09 ときめきスランプ!
私たちの生きる糧、『ロルフレッドとティアーナ』の生みの作者が、スランプに陥っている、だと……。
その瞬間、私は、万障を排して彼の力になることを決意した。
実際そう言っていた。
「何かお力になれることはございませんか」
言い淀む彼。
そりゃそう。
初対面の、名前も知らない怪しい貴族令嬢に、作家たる者なにを言えよう。
「こうしてお会い出来たのも何かのご縁です。どんな場面で筆が止まってらっしゃるの。もし――もしお力になれるのでしたら、私は貴族の末席の者ですが、取材でもなんでも、いくらでも受けましてよ」
私の勢いにドン引いたのであれ、彼もまた溺れる者だった。
私はその藁になった。
彼は私を掴んだ。
だが、なお言い淀む。
明らかに周囲の耳目を気にしている。
その瞬間、私の判断力は光の速さを得た。
「衆目のないところに参りましょう」
私はそう言っていた。
アーチーがさすがに「お嬢さま!?」と声を上げる。
私はくるっと彼を振り返った。
「アーチー」
呼んで、数歩を作者の彼から置いて、彼に聞こえないようにしつつアーチーに耳打ち。
「馬車を公開庭園に回してちょうだい。私たちは辻馬車でそこまで行くわ」
「だーめーでーすーっ!」
アーチーの声音は抑えた悲鳴。
「何しようとしてるんですっ!? どこの馬の骨とも知れない男とお嬢さまを二人にしたなんて、そんなことが旦那さまにバレたら、僕の首は飛びます! 職業的にも物理的にも!」
「絶対に知られないようにするから」
「お嬢さま!」
「アーチー」
私は、そっ……、と彼の手を取った。
「薄々気づいているのではなくて? ――彼です。彼が、私たちが熱望している、あの作品の……」
「……っ」
アーチーが息を呑む。
「や……やっぱり……? いやでも、そんなまさか」
「ええ、まさかよね。でも、いいこと、ここで彼の筆が止まったままだと……」
「――っ」
アーチーの顔が恐怖で歪む。
「いいこと、今この瞬間は、彼こそが国王陛下よりも尊い方よ」
「それはちょっと」
「今この瞬間の私たちの対応に、全ての読者の命運が懸かっているのよ」
「――――」
「さあ、どうすべきか、わかるわね?」
手を離す。
アーチーは深々と頭を下げた。
「……仰せの通りに、お嬢さま」
勝った。
私は作家の彼を振り返った。
「ささ、参りましょう?」
◇◇◇
公開庭園の湖畔には、涼やかな風が吹いていた。
辻馬車を捉まえてここまで来て、遊歩道を歩く間に、百年以上かけて培ってきた雑談能力で彼の心を和ませ、湖畔に辿り着く頃には、私は彼の大体の人生を聞き終えていた。
まず、彼の名前はジョナサン。
筆名はジョン・ボルト(よく知っています)。
生まれは北の方の町。あまり恵まれない子供時代。
文筆の才を恃んで優等学生制度を使って大学に進むも、わけあって退学処分となり、一念発起で書き進めた『ロルフレッドとティアーナ』が新聞社の目に留まり、現在に至る――ということだそう。
私も簡単に自己紹介しておいた。
怪しい者ではありません。
伯爵家の馬車にお連れしなかったのは、いきなりそんなものに乗せられたら、彼が緊張してしまうと思ったから。
あとはまあ、当家の外聞。
さて、湖畔に行き着いて、話題はいよいよ核心に迫る。
「スランプ、と仰いましたね……?」
湖面を風が撫でていく。
白い波が走る。
陽光を弾く湖面を眩しげに見遣りながら、ジョナサンさんはこくりと頷く。
私はぎゅうっと両手を握り合わせる。
絹のグローブは皺確定。
でも許して。
――私にとっても、このスランプは非常に大問題だ。
何しろロルフレッドとティアーナの行く末が懸かっている。
一方ジョナサンさんにとっては、もっと大問題だ。
だって生活が懸かっている。
「どう……どんな場面で……いえあの……筆が止まった原因ですとか……」
すう、とジョナサンさんは息を吸い込み、その場に崩れるように座り込んだ。
今この瞬間は国王より尊い人のそんな様子に、私は激しく動揺する。
思わずそばに膝を突きたくもなるが、この湖畔は下草萌える草地である。
