10 今さら、何がどうこう――ないよね?
というわけで作戦会議。
お茶会と称してクレイシア伯爵邸に集結した私たちの表情は、まさに真剣勝負に臨む顔だ。
各々予定があったので、こうして会っているのは私の運命の出会いから三日後のこと。
上品にお茶を啜り、音を立てずにカップをソーサーに戻し、私の説明を聞き終えたクレイシア伯爵令嬢、エヴェリンが口火を切る。
「つまり、フィオリー……こういうことですわね。
あなたは『ロルフレッドとティアーナ』の作者らしきジョナサン氏に出会った。この方はスランプに陥っている。それを救わねばならない、と――」
「ええ」
頷く私。
そう、最後まで、明言してジョナサンさんが『ロルフレッドとティアーナ』の作者であるとは告げられなかった。
ただし、状況証拠からして、ほぼ間違いない。
ついでに言うと、彼が恋する対象が男性であることは黙っている。
さすがに個人的なこと過ぎますから。
エヴェリンが、カップの把手をぎゅっと握り締めた。
陶器の悲鳴が聞こえそうな力の籠め具合。
「あなたが……あなたがぼんやりしてくださっていて、作者さまとぶつかってくださり、今回のこのことに至ったのならば……フィオリー、感謝に堪えません……!」
「…………」
なんだろう、一言多い気がする。
でもいいや。
「ですが、カトリーヌの気持ちが第一ですわ」
と、ディリーア子爵令嬢、テレサ。
彼女がてきぱきとカトリーヌに視線を向ける。
「カトリーヌ、どうですの? 実際のところ、アルヴェインさまに抱き締められたら、ときめきは訪れるかしら?」
モンドエラ男爵令嬢のカトリーヌは、控えめに言って狂人を見る目で私を見ていた。
「はい……はあ、あの、フィオレアナさま? アルヴェインさまは――ご婚約者、ですよね?」
「まだです。まだ話は進んでいません。まだです。断じてまだ」
必要以上に「まだ」を連呼する私。
そんな簡単に外堀が埋まって堪るか。
「ですから気になさらないで。――カトリーヌ、トレイシーの言う通りよ。どう? アルヴェインさまに抱き締められたら、ときめきそう?」
身を乗り出す。
カトリーヌは逆に、ちょっと仰け反った。
「ええ……あの、誤解なさらないで、憧れでしかありませんから……! 断じてお慕いしているわけでは……!」
カトリーヌも、モンドエラ男爵家を背負っているのだ。
ここでの会話が何かの拍子に外に漏れて、「モンドエラ男爵令嬢、ドーンベル伯爵令嬢の婚約者に横恋慕!?」なんて醜聞になったら、目も当てられないということを意識しているらしい。
本当に、今はどうでもいい。
ついでに婚約はしていない。
求婚があっただけだ。
「ええ、ええ、もちろんわかっているわ。でも今はそれはいいの。肝腎なのは、また水曜日にお手紙が届くようになること。そうではなくて?」
私の慈愛の微笑みに、カトリーヌが頬を染める。
えっ、ちょっと、私にときめいたなんて言わないで。
アルヴェインを想像してときめいたと言って。
果せるかな、カトリーヌは蚊の鳴くような声で応じた。
「……ときめくと思います……すごく」
勝った。
思わず拳を握る私に、トレイシー――即ちテレサが憂い顔を向ける。
「ですけれど、フィオレアナさま。アルヴェインさまにはご協力いただますかしら?」
私はにっこり微笑み、上品にカップを持ち上げた。
鼻腔を擽る紅茶の豊潤な香り。
「ええ」
自信満々に、私は応じた。
「なんとしてでもご協力いただきますとも。期待して待っていらして」
◇◇◇
「頼みがある」
『お断りだ』
以上、蝋燭の灯を通して会話を開始した、一言目と二言目である。
言うまでもないが一言目は私、二言目はアルヴェイン。
私は目を見開いた。
折しも春の嵐の夜、カッと輝いた雷光が、窓のそばの大樹の輪郭を鮮やかにカーテンに描き出す。
一拍置いて、ぴしゃん! と叩きつけるような雷鳴。
首を竦めてそれをやり過ごしていると、蝋燭の灯からやや遠慮がちになった声が聞こえてきた。
『……大丈夫か?』
「大丈夫じゃない」
この頼みを断られると、私の生活に多大な損失が出る。
