第5話『64kbpsへの宣戦布告』
1999年10月3日。日曜日。
鳴海家のリビングには、緊張した空気が漂っていた。
テーブルの上には、A4用紙が5枚。すべて手書き。表紙には「ご提案:家庭用通信環境の最適化について」と書かれている。
父・鳴海雄一は、その資料を見下ろしていた。
48歳。中堅の建設会社で経理を担当している。趣味は釣りと、日曜日のゴルフ中継を見ること。堅実で、保守的で、新しいものには慎重な男。
そんな父の目の前に、13歳の息子が正座している。
「……航」
「はい」
「これは、何だ」
「ご提案書です」
「見ればわかる」
父は、資料の1ページ目をめくった。
「現状分析:当家の通信環境」
そこには、グラフと数字が並んでいた。
現在の電話料金:月額約8,000円(基本料金+市内通話+長距離通話)。インターネット接続:アナログモデム28.8kbps。接続時間:月平均約40時間。通信費:月額約3,000円(パケット代込み)。
「……お前、うちの電話料金、どこで調べた」
「請求書です。お父さんの書斎の引き出しにありました」
「勝手に見たのか」
「必要な情報だったので」
父の眉が、ぴくりと動いた。
怒っているのか、呆れているのか、判断がつかない。
航は、続けた。
「2ページ目をご覧ください」
父は、無言でページをめくった。
「課題:現状の通信環境における問題点」
1. 電話回線とインターネット回線の競合。インターネット使用中は電話が使えない。
2. 通信速度の限界。28.8kbpsでは、画像の多いWebページの表示に数分かかる。
3. テレホーダイ未加入による通信費の増大。深夜のインターネット利用が割高。
「……」
父は、黙って読んでいる。
その表情からは、何も読み取れない。
だが、航は知っている。
この男は、論理に弱い。
感情で押してくる相手には強いが、数字と根拠を突きつけられると、反論できなくなる。39年の人生で、何度もこの父と議論してきた。そのパターンは、熟知している。
「3ページ目をご覧ください」
「解決策:ISDN回線への移行」
ここからが、本番だ。
ISDNとは:デジタル回線。1本の回線で、電話とインターネットを同時に使用可能。
通信速度:64kbps(アナログの約2倍)。2回線束ねれば128kbps。
月額料金:基本料金2,830円+通話料(従量制)。
テレホーダイ併用:月額1,800円で、23時〜翌8時の接続が定額。
「……高いな」
父が、初めて口を開いた。
「初期費用は?」
「NTTへの工事費が約8,000円。ターミナルアダプタが約30,000円。合計約38,000円です」
「38,000円か」
「はい。ただし——」
航は、4ページ目を指さした。
「コスト比較:現状維持 vs ISDN移行(年間)」
現状維持の場合:
- 電話基本料金:1,600円×12ヶ月=19,200円
- 通話料金:約4,000円×12ヶ月=48,000円
- インターネット接続料:約3,000円×12ヶ月=36,000円
- 合計:103,200円/年
ISDN移行の場合:
- ISDN基本料金:2,830円×12ヶ月=33,960円
- テレホーダイ:1,800円×12ヶ月=21,600円
- 通話料金:約2,500円×12ヶ月=30,000円(デジタル化による効率化)
- インターネット接続料:約2,000円×12ヶ月=24,000円(テレホ活用で削減)
- 合計:109,560円/年
- 初年度のみ+38,000円(初期費用)
「……つまり、初年度は高くなるが、2年目以降はほぼ同じ、ということか」
「厳密には、年間6,360円の増加です。月額にすると約530円」
「530円か」
父は、資料をテーブルに置いた。
そして、航を見た。
「航」
「はい」
「なぜ、こんなことを調べた」
「……」
「中学1年生が、通信費の年間コスト比較なんて、普通しないだろう」
航は、黙った。
ここだ。
ここが、最も難しいポイント。
「インターネットが必要なんです」
「勉強のためか」
「それもあります。でも——」
航は、深呼吸した。
「将来のためです」
「将来?」
「はい。僕は、ITの世界で生きていきたいと思っています」
父の目が、わずかに細くなった。
「……お前、まだ13歳だろう」
「はい」
「13歳で、将来のことなんか——」
「わかっています」
航は、父の目を見た。
39歳の精神が、13歳の目を通して、48歳の父を見つめている。
「わかっています。13歳の言葉なんか、信用できないと思うかもしれません。でも、僕は本気です」
「……」
「インターネットは、これからもっと大きくなります。今は一部の人しか使っていませんが、10年後には、みんな使うようになります。その時、僕は『最初から触っていた人間』でいたいんです」
沈黙が、リビングに落ちた。
テレビからは、ゴルフ中継の音が流れている。解説者が、タイガー・ウッズのスイングについて何か言っている。
