355.お盛んなことだね
ブラジェイには、恋人がいるようだ──とクロエが気づいたのは、それから二年半後のことだった。
出会った頃はまだ十六歳だったブラジェイを、クロエはまだ心のどこかで子どもだと思い込んでいた。
失礼な話だが、あのぶっきらぼうで無骨なあの男に、恋人などいるはずがないとクロエは信じ込んでいたのだ。
(そうか……ブラジェイには恋人がいたんだな)
先を越されたような、鈍い痛みがゆっくりと広がり、胸の内でじわりと熱を帯びていく。
いつから彼に恋人ができたのか、クロエにはわからない。ブラジェイは、そうした私的なことをわざわざ口にするタイプではないのだ。
いつもと態度も変わらなかったし、まったく気づけなかった。
(一言、教えてくれればいいのにな)
自分の中で芽生えた小さな棘の存在に気づき、クロエは密かに自嘲した。勝手に、彼との距離が親密だと錯覚していた自分に、苦笑が漏れる。
(馬鹿だね……あたしとブラジェイは、あくまで仕事上の関係に過ぎないっていうのに)
しかしそう思えば思うほど、胸に突き刺さる感覚は消えず、重く鈍い痛みが胸を締め付ける。
それでも、ブラジェイに恋人ができたことを素直に喜べないような、狭量な女にはなりたくない。そんな思いが、心の奥で自分を戒める。
ティナ曰く、ブラジェイに恋人ができるのは、彼女が知る限り二人目だという。
その言葉を思い出すと、なぜか胸の奥にむかむかとした違和感が広がり、甘く、痛いような奇妙な感覚に襲われる。
(まだ十八歳で二人目の彼女かい……お盛んなことだね)
クロエは二十四歳になっていた。しかし恋愛において良縁は、ひとつも巡ってこなかった。
ミカヴェルはストレイアに潜んだままで、ほとんど連絡がない。生きていることはわかっているが、こちらからは連絡する手段もなく、ただ待つしかない状態だ。
もしかすると、ミカヴェルにはあっちで良い人ができたのではないか。帰ってくるつもりなどないのではないか──
そう考えるたびに、胸の奥が掻きむしられるように痛んだ。
ミカヴェルと結ばれることはあり得ないと頭では理解していても、彼の帰還を心待ちにしてしまう気持ちは、どうしようもなくクロエを苛んでいた。
そんなある日、クロエが中庭で男たちと煙草を燻らせながら休憩していると、ブラジェイがいつものようにやってきた。
夕暮れの光が石畳に長い影を落とし、日焼けした肌を柔らかく照らしている。
「クロエ、おめぇ仕事はよ」
「今は休憩中だ。煙草の一本くらい構わんだろう」
「ほどほどにしとけよ。ところで、頼んでたやつなんだが……どうだった?」
その言葉に、クロエは煙草を腰の銀版に押し潰し、首をくいっと執務室へと向けた。
「おいで」
夕風が頬を撫で、煙草の香りとともに、緊張と期待が混ざった独特の空気が漂う。
ブラジェイを副官専用の執務室へ入れると、クロエは慎重に一つの小さな瓶を取り出した。
「手に入ったのかよ。さすがだな、クロエ」
「無茶な願いをする男だよ、まったく」
クロエは手の中の瓶を、そっとブラジェイに差し出す。
それは希少な中級ポーションで、手に入れるにはかなりの苦労を要した。コネと金を駆使し、頼まれた以上の労力をかけてようやく手に入れたものだ。
「誰か怪我でもしたのかい?」
「いや、そういうわけじゃねぇよ。ま、念のためにな」
ブラジェイはそう言いながら、お金を取り出し、クロエに渡した。その金額は、彼の数か月分の働きに相当する大金である。
クロエは一瞬、手が止まりそうになった。確かに想いが込められた行為だと伝わってきたのだ。
「念のためにで、えらく大金をはたくもんだね」
「まぁな。俺はよ、大切なやつには生きていて欲しいんだよ。だからまぁ、お守りがわりに……な」
その言葉に、クロエは息を呑む。無骨な口調に潜む優しさ、心の底から大事にしている様子。恋人にしか向けられない感情が、透けて見えた。
胸の奥に、ちくりと痛みが走る。
「そうかい。きっと喜ぶだろうさ。その相手も」
「クロエ……面倒掛けついでに、もうひとつ構わねぇか?」
「ああ……なんだい?」
クロエが承諾すると、ブラジェイの顔に嬉しそうな笑みが広がる。
その表情を見ただけで、胸の奥がざわりと高鳴った。
「カルティカってわかるか?」
「ナハシール公国の伝統的な短剣だろう? 元は神の名前だ。生まれ持った悪い宿命を断ち切る象徴として用いられる、神秘的な武器だね。それがどうかしたのかい?」
そう言った直後、クロエは気づいた。
カルティカは、重要な人生の節目を象徴する道具としても扱われ、特に婚約の際に結納の品として男から女へと贈られるものだ。つまり、ブラジェイは、恋人にそれを渡すつもりなのだと。
「ちょっとな。手に入れられるか?」
「あれは、ナハシール公国でしか作られてないよ。中古ならあるだろうけど、新品がいいんだろう?」
「……まぁな」
珍しく照れた仕草で横を向くブラジェイ。
その仕草に、クロエは驚いた。こんな顔もする男だったのか、と。
「ナハシール国内でも受注が多くて生産が追いついていない状況だと聞いたことがある。今から注文しても、一年以上かかるかもしれないよ」
クロエの言葉に、ブラジェイは即座に頷いた。
その素早い反応には無駄がなく、淡々とした決意が感じられる。
「ああ、構わねぇよ。俺も今、この中級ポーションを買っちまって空っけつだからな。その間に貯めらぁ」
「わかった。じゃあ手配はこちらでしておくよ」
「いつも悪ぃな、クロエ。助かるぜ」
その言葉だけで、クロエの胸には満足感が生まれた。
自然と口元が緩み、ブラジェイの顔を見つめながら、微かに口の端を吊り上げる。
「その分、しっかり働いてもらうよ」
「おう、いくらでも仕事振ってくれ」
そう言って、ブラジェイは軽やかに手を振り、執務室を出ていった。
クロエも後を追うように立ち上がり、廊下へ足を踏み出す。
見送る彼の肩幅の広い背中は、廊下の窓から注がれる夕刻の光に縁取られ、どこか遠く、手の届かない存在のように映る。
(……恋人がいるんだよ、あの子には)
思わず小さく息を吐き、胸の奥のもやもやを払いのけようとする。しかし、視線は自然と彼の背中に釘付けになり、離れがたい。
──その時、廊下の反対側から、ゆっくりと歩み寄る影があった。
「久しぶりだな」
クロエの視線が自然とその男──ザイレンに向く。
彼の声は穏やかだが、胸の奥に小さく響く、緊張を伴った音色を持っていた。
ブラジェイの余韻と、突然現れたザイレンの声。
クロエの心は、複雑に入り混じった感情で、少しざわついたままだった。