そういう意味で言ったのだが、蝋燭の灯の向こう側、恐らくはアルヴェインも彼の私室にいるのだろうが、そこで彼はにわかに慌てたようだった。
『雷は苦手だったか? そばに誰かいるか?』
「はあ?」
私は呆れ返った声を出してしまった。
「何を言っているんだ。雷ごときに、今さらどう怯えるって言うんだ。ついでに言うと、今そばに他人がいたら大問題だと思うが」
『……おまえが、大丈夫じゃないって言うからだろう』
鼻白んだ様子のアルヴェインに、お願い事の最中だったと思い出し、私は慌てて取り繕う。
「ごめん。頼み事を断られると大丈夫じゃないって、そういう意味だったんだ」
『……ああもう』
アルヴェインは、どうやら髪を掻き回したようだった。
深々とした溜息が聞こえてから、彼が投げ遣りに尋ねてくる。
『なんだ、頼み事っていうのは。久しぶりに連絡してきたと思ったらこれだ。どうせ、父上に対する言い訳を考えたから聞いてくれ、だとか、そういう話だろう』
「あっ、今日はそっちじゃなくて」
私の言葉に、アルヴェインは怪訝そうにした。
『……じゃあ、なんだ?』
私は居住まいを正す。
「事情を聞かず、ただ指定された女の子を抱き締めるだけの簡単なお仕事です」
『お断りだ』
アルヴェインはにべもない。
それどころか呆れ返った風でさえある。
『おまえ――おい、それはないだろう。ついこのあいだ、格好つけて「私が盾になる」とか言っておいて、その舌の根も乾かないうちにこれか? 俺に女の噂でも流して、今回の話をなかったことにする気だな?』
「違うっ」
食い気味に声が出た。
「違うっ、さすがにそこまで卑怯なことはしない!」
『おまえが卑怯なことをしたから、ここにこうして二人揃って苦行を歩むことになっているんだが』
「それはその……ごめん。私も成長した。そういうことだ」
アルヴェインの溜息。
『じゃあ、どういうつもりだ』
「だから、事情を聞かず……」
『お断りだ』
私は額に手を当てた。
ばらばらと雨粒が窓を叩く音が聞こえる。
そして、私は未来の自分を売った。
筋の通る言い訳は、未来の自分に考えてもらおうというわけ。
「事情は後で話すから、とりあえず空いている日を教えてくれ」
『は?』
「その日、公開庭園で会おう」
『なんで』
「事情は後で話すったら。――そこに、とある女の子がいるから、彼女を抱き締めてくれ」
『…………』
アルヴェインはものすごく疑わしそうに言った。
『おまえ、自分がどれだけ怪しげなことを頼んでいるか、わかっているか?』
こうなったらこれしかない。
私は泣き落としに掛かった。
「頼む。おまえにしか頼めないんだ。私とおまえの仲だろう、頼むよ」
『――――』
アルヴェインは沈黙する。
――こいつを呪ってしまった私を、蛇蝎の如く忌み嫌っていてもいいはずなのに、アルヴェインはそうしない。
全くお人好しにも、むしろ私に同志じみた仲間意識を持ってくれていて、情をくれている。
こいつにその寛大さがなければ、私のこの、幾度となく繰り返している多生はもっと過酷で、もっとつらいものになっていただろう。
その寛大さにタダ乗りしようとしている、私の浅ましさはいったん置いておくとして……。
数十秒、いや数分、アルヴェインは何かを考えていた。
そしてそれから、やや小さくなった声で尋ねてきた。
『――本当に、俺を嵌めようとはしていないな?』
「するはずないだろう!」
『今回の、俺とおまえの婚約に関わることではないんだな?』
「まだ婚約じゃないぞ。それに、流れたところで困るものじゃなし――」
『フィオレアナ?』
「すみません、はい、関わりません」
アルヴェインの、深い溜息。
『あのな、言っただろう。話し相手くらいにはなってくれ、そうでなくては俺のこの多生が割に合わない――と』
「だから、こうしていつでも話せるだろう?」
『……おまえ、本当に、他に一緒になりたい男でもいるのか? 結婚すればいいと言ったかと思えば撤回して、妙に嫌がるじゃないか』
疑わしげに低くなった声に、私は思わず枕を殴る。
おまえと違って私は初婚なんだよ!
