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リ・プロンプト:1999 —10KBのメモリに宿る2026年の相棒AIと、失われた未来を再定義する—  作者: 青柳 玲夜(れーやん)
序章:神童編

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第25話「情報の毒」

2001年5月28日。月曜日。本所。佐伯誠一事務所。午後2時。


佐伯のデスクの上に、書類が広げられていた。


「IT未来投資組合・プロメテウスファンド 加入契約書(案)」。


A4で12枚。表紙を含めて13ページ。木村の名義で資料請求し、郵送で届いた。封筒の消印は都内。差出人の住所は、港区のバーチャルオフィス。


航は、パイプ椅子に座って待っていた。


佐伯は、煙草を灰皿に置いたまま、書類を読んでいる。


1ページ目。「組合の目的及び事業」。ITベンチャーへの分散投資による高利回りの実現。


2ページ目。「組合員の権利及び義務」。出資金の払い込み、利益配分の方法。


佐伯の指が、ページをめくっていく。


3ページ。4ページ。5ページ。


航は、この書類をテミスにも読ませた。テミスの判定は「法的に有効な契約書であり、重大な瑕疵は検出されません。精度94%」だった。


残り6%。


佐伯が、手を止めた。


ページを戻している。12ページ目から、2ページ目へ。そしてまた7ページ目へ。10ページ目へ。


行ったり来たりしている。


航は見ていた。佐伯が書類を「読み返す」のは珍しくない。だが、こんなに何度もページを往復するのは初めて見る。


3分。5分。


佐伯が、書類を置いた。


煙草を取り上げ、火をつけた。煙を深く吸い込んで、吐いた。


「鳴海」


「はい」


「2ページ目の第3条。定義条項。読め」


航は、書類を手に取った。


「『本契約において「特別事象」とは、天災、法令の変更、市場の急変、その他管理者がやむを得ないと認める事由をいう』」


「次。7ページ目の第22条」


航は、ページをめくった。


「『特別事象が発生した場合、管理者は組合の運用方針を変更することができる』」


「次。10ページ目の第34条」


「『特別事象の発生の有無は、管理者が認定する』」


「最後。12ページ目の第41条」


「『特別事象に起因する組合財産の毀損について、管理者は責を負わない』」


航は、読み上げ終わった。


4つの条文。契約書の中で、10ページに渡って散在している。


「佐伯さん、これは——」


「一つずつ読め。お前の機械と同じように」


航は、もう一度、4つの条文を目で追った。


第3条。「特別事象」の定義。天災、法令変更、市場急変。ここまでは普通だ。投資組合の契約書にはよくある文言。


だが、末尾。「その他管理者がやむを得ないと認める事由」。


例示列挙だ。限定列挙ではない。管理者が「やむを得ない」と言えば、何でも特別事象になる。


第22条。特別事象が発生したら運用方針を変更できる。


第34条。特別事象の発生を認定するのは、管理者自身。


第41条。特別事象で損が出ても、管理者は責任を負わない。


航の喉が、詰まった。


4つを繋げると——管理者が「特別事象だ」と言えば、いつでも運用方針を変更でき、その結果、組合の金が消えても、責任は負わない。


しかも、第3条の定義が無限に広い。「市場急変」なんて、毎日起きる。


「……これは」


「お前の機械は、これを見落としたな」


佐伯の声が、静かだった。


航は、何も言えなかった。


テミスの精度は94%。4つの条文は、一つ一つは適法だ。定義条項、運用変更、認定権限、免責。投資組合の契約書としては、どれも標準的な条項に見える。


だが、4つを組み合わせた時に生まれる構造は、出資者の全財産を合法的に蒸発させる装置だった。


「字は合ってる。法律にも違反してない。だが、この書類は——」


佐伯は、灰皿に煙草を押し付けた。


「——入った人間の金が、いつでも消える仕掛けになっている」


航の指が、書類の上で止まっていた。


「テミスは条文の整合性を見る。法令との矛盾を探す。それは正しい。だが、書類ってのは、それだけじゃない」


佐伯が、航を見た。


「4つの条文が、12ページの中でバラバラに配置されてる。3条、22条、34条、41条。普通に読んだら繋がらない。書いた奴は、繋がらないように散らしてる。こういうのは、端から端まで読んで、頭の中で全体を組まないと見えない」


航は、頷いた。


テミスの6%が、ここにあった。


条文の形式は正しい。法令との整合性もある。だが、12ページに散在する4つの条文を「一つの仕掛け」として読むには、書類全体の構造を人間の頭で組み立てる必要がある。パターンマッチングでは拾えない。


