08 運命の出会い
次の水曜日。
朝、私の部屋に現れたハンナの、葬儀列席にも相応しい表情を見て、『ロルフレッドとティアーナ』は引き続き休載していることがわかった。
この一週間は酷かった。
執事は物陰で溜息を吐きまくり、庭番は剪定を失敗し、侍女たち従僕たちは全員が一斉に恋煩いに突入したかのような憂鬱ぶり。
料理は味のパンチが欠け続け、厩番から憂鬱な言葉を聞き続けたせいか、馬たちまでもが元気がない。
家令はうんざりした顔を見せていた。
さすがに家令は三流ゴシップなどは読んでいないが、優秀な彼のこと、我々の気鬱の原因は知っているだろう。
使用人たちが私に向かって、気の毒そうな共感に満ちた目配せや頷きを送るので、とうとうお父さまは、「私の知らないところでイヴンアローの若造と何かあったのか?」と私に尋ねてくる始末。
違います。
本日、私は従僕を伴って外出。
今日はお忍びではない、明後日にケンリットン侯爵夫人からお呼ばれしたお茶会があるので、持参する手土産を見て来いというお遣いだ。
当家の家紋が染め抜かれた馬車で町に出る。
その馬車の中、『ロルフレッドとティアーナ』の読者である従僕のアーチーと私の話題は、自然とそのことへ。
なんなら御者すら『ロルフレッドとティアーナ』のファンだ。
「僕、僕……ティアーナのことが心配で心配で……」
と、涙ぐむアーチー。
私も熱心に頷く。
「わかる、わかるわ。私もそうだもの」
「お嬢さまに言うことではないですけど、ティアーナがあと一日でもお屋敷で頑張れていれば、ロルフレッドは帰って来てくれたのに、と思うと、夜も眠れなくて……」
「わかる……っ!」
そんなこんなで町中へ。
高級菓子店で用を済ませ、せっかくだからとアーチーにも菓子を見繕うべく店を移動する。
さすがに同じお店で買えるほど、伯爵令嬢の財布の紐は緩くはない。
ケチったわけではないの、あなたも月給を超えるお値段のお菓子は特別な日にとっておきたいと思って、と機嫌を取りつつ、それでも結構値の張るお菓子が並ぶお店へ。
アーチーは「僕なんかにそんな」と恐縮しつつ期待で顔が輝いている。
斯くて購入したお菓子を胸に抱え、弾む足取りのアーチーを従えて馬車に戻ろうと、往来の角を曲がった瞬間に衝撃があった。
どすん、と何かに、いや誰かに衝突した衝撃があってよろめく。
そしてそこは従僕、アーチーがすかさず私を支えてくれつつ、「この方がどなたかわかっているのか!」と、ぶつかった誰かさんに怒声。
貴族の揉め事だ、と察した周囲から人が引く。
なかなか派手な正面衝突ではあったが、私は怪我もしていない。
アーチーも本気で怒っているわけではなくて――アーチーの雇い主は私ではなくお父さまなので、私のためにそこまで怒る義理がない――、この怒りは職務の一環の演技だ。
それがわかっているから、「私は大丈夫よ」と彼を諫め、彼に寄り掛かっていたところを立ち直る。
一方悲劇は私に衝突したその人である。
背の高い、二十代後半くらいとみえる男性で、今は地面に這い蹲っている。
別に、私が彼を撥ね飛ばしたとか、私が貴族令嬢であることを察して五体投地で謝っているとか、そういうのではない。
衝突の瞬間に、手に持っていた鞄を落としてしまい、その中身が道に散乱したのを拾い集めているのだ。
私も膝を突いて、彼に手を貸すことにした。
庶民に優しい貴族令嬢が嫌いな人はいませんから、これも家名のため。
散らばったのは主に書類。
その中の、足許に滑ってきた一枚を手に取り、彼に向かって差し出す――
――うん?
待って、何か……非常に見覚えのある……そのくせ見覚えのない……そんな文章だったような――?
