421.結構なご身分のようだな
王城を出ると、アンナは指笛を吹いた。
乾いた音が空に吸い込まれると同時に、裏手の山から一匹の影が駆け下りてくる。勢いそのままに飛びついてきたのは、アークティック・ハスキーだった。
灰色の毛並みは陽を受けて銀に輝き、触れれば指が埋もれるほど柔らかい。アンナは思わず頬を緩ませる。
昔、グレイと一緒に飼っていた、大切な犬だ。
「イークス、しばらく私に付き合ってくれる?」
優しく声をかければ、イークスは理解したように大きな尻尾を振った。その仕草に、アンナの胸に小さな温もりが灯る。
こうしてアンナは、愛犬イークスとともに王都ラルシアルを後にした。
旅行に相応しい秋晴れだ。
今頃、カールが「アンナはどこ行ったんだよ!」と喚いていることだろう。そう想像すると、堪えきれずに小さな笑みがこぼれた。
アンナは相乗り馬車を利用し、街に着くたび宿を取りながら、のんびりと三日かけてストレイア王国を出た。道中の景色は山や森がやや多い程度で、国境を越えたとは思えないほど変わり映えがしない。
「フィデル国よ、イークス」
今まさに踏み入れている土地の名を、アンナは愛犬に告げた。
フィデル国、それは現在ストレイア王国と対立している国の名前である。
アンナがお忍びでこの国を訪れることは、これまでにも何度かあった。主な目的はコムリコッツの遺跡巡りだったが、町に足を踏み入れることも少なくない。
去年の休暇に訪れた際は偶然にも、カジナル領のトップである五聖のクロエに会ったことを思い出す。
(トラヴァスに告げたら、フィデル国に行くことを止められちゃったのよね)
見咎められては困ると言うトラヴァスの主張はわかるが、戦地で知られる筆頭大将アンナと、今のワンピース姿のアンナを結びつけられる者などいないだろう。
慎重に過ぎるトラヴァスの意見は、心の片隅にだけ留めておく。
自分を縛るものがない場所に立つことで、アンナはようやく息ができるような気がしていた。
目の前に広がるのは、大きく活気のある街──カジナルシティ。一年ぶりだ。
王都とは違う雰囲気に、気分はいくらか高揚する。
アンナは荷物からリードを取り出すと、イークスに見せた。
「ごめんね、少し我慢していて」
そう言いながらリードを着けると、いいってことよ、と声が聞こえた気がして、そっと目を細める。
イークスといると、グレイも一緒に傍にいるような気がして安らいだ。
町中を歩いていると、大衆的な料理屋が目に入る。いい匂いに誘われ、アンナはここで昼食を取ることにした。
イークスのリードを店先に縛ると、中へ入り適当に料理を頼む。
料理を前にようやく一息ついたところで、入り口からガヤガヤと数人の男たちが入ってきた。
偉そうな態度に、品のない笑い声。鼻を突く酒の匂い。
(さっさと食べて、出てしまった方がよさそうね)
しかしそう思った矢先、男たちはまっすぐアンナの元へ歩いてきた。
取り囲まれたアンナは、静かに息を吐き、男たちを睨みつける。
「昼間から酒を食らうとは、結構なご身分のようだな」
男たちが口を開くより先に言葉を投げつけた。アンナのきつい語調に、彼らの顔は露骨に歪む。
「あん?? ねーちゃん、べっぴんなくせしてえらい難癖つけてくんじゃねーか!」
「難癖をつけようとしてきたのはそっちじゃないのか。私は事実を述べたに過ぎん」
「んな怖い顔すんなよ! あんたも楽しーことは好きだろ!?」
ガハハハ、と下品に後ろの男たちが笑う。
アンナは「気分が悪い」と呟き、ガタンと音を立てて立ち上がった。
「おいおい、どこ行くってんだよ? 結構な身分の俺たちが、いいとこ連れてってやるぜ?」
その瞬間、奥の席で誰かが立ち上がる気配があった。
だがその人物が動くより早く、アンナの腕は掴まれる。
瞬間、アンナは相手の腕を引き、流れるように背負い投げた。
男の体が床に叩きつけられる。いつもならなんでもない動きだが、今はビリビリと身体中が痛み、内臓が悲鳴を上げていた。
「な、なにしやがる!! このアマ!!」
残りの男たちが一斉に襲いかかってくる。
アンナはスカートの内からダガーを抜き、足元を狙って次々と浅く切りつけていった。
最後の一人の手をねじ上げ、その首筋に短剣を突きつける。
本調子ではない。それでも、相手は雑魚だった。
「出て行け。店の者にも迷惑だ」
短剣を突きつけられた男は、先ほどまでの偉そうな態度とは打って変わって、体を震わせている。
「わ、わかりましたぁ……っ」
怯えながら男が答えると、かすり傷しか負っていない仲間たちも血を見て慌てて逃げていった。
不逞の輩を追い払うと、アンナは後ろの男にダガーを向ける。
「お前も、か?」
甘いマスクをした背の高い剣士が、まっすぐアンナを見据えていた。
「いや、助けようとしたんだが、いらぬ世話だったようだな。見事だった」
左耳には三日月のピアス。アンナは敵国の情報書類を脳裏に引き寄せ、記憶を辿る。確か貴殿は──と口にしかけ、すぐに口調を改めた。
「あなたはもしや、刹那狩りのユーリアスさん?」
「まぁな」
〝刹那狩り〟のユーリアスというと、カジナル軍でも最強と誉れ高い男のうちの一人だ。〝三日月の剣士〟とも呼ばれる彼は、ストレイアでも有名だ。
(部下からの報告を受けたことがあるけれど、本当に甘い顔立ちをしているのね……)
噂に違わぬ美丈夫に、これは確かに最強と呼ばれるわけだとプっと噴き出す。
そんなアンナの反応に、ユーリアスはただそれだけで気を悪くしたのか眉を寄せた。
「なんだ?」
呟くようにぼやいた彼に、アンナは軽く咳払いをし、その最強男を見上げる。
「失礼。高名なユーリアスさんに出会えるなんて、私は幸運ね。どうぞよければここに座って」
「じゃあ」
自分に色目を使われているのではないとわかったのだろう。ユーリアスは断ることなく同じ席に腰を下ろした。
しかし二人で食事を摂っていると、アンナは微かな違和感を覚え始める。
不快ではない。気にもならない。むしろ自然で、自分に馴染む感覚。
──それをなぜか彼に感じてしまう、違和感を。




