは“隠さねばならぬ身”だということを、先に飲み込ませたいのでしょう」
私は文をもう一度見た。
「では、相当に厄介なことが」
「はい。おそらくは、宮家に関わる醜聞です」
ぴたりと言われて、私は背筋が冷えた。噂好きの女房の争いならまだいい。だが、宮家。しかも醜聞。そういう話は、一つ転べば政にまで響きます。
「衛門」
「はい」
「残っていなさい」
「……嫌な予感しかしませんが」
「大丈夫です。あなたは見るだけでよいので」
「それを大丈夫と言ってよいのかは、毎度ながら疑問でございます」
そうしているうち、外で人の気配がしました。かなり大柄な男らしい、重い足音。女房たちの取り次ぎの声にも、いつもより張りがある。やがて御簾の向こうへ通されたその客を見て、私は思わず息を呑みました。
背が高い。ただ高いだけではない。肩幅が広く、体の厚みもある。直衣は目の覚めるような濃い青に、異国趣味の織り。袍の縁には、見慣れぬ毛皮があしらわれています。都の貴族らしい洗練より、どこか力づくで豪奢な印象です。そして、その顔の上半分は、薄い覆いで隠されていました。
「文はお読みいただいたであろうか」
声は低く、よく通る。雅びに整えた京言葉ではありません。どこか硬く、言葉の節回しに異国めいた癖があるが、中宮・彰子様に対する慎みは確かに感じられました。
「ええ」
と、彰子様。
「こちらへ」
客は座したものの、私を見て一瞬ためらった。
「この女房にも、話を聞かせるおつもりか」
「構いません」
彰子様はさらりと言われた。
「赤染衛門は、わたくしの目と耳の片方です。ここで言えぬことは、わたくしにも言えぬとお思いなさい」
私は心の中で、目と耳だけならよいが、巻き込まれる足にもなりがちなのですよ、と呟きました。
客はしばし考え、やがてうなずいた。
「ならば、二年」
「はい?」
「二年は、今宵の話を口外せぬとお誓い願いたい。その後ならば、事はもはや問題ではないゆえ」
「承知しました」
と、彰子さま。
「わたくしは誓います」
「私も」
と、私は慌てて続けます。ここで渋れば追い出されるだけです。客はそれを聞くと、ゆっくりと覆いに手をかけました。
「では、中宮様の前で無益な偽りはやめよう。私は、東三条の宮に連なる者……という程度では済まぬ。いまこの都で、顔を知られて困る身の者だ」
その言い方に、私は彰子様を見ました。お顔色は変わらない。
「仰せられる前に答えましょうか」
と、彰子様。
「あなたさまは、有明親王殿下にございますね」
男の顔が、はっきり変わった。驚きと、そしてわずかな安堵。
「……どうして分かられた」
「文と紙と香と、今のお姿。都風に崩しきれぬ言葉遣い。さらに、他人を立てるより御自分でいらした方が早いと判断なさる性分」
そして、少しだけ間を置いてから。
「何より、その大きさです。これほどの体格で、しかも宮中に名を知られた方はそう多くありませぬ」
親王は、一瞬ぽかんとしたあと、ふっと笑った。
「なるほど。中宮様の慧眼、噂に違わぬ」
「それで、殿下」
彰子様は静かに問いを戻された。
「どのような醜聞を、片づければよろしいのです」
有明親王の話は、要するにこうでした。五年ほど前。まだ今ほど重い立場に置かれる前、親王はしばし大宰府に滞在していました。その折、ある女と知り合いました。
「名を、伊涼と申す」
親王がその名を口にした時、声がほんの少し変わったのを、私は聞き逃さなかった。未練とまでは言いません。でも、少なくとも記憶は鮮やかなまま残っている声音でした。
伊涼。
私は聞いたことがありました。都にも一時噂の届いた女御です。歌も舞もでき、琴も巧みで、何より人の心を読むのがうまい。大宰府あたりで、渡来の人々や商人まで巻き込んで名を知られた女だとか。
「ただの遊び、でございましたか」
と、私は思わず口をはさんでしまった。すると親王は私を見て、少し苦い顔をした。
「今となっては、そう言えば早かろう。だが当時は、私なりに本気であったのだ」
私は黙りました。こういう時、下手に刺すと話が止まります。