佐伯の30年が見抜いたものを、テミスの6,047件は見落とした。


「佐伯さん。この書類を書いた人間について、何かわかりますか」


佐伯は、窓の外を見た。


「プロの仕事だ。素人じゃない。法律を知っていて、法律の隙間を知っていて、しかも裁判になった時の防御線まで張ってある。41条の免責は、『特別事象に起因する』という限定がついている。訴訟を起こされたら、『特別事象の範囲内だから免責される』と主張するための保険だ」


航は、椅子の肘掛けを握った。


Lの仕事だ。


ボットネットで世論を操作し、2ちゃんねるで投資組合を煽り、契約書に法的な罠を仕込む。コードと法律の両方を操れる人間。


「佐伯さん」


「なんだ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。書類を持ってきたのはお前だ」


佐伯は、立ち上がった。


「だが、一つだけ聞く」


「はい」


「お前は、この書類に引っかかるところだったのか」


航は、2秒黙った。


「……いいえ。最初から怪しいと思っていました。だから佐伯さんに持ってきた」


「嘘をつくな」


佐伯の目が、航を射た。


「怪しいと思っただけなら、この書類を資料請求してまで手に入れる必要はない。お前は、ここに金を入れることを検討していた」


航は、答えられなかった。


正直に言えば、検討していた。テミスの「重大な瑕疵なし」という判定を見て、一瞬、「これは使えるかもしれない」と思った。Lの罠だとわかっていても、バブル崩壊の底値で投資できるルートが他にない以上、航の39歳の合理性は「リスクを取る価値がある」と計算した。


それを止めたのは、佐伯に持っていこうと決めた瞬間だった。


「……すみません」


「謝るな」


佐伯は、急須を取り出した。


「持ってきたことが正解だ。自分で判断しなかったことが正解だ」


湯呑みが、航の前に置かれた。


「だが、次は持ってくる前に気づけ」


茶が注がれる。


熱かった。前に来た時と同じ、わざと濃く淹れた茶。


一口飲んだ。苦い。


「佐伯さん」


「なんだ」


「この書類の写しを、預かってもらえますか」


「なぜだ」


「証拠です。この投資組合に引っかかった人間が出た時、この書類が使えるかもしれない」


佐伯は、茶を啜った。


「……お前は、自分が助かっただけじゃ済まないタイプだな」


航は、答えなかった。


佐伯が、書類の写しを取るために、奥の部屋に消えた。コピー機の音が聞こえる。


航は、湯呑みの熱を両手で感じていた。


---


2001年5月28日。月曜日。三郷。マギ・ハブ。午後7時。


「マスター。佐伯先生の分析結果を報告してください」


アイリスの声が、サーバールームに響いた。


航は、モニターの前に座っていた。


「3条、22条、34条、41条。4つの条項が契約書の中で散在していて、組み合わせると出資金を合法的に蒸発させる仕組みだ」


「テミスの判定は『重大な瑕疵なし』でした」


「ああ。条文単体では問題ない。だが、3つの組み合わせが罠になっている。テミスはそこを見落とした」


〔報告します〕


テミスの声が、割り込んだ。


〔第3条、第22条、第34条、第41条の複合的なリスクを再解析しました。4条項を結合した場合の出資者リスクは、佐伯先生の指摘通り『実質的な資産喪失』に該当します。初回の分析で検出できなかった原因は、各条項が単独では適法であり、かつ契約書内で12ページに分散配置されていたため、複合効果のパターン検出が作動しなかったためです〕


