10 第二王子とヒロイン
『国王陛下の下される罰に従います』
その言葉を聞いたとき、心臓が止まったかと思った。
手足が冷えて、全身の感覚が失われたように感じる。
アイリーンは今、何て言った? 罰を受け入れるって?
何もしていないのに?
マクラウド公爵家の長男、俺、カイル・マクラウドが、ウィリアム第二王子の遊び友達兼側近候補として、王宮に通うようになってから、ずっと、アイリーンもウィリアムも掛け替えのない親友だと思っていた。
笑ったり喋ったりが苦手な俺にも、愛想を尽かすことなく、仲良くしてくれた。それにどれだけ救われたことか。
昔からアイリーンは、奇想天外な事を喋る少女だった。
ただのかくれんぼや鬼ごっこではなくて、缶蹴りをしようと別の要素を入れてきたり、鬼ごっこも、鬼は騎士団で逃げるのは泥棒だ、と言ってきたり、アイリーンと遊ぶのは飽きなかった。
後にして思えば、これが例の、前世の知識、と言うやつから来ていたのだと思うが、そんな事くらいじゃ不気味には思えないくらい、アイリーンは明るく、そして可愛い女の子だった。
アイリーンは、ウィリアムのことを天使のようだと言うが、俺に言わせれば、アイリーンがそう言って可愛がるのに付け込むウィリアムは、小さい頃から腹黒い小悪魔のように見えていた。
顔なら、似ていても女の子のアイリーンの方が絶対に可愛い、とずっと思っていた。
でも、その可愛い女の子には生まれた時から決められた、婚約者がいた。
アイリーンの耳にはとても入れられないが、婚約者のラルフ王子は、数多くの令嬢と浮名を流す色男として知られていた。いずれアイリーンが輿入れしてくるまでの、期間限定の割り切った恋人達だ。
でも、あのアイリーンを任せるに足る誠意があるようには見えない。
しかしそんな現状があろうとも、俺が筆頭公爵家の跡取りとして生まれたとしても、隣国の王太子殿下に比べれば、歯牙にも掛けられない。
だからといって諦めるには、アイリーンとの距離が近すぎたし、王宮に入り浸りの上に、自宅ではウィリアムの護衛ができるよう鍛錬を積む俺には、他に目を向ける余裕もなかった。
父がいくつか婚約者候補に挙げた名は、誰の事かも知らなかったけれど、今は勉強と修行に集中したいと言って全部断った。
父は多分、俺がアイリーンを好きで諦めきれない事に、気付いていたのではないかと思う。その上で、まだ焦る年齢ではないからと、静観してくれていたのだろうな。
諦めきれるはずはない。
近くで見るアイリーンは、どう見てもラルフ王子を好きなように見えなかったし、音沙汰のないラルフ王子も、アイリーンを婚約者として大事にしているようには見えなかった。
それでも、アイリーンは隣国へ嫁ぐことを受け入れていたし、きっとアイリーンが目の前からいなくなれば、この不毛な想いにも決着が着くと思っていた。
それが覆されたのは、二年前。
ステラが奇跡の力を発現し、聖女候補として大神殿に入ったのとほぼ同じ頃。
「アイリーンが嫁ぐまで五年ないのか……。寂しくなるな」
ウィリアムの剣術訓練を見に来た国王陛下に、不意に背後から声を掛けられた。
目の前にいるのはウィリアムなのに、アイリーンの話……?