「文を交わし、歌を送り、幾度も会った。そのうち、戯れに似絵を描かせたのだ。都から下っていた名高き絵師がおってな。酒の席のはずみで、二人を並べて描いた」
私はそこで、ようやく話の危うさを理解した。
「その絵が、残っているのでございますか」
「絵だけではない。裏に私の自筆がある。しかも、ただの和歌ではない。誰が見ても、私とあの女がただならぬ仲であったと分かる文句だ」
それはまずい。非常にまずい。
「恋文だけなら、偽りとも申せましょう。けれど、顔を並べた似絵に、自筆の詞書が添えられては、逃げようがありますまい」
親王は、ほとんど吐き捨てるように言った。
「今、私は北家の姫君を正室に迎える、我が身の行く末を左右する大きな縁組の中にある。まだ公にはすべて定まってはおらぬが、あと三日もすれば、動かしようのない形で披露される」
私は心の中で、これは確かに宮家の醜聞だ、と認めざるを得ませんでした。しかも、親王はなお続けました。
「伊涼は、その絵を相手方へ送ると言っているのだ」
「殿下を破談に追い込むために」
「そうだ」
「売ってはくださらぬのですか」
「金では動かぬ。あの女は、金に困る女ではない。むしろ、金でどうこうできぬからこそ厄介なのだ」
「盗み返すことは」
「五度試みた」
私は目を丸くしました。親王は、さすがに自分のしたことの幼さを恥じているらしく、少し顔をしかめた。
「邸へ人を入れたのが二度。旅の荷に手をつけさせたのが一度。道で襲わせたのが二度。いずれも失敗した」
それを平然と言うのもどうかと思いましたが、今はそこを責める場ではありません。
「ということは」
と、彰子様。
「その絵はまだ伊涼どのの手元にある、とお考えですか」
「そうだ」
「確証は」
「婚礼が公になる日に送る、と本人が言った」
彰子様は、少しだけ目を閉じられた。こういう時は、頭の中で一度整理しておられる時だ。
「殿下。伊涼どのは、今はどちらに」
「六条の東、柳の小路にある邸だ。“柳屋敷”と呼ばれている」
「ひとり暮らしで?」
「ほぼ。ただ、出入りの男が一人いる。法に通じる文筆家で、名を源宣方という」
私は眉を上げた。いよいよ嫌な感じがしてきた。
「その男は」
「日に一度か二度は必ず通うらしい。私は当初、ただの相談役と思った。だが今では分からぬ」
「恋人かもしれぬ、と」
「……そうだ」
沈黙が落ちた。それを破ったのは、彰子様だった。
「殿下。まず申し上げますが、絵はおそらく柳屋敷にございます」
「そうお考えか」
「たぶん。女は、他人の手へ渡した秘密を嫌います。まして、脅しに使うつもりの札なら、なおさら。しかも、数日内に使うと決めているなら、手元に置くはずです」
「なるほど」
「ただし」
「ただし?」
「その出入りの男が、思ったより深く関わっている可能性はございます」
親王の顔が曇る。
「では、急がねばならぬな」
「ええ。明日一日、様子を見ます。その結果によっては、わたくし自ら動きましょう」
親王は身を乗り出した。
「この恩に報いるためなら、何でもしよう。金でも絹でも、あるいは景勝地の所領一つでも、望むままにお渡ししよう」
私は傍らで、思わずため息をつきそうになりました。
(帝のお后にして、あの左大臣・道長公の御愛娘であらせられる中宮様に、金や絹を申し出てどうするおつもりか。梅壺にはそのようなもの、蔵に余るほどございます。殿下もよほど余裕を失っておられるらしい)
だが、彰子様は呆れるでもなく、さらりと受け流されました。
「所領は間に合っております」
「では、何を」
「必要なのは、正確な時です。伊涼どのは毎日、いつ出入りを」
「酉の刻前に牛車で出て、戌の刻に戻ることが多い。ただ、最近は源宣方の出入りが増えている」
「分かりました。では今宵はお戻りください。進みましたら、文で知らせます」
親王は立ち上がりかけ、ふと足を止めた。
「一つだけ。もし絵が戻ったなら、中宮様には本当に見合うだけの、何か格別のお礼を差し上げたい。宮家の名にかけて」
彰子さまは、その申し出にもほとんど表情を変えず、ただこうおっしゃった。
「その時になってから考えます」
翌日、彰子さまは朝から動かれた。もちろん、御前の中宮がそのまま六条を歩くわけにはいきません。
