356.勝手に想い続けるのは、あたしの自由じゃないか……っ
声に振り向いた先にはザイレンの姿があり、クロエは思わず息を呑んだ。
ブラジェイをじっと見送る自分の背中を、まさかこんな形で見られていたのかと、胸の奥がざわつき、動揺が身体を駆け巡る。
心臓の鼓動が一拍、二拍と早まるのを感じながらも、表情をどう作ればいいのか、クロエは迷った。
「……ザイレン、どうしてここに?」
「用がなくちゃ、クロエに会いに来れんか?」
「そういうわけじゃ、ないさ……入っておくれ」
クロエはどんな表情をすればいいのか分からず、戸惑いながらもザイレンを部屋に招き入れる。
三時の休憩を終えたばかりの柔らかい光が書類や木目を淡く照らし、穏やかな温度を与えていた。
クロエは机に向かい、落ち着かない手で無意識に書類に触れた。視線は定まらず、心もそわそわしている。
ザイレンはその様子にふと目を留め、微かに口元を緩めた。
「……随分と、様子がぎこちないな」
「……そんなこと、ないさ。普通だよ」
「今の男が、好きなのか?」
その問いかけは、クロエの胸を鋭く打った。
手元にあった書類が、緊張と動揺で指が震えたせいか、床にばさりと落ちていく。
音が小さく響き渡り、静まり返った部屋に生々しい緊張感を刻む。自分の動揺に、クロエは思わず息を呑んだ。
慌てて書類を拾おうと手を伸ばすと、ザイレンがそっと手を貸してくれる。
「当たり、みたいだな」
「バカ言うんじゃないよ。あの子はあたしより六つも年下なんだよ。ブラジェイには恋人もいるし、好きとか……そんなんじゃないよ」
「……そうか」
熱を帯びた顔を少しでも隠すように、クロエは顔を背けて書類を拾い集める。
床に散らばった紙の上で、指先が微かに震える。
すべて回収して立ち上がると、ザイレンは拾った書類を優しく手渡してくれた。
「ありがと……」
「どういたしまして。まぁ、元気でやってるならそれでいいんだ」
クロエはようやく、ザイレンに真っ直ぐ顔を向けることができた。
そこには、いつもと変わらぬ精悍さと、穏やかで優しい表情がある。
見つめられるだけで、心の奥底に安堵が広がるのを感じ、息が少しだけ落ち着いた。
「今日は、なにしに来たんだい? ミカヴェルからの手紙は?」
「いや、届いてない。俺がただ、クロエに会いたくなって来ただけだ」
「ははっ。嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
クロエが笑うと、ザイレンは眉をわずかに下げ、目を細めて穏やかに見つめ返した。
その視線の真っ直ぐさに、クロエの心臓がそっと突き上げられる。
「会いたかった。クロエ」
「……大袈裟だよ。会おうと思えば会える距離じゃないか」
「ああ。けどクロエは来てくれねぇからな」
「あたしには仕事が」
「わかってる。会いに来いだなんて、言うつもりはない。今日はちょっと話をしたかったんだ」
「……座りなよ。少しくらいなら、時間は取れる」
部屋の隅に置かれたソファに目をやると、ザイレンはゆっくりと腰を下ろした。クロエもその隣に座る。柔らかいクッションに体が沈む感触が、緊張を和らげる。
「どうしたんだい、ザイレン。用もなく来るなんて」
「いや……ヤウト村の攻防戦から六年だ。 ミカヴェルがいなくなって、六年……そろそろいけるかと思って来たんだが」
「いけるって、なんの話さ」
「俺と結婚しないか、クロエ」
急過ぎる言葉に、クロエは息を呑んだ。
時間が一瞬止まり、胸の奥が音を立てるかのように高鳴った。耳の奥まで血が集まっていくのがわかる。
「……な、なに言ってるんだい、ザイレン」
