◆1 裁きの聖女エール
それは裁判が開かれる一週間前のこと。
この春、十三歳になったばかりの聖女エールが、いまだベッドの上でまどろんでいたときーー。
突如として、甲高い女性の訴えかける声が、頭の中でこだました。
『神よ!
私は濡れ衣を着せられました!
一週間後には、不当な罪で裁かれてしまいます。
ぜひ、この冤罪をお晴らしください。
お願いします!』
いきなりの事態に、エールは驚いて紅い瞳を大きく見開き、ガバッと身を起こす。
そして、銀髪をクシャクシャにして掻きむしった。
(ほんとにもう、朝っぱらからビックリするじゃない!?
せっかく、ゆっくりとベッドでお昼寝できる身分になったっていうのに……)
天蓋付きの柔らかベッドの上で半身を起こし、エールは溜息をついた。
世界宗教トリニティ教の総本山ペルソナ聖皇国の教皇庁ーー。
今の彼女は、教皇庁内部で大きな部屋を与えられて、王侯貴族のご令嬢のごとき扱いを受けていた。
煌びやかに装飾された柱や調度品に囲まれ、鈴を鳴らすだけで、美男の白騎士が水盥とティーセットを運んでくる。
エールはベッドから起き上がって水盥で顔を洗い、鏡台の前に座って紅茶を口にする。
白騎士に銀色の髪を漉いてもらって身だしなみを整えると、隣の応接間に出向く。
中央に置かれたテーブルには、パンとスープにサラダ、そして新鮮なミルクとチーズ、さらには葡萄やオレンジなどの果実を盛り合わせた大皿が置かれている。
すべてエールのために用意された朝食であった。
じつはエールは小さな容姿に似合わず大喰らいだ。
朝から短時間のうちに、パンや果物を頬張り、サラダやスープまで残らず平らげる。
それから布巾で口許を拭うと、焼き菓子とデザートが待っている。
ーーそうした、朝からじつに豊かで、暇を持て余す生活を、少女エールは送っていた。
ところが、そんな彼女も、ほんの数ヶ月前までは、下働きの住み込み下女のような暮らしをしていた。
七歳から十三歳までの六年間、掃除に炊事、洗濯と、下手くそながら働きづくめであった。
冷気が入り込む、ボロくて質素な部屋の中で、岩のように硬いベッドの上で目を覚まし、いまだ陽が昇る前から「修養」と名付けられた奉仕活動に精を出していた。
往時を想い出して、エールは紅い瞳を細め、頬杖をつく。
(あれからもう六年も経ったんだ。
あのとき、私を祝福してくださった聖人様はお元気かしら。
すでに相当、お年を召していらしたけど……)
自分を聖別してくれた、長い顎髭を垂らしたおじいさんーー聖人アラン様の皺だらけの顔を思い出しつつ、エールは席を立って更衣室へと出向き、白いドレスの上に蒼い法衣をまとう。
そして、首周りを白いウィンプルで覆い、頭にはヴェールをかぶる。
いろんな経緯があって、今では彼女は世界に七人しかいない、人々から崇拝される〈聖女〉となっていた。
〈聖女〉とは、神様から特殊な権能を授かった女性のことである。
かつては辺境の村娘であった、十三歳の女の子エールは、今や木槌を叩きながら、諸国で冤罪に苦しむ人々を裁判によって救済する〈裁きの聖女エール〉となっていた。
(さて、私の安眠を確保するためにも、神様に救済を求める声に応えなくっちゃ!)