差し出した紙を、彼がおずおずと受け取る。
すみません、すみません、と連呼する声は小さい。
ぼさぼさの髪の間から覗く、細面の顔がやつれている。
瞬間、眩暈がした。
人生初の衝撃に、もはや地面が揺れた気がした。
――気のせいでなければ。早とちりでなければ。
今しがた私が拾い上げた紙は、『ロルフレッドとティアーナ』の、未公開部分の原稿だ。
これまで公開されている分は、暗記するほど読み込んでいるのだから間違いない。
そして、目の前にいる彼。
彼が、原稿を盗んで逃走中の窃盗犯というのでない限り、彼は――彼は――
――彼こそが、『ロルフレッドとティアーナ』の作者だ。
◇◇◇
気づくと私は、「ぶつかってしまったお詫びに」と言って、彼に葉巻を贈っていた。
動揺し過ぎて、何をどう言って彼を煙草店に連れて行ったのかも覚えていない。
アーチーはまだ彼が誰だか気づいておらず、「お嬢さま!?」と驚愕の目で私を見ている。
遠慮しまくる――というか、「やばい貴族令嬢にぶつかってしまった」と思っていたのかも知れない――彼に、どうにかこうにか葉巻を贈る頃には、頭が空っぽになった私の空っぽなトークが、どうにかこうにか彼の心に隙間を開けていた。
「申し訳ありません、こんな高級なものを」
と、笑みを見せる彼。
笑顔にも翳りがある。
心配で私の胸は潰れそう。
彼に何かあると、『ロルフレッドとティアーナ』の続きが読めない公算が大きくなってしまうのだ。
「いえ、こちらこそ失礼をいたしました」
と、傍目には完璧に取り澄まして見えるように私は答える。
とはいえ内心では雲を踏んでいる。
本当に、本当に本当に、彼が私たちの聖典にも等しいあの作品の作者なんでしょうか。
心がどこかに彷徨い出ていきそう。
唸れ私の人生経験、今こそ鉄面皮を私にちょうだい!
「何か……」
と、私は言い差す。
声はちょっと震えた。
私の人生経験を最後の一滴まで逆さに振っても、こういう状況になったことはないのだ。
「何か、お困りごとでも? 失礼ですが、憂鬱でぼんやりしていらっしゃったようにお見受けしましたが」
「――――」
彼は押し黙った。
私が今しがた贈った葉巻の箱に目を落とし、歩みを止めて道の端に佇んでしまう彼。
私は大いに焦った。
だめだめだめ! 芸術家の心は繊細なのだ!
踏み込んでどうする、私!
が、私の心臓がひっそりと止まりそうになったその瞬間、彼はゆっくりと目を上げて、私と目を合わせた。
吸い込まれそうな、穏やかな灰色の目。
彼は悲しげに言った。
「……お若い女性にそう言われてしまうなんて、僕も情けないですね」
苦笑と共にそう言われ、私は胸を押さえた。
若くない、若くないから大丈夫。
実年齢は確実にあなたよりも上。
恥じないで。
あうあうと言葉に困る私から目を逸らし、彼は項垂れる。
そして、消え入りそうな声で呟いた。
「……仕事が少し、上手くいっていなくて……」
「まあ……」
呟きながら、私はこっそり拳を握る。
新聞社か。
新聞社が作品の方向性に、何か口を出してきたのか。
だとしたら任せてほしい、証拠は一切残さずに、新聞社を焼き討ちにしてくれよう。
呼吸を整え、私は慎重に。
「……お仕事は、何を?」
彼は口籠った。
私は待った。
往来の雑踏のざわめきを聞くことを数分。
彼は押し出すように呟いた。
「――小説家を、しておりまして……」
やはり。
やはり、あなたなのですね……!
崇敬に舞い上がりそうな私。
視界の隅で、アーチーが、「もしや」と表情を変えるのが見える。
そちらを振り向きもせず、私は今ばかりは神速で「お黙り」と仕草で指示をしてから、わざとらしくない程度に目を瞠ってみせた。
「まあ、そうでしたの!」
彼は自嘲気味に唇を曲げた。
「まあ、大衆向けの……三流の、つまらないものですけどね」
そんなことありません! 大好き! 大好きです!
とても素敵!
どのくらい素敵かというと、とある伯爵家の使用人一同を再起不能に追い込みそうになっているくらい素敵です!
そう熱烈に内心で叫びつつ、私は穏やかに告げた。
「卑下なさることはありませんわ。読み物の価値は、読み手の心の中でこそ決まるものですもの」
心臓が苦しくなってきたので呼吸を整える。
「では、上手くいっていない、と仰いますのは……?」
彼は目を閉じた。
また彼は黙り込んだ。
私は固唾を呑んで待った。
固唾を呑み過ぎて、たぶん呼吸も止まっていた。
やがて、彼は言った。
「……簡潔に申しますと、スランプです」
瞬間、私は白目を剥いた気がする。
なんだって。




