その日の前に
蝉の声と眩しい日光が降り注ぐ並木道。背中からは汗が絶え間なく流れているけれど、足取りは軽くて。カラッとした風が、心を軽やかに運んでくれる。
「奈月、こっち」
大学の図書館。長テーブルの片隅で、美幸が小さく手を振る。
「おはよう」
私も小声で返して、向かいの席に座る。美幸は既に視線を本に戻している。私は荷物を置いてから、そっと席を立つ。
本棚に並ぶ無数の本から、卒業論文に使えそうな文献を何冊か手に取る。席に戻る前に、小説の文庫本コーナーに立ち寄る。
前から読みたいと思っていた本が返却されていた。手に取って、少しだけ読んでみる。
彼は、どんな本を読むのかな。
ふと、思う。
今まで、何度か映画は観に行ったけれど、本の話はあまりしたことがない気がする。私が無意識に、話題として避けていたのかもしれない。でも。それって、私の勝手な線引きで。彼に嫌だと言われたわけでもないのに。
聞くことが、彼を傷付けることになるのか。
聞かずにいることで、彼を傷付けてしまっているのか。
私には分からないけれど。
やっぱり。伝えないと、分からないことも多いから。
……今度、聞いてみよう。
小さく頷いて、本を閉じた。
「頭使うとお腹空くねー」
一歩先を歩く美幸の三つ編みが、ポンポンと跳ねるように揺れている。
「奈月はお米と麺と、どっちがいい?」
「美幸の好きな方でいいよ」
「じゃあパスタね」
ツヤツヤな彼女の髪が日光を反射して。その眩しさに、目を細める。
彼女みたいに……
何度も思ってきたことを。
もう知ってるよ、と。風がさらっていく。
「よかったね、花火、彼と一緒に行けることになって」
カルボナーラの卵をくずしながら、美幸が呟く。
「うん」
私もたらこクリームをパスタに絡ませながら応える。
「浴衣、着て行ったら? 可愛いやつ、持ってたよね」
「……うん」
パスタを一口食べると、大葉の爽やかな香りが鼻を抜けていく。
「でも、浴衣は、やめとこうと思ってる」
「なんで?」
彼女が珍しく驚いた表情を見せる。
「動きやすい方が、いいかなと思って」
「……そっか」
彼女が、うんうんと頷く。
「じゃあさ、前に着てた白のワンピースとかは? 帰り、家まで来てくれるなら、それに合いそうなアクセ、貸してあげるよ」
「ほんと? ありがとう」
「奈月」
「ん?」
「いい顔してる」
「え?」
美幸がパスタを食べる手を止める。
「本当はさ、ちょっと心配してたんだ」
「……え?」
私も、手を止める。
「彼と付き合い始めて。遠距離でしょ? 奈月がつらい思いばかりしてたらって」
「……」
「けど、彼もよくこっちに来てくれてるし。奈月が大事にされてるのは分かったから」
「うん」
「それに、奈月が彼を本気で想ってることも」
「うん」
「でもね、私は何よりも。奈月に幸せになってほしいの」
「美幸……」
「だから、いい顔をしてる奈月を見れて、安心した」
彼女がにっこりと笑う。
「あ、クリーム固まり始めてる!」
彼女が急いでパスタをほぐす。
「こっちも!」
私も慌ててフォークを動かす。
「美幸」
「ん?」
「ありがとう」
「何のこと?」
彼女がパクッとパスタを頬張りながら、微笑む。
「いっぱい。本当にありがとう」
自分も笑顔になっていることが分かった。