座り込んではドレスが汚れる。
立ち竦んでいると、「あ、すみません」と思いのほか冷静な声を出し、ジョナサンさんが大判のハンカチーフを引っ張り出してきて、それを草の上に広げてくれた。
なんて気の利く方だろう。
それはそれとして、今この瞬間は国王よりも尊い方のハンカチーフをお尻に敷くという所業に、ちょっと胸が苦しくなってくるけれど。
ともあれ彼の隣に腰を落ち着ける。
ジョナサンさんは遠い目をしていた。
そして、ぽそっと言った。
「……このままでは、私は、食うに困ります」
「ええ……」
出来るなら出資でもなんでもしたいけれど、お父さまを説き伏せられる気がしない。
「……つまり、割と今、人生の危機です」
「ええ……」
出来るなら――以下略。胸が痛い。
「ですから、言ってしまうのですが」
「はい」
「伯爵令嬢と仰っていましたね?」
「あまりお気になさらないで」
「その……あなたが教会に駆け込んでしまうと、私の生命は終わるのですが」
「生命……!?」
思わずすごい声が出た。
まじまじと彼を見てしまう。
同類には見えないけれど――同類なのか。
この人も魔法を使うのか?
確かに私やアルヴェインは、魔法を使うことが知れれば教会によって火炙りにも処されかねないが――
が、私のその須臾の混乱は、諦念に満ちたジョナサンさんの告白に遮られた。
「私は、男が好きなのです」
あ、そっち。
確かに同性愛は、丸い印を掲げる教会曰くの罪だけれど、私は断じて駆け込んだりはしない。
あとそれが、スランプとどう繋がるのか。
「はあ……」
結果、なんとも言えない声が出てしまう。
ついで、要らない推論が働いた。
「……もしや、大学にもそれが知れて、追い出されたのですか?」
こくりと頷くジョナサンさん。
私は唇を噛む。
他人の恋路にどうこう言いやがって、という苛立ちと、いやでも大学にいた場合、彼は『ロルフレッドとティアーナ』を書いていないかもしれなくて……という自分本位な計算が、同量で胸の中で鬩ぎ合う。
辛うじて口からは前者が出てくれた。
「なんてこと。
――それで、あの、どうしてそれが、スランプに……?」
ジョナサンさんは意外そうに私を見た。
私が拒否反応を示さなかったのが意外だったのかもしれない。
あのねジョナサンさん、私はこれでも長く世の中を見てきた方でね、という、絶対に伝わらない意図を籠めて頷いておく。
ジョナサンさんは湖の方に顔を戻し、絞り出すように言った。
「……私は、恋が成就したことがありません」
つ……つらい……。
「そもそも好きになる人が、大抵、女性が好きな方でして」
「ああ……」
「ちょうど今、執筆しなければならない場面が」
「……!」
「主人公とその恋人が――」
「あああああの!」
思わず遮った。
許して。
傾聴するつもりだったけどこれは駄目。
作者からのネタバレなんて嫌だ。
文章で読みたい。物語として受け取りたい。
「その、何がお手を止めてしまった要因なのですか。
恋が成就したときの喜びがいまいちよくわからないとか、そういったことでしょうか」
ちなみに私にもいまいちよくわからない。
長い人生を振り返り、これまで恋愛らしい恋愛を通過せずにここまで来てしまった。
あっ、私もけっこうつらいかも。
私の挙動不審っぷりを、しかし寛大にも見逃して、ジョナサンさんは顎に手を当てた。
「ときめきが」
「ときめき」
「ときめきがよくわからなくて」
「ときめきがよくわからない」
オウムになってしまった。
ときめき。ときめきときましたか。
どうしよう。
私にもよくわからない。
これは力になれるのか。
ジョナサンさんが私に顔を向けて、ふっと淡く笑った。
寂しげな、諦めたようなその笑みに、ぎゅうんと私の胸が痛む。
「――失礼しました。初対面のお嬢さまに、こんなことを言ってしまうなんて。不敬罪ものですね」
「問い詰めたのは私です!」
思わず声が大きくなる。
私はもはや隠しもせず、拳を握り締めていた。
「なんなりと――なんなりとお力になりますとも! たとえば――たとえば――」
ジョナサンさんの恋を応援する?
