灰色の流星①
天谷邸に来て三日目の朝を迎えた。
食卓で他の従業員ら数名と朝食を摂っていると、そこに悠司が現れた。彼は俺と俊平を呼ぶと、あとで会議室に来いと伝えて、席に座ることもなく部屋を出ていった。
いわれたとおりに会議室にいくと、食卓にいなかった琴乃が優雅にティーカップを啜っていた。入口付近では昨日と同じ位置に悠司が立っており、改めて簡素な朝の挨拶を交わした。
俺と俊平が椅子につくと、部屋の隅にいた鏡花が近づいてきて、ソーサーとカップを置いて両手で丁寧にコーヒーを注いでくれた。彼女の服装は今日もメイド服で、こんな風にコーヒーを淹れられていると、どちらが本業なのかあやしく思えてくる。
「上倉くんはブラックでいいんでしたよね?」
「そうだな。何も入れなくていい」
鏡花は軽く頭を下げて俊平のほうへ注ぎに向かう。その光景を眺めつつ、カップを手にとって湯気の立つコーヒーを軽く一口啜った。
ほのかな酸味と香ばしい匂いが嗅覚と味覚を刺激して、喉を流れる心地の良い苦味に、心がリラックスする。
コーヒーを飲んだのは昨日が生まれて初めてだった。好みでミルクや砂糖を入れることは知っていたが、昔読んだ小説の主人公がブラックを好んでいたのを思い出して、そのまま飲んでみることにした。
正直苦かったが、決して不快な味ではなく、強烈な味と特有の香りによって脳が落ち着く感覚を知った。たぶん俺は、苦いほうが合っているのだと思う。ミルクや砂糖を入れて苦味を抑える必要はないと、その一回で判断した。
琴乃のソーサーの横には、空のスティックシュガーが三本も置いてあった。もはや別の飲み物だと思うが、彼女はなんともおいしそうに、その甘ったるそうな飲み物を飲んでいる。
俺がカップを置くと、それを待っていたかのように悠司は胸の正面で両手を合わせた。
「諸君、改めておはよう。昨晩はしっかり眠れたかな? 熟睡することは大切だ。でもね、夢の世界に未練を残すのはいけないよ。それは深層心理が創造した幻だ。自分にとって都合の良いことなんて現実ではそうそうない。何かもに失望していたほうが、万事を自らで解決せねばならないと使命感が燃えて良い結果をもたらすことだろう。ああ、ちなみに私は昨晩AMYサービスが世界有数の超大企業に成長する夢を見たよ。千人を超える従業員を集めた会合の壇上で演説をしていたんだけどね、喋り終えた際に足を踏み外して、そこで目が覚めてしまった。いやぁ、しかしいい気分だった。叶うなら、もうちょっとだけ夢の世界で暮らしていたかったね」
「社長、現在のAMYサービスの従業員は何名か、覚えてるかな?」
モニターの前を逍遥しながら惚けた発言をしている悠司に、俊平が涼しげに尋ねた。
「十名だよ。そう心配しなくとも現実と理想の区別はついてるって。その十名のなかでも腕利きの三名を選んで呼び出したんだ。鏡花に琴乃くんに俊平くん。おっと、そう不機嫌にならないでくれたまえ慧くん。別に君を評価してないわけじゃない。君は他の三人とは別枠だ。対フリーフロムの作戦においては、君の右に出る人材はいないからね。必須メンバーとさせてもらってるわけだ」
「道理だな。遠慮なく利用してくれていい」
「ふむ。利用という言葉は良くないね。我々は仲間だ。君を使い捨てにしたりはしない。君に力を貸してほしくて、君が力を求めているなら君を手伝いたい。わかるかな?」
「あ、ああ。わかった。言葉遣いには以後気をつけよう」
細かいことを指摘するものだ。
反発する気はないので、適当に首を縦に振っておく。
「そうよ。アンタたまに言葉遣いが失礼なんだから。ちゃんと気をつけなさいよね!」
離れたところから、間合いと不釣合いな大きな声が飛んできた。てっきり自分を叱責しているのかと思ったが、どうも悠司に同調して俺を非難しているらしい。
俺と目が合って勝ち誇った表情を見せると、琴乃は悠司に顔を向けた。
