第24話「ドットコムの残火」
2001年4月9日。月曜日。三郷。皐月中学校。午前8時40分。
始業式。
体育館に並ぶ生徒たちの頭の上を、校長の声が滑っていく。
「——新学期を迎え、皆さんは中学最高学年として——」
航は、列の後ろの方に立っていた。
中3。
去年までは「2年2組の変わった奴」だった。今年からは「3年の変わった奴」になる。それだけの違いだ。
隣の列で、誰かが小声で話している。
「鳴海って、どこ受けるんだろ」
「さあ。頭いいんでしょ? 県立浦和とか?」
「あいつ塾行ってないらしいよ」
39歳の精神が、その囁きを自動的に拾う。
受験。進路。偏差値。この年齢の人間にとっては、世界の全てがそこに収束する。
航にとっては、ノイズだった。
ポケットの中のF501iが、微かに温かい。
始業式が終わり、教室に戻る。新しい担任が自己紹介をしている間、航は窓の外を見ていた。
4月の三郷。桜が散りかけている。TXの予定地では、造成工事の重機が動いている。更地のまま。まだ何も建っていない。
この街は、まだ変わっていない。
だが、世界の方は、先に変わり始めている。
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2001年4月9日。月曜日。マギ・ハブ。午後6時。
〈マスター。ナスダック総合指数の本日終値、1,168ポイント。2000年3月のピーク(5,048ポイント)から76.9%の下落です〉
メティスの声が、サーバールームに響いた。
航は、モニターの前にいた。画面には、赤い線が右肩下がりに落ちていくグラフ。
「76.9%か」
〈はい。米国のIT関連企業の時価総額は、ピークから約5兆ドルが消失しています。日本市場も連動して下落中です〉
ドットコムバブルの崩壊。
2026年から来た航は、この結末を知っている。ここからさらに下がる。底は2002年10月。ナスダックは1,114まで落ちる。
そして、その底から這い上がってくる企業の名前も知っている。Amazon。Apple。Google。
だが、知っていることと、使えることは違う。
Amazonの株は買える。2001年4月の株価は約9ドル。2026年には3,000ドルを超える。300倍以上。
しかし、14歳の日本人が米国株を買う手段は極めて限られている。婆ちゃんの口座は国内証券。海外口座の開設には成人の名義が必要で、木村の名義を借りるにしても、送金手続き、為替、税務——ハードルが高すぎる。
「アイリス」
「はい、マスター」
「米国株の取得ルート、まだ見つからないか」
「現時点で、14歳の日本国籍保有者が合法的に米国上場株式を取得するルートは確認できていません。国内証券会社の外国株式取り扱いは一部の大手に限定されており、いずれも成人名義の口座が必要です」
航は、椅子の背にもたれた。
未来を知っている。答えを知っている。でも、手が届かない。
テストの答案を持っているのに、教室に入れない感覚。
「マスター。なお、国内市場においても、バブル崩壊後の底値銘柄は存在します。私の分析では——」
「いい。今はそっちじゃない」
航は、モニターから目を離した。
「今日、木村さんが来る」
「はい。到着予定は19時です」
「秋葉原のパーツ、全部積んでくるって言ってた」
「マギ・ハブの空きスペースは約12平米です。木村氏の在庫リスト、推定段ボール40箱を収容するには、サーバールームのレイアウト変更が必要です」
「神崎に伝えてある」
「了解しました。なお、マスターの今夜の睡眠予定時刻は」
「聞くな」
「聞きます。前回の警告を忘れましたか。学習能力の——」
「わかった。1時には寝る」
「記録しました。1時01分に未就寝の場合、アラートを発します」
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午後7時20分。
マギ・ハブの前に、2トントラックが停まった。
白いボディに、擦り傷が何本も走っている。レンタカーだ。
運転席から、木村が降りてきた。
作業着。軍手。額に汗。
「よう、ガキ」
「遅い」
「道が混んでたんだよ。トラックなんか十年ぶりに運転した」
