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騎士アンナは、それでも愛する人を守りたい 〜あなたを忘れる方法を、私は知らない〜  作者: 長岡更紗
カルティカの涙〜フィデル国の異母姉編〜

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348/495

346.あんな風に剣を……

「はじめまして、ミカヴェルさま。わたくしは、クロエ・アグライアと申します」


 まだクロエが令嬢として慎ましく振る舞っていた、六歳の頃のことだ。家の執務室や広間の匂い、磨かれた床の木の冷たさ、そして窓から差し込む光の柔らかさまで、すべてが鮮明に記憶に残っている。

 アグライア家が仕え支えるグランディオルのミカヴェルに、初めて出会ったあの瞬間のことを。

 クロエはその年齢にして、すでに家の名と立場の重みを背負い、多くの礼儀を身に着けていた。


 ミカヴェルは三つ年上の九歳。子どもながらも、どこか落ち着きと威厳を漂わせる少年だった。

 その隣には、ザイレン・オルディスという、ミカヴェルと同じ九歳の少年の姿。

 彼もまた、未来においてグランディオル家に仕える騎士となるべく、厳しい研鑽を課される運命にあった。


 グランディオル家、オルディス家、アグライア家──この三家の縁は古く、初代バルセオン・グランディオルがフィデル国統一に動き始めた時から強く結びついている。

 グランディオルを支え続けたのは、剣と知恵を兼ね備えたオルディス家と、文書・補佐に優れたアグライア家だった。それは代替わりしても変わらず、参謀や軍師に仕える者の義務として、血脈の中に刻まれていた。


「君がクロエか。話には聞いているよ。堅苦しくなくていい、僕たちは運命共同体だ。仲良くしよう」


 ミカヴェルの言葉に、クロエは心の底で密かにほっとする。怖い人物だったらどうしようと内心緊張していたが、彼の顔には温厚で親しみやすい微笑みが浮かんでいた。

 差し出された手を、クロエは慎重に握り返す。幼いながらも、この握手には互いの信頼を築く意味が込められていると感じた。

 握手の後、ミカヴェルは隣の少年へと視線を向ける。


「彼はザイレン・オルディスだよ。いずれ戦闘や護衛を任せることになる男だ。仲良くしてやっておくれ」

「ザイレンだ。よろしくな!」

「よろしくお願いしますわ、ザイレンさま」


 クロエはきちんとカーテシーをしてみせた。

 その様子を見たミカヴェルとザイレンは目を合わせ、微かに肩をすくめる。

 幼いながら、すでに二人は信頼し合う友人であり、互いを名前で呼び合う関係だった。


 クロエは普段カジナルに住んでいたが、週末になるとグランディオル邸を訪れることになった。そこでは勉強と礼儀作法の研鑽だけでなく、互いに必要なことを学ぶ時間が用意されていた。

 将来、グランディオルの補佐として任務を全うする運命にあるクロエは、彼を支えるために絶え間ない学びを続けなければいけなかった。


 庭では木剣の打ち合う音が乾いた響きを立て、書斎には分厚い書物や緻密に描かれた地図が広げられている。ミカヴェルもザイレンも、大人顔負けの訓練と勉学を課され、休憩時間には遊ぶことで心身のリズムを整えていた。

 しかしクロエは、初めの二年間、彼らと一緒に遊ぶことはなかった。


 十一歳になったザイレンは、この日も木剣を肩に担ぎ、汗に光る髪を揺らしながら声を弾ませてクロエに話しかける。


「クロエ、お前も一緒に遊ばないか?」


 こうして声をかけてくるのは、彼が九歳の頃からずっと変わらない習慣だ。


「……いいえ。わたくしは本を読んでおきます」


 クロエは顔を上げず、膝の上の本に目を落としたまま首を横に振る。

 その硬い意思に、ザイレンは息をつき、顔を顰めた。


「またかよ! いつも勉強ばっかりだな。たまには剣を振ってみろよ、楽しいぞ!」

「剣は……ザイレンさまの役目ですもの。わたくしが振るう必要はありません」


 きっぱりと告げるクロエに、ザイレンはむっとした表情を返す。青々とした庭の風景に、互いの感情が小さく波打つ。


「なぁ、ミカヴェル! こいつ、全然打ち解けようとしねぇんだ。いい加減、〝ザイレン〟って呼んでくれていいと思わないか?」

「はは、確かにそうだね」


 木陰に座っていたミカヴェルは、楽しげな微笑を浮かべ、クロエを優しく見つめる。


「クロエ、僕たちはもう仲間だよ。だから〝さま〟はいらない。〝ミカヴェル〟〝ザイレン〟と呼んでくれないか?」


 その柔らかい声に、クロエは小さく肩を震わせた。幼い体の中で、心は一瞬揺れた。しかしすぐに背筋を伸ばし、頑なに笑みを浮かべる。


「……恐れ多いことですわ。わたくしはアグライア家の娘として、ミカヴェルさまを支えるためにここに参っております。無礼はできません」


 ザイレンが「なんだよ、それ!」と声を上げ、ミカヴェルは苦笑して肩をすくめる。


「真面目だなぁ、クロエは」


 困ったように言われても、クロエは俯いたまま、膝の上で本のページをめくるだけだった。


 やがて二人は遊び始めた。クロエはページをめくるふりをしながら、庭へ視線を向ける。

 ザイレンは木剣を振りかざし、全身で突進する。汗に光る髪、真剣な表情、力強い動き──まるで冒険譚に出てくる小さな英雄のようだ。


 運動が得意でないミカヴェルは、ぎこちなく剣を交わす。必死な様子は微笑ましいが、ザイレンの鮮やかさにはかなわない。


 無邪気な勇ましさ、全力で遊ぶ楽しげな姿。クロエの胸には、羨望と同時にそわそわとした落ち着かなさが湧き上がった。


(わたくしも、あんな風に剣を……)


