虎散歩
――虎口家――
家に戻ると、起き抜けから今まで感じていた不快感が嘘の様に治まった。その代わり、身体の奥底が疼く。ジッとしているのが苦痛に感じるほど。
昨夜の記憶がまるで無い。こんな経験は生まれて初めてだ。下着姿で寝ていたのも、普段の私ならありえない行動。
何かしらの他意が働いた事に間違いはなさそうだが、何故だろう――ソレを追求しようとは思わなかった。
「剣でも振るか……」
身体を動かしたい衝動にかられ道場へ向かう。
いや、やはりランニングにするべきか。
二日も町を離れた、その間に何か変わった事が起こっているかもしれない。
運動靴の紐を固く閉め、玄関を出た。
照りつける太陽に、じんわりと汗が滲む。
躍動する筋肉、心地良い心拍数の上昇。
――運動というものは素晴らしい。
全身を包む恍惚感、目覚めは最悪だったが、何か良い事がありそうな気分にさえなる。
そんな時だった。
「虎口先輩!」
耳をくすぐる、私の名を呼ぶ爽やかな声。
ああ、これも運命と言うのだろうか。道場に行っていたら、まず会う事は無かっただろう。
――やはり、運動はいいものだ。
「神崎君。偶然だな。おや? その子は?」
彼の肩に乗る小さな女の子。
日本人――だろう。真っ白な髪の少女からは、触れたら消えてしまいそうな儚ささえ感じさせる。
「あ、親戚の子供なんです」
「こんにちわ! この綺麗なお姉ちゃん、にぃにの彼女?」
――綺麗なお姉ちゃん。
お世辞などない、純粋な子供の言葉は、私の頬を緩ませる。だが、ソレも彼の言葉で台無しだ。
「ち、違うよ! 僕の先輩で虎口さんだよ」
間違ってはいない、間違ってはいないが。せめて友人くらいにはならないモノか。
何となく――『先輩』と言うのは寂しい気持ちにさせる。
「散歩……じゃないですよね。ランニングですか? 具合はもう大丈夫ですか?」
「ああ。帰ったらすっかり良くなってな。家でジッとしているのも何だったからね」
そのお陰で君に出会えたし、何て言えればどれだけ楽になるだろう。
いや、それは普通男が言う台詞か? 分からん……。気の利いた会話とは、中々難しいものだ。
「お姉ちゃんも一緒に遊ぶ~!」
「ダメだよ。お姉ちゃんは遊んでるわけじゃないんだ、迷惑だろ」
少女の絶妙なパスを華麗に交わす彼。見ていてもどかしい気持ちになる。
「いや、私は別に構わないぞ」
「いえ、そんな、悪いですよ」
そこは『迷惑じゃなければご一緒に』じゃないのか? 私の言い方が悪いのか? 曖昧な言い方ではダメなのか!?
「わたし『ジョーケーヅカ』行きたい!」
「ジョーケーズカ? お店かな? 虎口先輩分かりますか?」
「いや、聞いた事がないな」
決して広くは無い時雨町、私の知らない場所は無い。
「あのね。高いところにあってね。時雨町が全部見えるの!」
身振り手振りで説明する少女に、彼と顔を見合わせる。
それが当てはまる場所は、この町には一箇所しかない。
「ここ、ここ! ここだよ!」
嬉しそうにはしゃぐ少女――恵。
私にもこんな時代があった。この場所で、無邪気に遊んだ過去が。
「いつ来ても、ここはいいですね。心が落ち着く感じがします」
吹き抜ける風は心地良く、昔とちっとも変わらない。
「そうだな。昔と同じ、ここはいつでも、私達を優しく待っていてくれる」
――待っているのは、場所だけではないんだよ。
そう言える勇気があれば、どれだけ楽になるだろうか。
「虎口先輩。ちょっと恵を見ててもらっていいですか?」
「ああ。別に構わないぞ」
「じゃあ、よろしくお願いします!」
彼が走り去る。理由は、彼の表情で理解した。
「にぃにどこ行ったの?」
「多分トイレだと思うよ。すぐ戻ってくるから、いい子に待ってようね」
自分の口調が、少し柔らかくなっているのが分かる。
子供、か。いつか私も――。
「彼との子供が欲しい――か?」
「ふぇっ!?」
突然発せられた言葉に驚き戸惑う。
子供に突拍子もない行動や言動はつきものだが、目の前の少女が浮かべる笑みは、まるで全てを見透かしているかのようだ。
「季節は巡り、時代は移り行く。だが、運命は断ち切れぬモノよ」
遠くを見ながら少女は言った。
先程までと違う雰囲気はまるで別人。違和感が確信に変わる。
「お前……ただの子供ではないな……?」
全身に走る緊張感に身構える。敵意は感じられないが、彼女から発せられる気は、明らかに子供のソレではない。
「お主、運命を信じるか?」
「……この身に起こる全ての事象がそうだとは言わぬが、少なからず私は信じている」
「では、運命とは何だ?」
少女の問いに、言葉に詰まった。
ただ漠然と『運命』という言葉を使用していたが、運命の意味など考えた事もない。
「運命とは、呪いの事じゃ。お前達は呪われているだけなのじゃよ」
「それはどういう――」
「にぃに!」
戻って来た彼の元へ少女が走り出す。
「ただいま。ちゃんといい子にしてたか?」
「うん! お姉ちゃんとお話してた!」
彼に抱きかかえられる彼女の姿に、狐につままれた様な感覚さえ覚える。
「にぃに、めぐお腹すいた!」
「もうそんな時間か。よし、じゃあ帰ってお昼にしような。先輩、わざわざ付き合ってもらってありがとうございました」
「あ、ああ……」
動揺を彼に悟られない様に、必死に冷静を取り繕う。
「お姉ちゃんばいば~い!」
無邪気に手を振る少女。だがその微笑みは、子供らしからぬ不気味さを浮べていた。