木村は、荷台の幌を開けた。
段ボール箱が、隙間なく積まれている。箱の側面に、マジックで走り書き。「CPU系」「メモリ系」「ケーブル類」「ジャンク(動作未確認)」。
「……多いな」
「店の中身、全部だからな」
木村は、煙草に火をつけた。
荷台の向こうに、4月の三郷が広がっている。田んぼに水が張られ始めている。蛙は、まだ鳴いていない。もう少し暖かくなってからだ。
「木村さん」
「あ?」
「秋葉原、どうだった」
木村は、煙を吐いた。
「……シャッター、増えたよ」
短い言葉だった。
「ラオックスの横の小さいパーツ屋、潰れた。T-ZONEも客が減ってる。裏通りなんか、昼間でも人がいない」
「ドットコムバブルの影響か」
「ドットコムとか知らねえよ。ただ、客が来なくなった。パソコン買う奴が減った。それだけだ」
木村は、煙草を地面に落として踏んだ。
「秋葉原はな、ずっと『次の何か』を売る街だった。電気部品、オーディオ、パソコン。次はなんだ? 俺にはわからなかった。だから、畳んだ」
航は知っている。次は「メイドカフェとアニメ」だ。
だが、それは言えない。言っても意味がない。
「手伝うぞ」
航は、荷台に手をかけた。
「おう」
段ボールを下ろす。一箱ずつ、マギ・ハブの中に運び入れる。14歳の腕には重い。腰が軋む。
神崎が中から出てきて、3人で作業が始まった。
「おい鳴海、そっち持て」
「持ってる」
「木村さん、サーバーラックの横に積んでいいですか」
「おう。ただし精密機器は上だ。下に重いもん置け」
サーバールームに、秋葉原の匂いが入ってきた。
埃と、半田と、古い基板の匂い。1年半前、航が初めて木村の店に入った時の、あの匂い。
「アイリス。新しい機材のインベントリ、全部記録しろ」
「了解しました。なお、木村氏が搬入した段ボールは43箱です。推定を3箱上回っています」
「誤差の範囲だろ」
「2026年の精密物流なら許容されません。2001年の三郷なら、まあ」
木村が、最後の段ボールを床に置いた。
「……これで、全部だ」
木村は、空になったトラックの荷台を見た。
何も言わなかった。
航は、その背中を見ていた。
店を畳む。在庫を全部出す。空になった荷台を見る。
39歳の航は、その感覚を知らない。航自身は店を持ったことがない。
だが、佐伯の事務所で見た書類を思い出す。廃業届。事業停止届。何百件と処理されてきたであろう、誰かの「終わり」の紙束。
「木村さん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
木村は、振り向かなかった。
「礼は要らねえよ。俺が来たかったから来ただけだ」
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2001年4月14日。土曜日。本所。佐伯誠一事務所。午後2時。
3階。煙草の匂い。
「座れ」
航は、パイプ椅子に座った。
佐伯は、デスクの前にいた。書類を読んでいる。いつもの光景。
「佐伯さん。報告があります」
「言え」
「木村が、秋葉原の店を畳んで、マギ・ハブに移りました」
「……」
「それと、マギ・システムズの備品管理を更新しました」
航は、A4の紙を数枚、佐伯の前に置いた。
木村が持ち込んだ機材の一覧。マギ・ハブのレイアウト変更図。木村との業務委託契約書。
佐伯は、煙草を灰皿に置いた。
書類を手に取った。
1枚目。目が走る。
2枚目。ページをめくる。
3枚目。
航は、黙って待った。
佐伯の読み方は、いつも同じだ。端から端まで。字だけじゃない。紙を読む。
5分。
佐伯が、書類を置いた。
「代表の木村が、秋葉原の店を畳んだのか」
「はい。パーツを全部持って、マギ・ハブに移りました」
「店を畳んだ理由は」
「客が減った。大手に押された。それと——俺がいたからだと思います」
佐伯の目が、航を見た。
「お前がいたから、か」
「はい。俺の話を聞いて、この船に乗ると決めた。店より、こっちを選んだ」
沈黙。
佐伯は、新しい煙草に火をつけた。
「お前の船に人が乗り始めた。木村。神崎。渡辺」
煙を吐いた。
「船が大きくなると、沈んだ時の被害も大きくなる。わかってるな」
「……はい」