と呆気に取られ、思わず姿勢を崩したまま振り向いてしまった。陛下の背後に控える父に睨まれて、慌てて姿勢を正した。
「ラルフ殿下は、アイリーンを幸せにしてくれるかな。政略結婚とはいえ、全く情がないのも虚しいものだ」
国同士の契約である婚約だ。こんな話を俺に聞かせて、どんな意見を求めているんだ……? と戸惑った。
陛下は、ラルフ王子からアイリーンに便りも贈り物もないことを、当然知っていたのだ。娘が蔑ろにされる事に抗議することも出来るが、下手すれば外交問題にも波及する。
「恐れながら、アイリーン様は、明るく素直なお人柄です。コルド王国でも、広く民衆に受け入れられるかと……」
「だと良いな。とはいえ愛娘だ。政略上、問題がなければどこぞの公爵家にでも降嫁させて、いつまでも手近に置いておきたいのも親心よ」
「…………」
「戯言だ。聞き流しておくれ」
目を丸くする俺に、ウィリアムそっくりににやりと笑ってみせ、ひらひらと手を振って、陛下は俺から離れて行った。その後ろ姿を、見えなくなるまで立ち尽くして見つめた。
陛下は、戯言と称して、本音は「どこかの公爵家に降嫁させて手近に置いておきたい」と。
コルド王国との婚姻は、あくまで協定の外で、協定による絆を強化する為のものに過ぎない。二人の婚約が流れたとて、協定に違反するものではないのだ。
父が話した訳ではあるまいが、陛下にも俺の気持ちなんてお見通しなのだと分かって、恥ずかしくなる。
氷の貴公子なんて、下らない渾名が嘘みたいに、顔が上気するのが分かった。国王陛下自ら、俺を焚き付けてくるとは。
こうして俺が馬鹿みたいに心を掻き乱されるのなんて、アイリーンの事くらいに決まっている。
アイリーンの事を気にも掛けない王子風情に、アイリーンを惜しげもなく持って行かれて、どうしてそれで良いと思っていたんだろう。
コルド王国との婚姻なんて、いつか生まれる王女をウィリアムにでもくれてやる。
そこから、自分がどう足掻けばいいのか考えた。協定関係の強化には、アイリーンの輿入れ以外に何があればいいのか。形振りは構っていられない。自分の持つ僅かな力と、公爵家の威を借りながら考えた。
そして、あと少しなんだ。あと少しで俺の足掻きが報われるかも知れない。
アイリーンはもしかしたら、少しくらいラルフ王子を好ましく思っているかも知れない。
「ラルフ殿下からなら、何を贈られても嬉しい」という言葉には、正直衝撃を受けた。もしかして、彼女は王子に愛されることを望んでいるのかもしれない、と考えると、足元が昏くなったようにも感じた。
でも、今はまだそれでも構わない。あの王子よりも、俺の方がずっと、一生だってアイリーンを大切に想える自信がある。
それなのに、どうしてアイリーンは、こうしていとも簡単に、自分の命すら投げ出してしまえるんだろう……。
* * *
アイリーンの隣には姉セリカがいる。
姉は何か言い掛けて、執行部にいる俺達を見た。
姉の視線を受けて、ウィリアムが立ち上がる。
「行こう。思ってた展開と違うけど、どの道、今日だと思ってたんだ」
ウィリアムの言葉に頷き、俺は彼とは別れ、アイリーンの侍女を探す。
アイリーンは、落胆するでもなく、ただ平然としてそこに立っていた。その目は真っ直ぐにすっきりと澄んでいる。
アイリーンの奴、もしかしてだけど、自分が崇拝する物語の大役だとでも思って、あっさり処罰を受け入れたんじゃ……。有り得る……。
でも、そうはさせない。
「お待ち下さい」
突然の事態に、アイリーンを拘束すべきか否か戸惑う生徒たちの前に、ウィリアムが出た。
「ウィリアム、何だ」
「兄上こそ、何もしていないという姉上の言い分は無視ですか」
「アイリーンは罪を認めると言った」
「言っておりません。あくまで、処罰に従うと言ったまでです」
「詭弁だな」
「事実です」