 しかし口には出せず、理性が制止する。アグライア家の令嬢としての務めは、知識と補佐にあるのだ。

 だが心の奥の小さな炎は、抑えきれずに疼いていた。


「……クロエ」


 不意に名を呼ばれ、クロエははっとする。

 前方から、木剣を手にしたままミカヴェルが近づいてきていた。

 その眼差しはどこか楽しげで、少しからかうようでもある。


「本当はやってみたいんだろう?」

「え……」

「クロエは冒険譚が好きだよね」


 図星を突かれ、クロエは思わず頬を赤く染める。


「な、なぜそれを……」

「休憩時間に読んでいるの、いつも同じ本だった。女海賊のね」


 ミカヴェルが微笑むと、ザイレンは興味津々とばかりに駆け寄ってきた。


「なんだよ、クロエ! 冒険譚が好きなら言えよ! 俺たちが海賊ごっこしてやる!」

「か、海賊……?」


 呆然とするクロエに、ミカヴェルが悪戯っぽく目を細めた。


「よし、じゃあ今からクロエが女海賊、僕は航海士、そしてザイレンは海軍だ」

「海軍!? 俺が捕まえる側かよ!」

「そうだよ、ザイレンは海賊の敵役。だから真剣にやらないと」

「よし、わかった! クロエはこの木剣を持て、サーベル代わりだ」


 クロエは無理やり木剣を手渡される。

 ザイレンは近くの細い枝を拾い上げて、にっと笑った。


「そんな、わたくし無理ですわ!」


 クロエが慌てるも、ミカヴェルは子どもとは思えぬ顔で目を細めた。


「僕の補佐に、無理だなんて言葉を使う者はいらないよ。僕がやれと言えばやるんだ」

「……っ!」


 クロエの体がピクリと動き、木剣をぎゅっと握りしめる。

 その様子を見たザイレンが、葉付きの枝を高く振り上げる。


「俺は海軍大佐ザイレン・オルディスだ! 女海賊クロエ・アグライア! 今日こそ貴様を捕らえてやる!」

「き、来ましたのね、ザイレンさま……! 航海士ミカヴェルさま、右舷に旋回してくださいませ……っ」


 クロエは木剣と喉をプルプルと震わせながら声を出すが、まったく演じ切れなかった。

 そんな彼女に、ミカヴェルは笑みを浮かべ、ザイレンは呆れた顔をする。


「敵や部下に敬称をつける海賊なんて、どこにもいねぇって!」

「ですが……」

「クロエ。これは遊びと言えど、勉強も兼ねているんだ。演技力のね」

「演技……ですか?」

「そうだよ。補佐という人間が、演技力もなしにやっていけると思っているのかな?」


 クロエはその言葉に、背筋がぴんと伸びる思いがした。

 補佐は、ただ学問や知識を蓄えるだけでは務まらない。時には人を欺く知恵、状況を読み取る機敏さ、そして心を動かす演技力さえも求められる。

 小さな身体にその重みを感じ、クロエの胸は熱くなる。


 木剣を握りしめる手に力が入り、瞳は決意に輝いた。小さな肩で息を整え、声を張る。


「あたしは女大海賊クロエ・アグライア! ミカヴェル、あんたがいれば怖いもんなしさ! ザイレン、覚悟しな!」


 勢いよく二人の名を呼び捨てにした気迫の言葉が、確かに空気を震わせる。

 瞬間、ザイレンとミカヴェルの目が、驚きと喜びで輝いた。


「よっし、容赦しねぇぞ! 海軍大佐ザイレン、全力でお前を捕まえる!」


 ザイレンは小枝をひらめかせ、身体を低く構える。


「上等だ、来な! ザイレン! あたしが直々に相手してやるよ!」


 クロエは木剣を振り上げ、必死に声を張った。

 背後から吹き抜ける風や、草のざわめきまでが戦場のように感じられる。心臓は高鳴り、胸の奥で小さな冒険心が跳ね回る。


 その姿を静かに見守るミカヴェルは、芝生を踏みしめ、唇の端を上げる。眼差しには優しさと遊び心が入り混じり、クロエへの信頼と期待が滲み出ていた。


「船長命令とあらば、この航海士ミカヴェル、どこまでも付き合おう。さぁキャプテンクロエ、僕に指示を!」

「ミカヴェル、右舷へ回り込め! ザイレンを翻弄してやろうじゃないか!」

「了解!」


 ミカヴェルは芝生を蹴ってクロエの横に並び、剣を振るザイレンと向き合う。緊張感と期待感が、庭全体を包み込む。

 子どもの遊びでありながらも、真剣さで埋め尽くされた。


「大人しく縄につけ、女海賊クロエ!」

「やれるもんならやってみな! 海軍大佐ザイレン!」


 クロエは木剣を精一杯突き出し、声を張る。吹き抜ける風は、まるで船の上にいるかのようだった。

 ザイレンは枝を軽く躱し、笑いながら応戦する。


 その光景を見つめるミカヴェルの視線には、補佐として成長していくクロエへの深い信頼が映し出されていた。


 葉の影が風に揺れ、庭に陰影を作り出す。その中で、三人の子どもたちは全力で役になりきり、互いにぶつかり、笑い、そして学び合う。

 クロエの心もまた、その風景の中で少しずつ解きほぐされていった。

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― 新着の感想 ―
クロエが小さな貴婦人で、なんとも可愛らしかったですね。 ほのぼのするごっこ遊びの中にも三人の役割を当てはめていて、さすがはミカヴェルくん。
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