「つまり、佐伯さんの30年にもなかったパターンだ」


〔はい。新種です〕


航は、天井を見上げた。


Lは、テミスの限界を知っている。


テミスが条文単体の適法性で判断することを見越して、複合構造で罠を仕込んだ。


「アイリス。この投資組合の加入者数は追えるか」


「2ちゃんねるの書き込みから推測するのみですが、5月中に少なくとも20件以上の『加入報告』が確認されています」


「20人以上が引っかかっている」


「推定です。ただし、プロメテウスのボットが『加入報告』を偽装している可能性も排除できません」


航は、拳を握った。


Lの目的が見えない。金か。情報か。それとも、航の反応を観察するための実験か。


「メティス。このファンドに流入した推定資金量は」


〈投稿内容から推定される出資額は、1口50万円。20口で1,000万円。ただし、これは最低ラインであり、実際の流入額は不明です〉


「1,000万。小さくない」


〈はい。そして、この規模の投資組合が破綻した場合、被害者が法的救済を求めるのは極めて困難です。匿名組合契約は出資者保護の規定が脆弱であり——〉


「テミスに聞くまでもない。佐伯さんが言った通りだ。入った人間が、出られない」


航は、モニターに向き直った。


「アイリス。プロメテウスのボットが投資組合を煽り始めた時期は」


「4月中旬です。ネガティブ投稿からポジティブ投稿への切り替えと同時期です」


「ADSLが開通して3ヶ月。俺が喜楽に時間を取られていた時期と一致する」


アイリスは、1秒黙った。


「はい。マスターが喜楽の支援に38時間を費やしている間に、Lはフェーズを切り替えていました」


航は、何も言わなかった。


2月に佐伯から「善意の代償」を突きつけられた。そして、航が喜楽に時間を取られている間に、Lは次の手を打っていた。


善意は、重力だ。


Lの言葉が、頭の中で反復する。


---


午後11時。


神崎と木村は帰った。


航は、一人でモニターの前にいた。


画面には、reprompt.comの管理画面。


通知が光っていた。


投稿日時:2001年5月28日 22:53:41

アカウント:void_echo

本文:


Admin。毒を避けたね。君の監視役は、いい仕事をする。でも気をつけろ。次は紙の上じゃない。


航は、画面を見つめていた。


Lは知っている。航が契約書を佐伯に持っていったことを。罠を回避したことを。


そして、「監視役」。佐伯のことだ。


「アイリス。IPアドレスは」


「多重プロキシ経由。void_echoの過去のパターンと93%一致」


「記録しろ。インデックスは『L_contact_004』」


「了解しました。003からの間隔は87日。接触の間隔がさらに広がっています」


接触の間隔は広がり続けている。001→002が14日、002→003が39日、003→004が87日。


回を追うごとに沈黙が長くなる。だが、一つだけ共通点がある。


全て、航の行動の転換点に合わせている。


001は佐伯訪問の直後。002はADSL開通当日。003は喜楽支援で航が消耗している時期。004は投資の罠を佐伯が見破った直後。


Lは、航の行動をリアルタイムで観測している。


「次は紙の上じゃない」


航は、その一文を睨んでいた。


法的な罠は佐伯が防いだ。次は別の領域で来る。


コードか。物理か。人間関係か。


「アイリス」


「はい、マスター」


「L_contactの全件を時系列で並べろ。それと、各接触の直前72時間の俺の行動ログと照合してくれ」


「了解しました。処理中です」


画面に、データが並んでいく。


航は、デスクの上に置いてあったウイダーinゼリーのキャップを剥がした。


2026年には「ウイダー」の名前は消えている。ただの「inゼリー」。この銀色のパッケージに「ウイダー」と書いてあるのは、2001年の証拠だ。


冷たい。


口に流し込む。


味がしない。


マスカット味と書いてあるが、液体が喉を通過する感触だけがある。噛む必要がない。10秒で胃に落ちた。


2月の喜楽のラーメンは、スープの匂いが制服に染みついた。4月のカツサンドは、ソースが塩辛かった。


これは、何も残らない。


胃に入った。それだけだ。


空になった容器を、ゴミ箱に投げた。カウンターの端に当たって、乾いた音がした。入らなかった。


航は、拾いに行かなかった。


モニターの光が、暗いサーバールームを照らしている。


L_contactの時系列データが、画面に並んでいる。


Lは航を見ている。航の「善意」も、「焦り」も、「佐伯への依存」も、全部。


だが、Lが見えないものもある。


佐伯の指先が、12ページを行ったり来たりしたあの動き。散在する4つの条文を頭の中で繋いでいく、人間の読解力。テミスの6,047件にも、アイリスの27年にも記録されていない、人間の手の記憶。


あれだけは、Lの回線の向こうからは見えない。


航は、モニターの電源を切った。


午後11時47分。


今日は、早く寝る。アイリスのアラートが鳴る前に。


明日は学校がある。中3の、5月の終わり。


クラスメイトたちは、もう受験の話を始めているだろう。


航は、仮眠室に向かった。


ゼリーの容器が、カウンターの脇の床に転がったままだった。

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>>接触頻度の変動に規則性はない。001→002が14日、002→003が39日、003→004が87日。 >>増えたり減ったりしている。 規則性がないのはそうですが、接触頻度は減る一方で増えてはい…
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