420.生き延びようなどとは
巨大な闘技場の空気が、一瞬にして張り詰めた。
一九三センチの体躯が視界に入っただけで、周囲の空気がビリッと音を立てて震える。
遠目にもはっきりとわかる圧倒的な存在感。その威圧だけで、あれがシウリスなのだと誰もが理解した。
アンナは胸の奥に沈む重さを押し殺し、意を決して一歩、前へと踏み出す。
「シウリス様、ご足労いただきありがとうございます」
形式通り、うやうやしく頭を垂れる。
それに応えるように、シウリスは口の端をにぃ……っと吊り上げた。愉悦を隠そうともしない、獰猛な笑み。
「覚悟はできているだろうな?」
「はい。シウリス様を相手に、生き延びようなどとは考えておりません」
「……いい覚悟だ」
シウリスが模擬剣を抜く。
それに合わせるように、アンナもまた剣を引き抜いた。かつて恋人から贈られた光の剣、クレイヴソリッシュ。
今年は模擬剣を禁じられた。それほどまでに自信があるのだろう。左手には、アイアースの盾を構える。
アンナはふっと息を整えた。
カールとトラヴァスが見守る、その中で。
「来い」
「行きます、シウリス様」
呟くように、しかし強い口調で言うと──
次の瞬間、思考を切り捨てた。
躊躇も、恐怖も、祈りもすべて振り払い、アンナはシウリスへと斬りかかる。
「っはぁ!!」
アンナの連撃。
シウリスは目を見開き、実に楽しそうにそのアンナの剣を受け続ける。
「いいぞ!! アンナ!! お前のその自信を粉々に砕いてやる!!!」
振り下ろされたシウリスの剣を、アンナはアイアースで受け止め、左へと流す。
一瞬、空いた左肩。
そこへクレイヴソリッシュを突き立てようとするが、シウリスの体勢の戻りがあまりにも早い。
剣同士が弾かれ、火花が散った。
間髪入れず、アンナは盾を前に出す。
アイアースによるバッシュ。
鈍い衝撃音とともに、シウリスの巨体が後方へ跳ね退いた。
「この程度か? ならば、死ぬか?」
冷酷な視線に、アンナは奥歯を噛み締める。
(シウリス様の本気は、ここから──!)
アンナは肩で息をしながら、もう一度クレイヴソリッシュとアイアースを構えなおした。
「アンナ……!!」
カールの声が耳に届く。
だが振り返る余裕などない。二人がどんな顔で見守っているかも、想像するだけで精一杯だ。
次の瞬間、シウリスの剣が光のような速さで振るわれる。
一撃一撃を見極めるなど不可能だった。
アンナはただ、すべてをアイアースで受け止める。
わずかな隙を見つけては剣を振るい、その応酬が何度も繰り返される。
「ぐっ……!!」
シウリスの声が漏れる。
微かに負わせた頬への傷。
だがそれは、悲劇の始まりに過ぎなかった。
己の血を見た瞬間、シウリスの気配が一変する。
高揚し、さらに凶悪な強さへと変貌していく。
怒気を纏ったその姿は、まさに悪魔。
何度見ても、慣れることなどできない。
また、あの地獄が始まる。
そう思った瞬間、アンナの背筋を寒気が走った。
シウリスは信じがたいほどの跳躍を見せた。
反応したと思った瞬間には、もう遅い。アイアースの防御が蹴り崩される。
剣先はそのままアンナの腹を貫いていく。
「う、ぐふっ!」
「どうした!! これで終わりか、アンナ!!」
貫通した模擬剣が血を纏い、引き抜かれる。
そう認識した刹那──二撃目が、肩を裂いた。
「──ッ!」
反射的に剣を突き出す。
だが、その一太刀はあまりにも軽く、簡単に跳ね上げられた。
次の瞬間、両太腿から噴き上がるように血が散る。
力が、膝から抜け落ちていき──
どさり、と前のめりに倒れる。
シウリスの声が、遠くで響いている。
体が冷たくなっていく感覚。
流れ出た血溜まりが、温かくすら感じる。
その温度を最後に、アンナの意識は急速に遠のいていった。
***
どれほどの時間が経ったのか、アンナにはわからなかった。
重たい瞼をなんとか開けると、そこにルティーの姿がある。
まだ幼さの残るその顔は、恐怖と悲しみに満ちていた。
「ご無事で、ようございました」
震えている唇と声。ルティーの眉が下がった瞬間、その目からポロリと涙がこぼれ落ちていく。
「すまない、ルティー……また心配をかけてしまったな」
彼女は首を左右に振ると、小さな体でトラヴァスとカールを呼びに走った。
アンナは自分の体を確かめる。
表面に見える傷はひとつも残っていなかった。ルティーが回復魔法を施してくれたのだ。
水の書を習得した、数少ない水の魔法士。
まだ高位の魔法は使えないものの、その詠唱は丁寧で、細かな傷まで丹念に癒してくれる。
しかし治っているように見えても、この深傷では完璧とはいかない。
全身がだるく、そこかしこが痛かった。立ち上がるには、まだ数日を要するだろう。
トラヴァスとカールが入ってくると、二人は安堵の表情でアンナを見る。
「今回こそ死んだかと思ったぜ……」
「首の皮一枚でしたね、筆頭」
その言葉を聞き流しながら、アンナはベッドに横たわったまま、毎年の変わらぬ言葉を口にする。
「長期休暇申請を受理しておいてくれ。筆頭大将代行にはトラヴァス、頼む」
それだけ告げると、意識が再び遠のいていった。
今年も生き延びたという、安堵感に身を委ねるように。
二日後。
まだ癒えきらぬ体で、アンナはベッドから降りた。
ルティーの回復魔法のおかげで多少は動けるものの、身体中が痺れるように痛む。
「いけません、アンナ様!! まだ安静にしていないと……」
「休暇届は受理された。私は、自由の時間を過ごしたいんだ。ルティー、トラヴァスにラベンダーを頼むと伝えておいてくれ」
制止を振り切り、アンナは病室を後にする。
着替えながら、体の奥から悲鳴が上がるような痛みに歯を食いしばった。それでも、ここにはいたくない。
別の場所で、なにも考えずに過ごしたい。
グレイにもらったクレイヴソリッシュも、彼を守ったアイアースも、今は持ち出す気になれなかった。
アンナは無名のダガーだけを脚に装備し、静かに部屋を出ていった。