震える声で、ようやくそれだけを返す。ザイレンは視線を逸らさず、真っ直ぐにクロエを見つめていた。
その眼差しは、冗談でも、勢いでもない。真摯さと決意を伴った、本物の告白の証だった。
クロエの心は嵐のようにざわめき、同時に熱いなにかで満たされていく。
「どれだけミカヴェルを待っていても……クロエは、ミカヴェルと結ばれはしねぇんだ。わかってるだろ?」
「……っ」
その言葉に、クロエの頬が熱く染まった。
自分の気持ちを見透かされていた羞恥で、耳までじんじんと熱くなる。心臓がぎゅうと締め付けられ、思わず肩を小さく震わせた。
「でも……勝手に想い続けるのは、あたしの自由じゃないか……っ」
言葉を紡ぎ出すたび、胸の奥が切なく痛む。
ザイレンは一瞬なにかを言いかけ、しかしそれを飲み込んだ。その瞳は揺れることなく、光の中で揺らめく炎のように、強く、しかし痛みを帯びてクロエを見つめている。
「そうだな。……自由だ」
低く、掠れた声。
その声に混ざる柔らかな微笑みが、逆に胸に深く刺さる。心臓の奥底が疼いた。
それでも、ザイレンの表情は穏やかで、決して強要するものではない。その優しさが、より一層胸を締めつける。
「だが、クロエ。お前はさっきの男に揺れてたんだろ? 見ればわかる」
「……っ」
クロエは、言い返す言葉を持たなかった。
自分の中でさえ、答えの出ていない気持ちをザイレンに言い当てられ、言葉が喉の奥に詰まる。顔を赤くしたまま俯いた。恥ずかしさと動揺が入り混じり、言葉が出てこない。
ザイレンはそんなクロエの肩越しに、優しく声をかける。
「ブラジェイとか言ったか。もしあいつに恋人がいなければ、クロエはどうした?」
「……どうもこうも……なにもしないよ。あの子は六つも年下なんだよ」
「十八過ぎれば、年は関係ないと思うが……じゃあもし、彼がクロエと同い年だったら?」
その問いに、クロエは無意識に想像を巡らせた。ブラジェイに恋人がおらず、もしも自分と同じ年だったなら──
膝の上で手をぎゅっと握り締め、クロエの胸はざわつく。喉が詰まるように締め付けられ、涙が滲みそうになりながら、奥歯を噛みしめて耐える。
「……なにも、しないよ……」
声は震え、喉が締め付けられるようだった。
涙が滲みそうになるが、クロエは奥歯を噛みしめ、ぎりぎりで耐える。胸の奥の熱と痛みが同時に押し寄せ、息が苦しい。
「ああ。俺たちはできんよな……駒として生きる、俺たちには……」
いつ、どこで命を投げ出さなくてはならないか、わからない。
ミカヴェルには、自由に恋愛しろ、結婚してもいいと告げられている。
しかし、現実に結婚してしまえば、彼はクロエを駒として使うことを躊躇するだろう。その可能性を、クロエは知っていた。
冷徹に見える策士としての顔の裏に、ミカヴェルの心は優しさで溢れていることも、クロエは理解している。だからこそ、彼に躊躇させるようなことだけは、絶対にさせられない。
恋人を作ることも、結婚することもできない──すべては、ミカヴェルの采配を最大限に活かすために。彼のために、クロエは自らの感情を押し殺すのだ。
黙りこくったクロエの手を、横からザイレンがそっと握った。驚いて隣を見上げると、真剣そのものの瞳がそこにあった。
その手の温もりが、心の奥底まで届き、胸がぎゅっと締め付けられる。
「だが俺たちなら、事情を知る駒同士だ。たとえお互いを失っても、その運命を受け入れられる。……そうだろ?」
握られた手の温かさが、理性を揺さぶる。クロエは小さく首を横に振り、言葉にならない想いを胸に抱え込む。唇は震え、息が詰まりそうだった。
「俺は、クロエと一緒に生きたい」
淡々とした口調に、確かな熱が込められている。
