あのとき、彼は
本編21話、22話のアルヴェイン視点
「――アルヴェイン」
苦虫を一千匹くらい噛み潰したような顔をした父上から、父上の書斎に呼ばれた俺は、嘆きの谷の底から響くようなその声音に、「どうやらいいことがあったらしい」と気づいた。
にっこり笑いたいのを堪えて神妙な顔。
「はい、父上」
書斎のデスクの向こうで、父上は百年の苦役に服した後のように両手に顔を埋めた。
顔色が悪い。
父上のそばには家令も控えているが、家令の父上を見る眼差しよ。
今にも「お労しいことで……」と言いそうだ。
ということは、家令は先刻父上が王宮から帰ってきた後に、もう用件を聞き知っているんだな。
何事? と家令に目配せすると、家令から、「神妙にせよ」と言わんばかりの睨みを利かせられた。
軽く首を竦める。
それから、暗澹たる気配を漂わせる父上に目を戻した。
「父上?」
「アルヴェイン、おまえ……」
父上が深い溜息を吐く。
「おまえ、ドーンベルのところの令嬢と、こっそり逢引しているらしいな?」
俺はとうとうにっこり笑顔。
よっしゃ、やっと気づかれた。
これまで散々言い訳に苦心しながら、挫けずフィオレアナをあちこちに引っ張り回していた甲斐があったというもの。
これで俺たちの恋愛沙汰は表舞台に出るぞ。
「あ、どこで露見しました?」
いけしゃあしゃあと抜かす俺に、父上の殺意の籠もった眼差しが突き刺さる。
「――先週、私が出資した演奏会に、おまえがそれはもう得意げにドーンベルのところの小娘を連れて現れたと――」
「小娘とは度が過ぎますよ。父上、将来のあなたの義理の娘ですよ」
俺がそう言ってみると、父上はガチで白目を剥いた。
ごめん、ごめんって。
家令も、「なんてこと言うんですか」みたいな批難の目を向けてくる。
えぇ……。
「――父上、俺は彼女に求婚するとき、お許しを頂きましたが?」
そっと思い出させてみるも、父上は見事に俺を無視。
ははーん、そういうことか。
あわよくば俺の求婚をなかったことにしたいとお考えだったな。
まったく、どいつもこいつも。
なんだか自分の恋路が気の毒なものに思えてきた。
俺はそっと咳払い。
「――はい、野外演奏会で見られていたんですね。
もしかして、ドーンベル伯とそのことでお話されたとか?」
思わず前のめりになる俺。
フィオレアナは、俺がいくら健気に好意を匂わせようが、華麗なまでにその全てに気づかずこれまで同様、唯一無二の運命共同体としての友情しか返してくれない。
斯くなる上はいっそ先に結婚してしまってから、ゆっくりあいつを口説き落とせばいいのでは? とまで、最近の俺は考えてしまっている。
だってうかうかしているうちにフィオレアナに他の男が手を出したら困るし。
フィオレアナだって、求愛者が一族郎党諸共に血祭に上げられたら、さすがにびっくりするだろう。
が、そんな期待満面の俺を鬱々とした目で見て、父上は十も老け込んだ様子でがっくりと肩を落とした。
「……いや、ドーンベルとは、何も」
俺は瞬き。
誰とも話してないにしては、父上のこのげっそりとしたやつれようは異様。
フィオレアナの父君であるドーンベル伯以上に、今の父上が話したくない相手といえば……?