「書類を見ろ。お前が持ってきたこの契約書、木村の退職金の規定がない。万が一マギが潰れた時、木村はどうなる」
航の喉が、詰まった。
考えていなかった。
木村が「来たかったから来た」と言ったから。それで十分だと思っていた。
「……修正します」
「しろ。人を乗せるなら、降り方まで書け」
佐伯は、書類を航に返した。
「降り方が書いてない船に、人は乗せるな」
航は、書類を受け取った。
紙の重さが、前より重く感じた。
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2001年4月14日。土曜日。マギ・ハブ。午後7時。
「おう、戻ったか」
木村が、サーバーラックの配線を整理していた。
神崎は、隣で新しく搬入したモニターのセットアップをしている。
「木村さん」
「なんだ」
「契約書、直させてください」
木村が、手を止めた。
「退職金の規定を入れます。それと、事業停止時の機材の帰属についても」
「……急にどうした」
「佐伯さんに言われました。降り方を書けと」
木村は、航を見た。
3秒。
それから、笑った。
「いい爺さんだな」
「怖い爺さんです」
「同じことだろ」
木村は、配線作業に戻った。
「好きにしろ。俺は船に乗ったんだ。降り方は船長が決めりゃいい」
航は、デスクに向かった。
契約書を開く。アイリスに口頭で修正点を指示する。テミスには食わせない。まず自分で読む。佐伯にそう言われた。
〔マスター。契約書の修正を検知しました。テミスでリーガルチェックを実行しますか〕
「後でいい。まず俺が全部読む」
〔了解しました〕
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午後9時。
契約書の修正が終わった。
航は、椅子の背にもたれた。
サーバールームの風景が、1週間前と変わっている。
木村が持ち込んだ機材が、壁際に整然と並んでいる。段ボールは全て開封され、中身はラベルを貼られて棚に収まった。サーバーラックの横に、木村専用の作業台ができている。半田ごてとテスターが置かれ、壁にはドライバーセットが吊るされている。
マギ・ハブは、変わった。
「少年の隠れ家」ではなくなった。
3人の人間と3体のAIが動く、小さな砦だ。
「おい、鳴海」
神崎が、声をかけた。
「腹減らねえ?」
「減った」
「木村さんが何か持ってきてたぞ」
木村が、デスクの脇から紙袋を取り出した。
「忘れてた。秋葉原の最後の手土産だ」
袋の中身。赤い箱。
肉の万世。カツサンド。
「……いつ買ったんですか」
「今朝。最後にもう一回だけ、万世橋の店に寄った」
木村の声が、少しだけ低くなった。
航は、箱を開けた。
カツサンドは、とっくに冷めていた。パンにソースが染みて、黒ずんでいる。カツの衣が、しんなりと沈んでいる。
朝買って、トラックで運んで、搬入作業をして、配線を整理して。その間ずっと、紙袋の中で冷め続けていた。
3人で、カウンターに並んで食べた。
航が最初に齧った。
冷たい。パンが湿っている。だが、ソースの味が濃い。塩辛い。肉の脂が、冷えて白く固まりかけている。
39歳の舌が「冷めた揚げ物は体に悪い」と判定する。14歳の胃が、その塩辛さを黙って受け入れる。
神崎が、隣で頬張っている。
「うめえ」
「冷めてるだろ」
「冷めててもうめえよ。万世だぞ」
木村は、黙って食べていた。
航は、木村の横顔を見た。
冷めたカツサンドを噛む、50代の男の横顔。秋葉原を畳んできた男の、最後の手土産。
うまいとは思わなかった。
ただ、塩辛かった。
その塩辛さが、胃の底に溜まっていく。
「……ごちそうさまでした」
航は、箱を閉じた。
指にソースがついていた。紙ナプキンで拭く。茶色い染みが残った。
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深夜。午前0時。
神崎と木村は、仮眠室に引っ込んだ。
航は、一人でモニターの前にいた。
画面には、reprompt.comの管理画面。
アクセスログ。掲示板の投稿履歴。
void_echoからの投稿は、3月2日以降ない。
Lが沈黙している。
3月のメッセージ。「善意は、重力だ」。あれ以来、1ヶ月以上。