けれど、このお方は、必要と見れば必要な姿になります。時に老尼、時に下働きの女、時に行きずりの物売り。私はそれを何度か見ていますが、いまだに慣れません。
この日も、昼過ぎに私が合流した時には、彰子さまはもはや御前の姿ではなかった。粗末な小袖に、くたびれた袴。やや背を丸め、髪も乱し、顔色まで煤でくすませてある。都のどこにでもいそうな、牛飼いの手伝い女か、荷運びの下女に見えます。
「……本当に、毎度ながら感心いたします」
「褒めていますか」
「半分は」
「残り半分は」
「私がここまでやれと言われたら、泣きます」
すると、彰子さまは少し笑われた。柳屋敷は、なるほど見事な邸だった。大きすぎず、しかし趣味がよい。正門は決して広くないが、板塀の向こうに庭木がよく手入れされているのが見えます。
いかにも、一人の才女が、自分の美意識の届く範囲だけをきちんと整えた家、という感じがいたしました。邸の裏手には厩舎があり、そこに数人の牛飼いや雑仕がたむろしています。
私は彰子さまの指示どおり、その辺りでさりげなく聞き耳を立てました。話はすぐ集まりました。都の下々の者は、金や酒だけでなく、退屈しのぎの相手をくれる人間にも案外親切です。
伊涼は、評判どおりの女御でした。美しく、機転が利き、男を引きつける。でも、ただの色めいた女ではなく、琴も歌も一流で、しかも客を選ぶ。ついでに、近所の男をほとんど皆とりこにしている、という下世話な話まで聞きました。
そして、源宣方という男。浅黒く、姿がよく、口数は少ないが、日ごとに通う。一日に一度どころか、二度現れることも珍しくない。私はそれを聞いて、もはや答えは明らかではないか、と思いました。でも彰子さまは、すぐにはそう決めつけませんでした。
「弁の立つ男が女の邸に頻繁に出入りするからといって、恋とは限りません」
「では、訴訟か金か」
「あるいは、秘密の保全です」
そう言われると、なるほどと思います。私たちが裏手から戻り、塀沿いの道を歩いていると、ちょうど一台の牛車が柳屋敷へ滑り込みました。中から飛び降りた男を見て、私は小声で「これですね」と言った。
背は高く、顔立ちは整っています。装束はきちんとしているが、気忙しそうで、懐から時刻を気にするように紙片を出して見た。そして門が開くやいなや、勝手知ったるふうに中へ入る。
「源宣方でございましょう」
「たぶん」
「どう見てもただの文使いではございませんね」
「ええ」
それから三十分ほど待ちました。やがてその男が、今度はもっと慌ただしく飛び出してきました。
「急いでいる」
と、彰子さま。その時、まるで図ったように、もう一台の牛車がやってきました。簾の陰から、女がするりと降ります。私は、一目で分かりました。この人が伊涼です。高すぎない背。しなやかな身のこなし。顔立ちはただ可憐というより、見た者の記憶に残る強さがあります。目が、まっすぐで、妙に静かなのです。
彼女は門前で男を見つけると、何事か短く言いました。声は聞きとれなかったが、二人とも急いでいるらしいことだけは分かります。源宣方は振り返って、待たせていた車の御者に叫んだ。
「三条の神明社まで急げ。刻限に遅れたら褒美はないぞ」
それを聞いた伊涼も、別の車に乗り込み、
「同じく神明社へ。早く」
と言いました。二台の車はほとんど同時に走り出しました。彰子様は、一瞬も迷いませんでした。
「追います」
「はい!?」
「馬を出させなさい」
彰子様が路地の奥へ向かって短く合図を送ると、辻で人待ち顔をして控えていた見すぼらしい身なりの男たちが、すぐさま二頭の馬を引いて駆け寄ってきました。有事に備えて中宮職からひそかに随行させていた影伴の者たちです。
いくら下々のなりに身をやつしているとはいえ、中宮さまが自ら馬にお乗りになるなど――と私が肝を冷やしている間に、彰子さまは手際よく男から手綱を受け取った。
「神明社まで。先の二台を見失わぬように」
「ひ、姫様! 私めは馬になど乗ったことは……!」
「同乗しなさい。振り落とされたくなければ、しっかりしがみついていることです」