思い当たって、俺は今度こそ自分の顔が輝くのを感じた。
「まさか、陛下ですか?」
「――――」
父上、苦悶の表情。
俺は思わず拳を握り締める。
「陛下が、俺とフィオレアナの結婚を裁定してくださるのですか?」
父上、項垂れる。
それからぼそぼそと陛下との謁見の顛末を話してくれたが、敗残兵も斯くやというその父上の様子とは真逆。
俺は勝利の叫びを堪えながらそれを聞いていた。
――勝ったぞ。
陛下が貴族の婚姻を裁定するともなれば、その決定は絶対。
そしてこの国の馬鹿らしい慣習で、フィオレアナはその裁定の場に入ることは出来ない。
つまり、俺が何を言おうが止めることは出来ない。
俺が「ぜひフィオレアナ嬢と結婚したいです」と言い切ってしまえば、陛下もかなり前向きにお考えくださるはずだ。
いつまで経っても無邪気に無垢に、俺とあいつの間にあるのは仲間意識と友情だと信じ切っているフィオレアナには悪いが、ここは人命第一だ。
まだ見ぬあいつの求愛者を血祭に上げることになる未来を阻止するためにも、ここは強引にいかせてもらおう――
――と、俺が腹黒く考えていることなど露知らず。
『――どうするんだよっ!』
夜半、例によって蝋燭の前。
魔法をかけた蝋燭の灯が俺とフィオレアナを繋いでいる。
この魔法で会話するのも久しぶりだ。
俺としてはゆっくり和やかに雑談でもしたいところだが、フィオレアナはそうではないらしい。
噛みつくようにぎゃんぎゃん怒鳴ってくる。
『本当にもうどうするんだよっ! だから会うのはやめとこうって言ったのに!』
その勢いに、蝋燭の灯が揺れる揺れる。
恐らくフィオレアナの頭の中は、「陛下が結婚しろと言えば、その瞬間に婚約確定!」という危機感で埋め尽くされているに違いない。
――危機感……危機感ね。
自分で推し量っておいてなんだが、ちょっと空しくなってきたぞ。
自然、俺の反応も淡泊になる。
「まあ、うん、そうだな」
『そうだなじゃなくて!』
「まあ、なんとかなるだろ」
俺目線では。
もうなんか半眼になって蝋燭の前で爪を弾きながら応じていると、フィオレアナが絞め殺される寸前みたいな声を出した。
『なんとかなるだろ、じゃなくて、なんとかしなきゃいけないの!』
「まあなあ……」
俺の声も煮え切らないものになる。
この流れで、「いや、おまえと結婚したいんだって」と言い出すのは、うん……さすがに情緒に欠ける……なんなら冗談だと思ったフィオレアナが激怒しそう……。
というわけで事実を指摘。
「むしろ、侯爵や伯爵の称号まで持っている方々の子女の婚約が、求婚だけで終わって何週間も放置されていたっていうことが、とんでもないことではあったしな」
『立ち消えを狙っていたから!』
フィオレアナ、魂の叫び。
俺は、「うぅん……」みたいな声を出してしまった。
「俺は、そもそもの最初に、『フィオレアナ嬢と恋に落ちました』と言ってしまっているからな……」
『気の迷いでしたって言えよ!』
フィオレアナは絶叫寸前。
信じられないと言いたげだ。
『私に唆されたとでもなんとでも言っていいから!
おまえがしっかりしなきゃいけないんだぞ!』
「俺が、ねぇ……」
しっかりする気はあるが、フィオレアナが思うのとは逆方向だ。
思わず気の抜けた声を出してしまう。
それからふとした悪戯心で、軽く聞こえるように言ってみた。
「もういっそ結婚する方が楽じゃないか?」
楽じゃなくても結婚はしたいが。
というより、結婚するのが目もくらむほどの苦難だろうが、そっちに挑む気は満々だが。
が、それが伝われば苦労はない。
『易い道を選ぶなよ!』
フィオレアナが説教してきた。
思わず首を竦める。
彼女が立て続けに捲し立て、蝋燭の灯がぐわんぐわんと激しく揺れる。
『わかるか、ここでついつい楽な方に流されたら、私と結婚する羽目になるんだぞ?
結婚って、わかるか? 教会で永遠の愛を誓うあれだぞ?』
いいねぇ。
『同じ家に帰ることになるんだぞ?
社交界では常にセットだぞ?
奥さまが、って言われて振り返ったらそこに私がいることになるんだぞ?
それが今生で死ぬまで続くんだぞ? ――うえ』
俺がうんうんと気分よく聞いていたら、フィオレアナがえづいた。
これにはさすがに傷ついた。
「おい、今えづいたか?」
そこまで嫌悪感を持たれているとは思わなかった。
「……そんなに俺のことが嫌いか」
『おまえだって想像してみろよ! 結婚生活については私よりよっぽど知ってるだろ!』
フィオレアナがとんでもないことを言い出した。
否応なく、一瞬とはいえ俺は、いわゆる夫婦生活にフィオレアナを当て嵌めて考えてしまった。
主に、なんだその、夜の部分だ。
それをふわっと想像した瞬間、俺はげほげほ咽てしまう。
だ――駄目だ、これは駄目だ。
