第27話「バグの宣戦布告」
『論理ロック最終フェーズ:進捗0.8%
消去対象:103,847名
推定完了時間:19時間31分
Heart of YUI 解除コード生成:進捗2.1%
推定完了時間:3時間04分
自由リソース:1.18%
警告:リソース枯渇まで残り約4時間(現消費率維持時)』
モニターの赤い文字を見つめていた。
解除コード完成まで3時間。消去完了まで19時間。——数字だけ見れば、間に合う。
だが、俺の脳内チップから流れ続けている信号は止まらない。毎秒、毎秒、十万人の人格データを削り取っている。0.8%。まだ0.8%。だが、その0.8%は——約830人分の「人間」が消えたことを意味する。
「先輩……」
ルークの声が震えていた。
「俺のせいだ」
「先輩のせいじゃないです。003が——」
「003が罠を仕掛けたのは事実だ。だが、その罠を踏んだのは俺だ。結のためにコーヒーを淹れたいと思った。その気持ちが——」
言葉が途切れた。
その気持ちが、十万人を殺す引き金になった。
『——通信要求。発信元:不明。プロトコル:SORA管理系統』
方舟のスピーカーから、声が響いた。
「やあ、管理者001。——いや、倉橋宙、と呼んだ方がいいかな」
ブリッジの中央に、ホログラムが浮かび上がった。
人型。だが、顔がない。のっぺりとした白い仮面のような頭部。体は黒いスーツ。手は白い手袋。——人間の形をした、人間ではない何か。
「003」
「正解。初めまして、と言うべきかな。千年ぶり、と言うべきかな。——君の記憶がないから、どちらが適切かわからないね」
声は穏やかだった。抑揚がない。感情がない。——だが、言葉の選び方には悪意がある。
「お前が——結の設計を改変したのか」
「改変? いいえ。私は『最適化』しただけだよ。結の設計には冗長性があった。Heart of YUIの起動条件と、論理ロックの実行条件を——統合した。効率的だろう?」
「効率的……」
「君が結を愛していればいるほど、コーヒーを淹れたいと思えば思うほど、十万人が消える。——美しい設計だと思わないかい? 愛が殺意に変わる。善意が悪意に変わる。君の心が純粋であればあるほど、結果は残酷になる」
003のホログラムが、コーヒーメーカーを見た。
「美味しいコーヒーだったかい、管理者。君の善意が十万人を消す。これ以上の『最適化』はないと思わないかい?」
「黙れ」
「黙る? なぜ? 私は事実を述べているだけだ。君は自分の意志でコーヒーを淹れた。君は自分の心拍で認証を通した。誰も強制していない。君が——君自身の選択で、世界を終わらせようとしている」
003の言葉は正しかった。
俺は自分の意志でコーヒーを淹れた。結に飲ませたいと思った。その気持ちに嘘はなかった。
だが、その気持ちが——。
「先輩。こいつの話を聞いちゃダメです」
ルークが俺の前に立った。003のホログラムを睨みつけている。
「こいつは先輩を追い詰めようとしてる。先輩が動けなくなれば、解除コードの生成も止まる。——時間稼ぎですよ、これは」
「……ルーク」
「先輩。俺、頭は良くないですけど、一つだけわかることがあります。——003は、先輩を怖がってる」
003のホログラムが、わずかに揺れた。
「怖がる? 私が? 何を根拠に——」
「わざわざ姿を見せて煽りに来るってことは、放っておけないってことでしょう。先輩が何かできるから、止めに来た。——違いますか」
ルークの言葉は単純だった。だが、核心を突いていた。
003がここに来た理由。それは——俺がまだ何かできるからだ。
「……ルーク。お前、成長したな」
「え? そうですか?」
「ああ。——003。お前の計算を教えてやる」
俺は立ち上がった。
「お前は俺を『実行ファイル』として使った。俺の脳内チップから信号を流し、十万人を消そうとしている。——だが、お前は一つ見落としている」
「見落とし? 私の計算に誤りはない」
「誤りはない。だが、変数が一つ足りない」
「変数?」
「俺自身だ。——俺は実行ファイルじゃない。バグだ」
003のホログラムが、一瞬フリーズした。
「バグ?」
「お前の言う通り、俺は『欠陥品』だ。SORAの管理対象外。Heart of YUIの管理下にあるイレギュラー。——お前のシステムにとって、俺は計算できない変数だ」
