第1話
高校二年生の二学期中間テストが終わり、校内全体が弛緩した雰囲気に包まれた十月末。春樹は放課後の図書室に来ていた。
放課後の図書室に来るのは、久しぶりのことだった。テスト期間中だったこともあって、しばらくは利用者が多く敬遠していた。人の多い図書室はそれだけでその価値を半分、いや十分の一までに減少させてしまう。
春樹にとっての放課後の図書室の価値とは、人がいない点にある。
それは放課後の図書室が、春樹にとって校内で唯一の落ち着ける場所であるからだ。誰の目も気にせず、誰の言葉も気にせず、そして自分の言葉さえも気にすることのない唯一の空間。
春樹は用もないのに放課後の図書室につい足が向いてしまう。
図書室は、テスト期間中の喧騒が嘘のように静かだった。図書室が本来の価値を取り戻したことに春樹はホッと息を吐いた。
各部活動が活動を再開したらしく、校庭や廊下から生徒の楽し気な声や顧問の怒号にも似た声が聞こえてくる。活気に満ちた外界と比べ、図書室はどこまでも静かで、ここだけが世界から隔絶されているようだった。
春樹は図書室をぐるりと見渡した。
図書室には、書架を物色する女子生徒と、本を借りようとしているのか返そうとしているのか貸し出しカウンターで手続きしている男子生徒がいた。どちらも知らない生徒だ。といっても、クラスメイトの顔と名前が十月になっても一致しない春樹からしてみれば、全校生徒が知らない生徒だった。
カウンターで手続きをしている男子生徒のなんだか不機嫌そうな表情が見えた。何事かと思って、本の貸し借りを処理するためのパソコンの方を見ると、そこには珍しく真壁先生がいた。
真壁先生は、四十歳くらいの国語教師だ。熊のようなどっしりとした体型に短髪に整えられた髪型からは清潔感を感じるものの、薄っすらと生えている無精髭がそれを台無しにしている。おおよそ教師と呼べるのか怪しいほどに適当でマイペースな先生である。
真壁先生は時々図書室で事務仕事などをしており、いわゆる司書の仕事もしていることがある。春樹は学校の業務事情に詳しいわけではないので、それがどこの高校でも同じなのか知らなった。
春樹はこの熊のような先生に対して苦手意識を持っている。
なぜなら図書委員でもないのに放課後の図書室に入り浸っているという理由だけで、仕事を手伝わされたことがあったからだ。
図書室の本の貸し出しについては、図書委員の生徒が、基本的には手続きを行っている。だが、今日は誰もいないらしく真壁先生が代わりに手続きを行っているようだ。そして、真壁先生はその手続きの仕方をどうやらど忘れしてしまったらしい。
男子生徒が苛立たし気に言う。
「真壁先生、しっかりしてよ。俺、早く部活に戻りたいんだけど」
「あぁ。すまんすまん。もう少し待ってくれ。すぐ終わるから」
男子生徒の怒気を含んだような声音に対し、真壁先生は普段と変わらず、ゆったりとした声で返した。
「それ、さっきも言ってたじゃん」
男子生徒は呆れたように言うと、あからさまに肩を落とした。
真壁先生がそれに気づいた様子はなく、特に焦った素振りも見せずに淡々とパソコンでなんらかの作業をしていた。
春樹にはどうすることもできないので、見ず知らずの男子生徒には悪いが、ここは見なかったことにさせてもらおうと、気配を消すように少し身を縮める。
彼は運が悪い。そういう日だってあるさ。
と心の中で言う。
春樹は不貞腐れた男子生徒とそれを気にも留めない国語教師のやり取りを横目で見ながら、図書室の奥にあるテーブルを目指す。
注意散漫だった春樹に、ぽふと何かがぶつかった。
春樹はぶつかったものを確認するため視線を下に落とした。春樹の胸あたりに艶やかな黒髪をした丸い人の頭があった。
制服から見て、女子生徒のようだ。
書架に居た女子生徒とは違う人だ。春樹が図書室を見渡した時には、彼女はどこにもいなかった。図書室内には、書架があり入口から見たら死角は多いので、見えない人がいても仕方がない。それに加え、身長が百七十センチの春樹の胸のあたり頭の天辺が来ているあたり、彼女はかなり小柄だ。そんな彼女はまるで突然そこに現れたかのようにして、春樹とぶつかった。
彼女は俯いたままで、春樹の胸に頭を預けたままになってしまっている。
「ごめん。大丈夫?」