「このあいだも言ったが、いない」
『本当だろうな?』
「どうして問い詰められなくてはいけないんだ!」
魂の叫びが出た。
「そんな素敵な男性が現れたら、真っ先におまえに報告する! 約束するから!」
『……――』
アルヴェインがまた黙った。
雷光が閃き、さっきよりも遠くなった雷鳴が盛大に轟いた後になって、彼は不機嫌そうに言った。
『――暫定とはいえ婚約者の俺に向かって、よくそんなことを言う』
「…………?」
私はぽかんとする。
「何を言っている? どのみち芝居じゃないか」
『――――』
またも沈黙。
ばらばらと窓を打つ雨の音。
ややあって、アルヴェインは溜息混じりに言った。
『醜聞は家名の敵だ』
「もちろん、よくわかっている」
『だからおまえは……――あー、もういい』
「アルヴェイン?」
一呼吸の間があって、アルヴェインが唐突に告げた。
『三日後なら一日空いている』
「――っ!」
思わず胸の前で両手を握り合わせる私。
アルヴェイン、さすがだ。なんていい奴だ。
「ありがとう! ありがとう――ありがとう!」
『事情は後で聞かせろよ。――じゃあな、おやすみ』
おやすみ、と私が応じるより早く、向こう側で蝋燭の灯が吹き消され、魔法の灯はただの灯りに戻ってしまった。
◇◇◇
最近、俺はおかしい。
――発端は間違いなくあのとき、あの画廊でフィオレアナとその友人たちと思しき令嬢がたの会話を漏れ聞いてしまったときだ。
あの会話はどう考えても、何度思い返しても、フィオレアナが好ましく思っている男がいる――というものだった。
それを聞いて、俺はむかついた。
正直めちゃくちゃ頭にきた。
ついで、絶対にフィオレアナのその恋愛が成就しないと判断して、ざまあみろと思った。
――なんで?
しかもその後に合流したフィオレアナが、「今ならまだなかったことに出来る」だのと言ってきて、俺が「求婚」と言う度に「求婚の芝居、な」と訂正してきて、俺はそれにも苛ついた。
こちらは父上に話を通してしまっているのである。
今さら俺だけを置き去りに逃げを打つのはあんまりだろう――と思ったからだが、よくよく考えると、俺の外聞に傷がつかないのであれ、苛つく気持ちに変わりはなかった。
――どうして?
俺は考えた。
よくよく考えた。
これまでの百年以上の人生経験を活かし、多角的に己の認識を問い質した。
――答えは出なかった。
だが、恐ろしい変化が訪れた。
一発目はある日、通りすがりの帽子屋で訪れた。
陳列窓からふと見えた白い帽子を見て、俺は何の気なしに、「フィオレアナに似合いそうだな」と思っていた。
今生のあいつは金髪に、明るい陽射しの下では金にも見える明るい鳶色の目をしている。
先立って公開庭園の遊歩道で間近に見下ろしたあいつの顔を思い浮かべて、俺は思わずにやっと笑っていて――いやいや待ってなんで俺はにやっとしているんだ、と我に返るまで約五秒。
二発目はもっと恐ろしかった。
ある朝身支度を整えている最中、流れるように自然に、「結婚したらあいつの衣裳箪笥やら鏡台やらを置かなきゃな」と考えていたのだ。
それを考えていたということに気づくや、俺はその場で崩れ落ちてしまい、セドリックに「……どうされました?」と尋ねられるまで、ぶんぶんと首を振り続けていた。
三発目――というか、ここ最近ずっと、あいつからの連絡がないものかとそわそわしていたりした。
なんだかんだで二週間ちょっと話していないのだ。
夜中に蝋燭の灯りを頼りに本を読みつつ、「あ、この読書は誤魔化しになっている」と気づいたときの俺の驚愕。
読書で自分を誤魔化して、あいつからの連絡を健気に待っていたというのが我ながら恐怖。
そしてさっきの、あれだ――と、俺は雷光に時おり青白く照らし出される自室で、虚空を睨む。
――何が、「雷は苦手だったか?」だ。「そばに誰かいるか?」だ。
何を言っているんだ俺は。
あの魔女が、雷ごときに恐れを成すわけがないだろうが。
そして何より、あいつはどれだけ馬鹿なことを言っているんだ。
何が「ただ指定された女の子を抱き締めるだけの簡単なお仕事です」だ。阿呆なのか。
「あー……」
声が出る。
枕に突っ伏す。
なんで俺は、あいつが俺たちの婚約は確定した話じゃないと言う度に不安になるんだ。
なんで俺は、あいつが「素敵な男性が現れたら、真っ先に報告する」と言ったときに不愉快な気持ちになったんだ。
なんで俺は、不可解な頼み事だけど、あいつが言うならまあいっか、という気持ちになっているんだ。
――なんで俺は今、「もうちょっと声を聞いておけば良かった」と思ってしまっているんだ。
薄らぼんやりした答えは頭の中にあるが、俺はそれを見ないようにしたい。
だって、同じ時代で人生を歩むのは、もう十何回目っていう相手なんだぞ。
今さら。
今さら、何がどうこうあるわけがないじゃないか。