影伴の先導で、馬が勢いよく駆け出す。私は必死に彰子さまのお腰にすがりつき、上下に激しく揺られながら、ひどく嫌な予感がした。
「姫様、まさか」
「ええ。あの二人、今から夫婦になります」
「ええっ!」
「まだ確定ではありませんが、その可能性が高い」
「ど、どうして」
「男が慌てていた。女もすぐ決断していた。行き先は神社。しかも刻限を気にしている。人に見られぬよう、急いで形だけでも契りを固めるには、十分です」
「それは困りますね」
「ええ。非常に」
なぜなら、女がすでに別の男の妻であるなら、親王を揺するための絵は、今やただの保険ではなく、別の男との生活を守る盾になる。いっそう手放さなくなる。神明社に着いた時には、案の定、二人はすでに社殿の前にいました。神官が困った顔で何か言っています。どうも、立会人が一人足りぬらしい。
「――ああ、ちょうどよい!」
誰より早くその状況を察したのは、源宣方の方でした。彼は人垣の中から適当な者を探し、よりにもよって、粗末な姿に変じた彰子様を見つけた。
「そこの者、来てくれ。すぐ済む」
私は目を見開いた。彰子様は、ほんの一瞬だけためらい、しかし次の瞬間には、いかにも戸惑った町人の顔になって進み出ていました。
あれよあれよという間に、起請文が用意され、神前で二人が誓詞を述べ、彰子さまが立会人として名前も知らぬまま据えられました。
私は後ろからその様子を見ながら、笑いをこらえるのに必死でした。有明親王が聞いたら卒倒することでしょう。儀が済むと、伊涼は立会の礼にと小さな扇を差し出しました。彰子様は受け取り、深く頭を下げて役を終えました。
帰り道。ようやく人目が遠のいたところで、私は吹き出しました。
「まさか神前の証人までお務めになるとは」
「予定にはありませんでした」
「それで、確定でございますね」
「ええ」
「伊涼どのは、源宣方の妻になりました」
「はい。これで事は、少しややこしくなり、そして少しだけ簡単になりました」
「どちらでございましょう」
「どちらもです」
その夜、私たちは梅壺へ戻ってから、親王へ短い文を送りました。
――絵はおそらく屋敷にあること。
――伊涼は本日、源宣方と契りを結んだこと。
――明朝、早くに同行願いたいこと。
親王の返事は早かった。それどころか、ほとんどすぐに使いが戻ってきて、「殿下は今にも駆けつけたいご様子」とのことでした。私は、恋のもつれで宮家の男が取り乱す時の厄介さを思い知りました。
でも、今夜すべきことは別にあります。
「衛門」
「はい」
「明日は、あなたにも少し働いてもらいます」
「やはりそう来ましたか」
「ただし、火をつけるわけではありません」
「“わけではない”という言い方が、すでに怖うございます」
彰子さまは、そこでようやく作戦を明かされた。
要するに、伊涼がもっとも大切にしているものの隠し場所を、自分から示させのです。そのために、事故を装い、邸の中へ入り込み、そこで火事だと騒ぎを起こす。人は、火の気に接した時、真っ先に一番大切なものへ手を伸ばします。それを見る――というのです。
「そんなにうまく参りますか」
「参ります」
「どうしてそこまで」
「女は、邸が燃えると知った瞬間、まず守るべきものを取ります。子を持つ者なら子を。宝を重んじる者なら箱を。秘密を抱える者なら、その秘密を」
「……たしかに」
「伊涼どのは賢い。ですから、絵を他人の手には預けない。そして、突然の騒ぎの中で理を尽くし続けられるほど、神ではない」
「では私は」
「私が合図したら、煙を投げ入れて、大声で火事だと叫びなさい」
私は黙った。もはや断れる空気ではありません。翌夕、私は約束どおり、柳屋敷の近くで彰子さまと落ち合いました。彰子様のこの日の変装は、昨日以上に徹底していました。黒ずんだ法衣。ややよれた頭巾。人のよさそうな年寄りの聖にしか見えません。あのまっすぐな背筋まで、どこへ消えたのかと思うほどです。
「本当に恐ろしいお方でございますね」
「誰がです」
「姫様でございます」
「いまは聖です」
「では、聖さま」
「何です」
「転んで血を流すのは、本当に必要で?」
「必要です」