背で言えば二十センチは高いレオナルド殿下から、ウィリアムがアイリーンを庇うように立ち、真っ直ぐ見据える。
アイリーンはと言えば、不意に始まった兄弟の睨み合いを、きょとんとして見つめている。
本当に、このいざこざのメインキャストだけ見たら、ただの兄弟喧嘩に見える。ステラとロゼッタを連れて、王宮でやれ、と言われそうだ。俺だってこんな大勢の前での立ち回りなんて嫌だ。王宮に行きたい。
「ステラ・コリンズさん。今から貴女の証言のいくつかを覆していきます。少々他の生徒にも飛び火しますが、悪しからず」
と、ウィリアムが口を歪めて不敵な笑みを見せると、ステラも、他の生徒も、レオナルド殿下ですら、一瞬硬直した。
やっぱりウィリアムは悪魔だ。
そうして、俺の合図でウィリアムの斜め後ろに現れたのは、アイリーンの侍女ミア。
彼女が持つ数冊のノートを見て、「ちょっと……」とか「え? 何で?」とか呟きながら、アイリーンが青褪める。
ウィリアムは、ミアから数冊のノートを受け取ると、
「これは、姉の日記です」
と、容赦なくばさばさと広げ、読み上げていく。
その背後で、「ああーっ、やめてー」と叫び出しそうなアイリーンの口をミアが後ろからその手で塞ぐ。
「『八月七日、ステラ様の面会に行く。ステラ様は……』、あーこの辺はいいや。『差し入れを準備したいと神官の方にお話ししたところ、珈琲、紅茶、チョコレートは禁忌とのこと』。神官の名前も言いましょうか? ロワール神官です」
ウィリアムがアイリーンの日記を読むと、ステラは多少顔色を悪くしたが、すぐに持ち直し反論してきた。
「そんなの、何とでも書けるじゃない。日記のどこが証拠になるのよ」
「裁判でも日記は立派な証拠の一つです。次行きます。『八月九日、ステラ様の面会へ。差し入れにクッキーを焼き、侍女長に相談してラベンダーティーを分けてもらう。ステラ様は今日もかわ……』あ、ここももういいや。貴女が雑草と仰ったのは、王宮で育てた侍女長お墨付きのハーブティーです。お言葉には気を付けて下さいね」
「え、ハーブティーを雑草って言ってたの?」「珈琲、紅茶が駄目なら仕方なくない?」と周囲の学生がこそこそ喋り始める。
そのうち、「それって嫌がらせじゃないよね」という声も聞こえ始める。次いで、「それって、アイリーン様は悪くないって事よね?」という声も聞こえる。アリア・オークシャーの声だ。そこから、どこからともなく、アイリーンに同情的な声が聞かれ始める。
アイリーンは、日記を手にするウィリアムを止めようとして、ミアに押さえ付けられている。結局拘束されているアイリーン。
「姉は、貴女を嫌うどころか崇拝していましたけどね。いつも可愛いとか、神々しいとか、胸焼けがする程絶賛でしたよ」
ぱらぱらと日記を捲りながら小さく溜息をついて、ウィリアムはそれを近くのセリカに渡す。「ちょっと!?」と真っ赤な顔をして怒るアイリーンをウィリアムが一瞥する。
おずおずと日記を広げたセリカが「あー……」と失笑している。
「次に入学祝いのペンでしたっけ。兄上は去年の春、三人に入学祝いを贈っています。姉と、貴女と、ロゼッタ嬢です。購入したのは三番街のカタリナ雑貨店で特注品。贈ったものは、姉と貴女にペンのセット。ロゼッタ嬢に鞄です」
ウィリアムが二冊目の日記を開きながら続ける。
「えっ。確かロゼッタ様も同じペンを……」
アイリーンが驚いたように思わず声を上げる。それをすぐにウィリアムが遮る。
「ステラさん自ら差し上げたんですよね、ロゼッタ嬢に。姉は色違いで数本持っている。ロゼッタ嬢は一本、それで貴女が兄からの贈り物で、なくなったのは姉が持っている色だと言えば、周りは姉を疑う。馬鹿げた話です。ちょっと調べたら分かるのに」
ステラもロゼッタも、何か反論しようとして口を開いたが、間髪入れずにウィリアムが続ける。
