窮鼠噛みっ噛み
――修ちゃん。
「ん……」
僕の名を呼ぶ、優しい声に目が覚める。
ああ、もう朝か。休みなんだから起こしてくれなくてもいいのに。
だけど何だか今日はいい香りがする。枕も柔らかくて暖かい。まるで人肌みたいだ。
……あれ? 僕は昨日何処で寝たんだっけ。
「か、神崎君……。そろそろ起きてもいいかな……?」
頭上で聞こえる声に、眠気さえも一瞬で逃げ出した。
恐る恐る顔を上げる
僕が抱いていたのは枕ではなく、あろうことか虎口先輩そのものだった。
「すっっ、すいませんでした!」
布団から飛び出し、そのまま土下座に移行。
僕は何て事をしてしまったんだ。これは殺される。斬殺待ったなしだ。
「気にしないでくれ」
意外な反応に顔を上げると、そこにはうつ向き気味に布団を畳む先輩の姿。
あれ? 怒っていない? いや、先輩の顔が赤い。めっちゃ怒ってるよ……。
布団を片付け、朝食をご馳走になる。
ほぼ無言だ。何か言ったほうがいいんだろうか。それともほっといたほうがいいんだろうか。そんな事を考えながらも、結局行動する事はなく。食べ終わった後も沈黙が続いた
「少し、手合わせしてみないか?」
先輩がポツリと呟いた。
ああ、これが死刑宣告なんだな。稽古中の事故で処理されるんだ。
「あ、はい……」
断れるはずもなく――死刑台へと足を踏み入れた。
防具をはめ、竹刀を握る。初めてつけたけど、意外と重いんだな。
「持ち方が違うな。こうやって――」
先輩が僕の手を握り、竹刀の持ち方を教える。突然の急接近に、防具越しからでも香る、先輩の香り。――死んでもいいかもしれない。一瞬そう思った。
「よし。遠慮はいらんぞ。本気でかかってくるといい!」
……うん。やっぱりまだ死にたくない。
「ぐぇえ……」
素人がいくら本気を出そうとも、奇跡など起こるわけはない。大した見せ場も無いまま、僕は床と一体化していた。
「大丈夫か?」
薄っすらと汗ばんだ爽やかな笑みを浮かべ、先輩が手を差し出す。
「ありがとうございます。全く歯が立ちませんでした。もしかしたら一発くらいは――と思ったんですけど」
「いや、剣を知らぬ者だからこそ放てる一太刀もあった。素人にしては中々筋が良かったよ。勉強になった、ありがとう」
彼女なりの御世辞か、それとも本心からそう思っているのか僕には分からない。だけど、彼女の満足気な表情は、僕の隠れていたM心を目覚めさせそうになった。
「そんなに強くて、虎口先輩に勝てる相手なんて居るんですか?」
「はは。私だって負ける事はあるさ。一度も勝てなかった相手だって居る」
確か、大会で何度も優勝経験があるんだったっけか。勝負だから負ける事はあるだろうが、一度も勝てない相手がいるだなんて。
「そんなに強い人が居るんですね。じゃあその人を倒すのが虎口先輩の目標だったりするんですか?」
「それは多分――叶わない願いかもしれないな」
少し陰った笑顔を見せ、道具を片付けに行った。
「じゃあ、色々とありがとうございました」
「ああ。他の十二支枝はこちらで探してみるから、なるべく夜は出歩かないようにしてくれ。鬼は君を狙っている、用心のためだ」
彼女の真剣な眼差しに、自分が置かれている立場を思い出す。
もう今までの平凡な日常では無い。運命を恨む訳にはいかない、結局は自分で蒔いた種。
「分かりました。では失礼します」
心だけでも、僕も強くならなくてはいけない。そう心に決めて、道場を後にした。
「あ~ら修ちゃん。お・か・え・り~」
境内を足早に通り過ぎようとした時、待ち構えていた母が、嬉々とした顔で近寄ってきた。
やはり避けては通る事は出来なかったか……。
「夜遊びからの朝帰りとは、中々隅に置けないわねぇ」
「ごめん。でも別に夜遊びしてたわけじゃないよ」
「あら。叱ってるわけじゃないのよ? それとも何? 謝らなきゃいけないような事しちゃったのかしら? この歳でおばあちゃんになるのかしら?」
「そっ、そんなわけないだろ!」
怪しく笑う母を振り切り、家へと逃げ込む。全く、母親の言う台詞じゃないだろ。
……でも先輩いい匂いだったなぁ。
って僕は何を考えてるんだ! 余計な事言うから意識しちゃったじゃないか!
でも、やっぱり綺麗だったなぁ……。
にやける顔を隠すように、僕はベッドに飛び込んだ。
それからしばらく妄想にふけり、課題をやるために机に向かい、また妄想にふけり――と、夕飯のおしらせまで思春期真っ最中な時を過ごした。
「あのさ、母さんは神崎家のご先祖って知ってる?」
「神崎家のご先祖様ねぇ――。ちょっと分からないかな。それがどうかしたの?」
母さんが知らないって事は、父さんは話していないのか。それとも父さんも知らなかった?
「いや、ただ聞いただけ」
何か手がかりが欲しい。結局僕は何も分からないままだ。不思議な力がある様子も今のところ無い。
そうだ! 蔵に何かあるかもしれない。鬼を封印した石版があるなら、何か他に手がかりがあっても不思議じゃない。
「修ちゃんは難しい顔で何考えてるのかな? 女心かしら?」
……僕が考え事をしてる時は全て女の事か!
そんなツッコミを入れる気も失せ、知らん顔で夕食を食べる。
「あら。知らんぷりしちゃって。冷たい態度は蓮ちゃんに嫌われちゃうわよ」
「だからそういうんじゃないってば」
しつこいし。それに蓮ちゃんって何だよ。友達かよ。蓮……ちゃん?
何だろう、その呼び方――とても懐かしい気がする。ずっと昔から知っているような――。
「あのさ――」
僕の言葉にかぶせるように、リビングの電話が鳴った。
「あら、誰かしら」
母の背中を眺めながら、『もしかして虎口先輩の事、昔から知ってるんじゃないのか?』そんな事を考えていた。小さい町だし、道場まで開いている虎口家の事を知らないはずはない。
先輩の事を蓮ちゃんと言ったり、すんなりと外泊許可を出したのも。彼女の事を知っているから――いや、知らなくても同じか……。こういう性格だったな。
電話を終えた母が、ニヤニヤしながら近づいて来る。
「どうしたの?」
「修ちゃんモテモテね~。昨日の場所で待ってるってよ、オ・ン・ナ・ノ・コ」
女の子? 虎口先輩か。昨日の場所って言ったらあそこしかないよな。
「ちょっと行ってくる! ごちそうさま!」
「今日は誰ちゃんのお家に泊まるのかしらね~?」
背中に向けられた、いつもの母の冷やかしに足が止まる。誰ちゃん……?
「あれ? 今の電話って虎口先輩じゃなかったの?」
「違う人だと思うわよ。何だか可愛らしい声だったし」
可愛らしい声――中谷さん? 先輩じゃないとしたら中谷さんしか考えられない。この前と同じく、代わりに電話したんだろう。
二人は一体どんな関係なんだろう。そんな事を考えながら、足早に家を出た。