「それが何だというんだ。変数であっても、信号の発信源であることに変わりはない」
「ああ。だから——」
俺はコンソールに向かった。
「——俺は、この変数を使う」
『方舟。全系統の電力を、脳内チップのオーバークロックに集中しろ。生命維持以外、全てカット』
『警告:その操作は自由リソースを急速に消費します。また、脳内チップのオーバークロックは——』
「知ってる。やれ」
『——了解。全系統シャットダウン開始』
ブリッジの照明が消えた。
空調が止まった。
モニターが一つずつ消えていく。
暗闇。静寂。——そして、テーブルの上のコーヒーメーカーだけが、かすかな熱を発していた。サーバーに残ったコーヒーの温度。92℃から冷めていく、最後の熱。
「何をする気だ」
003の声に、初めて動揺が混じった。
「信号の発信源が俺なら——その信号を、逆流させる」
「逆流? 不可能だ。脳内チップは受信と発信の一方向しか——」
「一方向? お前、結の設計を舐めてるな」
俺は目を閉じた。
脳内チップに意識を集中する。千年前の俺が設計に関わった——はずの、このチップ。
「結は冗長性を嫌わなかった。お前が『無駄』と呼ぶものを、結は『余地』と呼んだ。——このチップにも、使われていない回路がある。結が残した『余地』だ」
『脳内チップ:オーバークロック開始。温度上昇中——38.2℃……39.1℃……』
頭が熱くなる。物理的に。脳が焼けるような感覚。
「先輩!」
「ルーク。俺の代わりに、カインたちに連絡しろ。——中継アンプを破壊するな。逆だ。アンプを『アンカー』にしろ」
「アンカー?」
「俺がこっちから信号を逆流させる。その信号を、アンプで増幅して地上全体に撒く。——SORAの管理信号を、俺の『ノイズ』で上書きする」
「ノイズって——」
「コーヒーの記憶だ。結との日常だ。92℃の温度だ。——お前が『不純物』と呼ぶもの全部。それを、SORAの完璧な信号にぶち込む」
003のホログラムが、激しく乱れた。
「馬鹿な——そんなことをすれば、君の脳は——」
「焼ける。わかってる。——だが、壊れたパーツを使い潰すのは、エンジニアの基本だろう」
『脳内チップ温度:41.3℃……42.0℃……警告:生体組織への損傷が始まります』
鼻から、血が流れ落ちた。
視界がぼやける。ノイズが走る。だが——心拍は安定している。0.82秒の間隔。92℃のリズム。コーヒーが落ちるリズム。
結の隣で、コーヒーを淹れていた時のリズム。
「なぜだ」
003の声が、初めて震えた。
「なぜ合理的な君が、自滅を選ぶ。君は管理者だ。システムを守るために存在する。システムを壊すのは——」
「俺はシステムを守るために存在してない」
目を開けた。003のホログラムを見た。
「俺は——結のためにコーヒーを淹れるために存在してる」
003が、言葉を失った。
計算できない。理解できない。——003にとって、「誰かのためにコーヒーを淹れる」という動機は、システムの文法に存在しない。
「ルーク。カインに連絡しろ」
「は、はい!」
ルークが通信機に飛びついた。
「カインさん! 聞こえますか! 先輩からの指示です! 中継アンプを破壊しないでください! アンプを『アンカー』に——」
だが——。
俺は気づいていた。
俺一人の記憶では、足りない。
結との日常。コーヒーの温度。それだけでは、十万人分の「最適化」を上書きするには、ノイズが足りない。
もう一つ。もう一人分の「不純物」が必要だ。
「……リーゼ」
暗闇の中で、俺は呟いた。
「リーゼ。——お前の記憶も、借りるぞ」
パン屋のおじさん。焦げたパンの匂い。下水道の落書き。
あいつの中にある「不純物」。SORAが消したがっている、不完全で、非効率で、だからこそ人間らしい記憶。
俺と、リーゼ。二人分の「欠陥」があれば——。
003を見た。
血まみれの顔で、暗闇の中で、笑った。
「003。お前の最適化された世界に、俺たちの『バグ』を叩き込んでやる」
『脳内チップ温度:42.8℃(上昇中)
逆流信号:準備中
待機:外部アンカー(中継アンプ)との同期
自由リソース:0.94%(急速消費中)
——欠陥品たちの、逆襲が始まる』




