527.自惚れ過ぎね
アンナの息は、重かった。
どれだけ吐こうと楽にはならない。
一夜明けても、思考はティナで埋め尽くされたまま。
執務机に座って書類を眺めるが、頭に入ってこない。
(……姉さん)
この世でたった一人の姉が──殺された。
目の前で。
涙を流し、血に濡れて。
カルティカが、胸に突き刺さったまま。
思い出すだけで、胸が張り裂けそうになった。あの光景が頭から離れないのだ。
なのに──書類上は、ティナが自害したことになっている。
わかっている。今さらどうこう悩んだところで、死者は戻って来ない。
だからといって、すぐに割り切れなかった。息は勝手に漏れて積もっていく。
まだルティーも出勤していない早朝。
窓から差し込む光は、どこか薄暗い。
「失礼します、アンナ筆頭」
そんなアンナの元に訪れたのは、第三軍団のトラヴァスだった。
昨晩、あんなことがあったというのに、いつも通りの無表情だ。それが彼らしいというべきか。
彼はアンナの前までやってくると、一枚の書類を提出した。
「朝早くから、なんの──」
受け取ると、目を走らせ確認する。
その瞬間、空気が固まった。
「女の遺体を、もう処分したのか……!?」
思わず声を上げる。トラヴァスの眉が一瞬跳ねた。
書類を持つ手が震える。
捕虜ティナを火葬したという文面。冷酷で整然とした文字が、ただ並んでいた。
息が荒くなるのを、必死に押し留める。疑われてはいけない。
トラヴァスはアンナの様子をじっと見ながら──ゆっくりと口を開いた。
「昨晩、あれからすぐに息を引き取ったため、夜のうちに郊外にて火葬処分を」
息を呑む。
確かに捕虜の遺体は迅速に処分するのが決まりだ。だが、こんなにも早く処分されるとは。
喉になにかが詰まったような苦しさに襲われる。
(最後に一目、姿を見ておきたかった……)
受け取った書類が、指から滑り落ちていった。
おかしい。力がうまく入らない。
「アンナ筆頭? 大丈夫ですか、顔色が……」
「気に……するな、なんでもない」
「なんでもないという顔には見えませんが。私でよければいくらでも」
椅子に座ったまま、彼を見上げる。
無表情のはずの顔が、どこか優しげに見えるのは──心が弱っているせいだろうか。
(伝えて……しまう?)
言葉が喉元まで出掛かる。
〝ティナは私の異母姉だった〟
そう言えたら、楽になれるかもしれない。
すべてぶちまけて、共有できたなら。
しかし、アンナの心はすぐに拒絶した。
言ったところでどうなるものではない。もうすでティナは死んでしまっているのだ。
(だめだわ……トラヴァスやカールにまで、負担をかけるわけにはいかないもの)
優しい彼らはきっと、一緒に苦しんでくれる。だからこそ、伝えられなかった。
無言のままのアンナに、トラヴァスの言葉がそっと降りてくる。
「筆頭、今晩空いてますか? また食事などどうです」
いつもの冷淡な声音ではない。どこか柔らかな空気を纏った言葉。
胸の奥に、わずかに沁みた。その気持ちだけで泣きそうになる。
いい部下に恵まれたことを心から噛み締め、友に瞳を向ける。
「ありがとうトラヴァス。しかし、どこかへ食べに出る気分ではないんだ。すまない」
「では、私の部屋でどうですか。食事を用意しておきますので」
アンナは思わず耳を疑った。
今のは本当に、トラヴァスの言葉だったのかと。
「気負わずに、ぜひ」
わずかな笑み。滅多に見ることのない、その表情。
アンナが言葉を探しているうちに、トラヴァスは部屋を去っていく。
気のせいか、いつもより強引だった気がした。
二人で食事に出掛けることはあるが、どちらかの私室で二人きりというのは初めてだ。
(行って、大丈夫かしら……)
そんな思いが一瞬浮かぶ。
しかしすぐに内側で吹き飛ばした。
(自惚れ過ぎね。昔からの友人なんだもの。なにかあるわけもないわ)
氷徹などと呼ばれてはいるが、ただ純粋に心配してくれているのだろう。
そんなトラヴァスの気持ちを、無下にしたくはなかった。
そっと吐いた息は、先ほどよりも幾分か軽い。
今晩、トラヴァスの部屋に行こう。
そう決めた時、ルティーが入ってきた。
「おはようございます、アンナ様。今朝はお早かったのですね」
「すこし眠れなくてな。早く来てしまったんだ」
「……どうかなさったのですか?」
不安そうな声。眉を下げながら見上げるルティーは、誰より可愛らしい。
そんな付き人にまで心配させてしまったと、アンナは少し苦笑いした。
「いや、そういう日もあるというだけだ。なにも心配はいらない」
「……そうですか」
ルティーは肩を落とすように歩き、鞄を机の上に載せる。
しかしそのまましばらく固まっていたかと思うと、彼女は急に顔を上げた。
「私でよければ、いつでもお話しくださいませ。どうか、ご無理だけはなさいませんよう……!」
どこか必死な姿。アンナの沈んでいた心が、ほんの少しずつ和らいでいく。
「ありがとう、ルティー。大丈夫だ。今日はトラヴァスにも誘ってもらっていてな」
「あ……トラヴァス、さま……」
語尾がわずかに落ちた。
今までこんな反応を見たことがない。
アンナは眉を寄せて彼女を見つめる。
「ルティー?」
声を掛ければ、彼女はハッと顔を上げた。そして柔らかな笑顔を見せる。
「トラヴァス様ならば、きっとアンナ様の憂いを消し去ってくださいますね」
「……そう、だな」
答えると、ルティーは自然な動作で仕事の準備をし始めた。
今の顔は、見間違いだったのだろうか。
彼女は何事もなかったかのように万年筆を手にとっている。
その顔はもう──いつもの優しい、ルティーだった。