パンパン! と手を打ち、白と黒の衣装をまとった二人の従者を呼び付けた。
「神様に救いを求める者のために、私は旅に出るわ。
いつも通り、準備をお願い。
行き先は西のライト王国よ。
あと一週間で裁判だっていうから、急がないと!」
◇◇◇
そうして、一週間後。
聖皇暦七七七年、春ーー。
大陸西方のライト王国の王宮裁判所では、貴賤を問わず人々の耳目を集める裁判が開かれようとしていた。
王国の筆頭公爵家のご令嬢であったヴィクトリーヌ・エスパルト公爵令嬢が、殺人容疑をかけられていたのだ。
彼女、赤髪のヴィクトリーヌ嬢は、ほんの一週間前までは、王太子の婚約者であった。
ところが、いきなり王太子から婚約破棄を宣言された。
そして、彼女に代わって、グレタ・ラヴェル子爵令嬢が、新たに王太子の婚約者となったのだ。
突然の王太子妃候補の交代劇に、人々は驚いた。
が、それ以上に驚愕する事態に、わずか一日で遭遇することになった。
新たに王太子の婚約者となったグレタ嬢が毒殺されたのだ。
口から泡を吹き、自らの手で喉を掻きむしった、無惨な死に様であった。
誰もが、元婚約者であるヴィクトリーヌが、新婚約者のグレタを殺したに違いないと憶測した。
そしてその憶測通りに、ヴィクトリーヌがグレタ嬢を毒殺した犯人として起訴されたのである。
貴族席と平民席で分けられた傍聴席で、人々は噂した。
「当然、死刑ですわね」
「わからない。
彼女は名門エスパルト公爵家のご令嬢で、父親は宰相閣下。
政治権力をもっているから、揉み消すのでは?」
「しかも、つい最近までルヴァイユ王太子殿下のご婚約者だったお方だ。
そんなご令嬢を裁けると思うか?」
そうした、司法への不信感を募らせる声が多く聞かれたが、
「いや、今回の裁判は厳しく裁かれるんじゃないかな。
なぜなら、外国からプロの裁判官が直々に派遣されてきた、というのだから」
といった、今回の裁判だけは期待できる、といった声も数多く囁かれていた。
「ああ、私もそのように聞いている。
ペルソナ聖皇国からの派遣で、国力の上でも、我がライト王国の国王陛下では、その派遣された者が裁判長となるのを拒めなかったそうだ」
「たしかにエスパルト公爵家は名門だ。
そのご令嬢を裁くことは、王太子にもできないかもな。
実際、よく婚約破棄できたものだ、と思うほどだ。
ただし、それも我がライト王国の枠内では、という話だ。
今回は大丈夫かもしれない。
なにせ、百戦錬磨の、神様から特別な権能を授かった裁判長がお裁きになる、とのことだからな」
世界宗教であるトリニティ教ーーその総本山ペルソナ聖皇国から、今回の裁判では、直々に裁判官が派遣されてきた。
なんでも、その裁判官は、〈裁きの神エンマ〉から聖なる力を授けられた〈聖人〉だという。
「まさか、こんな小さな王国に、先進国のペルソナ聖皇国から、聖なる裁判官が派遣されて来るとは」
「ありがたいことだ。
それだけ、今回の裁判は重要なものだということだろう」
「その裁判官は聖人様というけど、どのようなお姿をなさっておられるのだろう」
裁判の傍聴席に座る人々は、誰もが期待に胸を膨らませた。
ところがーー。
観衆が注視する中、蒼い法衣をまとう少女が、おぼつかない足取りで裁判長席へと進み出ていた。
少女が頭にかぶるヴェールを取り、首周りを覆う白いウィンプルを脱ぐと、美しい銀髪がたなびく。
年の頃は十三歳ほどだろうか。
あどけなさが残る可愛らしい顔に、燃えるような紅い瞳が爛々と光り輝いていた。
そんな少女が、鈴の音を鳴らすような声で、
「私は聖女エールと申します。
今回の裁判において、裁判長を務めさせていただきます」
と語ってから、木槌でガン! と台を打つ。
その音を合図に、いきなり裁判が開始されたのであった。
が、傍聴席に座る人々の動揺は、広がるばかりだった。
裁判席の中央に座る彼女の姿が、まったく裁判長たる威厳に溢れていなかったからだ。
「なんだ、あれは?」
「まだ小娘じゃないか!?」
「おいおい、冗談だろ?」
「法衣の重さに、あの娘は押し潰されてるんじゃないのか?」
「こりゃあ、我が国のお偉いさんに裁かれるよりも、甘々なものになるぞ」
「ちくしょう。
まさか、エスパルト公爵家の権力が、ペルソナ聖皇国にまで及んでいるとは」
「俺は許さねえぞ。
王太子殿下を取られた逆恨みで、新たな婚約者を殺した女なんか!」
「そうだ、そうだ。
ヴィクトリーヌは稀代の悪役令嬢だ。
こんな悪女が王太子妃になる寸前だったってこと自体が国の恥だ」
「おおよ。
俺たちは、こんな年端もいかない女の子の裁きなんて、認めねえ!」
裁判所は、ザワザワとした喧騒に、瞬く間に包まれていった。