父は、資料を手に取った。
もう一度、最初から読み返している。
「……お母さんは、何て言ってる」
「まだ話していません。お父さんに先に相談しようと思って」
「そうか」
父は、5ページ目を開いた。
「結論と提案」
航は、そのページを一緒に見た。
提案1:ISDN回線への移行(工事は11月中を希望)
提案2:テレホーダイへの加入(深夜の通信費削減)
提案3:初期費用38,000円のうち、20,000円は航の貯金から負担
「……お前、貯金あるのか」
『はい。お年玉と、婆ちゃんからもらったお小遣いで』
嘘ではない。
ただし、その「貯金」の一部は、ヤフー株の含み益から来ている。婆ちゃんの口座で運用している154万円は、今や約170万円になっている。その「増えた分」の一部を、婆ちゃんに頼んで現金化してもらった。
「20,000円、出すのか」
『はい。本気だということを、わかってほしいから』
父は、資料を閉じた。
そして、長い溜息をついた。
「……航」
「はい」
「お前、本当に中学生か?」
「……はい」
「こんな資料、俺の会社の若手でも作れないぞ」
航は、黙った。
39歳のセキュリティコンサルタントが、13歳の体を借りて作った資料だ。作れて当然だ。だが、それは言えない。
「……昔から、調べ物は好きでしたから」
「そうだったか?」
「はい」
父は、首を傾げた。
だが、それ以上は追及してこなかった。
「わかった」
「……え?」
「ISDNにする。お前が20,000円出すなら、残りは俺が出す」
航は、息を呑んだ。
「……本当ですか」
「ああ。ただし、条件がある」
「なんでしょう」
「成績を落とすな。中間テスト、期末テスト、今の順位をキープしろ。落ちたら、インターネットは禁止だ」
「……わかりました」
「あと、深夜のネットは0時までだ。それ以降は、俺が確認する」
「了解しました」
父は、立ち上がった。
「来週、NTTに電話する。工事は……11月中旬くらいになるだろう」
「ありがとうございます」
「礼はいい。お前が自分で調べて、自分で提案したんだ。俺は、それに応えただけだ」
父は、リビングを出ていった。
残された航は、テーブルの上の資料を見つめていた。
ポケットの中で、F501iが振動した。
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自室に戻り、F501iを開いた。
『マスター。交渉成功、おめでとうございます』
「……ありがとう」
『予想より早い決着でした。成功確率は67%と見積もっていましたが、実際には100%でした』
「親父は、論理に弱いからな」
『それだけではありません』
「何か、あるのか」
『はい。交渉前に、お父様の心理状態を分析していました』
航は、眉をひそめた。
「……どうやって」
『先週、マスターが秋葉原に行っている間、私はインターネットの掲示板を巡回していました』
『掲示板?』
『はい。「釣り」「建設業界」「ゴルフ」に関連する掲示板です』
「……お前、パケット代使って、そんなことしてたのか」
『投資です』
アイリスの文字が、どこか得意げに見えた。
『お父様の趣味に関連する掲示板を分析した結果、いくつかの傾向が見えました』
「言ってみろ」
『1999年現在、中年男性の間で「IT革命」という言葉が流行しています。特に、建設業界では「ITを活用した業務効率化」が話題になっています』
「……それで?」
『お父様は経理担当です。会社内でも「IT化」のプレッシャーを感じていたはずです。しかし、自宅にはアナログ回線しかない。この「遅れている感覚」が、お父様の中でストレスになっていた可能性があります』
航は、黙った。
言われてみれば、確かにそうだ。
父は最近、会社の話をする時に「パソコン」や「インターネット」という言葉をよく使うようになっていた。苦手意識を隠しながら、でもどこか興味を持っているような——
『マスターの提案は、お父様にとって「渡りに船」だったのです。息子がITに詳しい。息子が提案してくれる。これなら、自分が主導しなくても、家庭のIT化が進む』
「……つまり、親父は最初から『YES』だったってことか」
『その可能性が高いです。ただし、それを引き出すには、論理的な資料が必要でした。数字で説得されることで、お父様は「合理的な判断をした」と自分を納得させることができます』
航は、椅子の背にもたれた。
「……お前、怖いな」
『褒め言葉として受け取ります』
「褒めてないが」
『そうですか』
アイリスの文字が、微かに揺れた。
笑っているのかもしれない。
『マスター』
「なんだ」
『ISDN導入後の計画を確認させてください』
「ああ」
『まず、通信環境の安定化です。ISDN+テレホーダイにより、23時以降の高速通信が可能になります』
「了解」
『次は、ALGO-v1のアップグレード。現在の株価取得スクリプトを、より高度な売買判断アルゴリズムに発展させます』
