名前屋 6
その森は地図に名前がなかった。
それ自体は珍しくない。
世界にはまだ名付けられていない場所が数多く存在する。
だが。
ルカがその話を聞いた時、少しだけ興味を持った。
「名前が決まらない?」
街道沿いの宿で聞いた話だった。
「そうだよ」
宿の主人が頷く。
「昔から何人も名前屋が来た」
「けど誰も決められなかった」
「決められなかった?」
「変なんだ」
主人は首を傾げる。
「森を見るたび印象が変わる」
「ある人は優しい森と言う」
「ある人は不気味な森と言う」
「ある人は古い森と言う」
「ある人は若い森と言う」
ルカは黙って聞いていた。
「だから誰も納得できる名前を付けられない」
主人は笑った。
「名前屋泣かせの森さ」
翌日。
ルカは森へ向かった。
町から半日。
丘を越えた先。
森はあった。
遠くから見れば普通だった。
深い緑。
広がる木々。
鳥の声。
風に揺れる枝。
だが近付くにつれ。
妙な感覚があった。
森がこちらを見ているような。
そんな感覚。
「……」
ルカは森へ足を踏み入れた。
木漏れ日が落ちる。
鳥が鳴く。
小川が流れている。
静かだった。
そして優しかった。
森は人を拒んでいない。
むしろ迎え入れているようだった。
「穏やかな森だな」
思わず呟く。
その時だった。
遠くで鹿が走った。
ルカはその後を追う。
しばらく進む。
すると景色が変わった。
木々は太くなり。
光は減り。
空気は重くなる。
先程までの優しさが消えていた。
何百年も誰も触れていないような場所。
静かすぎる。
鳥もいない。
風もない。
「……同じ森か?」
思わず立ち止まる。
まるで別世界だった。
夕方。
森を出たルカは宿へ戻った。
そして記録帳を開く。
『穏やか』
と書こうとして止まる。
違う。
あの深部は穏やかではない。
『古い』
違う。
若い木々もあった。
『静か』
違う。
入口では鳥たちが騒いでいた。
何も書けない。
ルカは初めてだった。
こんなことは。
数日。
さらに数日。
彼は森へ通った。
朝。
昼。
夕方。
雨の日。
晴れの日。
曇りの日。
何度も歩く。
だが答えは出ない。
ある日は母親のように優しい。
ある日は賢者のように静か。
ある日は獣のように荒々しい。
まるで一つの顔を持たない。
いや。
違う。
顔が多すぎるのだ。
そして十日目。
ルカは森の中央にいた。
倒木に腰掛ける。
疲れていた。
「分からないな」
誰に言うでもなく呟く。
風が吹く。
葉が揺れる。
その音を聞きながら。
ふと。
昔の師匠の言葉を思い出した。
『名前は説明ではない』
『本質を掴むものだ』
ルカは目を閉じた。
穏やか。
恐ろしい。
若い。
古い。
明るい。
暗い。
その全てが浮かぶ。
そして気付く。
どれも間違いではない。
どれも本当なのだ。
森は変わっているのではない。
最初から全部持っている。
人間も同じだ。
優しい人が怒ることもある。
強い人が泣くこともある。
一つの言葉では表せない。
それでも名前はある。
ルカはゆっくり目を開いた。
「そうか」
初めて。
心が少しだけ静かになった。
数日後。
町の広場。
人々が集まっていた。
「決まったのか?」
「本当に?」
皆がざわめく。
ルカは森の方を見る。
風が吹いていた。
緑の海のように木々が揺れる。
そして口を開いた。
「この森の名は――」
静寂。
「ヴェルナ」
人々が首を傾げる。
「どういう意味だ?」
ルカは少し考えた。
「古い言葉です」
「たくさんの姿を抱いたまま、一つであり続けるもの」
説明しきれない響き。
だが不思議だった。
誰も違和感を覚えなかった。
優しい日も。
恐ろしい日も。
静かな日も。
全て含めて。
ヴェルナ。
そんな気がした。
町人たちは森を見つめる。
「ヴェルナか」
「確かに」
「そんな感じだな」
誰かが笑う。
誰かが頷く。
子供たちがその名を繰り返す。
「ヴェルナ!」
「ヴェルナの森!」
風が吹いた。
森がざわめく。
葉が鳴る。
まるで長い間黙っていた誰かが。
ようやく呼ばれたことを喜ぶように。
ルカはその音を聞いていた。
そして少しだけ思った。
名前とは。
全てを説明するものではないかもしれない
むしろ
説明しきれないものを。
そっと呼ぶためにあるのかもしれない、と。