「アイリス」
「はい、マスター」
「Lの接触が止まっている」
「はい。L_contact_003から43日が経過しています」
「前回までの間隔は」
「001→002が14日。002→003が39日。現在43日。間隔が延びています」
「延びてる、じゃない。止まってる」
航は、モニターを睨んだ。
沈黙は、安全を意味しない。
DDoS攻撃の前も、霧島は沈黙していた。プロメテウスのボットが2ちゃんねるで動き出す前も、表面上は何も起きていなかった。
Lが黙っている時、何かを準備している。
「メティス。プロメテウスのボットネット、直近の活動は」
〈2ちゃんねる各板における投稿パターンを監視中です。4月に入ってから、投稿頻度が約30%低下しています〉
「減ってる?」
〈はい。ただし、消えたのではなく、投稿パターンが変化しています。従来の「IT不況」「日本終了」系のネガティブ投稿が減少し、代わりに——〉
メティスの声が、わずかに変わった。
〈——特定の投資案件を推奨する投稿が増加しています。キーワードは「IT復活」「逆張り」「今が底値」〉
航の目が、細くなった。
「ネガティブから、ポジティブに切り替えた?」
〈はい。恐怖を煽るフェーズから、欲望を煽るフェーズへ移行したと推測されます〉
航は、立ち上がった。
「そういうことか」
恐怖で人を動かすのには限界がある。だが、欲は底なしだ。
バブルが崩壊して、全員が怯えている。その中で「今が買い時だ」と囁く声が聞こえたら——溺れる者は藁を掴む。
「アイリス。ボットが推奨している投資案件のリスト、出せるか」
「メティスの解析データを統合します。——完了。直近2週間で、プロメテウス系ボットが3回以上言及した投資案件は4件です」
画面に、リストが表示された。
航は、リストを見た。
4件のうち3件は、実在するIT関連の小型株。バブル崩壊で株価が10分の1以下になった銘柄。
問題は、4件目だった。
「……『IT未来投資組合・プロメテウスファンド』」
航は、画面を凝視した。
プロメテウス。
名前を隠す気すらない。
「アイリス。このファンドの情報、拾えるか」
「Webサイトが存在します。ドメインの登録日は2001年3月28日。——マスター」
アイリスの声が、変わった。
「ドメインのWhois情報に含まれるメールアドレスの暗号化パターンが、ヘリオスの通信署名と64%一致します」
「64%」
「完全一致ではありません。しかし、偶然の範囲を超えています」
航は、椅子に座り直した。
Lは、航を「投資」で釣ろうとしている。
バブル崩壊で不安になった人間が飛びつくような「復活ファンド」を仕立てて、2ちゃんねるのボットで煽る。航が未来知識で「今が底値」と知っていることを、Lも知っている。
だから、航が手を出しそうな場所に罠を置いた。
「……佐伯さんに、見せる」
航は、呟いた。
「このファンドの加入契約書を手に入れる。それを佐伯さんに読んでもらう」
「取得方法は」
「Webサイトに資料請求フォームがある。木村さんの名義で請求する。明日、木村さんに相談する」
「了解しました。なお、資料請求によってこちらの情報がLに渡る可能性があります」
「わかってる。だから木村さんの名義だ。マギ・システムズの名前は出さない」
航は、モニターの光を見つめていた。
Lが沈黙を破った。ネガティブからポジティブへ。恐怖から欲望へ。
フェーズが変わった。
「アイリス。この投稿パターンの変化を記録しろ。タグは『プロメテウス・フェーズ2・欲望の煽動』」
「了解しました」
モデムのLEDが、暗いサーバールームで点滅している。
1.5Mbps。世界中の崩壊を受信し続ける回線。
その回線の向こうで、Lが新しい罠を仕掛け始めた。
航は、カツサンドの箱を見た。カウンターの隅に置いたままの、赤い箱。
冷めて、ソースが染みて、塩辛かった。
でも、3人で食べた。
木村と神崎と、3人で。
航は、モニターに向き直った。
明日、木村に相談する。来週、佐伯に書類を持っていく。
一人でやらない。
船には、人が乗っている。
午前0時58分。
アイリスのアラートが鳴る2分前に、航はモニターの電源を切った。