色んな意味で駄目だ。
何よりフィオレアナに悪い。
あと眠れなくなる。
駄目だ駄目だ。
俺がぶんぶん首を振っている間に、フィオレアナがしたりとばかりに言い募る。
『な? な? アルヴェイン、正気に戻って努力してくれ。
まずはおまえのお父上に、『恋をしたというのは気の迷いでした』って言って、それから陛下に、「情熱の炎は海に捨てます」って言うんだ。出来るだろ? な?』
俺はなんとか、しれっとした語調を取り戻して応じた。
書斎での父上とのやり取りを思い出す。
「あー、『両家の垣根を越えるだけの情熱を二人が燃やしているのであれば、その炎を暖炉に入れるかあるいは海に沈めるか、きちんと話し合うべきだ』っていう、あの陛下のお言葉は父上の創作じゃなかったのか」
『違う。正確な引用のようだ』
「なるほどな、父上にしては科白に気が利いていると思っていたんだよ」
フィオレアナが雑談の方に流されてくれないかな、と思ったが、彼女は頑として主張を続けていた。
『どうでもいい。いいか、海だ。海に直行だ。そう言え。なんなら謁見の間に入るなり『海!』って叫んでもいい』
「そんなことをしたら、俺が不敬罪で捕まるぞ」
『捕まってくれればこの話もなかったことに……』
なんてことを言うんだ、こいつ。
まあ、俺が捕まれば助けに来てくれるんだろうが。
が、揶揄いたくなってしまう。
「世の中には獄中婚というものがあってな」
『いやあっ!』
フィオレアナが叫び、俺は思わず含み笑う。
「冗談だよ。捕まるような真似はしない」
フィオレアナがくすんと鼻を啜る音。
俺ははっとした。
『ちゃんとしてくれよ……』
俺は息を吸い込み、姿勢を正した。
軽口を許してほしくて、そして何よりフィオレアナのそばに行きたくて、蝋燭に身を乗り出す。
「……すまん、からかい過ぎたな。
おまえにハンカチを貸すには遠い場所にいる。許してくれ」
フィオレアナがもう一度鼻を啜る気配。
『泣いてないもん……』
これは否定してはいけない。
フィオレアナが可愛らしくて、俺は思わず微笑んだ。
「すまん」
『もういいからちゃんとして……』
軽く息を吸う気配のあと、フィオレアナは決然とした声を出した。
『ちゃんとしろ。私はその場にいられないんだから』
俺は黙り込んだ。
あれこれと頭の中で言葉をこねくり回すも上手くいかず、ややあって、奥歯にものが挟まったような言い振りになりつつ、尋ねる。
「……本当に、破談にしたいんだな?」
『当たり前だろ』
即答に、心が痛んだ。
どうしてこの女は、こうもあけすけな俺の気持ちに気づかない……。
「なぜだ?」
直球で尋ねると、フィオレアナは向こう側できょとんとしたらしい。素っ頓狂な声を出した。
『当然じゃない?』
なんなんだこいつ。
「なぜ当然なんだ」
『そりゃあ、だって……』
フィオレアナが沈黙する。
言葉を選ぶようなその間。
それから不意に息を引いて、彼女がきっぱりと言った。
『アルヴェイン、本当に申し訳ない」
申し訳ない?
申し訳ない――何が――えっ?
「えっ?」
声が出た。
ちょっと声が裏返った。
まさかこいつ、俺の気持ちに気づいてる?
その上で俺は振られてる?
待っ――ちょっ――それはちょっとまだ覚悟が――
「えっ? おま……っ、いつから……」
喉が詰まる俺の言い分などまるで聞かず、フィオレアナがきっぱりと続ける。
『本当に申し訳ない。何度も伝えたと思うが、おまえを呪ってしまったこと、後悔している。解呪の方法は必ず見つける。何回も何回も人生を過ごさせて、本当に悪いと思っている』
「――――」
俺はぱっかりと口を開けた。
ややあって、拍子抜けして呟く。
「……そっちかよ……」
いつの話だよ……。
俺が呆れ返っている間にも、フィオレアナは誠心誠意続けている。
『アルヴェイン、私は加害者なんだ。いつもぽんぽんものを言って口答えして申し訳ない。
でもその立場は忘れない。だから結婚なんてとんでもない』
「…………」
……なんか、むかついてきた……。
なんだこいつ、昔の話を持ち出してまで、そこまでするほど俺は要らないか。
しばらく黙った後で、俺は試すように言った。
「……その論理だと、被害者である俺の方にこそ選ぶ権利があるのでは?」
『もちろんだ』
フィオレアナが、打てば響くように肯定する。
――だったら、俺が真面目に求婚すれば、おまえは頷いてくれるのか。
そんなことはないだろう。
おまえは俺が言うことを冗談にして逃げてしまうんだろう。目に浮かぶよ。
だからそんな、おまえが真実だと思っている嘘を並べて俺を遠ざけないでくれ。
俺はぎゅっと目を瞑る。
フィオレアナの声は続いている。
