357.もう一つ頼まれてほしいんだが
ザイレンにプロポーズされ、断った翌年のある日のこと。
ナハシール公国から注文していたものが、クロエの元へと届いた。
木箱を持ち上げると、思ったよりも軽かった。
柔らかな光が差し込む共用の執務室で、クロエはひとり考える。
(今度来た時に渡してやるか……それとも──)
その木箱を気にしながらも仕事をしていると、元気な足音が廊下を駆けてくる。扉が勢いよく開き、明るい声が響いた。
「失礼します! 母に頼まれて、この書類を届けに来ました!」
「ご苦労だな、ティナ。受け取るよ」
明るい笑顔と元気な声で現れたのは、ブラジェイの幼馴染み、ティナだ。彼女は主に庁舎で届け屋として働いて、書類や小包を抱えながら日々忙しく動き回っている。
「あれ? クロエだけ?」
「今日からベリオン様は、五聖協議会に行かれているからな」
「あー、円卓だったっけ。じゃあしばらくクロエは大変だね。用があったらなんでも言ってね!」
クロエがここに来た頃、ティナはまだ十二歳の小さな少女だった。
あれから年月が経ち、現在ティナは十九歳。背はさほど高くならなかったが、女らしい部分は見事に成長している。
だが、クロエにとってティナは、背の高さや体格に関わらず、可愛い妹のような存在だった。
明るく元気で、純粋に人を喜ばせるのが好きな彼女の性格は、お茶目で優しく、自然と人を惹きつける。母親でもないのに、クロエは密かにティナのことを誇りに思っていた。
「ちょうど呼ぼうと思っていたところだったんだ。グリレル村に行ってもらおうと思っていてね」
「グリレル!? 行くよ、行くー!」
待ってましたと言わんばかりのティナの返事。目は輝き、体まで弾んでいる。クロエはその様子に微笑み、準備していた一枚の書類を手渡す。
「ふふ。そう言うと思ったよ。この書類を村長へと届けておくれ」
「りょーかい!」
ティナは受け取った書類を丁寧にバッグにしまい、親指だけを折った手をシュピッと上げる。彼女のいつもの挨拶だ。
「じゃ、私はこれで!」
今にも飛んでいきそうな彼女の背中に、クロエは慌てて声を掛けた。
「待て。もう一つ頼まれてほしいんだが」
「ん!?」
クロエは木の箱を取り出し、ティナへ差し出す。その箱の中身は、あの男が長らく待ち望んでいた品だった。
「ブラジェイに頼まれていた物だ。ようやく届いてね」
「なに、見てもいい?」
好奇心で目を輝かせるティナに、クロエは軽く頷いた。
「別にかまわんだろう。そいつを、ブラジェイに渡してやってくれるか」
ティナが箱の蓋をそっと開けると、そこには精緻な装飾が施されたジャンビア系の短剣が静かに収まっていた。
金属の光沢、刀身の曲線、柄に施された彫刻──どれをとっても芸術品の域に達していた。クロエは本で知識として知っていたが、実物を目にするのは初めてだ。その美しさと精巧さに、思わず息を呑む。
「これ、ブラジェイが装備するの!? 似合わない!!」
あまりにも素直すぎるその言葉に、クロエは思わず弾けるように笑った。
「ははは、そうだな! だが安心しな。それを使うのはブラジェイじゃないよ」
「え?」
「シャノンだよ。おそらくね」
シャノンは、ブラジェイの恋人の名だ。直接会ったことはないが、ティナの口から何度も聞いたことがあった。
ティナは大事にそれを鞄に仕舞うと、改めてシュピッと手を挙げる。
「じゃ、行ってくる!」
「ああ、気をつけて行っといで」
ティナを見送った後、クロエは部屋から出て中庭に立った。
ひとり煙草を燻らせながら、空に浮かぶ薄雲をぼんやりと眺める。
(とうとう、ブラジェイもプロポーズすんのかい)
心の奥にあった微かな疼きは、今や静かに落ち着き、穏やかさに変わっていた。
カルティカを渡してプロポーズを終えた後は、すぐに結婚の話も進むだろう。
胸に少しの羨ましさがあったとしても、激しい嫉妬に変わることはなかった。
ただ彼が幸せであってほしいと。
──そう、願っていた。
だが、その数日後。
突如として、ブラジェイの暮らすグリレル村が壊滅した。
隣国ストレイアの非合法組織による襲撃で、当時村に居た住民は、ブラジェイ以外全員殺されたか自決した。
それは復讐のための襲撃であり、背景には四年前の出来事があった。
四年前のその日、ミカヴェルからザイレンに一通の連絡が届いた。
それは、これまでの詩のように曖昧な文面とは異なり、明確で具体的な指示だった。
──公務に出たストレイアの第一王妃マーディア、その随行の第一王女ラファエラ、第二王子シウリスの帰還ルートと日程を、フィデル国の過激派組織に渡せ。
クロエとザイレンは、命令どおりに動いた。
本来の計画では、王妃マーディアとその子ら──三人すべてを葬るはずだった。
しかし、過激派が実際に殺害できたのは、第一王女ラファエラただ一人だった。
ラファエラ殺害の直後、ストレイアの騎士と思しき黒衣の男が一人現れ、過激派の数名を斬殺した。
残った者たちは命からがらフィデル国へ逃げ帰る。
全員がいなくなると、ザイレンがすべての遺体を回収し、痕跡を消した。
後日、過激派の残党もまた、ミカヴェルの命でザイレンが粛清する。──王女殺害の事実が漏れぬよう、徹底的に。
この計画は、事件をラウ派とリーン派の対立に見せかけ、ストレイア王国の内部を分断させるためのものだった。
だが、王国内には「フィデル国の仕業だ」と主張する者がいた。
実際に動いたのがフィデルの過激派である以上、その推測は事実を突いていた。
フィデル国による襲撃だと断じたその者は、王国内の非合法組織を操り、グリレル村を襲撃させた。
こうして、無関係だったグリレル村が滅びたのだ。
村の壊滅後、ブラジェイとティナがカジナル軍に加わった。
能力のある二人の加入は、戦局にとって非常に頼もしいものだった。しかし、手放しで喜べる状況ではなかった。
過激派組織を唆し、ストレイア王族を襲撃させたのは、自分たちの手によるものだ。それがなければ、グリレル村が襲われることはなかったはずだった。
クロエは罪の意識に苛まれる。
絶望が村に押し寄せた日──
ブラジェイの恋人も、自ら命を絶ったと聞いた。
──あの、カルティカで。