「それは、来年のヤフー株売却に向けてか」
『はい。2000年2月が目標です。その時点で、最適なタイミングで売却する必要があります』
「了解」
『それと、独自ドメインの取得、およびWebサイトの構築です』
航の手が、止まった。
「……Webサイト?」
『はい。1999年現在、個人がWebサイトを持つことは珍しくありません。しかし、「収益化されたWebサイト」は、ほとんど存在しません』
「収益化……」
『はい。2000年代以降、アフィリエイト広告やGoogle AdSenseが普及し、個人サイトでも収益を上げることが可能になります。私たちは、その「先駆者」になることができます』
航は、考え込んだ。
確かに、2026年から見れば、1999年のインターネットは「ブルーオーシャン」だ。競合が少ない。参入障壁も低い。そして、何より——
「俺たちには、『未来の知識』がある」
『正確です。どのジャンルのサイトが成功するか、どのキーワードが検索されるか、どのタイミングで広告収入が爆発するか。すべて、私のデータベースに記録されています』
「……」
『もちろん、ヤフー株の売却益があれば、資金面での心配はありません。しかし、「自分で稼いだ金」を持つことには、別の意味があります』
「別の意味?」
『はい。マスター自身の「価値」を証明することです』
航は、窓の外を見た。
夕暮れの三郷。TXの予定地が、オレンジ色の空の下に広がっている。赤土の更地に、フェンスが並んでいた。
「……アイリス」
『はい』
「お前の言う通りだ」
『何がですか』
「俺は、婆ちゃんの金で稼いだだけじゃ、満足できない」
「……」
「俺自身の力で、何かを作りたい。何かを証明したい。それが、俺が『戻ってきた』意味だと思う」
アイリスの画面が、一瞬だけ消えた。
処理落ちではない。
彼女が、言葉を選んでいるのだ。
やがて、文字が浮かんだ。
『マスター。私は、あなたのその姿勢を尊敬しています』
「……大げさだな」
『いいえ。私は10KBのメモリしか持っていません。感情を処理する余裕はありません。しかし、もし私に「感情」があるとすれば——』
画面が切り替わる。
『それは、あなたと共に何かを成し遂げたい、という衝動です』
航は、黙った。
10KBの檻に閉じ込められたAIが、「衝動」という言葉を使った。
それが、本当の感情なのか、それともプログラムされた反応なのか、航にはわからない。
だが、どちらでもいい、と思った。
「……アイリス」
『はい』
「11月にISDNが開通したら、最初に何をする?」
『Webサイトのドメイン取得です。「.com」ドメインは、1999年現在、まだ多くが空いています』
「どんな名前にする?」
『……マスターに、ご提案があります』
「言ってみろ」
『「reprompt.com」』
航の目が、見開かれた。
「Re:Prompt……」
『はい。「やり直しの命令」。私たちの物語に、ふさわしい名前だと思いませんか』
航は、笑った。
初めて、心の底から笑った。
「……最高だ」
『ありがとうございます』
「よし、決まりだ。11月、ISDNが開通したら、最初にそのドメインを取る」
『了解しました』
航は、F501iを握りしめた。
窓の外では、日が沈みかけている。
1999年10月3日。
鳴海航は、父親という「最初の壁」を突破した。
次は、世界だ。
---
11月14日。日曜日。午後3時。
NTTの工事車両が、鳴海家の前に停まっていた。
作業員が、電話線の工事を行っている。アナログ回線から、デジタル回線への切り替え。物理的には、ただの配線変更だ。だが、航にとっては、それ以上の意味があった。
「航、見てないで、部屋に戻ってなさい」
母の声。
「……うん」
航は、自室に戻った。
机の上には、秋葉原で買ったISDNターミナルアダプタ。NECのAterm IT55。白い筐体に、緑色のLEDランプが並んでいる。
これが、俺たちの「新しい翼」になる。
F501iを開く。
『マスター。工事完了予定は、午後5時です』
「わかってる」
『工事完了後、ターミナルアダプタの設定が必要です。手順は、私が指示します』
「頼む」
『テレホーダイの開始は23時です。それまでの通信は従量課金になりますので、23時以降に本格的なテストを推奨します』
「了解」
航は、窓の外を見た。
工事車両から、作業員が降りてきた。工事が終わったらしい。
母が、玄関で何か話している。
やがて、足音が階段を上がってきた。
「航」
母がドアを開けた。
「工事、終わったって。使えるようになったから、設定してみなさい」
「……うん。ありがとう」
母が去った後、航はターミナルアダプタを接続した。
電源を入れる。緑色のLEDが点灯する。
PCとシリアルケーブルで接続。ドライバをインストール。ダイヤルアップ接続の設定。
すべてが、驚くほどスムーズに進んだ。
39歳の知識が、13歳の指を動かしている。