胸の奥が熱く焼けるようで、そんな彼の真っ直ぐな眼差しを受け止められずにクロエは視線を落とした。
「……ザイレン。あんたは、優しいよ。あたしなんかのために、そんな風に言ってくれて」
「〝なんか〟じゃねぇ。クロエは俺にとって、唯一の女だ」
彼の言葉に、クロエの指先がどんどん熱を帯びていく。
胸の奥で、熱と切なさが入り混じり、喉が詰まったように言葉が出ない。
「……あの戦から、六年も経ったんだ。ずっと考えてた。ミカヴェルがいつ戻るかもわからん。それなら……俺たちなら、結婚してもいいんじゃないのかってな」
「ザイ……レン……」
嬉しさに胸が押しつぶされそうになる。ザイレンの真っ直ぐな気持ちが、なによりも嬉しく、尊く、同時に届かない現実に胸が痛む。
クロエは首を左右に振り、声を絞り出すしかなかった。
「ごめん……あたしは、やっぱり……」
声は消え入りそうに震え、これ以上言えば涙が溢れるのを感じた。声にならない悲しみと、熱い想いを胸に抱えたまま、クロエは静かに頷く。
「……そう、だよな。俺たちは、あいつを待たなきゃな……待ちたいよな」
言葉にできない気持ちの代わりに、クロエは小さく頷く。
ゆっくりと手を離すザイレン。その瞬間、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「……悪かったな。情けねぇ話をして」
「やめておくれよ、そんな言い方。嬉しかったよ。あたしに、プロポーズしてくれる人がいるって」
小さく笑うザイレン。その笑みには、寂しさと温もりが同居し、胸に深く響いた。
「……お前は、ほんと強い女だな、クロエ」
「強くなんか、ないさ。あたしは、臆病なだけだよ」
「それでもいい。……そのままのクロエが、好きだ」
胸がきゅっと締め付けられる感覚。
返す言葉が見つからず、ただ黙って視線を落とす。
胸の奥で、複雑な感情が絡み合い、言葉にならないまま、静かに時間だけが流れた。
ザイレンは立ち上がり、深く息を吐く。
扉の方を向くその背中を見つめ、クロエは小さく唇を噛む。
「ザイレン……」
掠れた声が漏れる。彼は振り返らず、穏やかに言葉を残す。
「俺はお前以外に、人を愛する気はねぇ。……気が変わった時には、いつでも言ってくれ」
その一言は、静かだが刃のように心の奥深くまで刺さる。
クロエは小さく目を閉じ、胸の奥の熱と切なさを抱きしめる。
「……そんな日、来るかどうか……」
「来なくてもいい。俺が勝手にそうするだけだ」
そう言って、ザイレンは振り返らずに扉へと歩いた。
扉を開け、柔らかな光の中へ姿を消す。
──カチリ、と金具の音がして、静寂が戻る。
クロエはゆっくりと立ち上がり、閉じられた扉を見つめた。
胸の奥が、焼けつくように熱い。
なのに、部屋の空気はひどく冷たく感じた。
「……バカだね、あたしも……」
震える声で呟き、ゆっくりと立ち上がる。
いつ戻るかわからない人を想い続け、今ここにいる人の手を取れない。自分の心がこんなにも不器用で、頑なだったとは思いもしなかった。それほどまでに、クロエの中でミカヴェルの存在は大きかった。
窓の外を見ると、柔らかく温かい陽の光の中を、ザイレンが去っていく背中が見えた。
その背中には寂しさが漂い、胸がきゅうっと痛む。ひとすじの涙が静かに頬を伝い落ちる。
そして、誰もいない部屋の中で、クロエは小さく呟いた。
「……ザイレン、ごめんよ」
ザイレンのことも好きだったはずなのに、受け入れられなかった。
愛されていたのに、愛し返せる自信がなかった。
胸に残るぬくもりを抱え、クロエは静かに目を閉じる。
そのぬくもりが、やがて痛みに変わることを知りながら。




