353.そんなこと言っても、なんにも出ないよ
それからクロエは、驚くほどの速さで頭角を現した。
常に真摯な姿勢で職務に臨み、クロエの誠実さと判断力は周囲の信頼を着実に集めた。その結果、クロエの名は庁舎全体に知られるようになり、わずか二年で五聖の副官に昇進するという、異例の出世を遂げたのだ。
このころから、クロエは煙草を嗜むようになった。
きっかけは、庁舎の中庭で仕事終わりに集う男たちの輪に混ざったことだ。
一本差し出されて受け取ると、さらに会話は弾み、公式の場では得られない本音や裏話がぽつりぽつりとこぼれてくる。
煙を一緒にくゆらせると、言葉よりも先に心の距離が縮まることがあるのだと、クロエはそこで知った。以来、一本手に取って煙を吐くたびに、仲間たちに受け入れられ、多くの情報を手にできるようになった。
次第にクロエは休憩時間に一本吸うことが日課になっていった。
そんなある日、クロエは応接室へ来客の知らせを受ける。そこに立っていたのはザイレンだった。
滅多に現れない彼の姿に、胸は不意に高鳴る。驚きと懐かしさが混じり合い、口が勝手に動いた。
「久しぶりだね、ザイレン。どうしたんだい?」
来訪の理由を問いかけると、ザイレンは少し間を置いてからにっと笑う。
「今日は特別な知らせを持ってきたんだ」
「特別な知らせ?」
ザイレンは意味ありげに懐から一通の手紙を取り出した。
その仕草に、不安と期待の入り混じった鼓動がどくどくと鳴る。
「なんだい、それ……誰からの手紙だい」
ザイレンは微笑むだけで、なにも答えない。
クロエは彼の目の前へと思わず寄った。
「早く見せなよ、ザイレン!」
「差出人はないんだ。でも、俺たちならわかる字だろう?」
その一言に、クロエは手紙を奪うようにして急いで広げた。
『眠らぬ森の向こうに
影を連ね 正義を抱く
瞬く星は道しるべ
私はまだ 風に遊ぶ』
墨の刻まれた筆跡は見覚えのある癖。それは確かに彼の声だと、クロエの身体は直感した。
震える手で手紙を抱きしめ、言葉が喉元で震える。
「生きて……る……!!」
歓喜と安堵が胸を突き上げ、思わずクロエはザイレンに飛びついた。
長く渇いていた感情が一気に溢れ出す。二人の間に、しばしの静寂と柔らかな温もりが戻ってきた。
「本当に……生きてた……! 生きてたよ……っ」
ザイレンは静かにクロエを受け止め、涙で濡れた頬をそっと撫でる。彼の手の温かさが、しがみつくクロエを落ち着かせた。
「ほら、だから言っただろ? ミカヴェルなら、無事に戻ってくるに決まってるんだ」
揺るがない信頼を含んだザイレンの声。
二人はゆっくりとソファに腰を下ろすと、手紙をめくり直す。安堵のあとに残るのは、好奇心と戦略眼だ。あの男の書く言葉は一筋縄ではいかない。
「ミカヴェルから手紙が来たのはいいが、相変わらずあいつは難解なものを書くな。どう読む、クロエ」
クロエは目を細めて詩行を読み返す。言葉の一つひとつを心の辞書に当てはめ、可能性を探る。
「〝眠らぬ森の向こう〟……ミカヴェルは森に隠れ住んでるってところかな。〝影を連ね〟ってのは、一人じゃない……協力者がいるか……それともミカヴェルが誰かを利用している……そんな風に読めそうだよ」
ザイレンは言葉を挟まず、ただ静かにクロエの説明を聞いた。彼の視線は穏やかだが、鋭さは失っていない。
「〝正義を抱く〟、これは簡単だ。まだミカヴェルは、諦めちゃいない。〝瞬く星は道しるべ〟……多分、帰るべき場所はわかってるってことじゃないかと思う」
クロエの声は確信に満ち、慎重な喜びが交差する。二人は互いの顔を見合わせ、最後の一文について思案する。
「じゃあ最後の一文は、まだ迎えに来るなってことか」
〝私はまだ 風に遊ぶ〟の一文をザイレンが訳し、クロエは頷いた。
「ああ。まだミカヴェルは、やるべきことがあるんだ。探すな、迎えに来るな、迷惑だってこの手紙がそう告げてるね」
届けられた言葉を受け取り、二人は顔を見合わせる。あの男の矜持が、文面の端々に滲んでいた。
「ったく。手紙を寄越しといて、それはねぇよな」
「まったくだね!」
二人は思わず声を重ねて笑った。
笑いはしばらく続き、笑い声の余韻が応接室の静けさを拭い去っていく。涙で濡れた頬も、いつの間にか流れ去った。
そして二人は、手紙の内容が持つ危険性について思いを巡らせ始める。
「だがこの内容から察するに、ミカヴェルの生存は大々的に知らせるべきじゃねぇな」
互いに顔を見合わせ、再び真剣さが戻った。
「そうだね。ストレイア王国も行方不明としているけど、死亡の可能性が高いと思っているはずだよ。生きていると知られたら、きっと血眼になってミカヴェルを探すに違いないね」
「それは困るな。知らせる相手は厳選しねぇと」
クロエは伝達先を慎重に思い巡らす。政治的な波紋を最小限に留めるためには、まず誰に知らせ、誰を伏せるかを見極める必要がある。その脳内には、すでに知らせる相手が浮かんでいた。
「まず伝えるべきは、グランディオル家。あとは、カジナル五聖のベリオン様だけに絞った方がいいね。あとは必要に応じて考えていこう」
「わかった。グランディオルには俺が伝えておく」
立ち上がったザイレンの動きに、クロエも自然と体を起こして彼を見上げる。
まだ胸の奥では、さっきまでの高鳴りが静まっていなかった。
ミカヴェルが生きている──その事実が、血のように熱を持って体を巡っている。
「任せたよ、ザイレン。知らせに来てくれて助かったよ」
クロエが柔らかく微笑む。
ザイレンもまた、その笑顔を見て、つられるように口元を緩める。
「クロエの顔を見られるなら、お安いご用だ」
そんな軽口に、クロエは肩をすくめ、呆れたように息を吐いた。
けれど頬はこらえきれずに、小さな笑みを浮かべてしまう。
「そんなこと言っても、なんにも出ないよ」
「その嬉しそうな笑顔で十分だ」
ふっと笑うザイレンに、クロエは思わず顔を赤らめた。
ザイレンはそんなクロエの頭をぽんと叩く。その柔らかな仕草に、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
「よかったな、クロエ」
「……うん」
クロエは珍しく、少女のように頷いた。
ザイレンはそんなクロエを見て目を細め、「またな」と言い残し、応接室を出ていく。扉が閉まる音が響くと、室内は再び静けさに包まれた。
その場に座り込んだクロエの胸の奥は、じんわりと温かさが広がる。
手紙の文字、ザイレンの笑顔──そしてなにより、ミカヴェルが生きているという事実に、心の底から安堵と喜びを湧き上がらせた。
「……生きていてくれて、よかった」
小さく呟いた声が、応接室に静かに響く。窓から差し込む柔らかな光が、クロエの頬を淡く照らした。
クロエは深呼吸を一つして、まだ胸に残る幸福の余韻にしばし浸る。涙は頬を伝うが、その表情には、微かに笑みが残っていた。
「ミカヴェル……っ」
彼が行方不明になってから二年目。
その名を刻む声は、嗚咽となって部屋に溶けていった。




