168 花舞ノ章 七十一
「今日は舟は出ねぇよ」
富士川の渡し、小屋の脇で年老いた船頭が寝そべりながら言った。
「とても急ぐのですが・・・・」
「無理さなぁ。今日は富士で雨だ。山が見えねぇだろ?こういう時は、竜神さんの鱗が暴れるんだよ」
「そういう迷信的な理由ですか?」
瑞奈が食い下がると、船頭は怒った顔を向けた。
「何が迷信さっ!こないだの戦で、どんだけの武家さんが流されたと思ってるんだっ!?」
空はどんよりとして、近くにそびえ立っている筈の富士山は厚い雲に覆われている。
富士川の流れは早く、大井川の時のような徒歩での渡河はできない。ましてや、今は紫雲がないのだ。
瑞奈は船頭小屋を離れ、近くに立っている天狗と行尊へ向けて、首を横に振った。
「狐白丸に運んでもらうしかないようじゃの・・・・」
天狗が言うと、瑞奈の胸に抱かれている狐白丸は瑞奈を見上げる。
「狐白丸でも一度に三人と荷車を運ぶのは無理ですね。何度か行き来してもらうことになるかもしれません」
「それでも、ここで足止めよりはましでしょう。子狐に頑張ってもらいましょう」
行尊がそう言って、狐白丸の頭を撫でる。
かぷっ!
「いたぁ一!!」
飛び上がる行尊。
「刀が通らない体でも、噛まれるとそんなに痛いのか・・・・」
感心する天狗。
「そんなことやってる場合ではございません。早く川を渡りましょう」
「・・・・わたしの心配は?」
涙目で行尊が言った。
まず、天狗と御体車が渡る。
天狗を背中に乗せ、御体車を大きくなった狐白丸の体に縛り付ける。
「瑞奈がいないからといって途中で落とさないでくれよ・・・・」
「ふーっ!!」
明らかに嫌そうな顔の狐白丸。
「ごめんね、狐白丸。早く蓮華殿を助けたいから・・・・」
べろん。
・・・・うわぁ。べとべと。
狐白丸がいやいやながらも天狗を乗せて飛び立つ。
「ひぃゃぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・!」
天狗も空を飛ぶのは怖いらしい。
「普段、高い木の枝に飛び乗ったりしているのですけどね」
瑞奈と行尊が見送る。
「自分で跳ぶのと、狐の背で空を飛ぶのとは違うでしょうね」
狐白丸が戻るのを待つ間、川のほとりで空を見上げていた。
「行尊殿・・・・・」
「はい?」
「わたしは、あなたを信じます」
「?」
「あなたが何者か、はっきりしていませんが、聞かない方が良いこともあります。ですが、あなたは命を懸けてわたしを守ると言ってくださいました。それを信じます」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。わたしは天狗殿のように剣術も使えず、蓮華殿のように戦御体にも乗れません。ここまでこれたのはあの二人のおかげです。鷹根峠で滅創衆と戦いになっても、わたしは身を守ることもできないかもしれません。それでも、わたしは蓮華殿を救いたい!」
笠の縁を持ち上げ、瑞奈は行尊を見上げた。
「なので・・・力を貸してください」
「瑞奈殿・・・・当然です。そのためにわたしは瑞奈殿とこうして一緒にいるのですから」
行尊が真剣な目で瑞奈を見つめる。その目には瑞奈の顔がしっかりと映る。
「目が真剣なのに・・・・口元がへらへらとしているのはなぜですか・・・・!?」
「い、いえ、また二人きりになってしまったなーって・・・・」
「変な気をおこしたら富士川の真ん中で突き落としますよ」
すると、狐白丸が空を走るように戻ってくる姿が見えた。
するすると瑞奈のそばに降りると、瑞奈に顔を摺り寄せてくる。
「ありがとう、狐白丸。疲れていない?」
狐白丸を撫でながら言うと、狐白丸は瑞奈を舐めた。
べろん。
・・・・うわぁ。
その時、雨が降り出した。
ぽつぽつと雨粒が落ち始めたと思うと、すぐに土砂降りの大雨になった。
「・・・・少し危険かもしれませんね」
行尊が空を見上げて言う。
「ですが、行きましょう。天狗殿とはぐれることも避けたいです」
瑞奈が狐白丸を撫でる。
ごろごろごろ・・・・・。
真っ黒い雲が立ち込め、稲光が時折見え始める。
「・・・・行くなら急いだほうがよさそうですね。狐白丸は大丈夫ですか?」
「大丈夫そうです。狐白丸、お願いね」
瑞奈が狐白丸の顔を撫でると、狐白丸は目を閉じて瑞奈に摺り寄る。
「それにしても、酷い雨だ!瑞奈殿、しっかりわたしにつかまってくださいね!」
「わたしの後ろで何を言っているのですか?」
「瑞奈殿、思ったよりしっかりした体つきなのですね」
「ちょっと、変なところを触らないでください!!」
「こ、狐白丸の毛が濡れて滑るのですっ!」
「ふーっ!!」
「こ、狐白丸!別に瑞奈殿をいじめているわけじゃないぞっ!・・・・あの時みたいに振り落とさないでくれよっ!」
佐夜の中山で空から落とされたことを思い出した。
「・・・・もしかして、狐白丸、あの時すでにわたしの体のことを気づいていたのか?」
行尊の問いかけに狐白丸は応じない。
「まあ、ただ乗せたくなかったのでしょうね・・・・」
ごろごろごろ・・・・・。
ぴかっ!!
「雷が近い!狐白丸、もう少し低く飛べる!?」
「おんっ!!」
狐白丸が高度を下げようとした時だった。
ばんっ!!!
瑞奈の目の前で何かが弾けた。
強烈な光が視界を覆い、瑞奈の体から一気に力が抜ける。
「瑞奈殿っ!?」
行尊が叫ぶ。
瑞奈は気を失って、狐白丸の背中からするっと落ちる。
「瑞奈殿ーっ!!」
行尊が咄嗟に手を伸ばす。
瑞奈の指先に、行尊の手が触れる。
「くっ!!」
滑り落ちる刹那、なんとか瑞奈の手を掴む。
狐白丸の背からぶら下がったまま、瑞奈は気が付かない。
「狐白丸!急げ!瑞奈殿が落ちる!」
「おんっ!!」
狐白丸がそう答えた次の瞬間。
ばちっ!!ばちっ!!ばんっ!!!
狐白丸と行尊の目の前でも光が爆ぜた。
衝撃が走る。
全ての音が止まる。
それは視界からではなく、直接脳に響いた。頭の中で何かが途切れる。
狐白丸が急速に勢いをなくし、落ち始める。行尊の手は力を失い、するりと瑞奈の手がそれをすり抜けた。
そのまま二人と一匹は川の水面に水しぶきをあげて、富士川の濁流へ飲み込まれた。
富士川のほとり、渡し船の船頭が空を見上げる。
「ほれ、雨になった。あの娘、無茶をしておらんと良いがなぁ・・・・。竜神様の鱗は気まぐれじゃからなぁ・・・・・」
老人はそうつぶやきながら小屋の戸を閉めた。