春樹が声をかけると、目に映る彼女の頭頂部が数ミリ動いた。どうやら頷いたらしい。
それなら、よかった。
春樹は安堵すると今の体勢が傍から見るとあまりよくないことに気付いた。たたらを踏むように慌てて二、三歩身を引く。
「道、塞いでごめん」
早口で捲し立てるように春樹がもう一度謝ると、彼女は首を振って、俯いたまま彼の横を通り過ぎ図書室を後にした。
ずっと俯いたままで、彼女は一度も言葉を発さなかった。
小柄だったし、一年生だったのかもな。怖がらせてしまったら、申し訳ないことをした。
そんなことを考えていると、カウンターの方から声を掛けられた。
「おー瀬戸。来てたのか。悪いが、手伝ってくれないか。これの使い方がわかんなくてよ」
真壁先生の声だ。彼の気だるげな声を聞いて、諦めにも似たため息がこぼれた。
名指しされた以上は、無視するわけにもいかないので、春樹はとりあえずカウンターの方へと向かった。
知らぬ存ぜぬを突き通すつもりだったのに、運が悪い。
そもそも春樹は図書委員ではないので、手伝えることがないのは、真壁先生も分かっているはずだ。
真壁先生のせいで足止めくらっている男子生徒と目が合った。彼は、春樹を図書委員だと勘違いしたらしい。その目は鋭く、春樹のことを物言いたげに睨んでいた。
そりゃ文句の一つもあるだろうが、互いに運が悪かったってことでここは水に流そうぜ。
なんてことが言えたら、春樹の高校生活は今よりも多少はマシになっていたのかもしれない。
春樹はそう思いながら、カウンター越しにパソコンを覗いた。
「ありがとうな瀬戸。助かった」
真壁先生は、一仕事を終えた満足感を全面に出しながら、大きく伸びをする。
真壁先生が手こずっていた業務はたいしたことなく、図書委員でない春樹でもなんとなくで対応できるようなものであった。春樹のアドバイスを受けた真壁先生は、手際よく貸し出し業務を終えることができた。
足止め食らっていた男子生徒は、去り際に真壁先生ではなく、明らかに春樹に対して舌打ちをした。教師には強く出れないからと無関係な人間に対して、結構な態度だった。
混じりっ気のない八つ当たりを食らった春樹は、その理不尽に対して、明らかな拒絶を示してもよかったの。しかし、彼はその理不尽を呑み込むことにした。
あの男子生徒と春樹は、残り一年と少しの学校生活で関わることはほぼないだろう。こちらと同様に彼もきっと春樹の名前と顔を知らない。二、三日もすれば、今日の出来事なんて忘れてしまう。だったら、余計なことを言って波風立てるよりは、春樹が呑み込んでしまった方が互いに最小限の嫌な思いだけで済む。
「どういたしまして。今日は図書委員いないんですか?」
「今日、当番の奴が休みでな。他の生徒もみんな部活やらバイトやらで、誰もつかまらなかったんだ。デートに行くって奴もいたな。青春だねー」
真壁先生は、羨ましいよと絶対に思っていないことを言う。
「そうっすね」
春樹も真壁先生の調子に合わせて適当に返す。会話を切り上げようと背を向けると真壁先生に呼び止められた。
「そういえば、瀬戸。なんであの時、なにも言わなかったんだ?」
振り返ると真壁先生は、真剣な眼差しで春樹のことを見ていた。いつもは気だるげな目をしているだけに、その迫力は凄まじく目を逸らすことは許されなかった。
真壁先生が言っているのは、さっきの生徒のことだろう。
彼の舌打ちが耳の奥でリフレインする。
「いいんですよ。春樹は気にしてないですし、変に揉めるのも嫌なんで」
春樹は平坦な声で言った。心の奥に冷たい風が吹いたような気がした。
真壁先生は、春樹の答えに納得いっていないようで目をスッと細めた。春樹にはその目が悲し気に見えた。
「瀬戸。お前の気持ちはよくわかる。俺も誰かと揉めるのは、面倒だし体力を使うから極力避けたいと思っている。でもな、瀬戸。何も言わないことが安全だ、なんてことはないんだよ」
春樹がなにも言えずにいると、真壁先生はいつもの気だるげな目に戻って続けた。
「まぁいずれ瀬戸にもわかるようになるさ」
「……そうですか」
春樹がそう言うと真壁先生は、話は終わりだと言わんばかりにカウンターの奥にある司書室に行ってしまった。
取り残された春樹は、テーブルが並べられているスペースに向かった。