「顔に紅を仕込むのも?」
「ええ」
「そこまでしても、お入りになるのは居間だけとは限らぬのでは」
「その時はその時です。ただ、火を出した時、客を置く場所がどこかで隠し場所の見当もつきます」
作戦は、こうだ。屋敷前に集まる者は、すでに手配済み。下男、荷担ぎ、研ぎ師、子守女、ふらふらした若者。いずれも、少しの銭で一芝居打ってくれる者たちです。
伊涼の車が戻った瞬間、小競り合いを起こし、聖姿の彰子様が「止めに入って」巻き込まれ、血を流して倒れる。気の毒がった伊涼は中へ運び込む。
窓が開いたら、私が煙を投げ込んで「火事」と叫ぶ。伊涼が何を真っ先に守るかで、絵の所在が分かる。私は、もうここまで来ると感心するしかありませんでした。無論、巻き込まれる身としては、内心冷や汗ですが。
やがて、日が傾き、牛車の音が近づきました。伊涼が戻ってきます。その瞬間、打ち合わせ通り、路傍の二人が「おれが先だ」「いやおれだ」と妙な喧嘩を始め、そこへ別の者が加わり、通りはたちまち騒ぎになりました。
人は不思議なもので、喧嘩があるとそれを見るためにすぐ群がります。あっという間に門前がざわつきました。伊涼が車から降りかけた、その時。彰子様――いや、聖さまが、いかにも善良そうに仲裁へ飛び出しました。次の瞬間には、顔を押さえて倒れています。
「まあっ」
と、伊涼の声がします。
「この方、お怪我を……!」
私は物陰から見ていたが、見事なものでした。紅が、まるで本当に切ったように流れている。下々の者が口々に「死ぬぞ」「いや息がある」と騒ぐ。
伊涼は一瞬も迷いませんでした。
「中へお運びなさい。居間へ」
その一言で、勝負はほとんど決まった。彰子様は担ぎ込まれ、私は決められた位置――大きな格子窓の外へ回った。幸い、簾は上がっていて、中が見えます。
伊涼は、自ら水を取らせ、傷を拭わせ、倒れた聖の顔をのぞきこんでいました。その横顔は、噂に違わぬ美しさでした。でもそれ以上に、気丈で、よく動く女の顔でした。
ほどなく、彰子さまが苦しげに胸を押さえる仕草をしました。酸欠の演技です。女房が慌てて格子を開け放つ。その瞬間、私は煙筒を投げ込みました。
「火事です! 火事!」
自分でも驚くほど大きな声が出ました。外の手勢もすぐさまそれに乗った。たちまち「火事だ!」の声が重なり、屋敷の中も外もざわめきます。
煙が立つ。伊涼が、はっと振り返ります。その一瞬だけでした。彼女は部屋の左手、呼び鈴の紐のすぐ上にある飾り棚へ駆け寄り、板を押し開け、中から細長い箱を半ば引き出します。
私は、思わず息を止めました。そこだ。
次の瞬間、彰子さまが掠れ声で言います。
「……違います、誤りです、火ではありません」
伊涼の目が、煙筒へ落ちました。
彼女は一瞬で何かを悟ったらしく、箱を元へ戻しました。でも、もう遅い。数刻のち、聖さまは礼を言い、助けられたことに感謝して屋敷を出ました。
私も騒ぎに紛れて角を曲がり、約束の場所へ急ぎます。ほどなくして、闇の中から彰子さまが現れました。今度はもう、聖の目ではなく、いつもの冴えた目に戻っています。
「見つかりましたか」
「ええ」
「どこに」
「居間の左、呼び鈴の上の隠し棚」
「では、明日」
「親王とともに参ります。ただし」
「ただし?」
「伊涼どのも、もうこちらに気づいているでしょう」
「えっ?」
「最後の目がそうでした。ですから、明日は早く動きます。もしかすると、先に逃げられるかもしれません」
その時、私は胸の奥に、説明のつかぬ不安を覚えていました。彰子さまが相手を認める時は、たいてい本当に相手が手ごわい時なのです。
翌朝、まだ空が白みきらぬうちに、親王は来た。昨夜のうちにほとんど眠れなかったのでしょう。顔色が悪いようです。
「今すぐでよろしいか」
「ええ」
と、彰子さま。
「遅れるほど不利です」
私たちはすぐ柳屋敷へ向かった。ところが、着いてみると、門が開いています。しかも、家の中がどうも落ち着かない。門番も、女房も、顔に妙な諦めを浮かべていた。年かさの下女が、私たちを見るなり言った。
「もしや、中宮様にございますか」