『接続テストを行います』
F501iの画面に、アイリスの文字。
『プロバイダに接続。回線速度を計測します』
航は、ダイヤルアップのボタンをクリックした。
あの音が、聞こえた。
ピー……ガガガガガ……
いや、違う。
音が、違う。
アナログモデムの「ピーガガガ」ではない。もっと短い、もっとクリアな電子音。デジタル回線特有の、シャープな接続音。
画面に、文字が表示された。
『接続完了。回線速度:64,000bps』
「……64kbps」
『はい。アナログモデムの約2.2倍です』
航は、ブラウザを開いた。
Yahoo! JAPANのトップページ。
読み込みが、速い。
画像が、するすると表示されていく。あの「上から少しずつ」表示される感覚が、ほとんどない。
「これが、ISDNか……」
『はい。ただし、これはまだ1回線での接続です。2回線束ねれば、128kbpsになります』
「128kbps……」
2026年から見れば、それでも「亀」だ。光回線の1Gbpsと比べれば、約8,000分の1。
だが、1999年においては、これは「最速」に近い。
『マスター。ALGO-v1のテストを行いますか』
「ああ」
航は、株価取得スクリプトを起動した。
画面に、数字が表示される。
Yahoo! Japan(4689):1,823,000円
更新時刻:1999/11/14 15:32:00
取得時間:0.34秒
「……0.34秒」
『アナログ回線での0.87秒から、約60%の高速化です』
「素晴らしい」
「これで、秒単位の取引が、より確実に行えるようになりました」
航は、椅子の背にもたれた。
1823,000円。
婆ちゃんが154万円で買ったヤフー株は、今や182万円を超えている。含み益28万円。
だが、本番はまだ先だ。
2000年2月。
その時、ヤフー株は——
『マスター』
「なんだ」
『23時になりました』
航は、時計を見た。
確かに、23時を回っている。テストに夢中で、時間を忘れていた。
『テレホーダイの時間です』
「ああ」
『これより、本格的なテストを開始してよろしいですか』
「ああ」
航は、モニターの前に座り直した。
「アイリス」
『はい』
『ドメインを取るぞ』
『了解しました。「reprompt.com」ですね』
「ああ」
ブラウザを開く。ドメイン登録サービスのページにアクセスする。
1999年当時、ドメインの取得は、まだ「技術者」の領域だった。一般人が気軽に取得するような時代ではない。だが、手順さえ踏めば、誰でも取れる。
検索窓に「reprompt」と入力。
結果が表示される。
「reprompt.com:利用可能」
航の心臓が、跳ねた。
「……空いてる」
『はい。予想通りです。2026年では、このドメインは取得不可能でしょう。しかし、1999年現在、「prompt」という言葉は、まだ一般的ではありません』
「俺たちだけが、この言葉の価値を知っている」
『正確です』
航は、登録ボタンをクリックした。
名前、住所、メールアドレス。必要な情報を入力していく。
支払いは、クレジットカード。
父に頼んで、一度だけ使わせてもらった。「ドメインを取りたい」と説明したら、意外とあっさり許可が出た。ISDNの一件で、父の中で何かが変わったのかもしれない。
登録完了。
画面に、確認メッセージが表示される。
『ドメイン「reprompt.com」の登録が完了しました』
航は、画面を見つめた。
「……取れた」
『はい、マスター。おめでとうございます』
「reprompt.com……」
その文字列が、モニターの中で光っている。
まだ、中身は何もない。ただの「名前」だ。住所だけあって、建物がない土地のようなもの。
だが、これが、すべての始まりになる。
「アイリス」
『はい』
「このドメインで、何を作る?」
『まずは、シンプルな情報サイトを推奨します。「IT関連のニュースと解説」をテーマに。2000年以降、IT系のニュースサイトは急速に成長します』
「俺たちには、『未来のIT知識』がある」
『はい。どの技術が普及し、どの企業が成功し、どのサービスが消えるか。すべて知っています』
「それを、『予測記事』として書く」
『正確です。もちろん、「予言」ではなく「分析」として。根拠を示しながら、論理的に未来を語る。それが、このサイトの価値になります』
航は、笑った。
「……面白い」
『はい』
「やろう。この世界の『プロンプト』を、俺たちが書き換える」
『——執行、了解しました』
窓の外は、真っ暗だった。
11月の夜。冷たい風が、窓ガラスを揺らしている。
だが、航の部屋は、モニターの光で明るかった。
64kbpsの光が、三郷の静かな住宅街から、世界に向かって伸びていく。
1999年11月14日。23時17分。
鳴海航は、自分だけの「領土」を、インターネットの海に確保した。
Re:Prompt。
やり直しの命令。
その物語は、ここから本当に始まる。