真壁先生の言っていることには、いまいち共感できなかった。
部分的に見れば、他人とぶつかることも正解なのかもしれない。でも、そうはならない相手もいる。さっきの男子生徒みたいに理不尽で事故のようなことはままある。そんなものをいちいち相手にしていたら、時間がいくらあったって足りない。だったら、他人とぶつからないようにした方が無難だ。
少なくとも今の春樹にとっては、それが他人と関わる上での最適解であった。
図書室には、六組のテーブルが並べられている。各テーブルには一列に三脚ずつ椅子が並べられており、一つのテーブルに計六人、座ることができるようになっている。
たったの三十六人しか座ることのできない図書室のテーブルは、テスト期間中でもなければ、三十六脚の椅子が全て埋まることはない。今日も全ての椅子が空席で、その役目を果たせないでいた。
利用者が誰もいないのは、春樹にとって都合がいいので、どうか自分が卒業するまではこのままでいてほしいと切に願ってしまう。
十月も中ごろになり、最近は西陽が強くなってきたこともあって、窓際から少し離れてなおかつ窓に背を向けた椅子に座ろうと春樹が椅子を物色しているとテーブルの上に、一冊のノートが置いてあるのが目についた。
誰かの忘れ物だろうか。
ノートの傍には鞄はなく、周囲には春樹以外、誰もいない。
春樹はノートを手に取った。
ノートは春樹も使っているどこにでも売っているような普通の大学ノートだった。表紙にも裏表紙にも持ち主を示すものはなにも書いていない。
ノートの中にはなにか書いてあるだろうと思いめくろうとしたら、ノートはするりと春樹の手を抜け、開いた状態で床に落ちた。
春樹はノートを拾い上げるさい、中を見てしまった。
そこには弱々しく小さな文字がたくさん書かれていた。
初めは、国語や社会などの文系科目のノートだと思った。数式などが書かれていなかったからだ。
しかし、書かれている文字を読んでいくうちに、それは授業用のノートではないことが分かった。
ノートには、持ち主の言葉が書かれていた。
先ほどの真壁先生と本の貸し出しを手続きをしていた男子生徒とのやり取りに、関することが書かれている。
《真壁先生が困ってる。男の子もすごくイライラしてる。なんとかしてあげたい。私にできることはなにかあるかな。でも、私なんか出ていったら迷惑をかけてしまうかもしれない》
それ以外にも短い言葉が書かれていたらしいが、それらは消されて、かすれた黒い影のようなものだけを残している。
似たようなページが何ページもあり、そこにはたくさんの言葉が詰まっていた。外に出せない言葉をノートにため込んでいるようだった。
ふと思った。このノートの持ち主と春樹は似ている。外に出してしまった言葉、これから外に出ていく言葉。その両方を恐れている。そんな気がした。
春樹がノートを読んでいると、制服の裾を誰かに引っ張られた。
振り返ると図書室の入り口でぶつかった女子生徒がいた。
相変わらず俯いたままの彼女は、なにも言わない。
ただ、春樹の制服の裾をつかむ手が震えていた。
「もしかして、きみのノート?」
春樹が訊くと彼女は、こくりと頷いた。
ノートの中身を見てしまったことを言うべきか一瞬迷ったが言わないと、どこかで後ろめたさを感じてしまう気がして、正直に言うことにした。
「ごめん。落とした時に、中を見てしまって……」
春樹は二の句が継げなかった。
彼女が顔を上げ、春樹のことを見つめていたからだ。目を隠すように伸びている重ための前髪の隙間から彼女の瞳が覗いていた。瞳は、どこまでも澄んだ星空のようできれいだった。
その瞳が見開かれ、目じりに大きな滴を作り出そうとしていた。彼女の顔が真っ赤に染まっているのは、夕陽のせいではないだろう。
全身を小刻みに震えさせた彼女は、何か言おうとして、口を開くもそこから言葉が出てくることはなかった。
決意を固めたように彼女は口を紡ぐと、突然振り返り走って図書室を出ていった。
あっという間の出来事に固まっていると、春樹が彼女のノートをまだ持っていることに気が付いた。
「待って」
彼女を追いかけるために、春樹も走って図書室を出ていく。
後ろから、走るなよと気だるげに注意する真壁先生の声が聞こえた。