私はぎくりとした。だが、彰子様は動じない。
「そうです」
「お待ちしておりました。奥様が、きっと今朝、あなたさまが来るだろうと」
親王が、一歩前へ出た。
「伊涼はどこだ」
「夜明け前に、旦那さまとともに発たれました。もう都には戻られぬでしょうと」
親王の顔から血の気が引く。
「……何だと」
「置き文がございます。“中宮様に”と」
私たちは居間へ通された。中は、明らかに旅立ちの後でした。
几帳の位置がずれ、箱の蓋は開き、いくつかの調度が動かされています。だが荒々しさはなく、むしろきちんと整えた上で出て行ったのだと分かります。
彰子様は、迷わず呼び鈴の上の板を押しました。隠し棚が開く。中には、細長い箱が一つ。そして、一通の文。箱を開けると、そこには絵が――いや、絵だけがありませんでした。
代わりに、女の似絵が一枚。伊涼自身の肖像です。親王は低くうめいた。
「遅かったか……」
彰子さまは、文を開かれました。宛名は、たしかに「梅壺の中宮御前」。私たちは並んで読みました。
『畏れ多くも申し上げます。
まことに見事なお手並みでした。最後の最後まで、わたくしは、ただ人のよい怪我人を助けているつもりでおりました。けれど、あの火事の騒ぎで、ようやく悟りました。ああ、これが噂の「石の中宮」なのだ、と。
もっと早く気づくべきでございました。わたくしにも、前もって忠告してくれた方はあったのです。もし宮中から誰かが動くなら、きっとあなたさまであろう、と。
それでも、あの善良な聖さまを疑うのは難しゅうございました。まして、あれほど鮮やかに血を流してみせられては。わたくしは昔、舞や歌だけでなく、人を見る術も少しは身につけたつもりでおりましたのに、昨夜ばかりは、あなたさまに一歩譲りました。
ですが、負けたままで退くのは性に合いませぬ。そこで、夫と相談し、夜のうちに都を離れることにいたしました。
ご安心ください。あの絵は、親王殿下を害するために使うつもりは、もうございません。わたくしには今、もっと守るべき人がおります。その人との暮らしを乱されぬための護りとしてのみ、絵は手元に置いておきます。
親王殿下が、昔のような軽率さで、もう一度わたくしを踏みにじろうとなさらぬ限り、決して表には出しませぬ。その代わりと言っては何ですが、ここに一枚、わたくしの似絵を残します。
親王殿下には、昔のわたくしを惜しむより、いま目の前の縁を大切になさるよう、お伝えください。
そして中宮様。あなたさまに一つだけ、心から敬意を申します。女の心が、火の前でどこへ走るかまで見抜かれるとは思いませんでした。またいつか、別の形でお目にかかることがあれば、その時はもう少し正々堂々とお相手したいものです。
あなかしこ』
文を読み終えた時、しばらく誰も口を開きませんでした。有明親王は、拳を握りしめたまま黙っています。怒っているのか、安堵しているのか、自分でも分からないのでしょう。おそらくは、その両方です。やがて、親王は低く言いました。
「……あの女らしい」
そこに込められた感情は、複雑でした。悔しさ。安堵。わずかな未練。そして、認めたくはないが認めざるを得ぬ敬意。
「絵を残さなかったのなら、どうしようもないか……」
「はい」
と、彰子様。
「ですが、文面から見て、少なくともすぐ殿下を害する気はございません」
「信じてよいのだろうか」
「この人は、無駄な脅しをなさる方ではありません。使うなら使う。使わぬなら使わぬ。そういう種類の人です」
親王は深く息をついた。
「中宮様も、敗れられたというわけか」
「半分ほど」
彰子さまは、珍しくそうおっしゃった。
「隠し場所は見つけました。ですが、絵そのものは取り戻せなかった。ですから、わたくしの負けでもあります」
親王は、その答えを聞いて少し目を見張りました。たぶん、ここまで率直に自分の不首尾を認める人を、あまり見たことがなかったのでしょう。
「いや」
と、親王はやがて言った。
「私にとっては十分だ。あの女が絵を乱用せぬと分かっただけでも」
それから、ふと箱の中の似絵に目をやる。
「……まこと、よい女であった」
「殿下」
と、私はつい口をはさんでしまった。
