352.嘘だ……そんなはず、ない……
クロエは十八歳になると、カジナル庁舎での業務に従事し始めた。
毎日朝早くから執務に向かい、書類を整理し、報告を受け、時には上級官僚と議論を交わす。
これまでの学びや訓練のすべてが、この日常の中で確かに役立っていると実感する。そんな充実感と同時に、クロエの胸の奥には小さな緊張を常に持ち続ける。そんな毎日が続いていた。
そしてミカヴェルはその頃、ずっと密かに温めてきた計画を着々と進めていた。
ヤウト村争奪戦── フィデル国の参謀軍師として、彼はカジナルの一軍を率いてヤウト村への攻撃に踏み出した。
不思議なことに、ザイレンはこの時の遠征には同行していない。
その事実に、クロエは少しの違和感を覚えつつも、理由を問いただすこともできなかった。
指揮官としての彼の選択は、常に合理的で、誰にも疑う余地がないのだから。
しかし、予想もしなかった事態が訪れる。
勝鬨をあげて無事に帰還するはずの光景を、誰も見ることはなかった。
ヤウト村の戦いで──ミカヴェルは消息を絶ったのだ。
その知らせがクロエに届いた瞬間、全身の力が一気に抜け、膝から崩れ落ちた。
冷たい床に膝を打ちつけながら、身体の芯まで震える感覚が走る。
「嘘だ……そんなはず、ない……」
震える声が庁舎に微かに響く。
襲ってくるのは絶望そのものだった。
クロエはその日、なにをしても手につかず、時間だけが過ぎていく。
机の上の書類も、目の前の光景も、まるで現実ではないように感じられた。
命からがら帰還した兵士たちの口から語られたのは、ストレイア王国の捕虜にされたという話。
だが、同時に流れてくる情報では、ストレイア王国側では行方不明扱いになっているという。
生きているのか死んでいるのかすら、まったくわからない状態。その不確かさが、クロエの胸を鋭く締め付けた。
信じたくなかった。首を何度振っても現実は変わらず、否応なく心を打ちのめす。
夜の闇が庁舎を包み、灯りが揺れる中で、クロエは中庭のベンチに腰を下ろし、ただ突っ伏して涙を零し続けた。袖で頬の涙を拭っても、熱く滾る感情は尽きることなく、次から次へと押し寄せる。
そのとき、静かな足音がゆっくりと近づいてくる。
「クロエ……」
顔を上げると、ザイレンが立っていた。
庁舎から溢れる灯りに照らされた彼の姿は、穏やかでありながら、どこか深い痛みを湛えていた。
クロエは立ち上がるなり、迷うことなくその胸に飛び込んだ。
「ミカヴェルが……ミカヴェルがいないんだよ、ザイレン……!」
「……ああ、聞いた」
ザイレンは黙ってクロエの背を支える。泣きじゃくるクロエの肩に手を回し、無言で抱きしめた。
その腕の温もりに、クロエの感情が溢れ出す。
「なんで……なんでだい! ミカヴェルは、この国の参謀軍師だろう!?」
必死に尋ねるクロエに、ザイレンは静かに答える。
「いくら優秀でも、ミカヴェルだって人間だ。誤算はある」
「そんな……そんな……ミカヴェルが……うあぁぁああっ!」
嗚咽が声を震わせ、涙が止まらない。そんなクロエの肩を、ザイレンは強く掴んだ。
「クロエはミカヴェルが死んだと思っているのか?」
クロエの呼吸が乱れたまま止まる。
涙で濡れた目で、ザイレンを見上げた。
「だ、……って……」
「行方不明、か。ミカヴェルなら、それも計算のうちだとは思わんか?」
「……っ!」
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
計算し尽くす男であり、どんな状況も想定して動く人物。
少なくとも、クロエの目にはミカヴェルは完璧な存在として映っている。
「行方不明になって……なにかをしようとしてるってことかい……」
「誰が信じなくとも、俺はそう信じる。俺はあいつの親友だからな」
「あたしだってそうだよ!」
ザイレンに対抗するように声を張るクロエに、彼はふっと笑う。
その笑みに、言葉以上の信頼と安心が滲んでいた。
「ミカヴェルも、俺たちを信じてくれているはずだ」
「……あたしらを?」
クロエの問いに、ザイレンは力強く頷く。
「そうだ。あいつはクロエがここで五聖執務官になるって信じてた。だから自分がいない間に〝やり遂げてほしい〟って思ってたんだ。生きて帰ってきた時、クロエがなにも成してなかったら、がっかりするだろうな」
クロエは涙で濡れた頬を急いで拭い、深く息を吸った。心に刻まれた約束が、胸の奥で力強く鼓動する。
「そうだ……! あたしには約束がある! 五聖執務官になるって、ミカヴェルと約束したんだ……!」
震える手を握りしめ、背筋を伸ばす。その決意は確かな炎となり、絶望に沈みかけた心を照らした。
「必ず五聖執務官になって、胸を張ってミカヴェルに報告してみせるよ……!」
ザイレンは静かに見守り、納得するように頷く。
「その通りだ。あいつは必ず戻る。クロエが五聖執務官になる頃には、きっとな」
クロエは再び深く息を吸い、決意を新たにする。
絶望の淵に沈みかけた心は、ザイレンの言葉と自身の決意によって、少しずつ光を取り戻していった。