だめだめ、そんなにすぐ、ジョナサンさんと相思相愛になれる素敵な男性が見つかるとは限らない。
そして利己的の誹りを受けてもいいけれど、ジョナサンさんが、今度は恋に夢中になってしまって執筆の時間が取れないなんてことになったら本末転倒。
だから――だから、ええっと――
「――他の!」
「えっ」
私の勢い込みっぷりに、私の発狂を疑うような顔で仰け反るジョナサンさん。
大慌てで私は貴族令嬢っぽい表情を再構築して、物静かに咳払いした。
「――他の方に、それこそ取材をするのはどうでしょう。
恋人といるときどんな感じか、ですとか、そういったことを」
そう言ったときのジョナサンさんの悲しい顔に、私は気づいてしまった――あ、この人、友達いないな。
素早く言葉を足す。
「ですが、筆名を使ってらっしゃるくらいですもの、お友だちには執筆のこと、伏せてらっしゃるのでしょう?」
私の助け舟をキャッチして、頷くジョナサンさん。
「ですから、私の――私の――」
ここで言葉に詰まってしまう。
風が吹き、湖面に白い波が走る。
沈黙。
すうっと息を吸い込んで、私は言った。
「……私も実は、恋をしたことはなくて」
ジョナサンさん、その、同志を見る目をやめてください。
「私の、お友だちも……」
モンドエラ男爵令嬢のカトリーヌ。
十七歳。今のところ婚約者なし。浮いた話もなし。私の同類。
ディリーア子爵令嬢のテレサ。
十六歳。婚約者はいるけれども、彼は大学在学中で、滅多に会っていないし婚姻も当然彼の卒業後。「いるのかいないのか、よくわからない婚約者」とよく言っている。
クレイシア伯爵令嬢のエヴェリン。
十五歳。私とほぼ同時に社交界デビューしたばかり。今のところ良縁はなさそう。
……詰んだ……。
いや、誰かが、それこそ使用人相手の禁断の恋に身を焦がしていれば、今ばかりはラッキーだけれど。
――そのとき、ふと思い出した。
カトリーヌ。
カトリーヌがふと零したあの言葉――
『ですけど、アルヴェインさまでしょう……素敵な方ではあらせられますよね』
あれ? これは……
風が吹く。
花の香りが運ばれてきて、頭上のどこかでヒバリが鳴く。
私はジョナサンさんに顔を向けた。
「たとえば、ですが」
「はい」
「誰かが憧れの人にハグされたとして」
「いい……」
「その一瞬のときめきを、もしも取材して、あなたに伝えられたら」
ごく、と唾を呑む。
「それは……お役に立ちますか?」
ジョナサンさんは私を見た。
間違いなく、勇者を見る目だった。
「もし――もし、そんなことが可能であるならば、間違いなく」
私はジョナサンさんに手を差し出す。
「わかりました。全力を尽くします」
「どうしてそこまで……」
至極当然な問いがジョナサンさんの喉から漏れたが、それは無視して強引に握手。
「状況はお知らせしますわ。お手紙を出しますから、お住まいを教えてくださる。
――ああ、あの、他の方に助力を頂く場合、ジョナサンさまのご状況をどこまで共有してもよろしいか、詳しく教えてくださいな」