「今は、そのようなことを申されている場合では」
「分かっておる」
親王は苦く笑った。
「そなたのような女房にたしなめられるとはな」
私は少しむっとしたが、彰子さまが目で制されたので、黙りました。
屋敷を出た後、親王は約束どおり、どんな褒美でも望めと言った。
「金でも、所領でも、装束でも、何でも仰せられよ」
「では」
と、彰子様。私は、てっきり断るかと思いました。でも、彰子様は少しだけ考えて、静かに言われました。
「この似絵を」
「何?」
「伊涼どのの似絵を、わたくしにくださいませ」
親王は、今度こそ本気で驚いたようでした。
「それだけでよいのか」
「はい」
「絹も金も要らぬと」
「ええ」
「なぜだ」
彰子さまは、少しだけ似絵を見つめてから答えられた。
「記念になります」
「記念、とな?」
「これほど見事に、最後の一歩で逃げ切った女を、わたくしは他に知りませぬ。ですから」
親王は、しばらく何も言いませんでした。やがて、ふっと笑います。
「なるほど。中宮様もまた、変わっておられる」
「よく言われます」
私としては、そこは否定してほしかった。こうして、親王殿下は去りました。その背中にはまだいくらか未練が残っていましたが、少なくとも最初のような狼狽はありませんでした。伊涼の文が、親王の自尊心を傷つけつつも、どこかできちんと着地させていたのでしょう。
梅壺へ戻った後、私は例によって覚え書きを始めました。今回の事件は、後々まで尾を引きます。きちんと整理しておかねばなりません。
「題はどういたしましょう」
と私が尋ねると、彰子さまは少し考えて言われた。
「宮家の醜聞、でよいでしょう」
「ずいぶん直截でございますね」
「今回は、それで足ります」
私は筆を走らせながら、ふと気になって尋ねました。
「姫様」
「何です」
「伊涼どののことを、どう思われますか」
彰子様は、しばらく黙っておられた。そして、ゆっくりと似絵を見下ろしながら言われた。
「賢い人です」
「はい」
「強い人でもあります」
「はい」
「けれど、いちばん恐ろしいのは、自分の価値を他人に預けていないことでしょう」
私は筆を止めた。
「他人に預けていない」
「ええ。殿下に捨てられても、自分を崩さなかった。金で買われない。脅されても、ただ怯えるだけでは終わらない。最後には、自分で夫を選び、自分で都を出た」
「……たしかに」
「こういう女は、強いです」
その声に、嫌味はなかった。むしろ、はっきりとした評価だった。
「では、お嫌いではないのでございますね」
私がそう言うと、彰子さまは、ほんの少しだけ笑われた。
「衛門」
「はい」
「好き嫌いで測るには、惜しい相手です」
私は、その言葉をそのまま書き留めた。
――好き嫌いで測るには、惜しい相手。
これほど高い評価を、私はめったに聞きません。
「今後、伊涼どのを何とお呼びいたしましょう」
そう問うと、彰子様は一拍おいて答えられた。
「『かの人』でよいでしょう」
その時から、私にとっても、伊涼はただの一人の美しい悪女ではなくなりました。
宮家を揺らしかねぬ絵を手にしながら、それを最後の刃としては振るわず、しかも誰にも守られずに逃げ切った女。
そして、石の中宮に、ただ一度、最後の最後で取りこぼさせた女。「かの人」。
その呼び名は、たしかにふさわしかった。
〜出典〜
A Scandal in Bohemia(ボヘミアの醜聞)
作:Arthur Conan Doyle 訳:大久保ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/226_31222.html
〜舞台背景〜
『ボヘミアの醜聞』は「名探偵シャーロック・ホームズ」の著者アーサー・コナン・ドイルの最初の短編であり、1927年の雑誌インタビューで「その後の道を開いた作品」と述べています。さらに、普段のホームズ譚より女性的な興味が強いとも評しています。で、現代の「名探偵シャーロック・ホームズ」解説記事では「単なる事件解決ではなく、ホームズという人物の限界と魅力を同時に見せる作品」とされていました。