「時間がないので次行きますよ。去年の親睦会でのドレスの切り込みですね。あの日、姉にそんな時間がなかった事は、僕もカイルも、ここにいる侍女のミアも証言できますが、庇っていると言われても困るので」
まさにそれを言おうとしたのか、ステラがぐっと息を飲むのが見えた。
「あの日、手伝いの侍女見習いが、赤いドレスを着た令嬢が控室から出てきたのを目撃しています。あの日赤いドレスを着ていたご令嬢の中で、マイラ・カーティス嬢のドレスに、この薄桃色のチュール生地がいくつか付着していたのを見付けました」
「……嘘よ! そんな物、分かる訳ないわ!」
不意に自分の名を出され、マイラが大きな声を上げた。
「カーティス家出入りのクリーニング業者に行けばすぐでしたよ。ちなみにあの日、赤いドレスを着ていた十五人、全て調べた上で言っています。あのドレスのチュール生地は、柔らかい上に幾重にも重なっていて、一太刀では綺麗に切りにくい。それで欠片が落ちたんでしょう。破れたドレスも、王宮で兄上が保管しています。同じ生地である上に、どの箇所の布かも分かっています。何か反論は?」
ウィリアムはあくまでずっと笑顔だが、有無を言わさぬ圧力がその目にはある。つくづく、敵には回したくない。
「じゃあいいですね。次です。ステラさん、破られたというのは、何の科目の教科書ですか?」
「……裁縫よ」
「確かに周りにもそう仰ってるみたいですね。姉さん、この本何か分かる?」
ウィリアムが、アイリーンの目の前に一冊の本を差し出す。アイリーンは依然、ミアに拘束されたままだ。
「……これは、オルガ先生の刺繍の図案集ね。確か十歳頃に使っていたわ」
「学園で使う裁縫の教科書の一つだよ」
「えっ?」
刺繍を趣味の一つとするアイリーンにすれば、かなり初歩的なんだろうな。まさか、教科書として使われているとは思わなかったらしい。裁縫の授業を選択していないアイリーンは、知る由もない。
「教科書が分からなかったからって、破っていない証拠にならないわ」
「確かに。でも、姉さんにすれば、嫌がらせとしての効果は減るよね。ああ、ちなみにこの本、貴女のです。教室に置きっぱなしでしたよ。僕が直々に王立図書館の修復師に依頼して、修復してもらっておきました。ついでに、この本から見つかった指紋は一人分です。きっと貴女自身のでしょうね」
「指紋……?」
「ご存知ないですか? 指に入った皺も皮膚の紋様も、人それぞれに違うものなのだと。小麦粉と刷毛があればすぐに調べられます。まあ、姉上の受け売りですけど」
最早、ステラだけではない。ロゼッタもレオナルド殿下も、アイリーンですらも圧倒されている。教室の教科書を持っていくって、それって窃盗じゃない? とは、誰も突っ込めない。
ウィリアムは手を緩めない。
「ただ、階段から突き落とされそうになった、だけはそれじゃ済まされません。兄上が仰るように、場合によっては、聖女候補を亡き者にする、死罪相当の蛮行です」
「…………」
「それをご存知で、姉上に罪を擦り付けたとなれば、今度は貴女が、王女誅殺を企てたとされてもおかしくないです」
ウィリアムの顔から、すっと笑みが消えた。いくつもの書類を手に掴んだ腕を組み、少し顎を上げ、ステラを見下ろすように見据える。男にしては小柄な癖に、こちらまで見下されているような気になる。
対峙するウィリアムの変化に、ステラが思わずきゅっと唇を噛んで、後退りしそうになる。
「その上で聞きます。貴女は、本当に姉上に階段から突き落とされそうになったんですか?」
もしもここで、やはりアイリーンがやったと断言されれば、次の手に出なければならない。
どう出るか、とステラの答えを待つ。
しかし、ステラはそれに答えず、ただウィリアムから視線を逸らし、救いを求めるように彼女を見た。