『だからだよ。――アルヴェイン、あのな、再会したときは私もパニックだったけど、よくよく考えるまでもなく、私はもうおまえを呪ったりしない。家どうしが敵対していようとなんだろうと、絶対におまえの味方であり続ける』
そこまで言ってくれるのに、おまえは俺をちゃんと見ていない。
『――そう思えば、そもそもの発端からおかしかったんだ。
もうこれ以上、おまえは犠牲にならなくていいんだ。好きでもない女を娶るだなんて、そんなことはしなくていい』
「――――」
俺がなんとか立ち直るまで、十二秒掛かった。
――立ち直るというか開き直るというか。
「――わかった」
わかった、フィオレアナ。
おまえがそうも頑固なら、こっちにだってやりようはある。
おまえは、俺には選ぶ権利があると言った。
だったら俺が選んだことを受け容れてもらう。
――今生では絶縁されても構わない。
泣いても笑っても、おまえには俺しかいない。
絶縁なんて長く続くはずがない。
だったらまずはおまえを貰う。
不穏な決意を固めつつ、俺は淡々と。
「わかった。それを前提に、国王陛下の裁定には臨む」
『うんっ。口裏合わせとか要るよな? どうしようか、たとえば――』
フィオレアナの声音が、明らかに軽やかになった。
そのことにすらちくちくと胸が痛む。
そんなに俺との結婚は嫌か。
嫌なんだろうな。
でも我慢してもらおう。
許されるまで指一本触れたりしないから、まずは名前だけ俺のものになってもらおう。
「フィオレアナ、いい」
声はどうしても素気なくなった。
「いい、俺が考える」
フィオレアナは虚を突かれたようだった。
『……そう?』
俺は溜息を吐く。
そろそろつらくなってきた。
いつか機会があったら、このときの俺がどれだけ傷ついていたか、フィオレアナに教えてやろうか。
――いや、悪趣味だな。
男を袖にしたからといって、フィオレアナが責められる謂れはない。
「ああ。――もう遅い。そろそろ切り上げよう」
フィオレアナはにわかに焦ったようだった。
俺が怒っていると思ったのかもしれない。小心者め。
その小心なところまで俺に愛させないでくれ。
『えっ? あっ、うん。遅くまでごめん――』
「いいから」
『あの、本当にごめん……』
フィオレアナの声音がしゅんとしてしまって、それはそれで俺は胸が痛い。
「いい」
フィオレアナがこちらの機嫌を窺う気配。
『合わせる口裏は予め教えてもらった方が――』
合わせる口裏も何もない。
俺はフィオレアナが欲しいと言う。
ぶっきらぼうに返す。
「そうだな。もう寝る」
フィオレアナがますます萎れる気配。
溜息を吐きたくなる。
こいつは、俺に親愛の情は持っているだろうか。
さすがに持っていてくれるだろうな。
無理に結婚してしまえば、俺はそれを失うことになるだろう。
また得られるだろうか。
フィオレアナはどんな男が好きなんだろうか。
そういえば訊いたことすらなかったな。
今からでも間に合うだろうか。
俺はこいつの心を得られるだろうか。
今までとは違う、俺の胸の内にあるものと対の形のグラスに注いで。
俺はあげられる。
いくらでも俺の心を注いであげられる。
注ぎ続ければそのうち溺れてくれるだろうか。
こいつにとっての空気のような、なくてはならない存在になれるだろうか。
まだ時間をくれるだろうか。
俺がこれから働く裏切りがあっても、フィオレアナはまだ俺に、心をくれる余地を残してくれるだろうか。
残してくれてもいいはずだ。だって――
「――マリーゴールドの見頃は、まだ終わっていないぞ」
◇◇◇
――イオは、俺にとって恐怖と畏れの対象だった。
それから生まれ変わる度に俺の前に現れる彼女は、はじめは恐怖の的であり、次に憎悪の、嫌悪の、怒りの的になり、そのうちにこいつの、奇想天外な間抜けさを知るにつれて、誰より親しい人になっていった。
俺を誰より怒らせたのも、悲しませたのもこいつだ。
俺が最も楽しかった瞬間も、こいつと共有したものだ。
俺を誰より喜ばせ、時に困惑させ、時に呆れさせ、時に安堵させ――
あらゆる感情の、その最も大きな部分を、俺にとってはこいつが占めてきた。
そして今生、これまでは守り抜いてきたはずの、俺の恋情でさえこいつに撃ち抜かれてしまって、俺はもう丸裸だ。
降参だ。
もう抵抗できない。
フィオレアナを得るためなら何でもしてしまう。
そしてその上で、彼女を喜ばせるためなら何だって出来る。
――多分、フィオレアナは、俺がどれほど彼女に溺れているかわかっていない。
わかっていれば、こんな無防備な顔は見せたりしないはずだ。
そんなことを思いつつ、俺はいつぞやの、国王陛下の裁定を前にした自分の醜態を思い起こすことを中断して、夜会の帰り道、馬車の中で俺に凭れてすやすやと寝息を立てる婚約者、フィオレアナの頬に、そっと唇を触れたのだった。
またネタが降りてきたら更新します。