「それで、あたしたちを呼び出した理由って何なのよ。次の任務でも決まったの?」
「決まったんじゃなくて、これから決めようと思ってるんだよ。今日はその会議だ。それじゃあ鏡花、例の地図を開いて――」
指示している途中で、悠司は着ているジャケットの胸ポケットを怪訝そうに見た。そこに収められている携帯電話が、微かに振動していた。
電話に出るのかと思ったが、悠司は着信を放置して鏡花にパソコンを操作するよう催促した。
「出なくていいのか?」
「あとでかけ直すよ。私はね、会議中は他の電話には出たくないんだ。邪魔だからね」
――なんて身勝手な理由だ。
緊急の連絡だったらどうするつもりか知らないが、そうだとしても俺に害はない。
他の者が誰も指摘しないことから、悠司が日常的にこういった対応をしているのだと察した。相変わらず妙な性格だ。
鏡花がパソコンを操作すると、モニター上に昨日と同じ地図が表示された。
違っていたのは、フリーフロムの構成員と遭遇したスーパーの丸が消えており、左上の幹線道路の脇に赤色のバツ印が加えられている点だ。
「昨日の偵察によって、敵の潜伏先を掴むことに成功した。地図上のバツ印がその場所だね。といっても、知らないのは琴乃くんだけか」
「でしょうね。にしても、なんだかあっさりしてるわね。なんでそんな簡単に知ることができたのよ?」
「奴らが行き着けの店に買出しへ来たところを、尾行して特定した」
「なにそれ。アンタが裏切ったって知ってるくせに、不用意にいつも利用してる店に現れたってわけ? とんだ間抜け集団ね。脳みそ機能してるのかしら」
琴乃が呆れるのも自然な反応だ。内情をある程度知っている俺に裏切られたというのに、警戒心があまりにも薄すぎる。
俺一人が離反したところで脅威ではないと軽視してくれたのだろうが、こんなにも早く墓穴を掘ってくれるとは望外だ。
「油断大敵だよ。たとえ彼らの頭がわるくとも、我々にとって脅威であることに変わりはない。我々が厄介に思ってるのは彼らの個々の能力ではなく、その量だ。人数がいればいるほど、行動の選択肢は増える。そのなかで一番選ばれやすく、かつ最も都合が悪いのは、囮を立てての逃亡だ。ここで逃げられると、また振り出しに戻っちゃうからね」
「追い込まれれば、少なくともボスは逃げるだろうな。あの男は何度もその手で生き延びてきた。安全な場所にこもり、味方が不利になれば囮を使って真っ先に逃げるのが奴の常套的なやり方だ」
「上倉も囮にされたんだったね」
「それを利用して私たちの仲間になったんですから、上倉くんはすごいです」
「身を守るための囮に牙を剥かれるなんて、藤沢って男も大概ね。ほんと、数が多くなかったら虫けら同然だわ」
同僚たちは三者三様の意見を述べる。
「だが、数が多いほど厄介なこともない。殲滅作戦を組むのなら、ボスが逃げられないよう手をまわさなくては駄目だ」
「根絶やしにできれば文句なしだね。慧くんも、残党から執拗に追いまわされるのは嫌でしょ?」
「あたりまえだ。そのために、奴らの戦力を一箇所に集めさせているんだからな。あとは叩くタイミングの問題だ。全戦力の結集を確信できる指標でもあればいいんだが」
「それは別にいらないよ。我々がタイミングを計らずとも、準備が整ったら向こうから教えてくれるだろうからね」
「初耳だな。工作員でも潜りこませてるのか?」
「いやいや、部下にそんな危ないことをさせたりしないって。そうじゃなくて、フリーフロムが我々を潰すつもりでいるなら、ここに来訪するのを待てばいいんだよ。彼らは我々に見合う戦力、すなわち組織の総力をもって挑んでくるだろうからね。そこを返り討ちにして終わりって算段だ」
「あえて後手にまわることを良しとするのか。随分と危険な考えだな」
「ところがこの会社には、そんな危険が寝食よりも大好きな変態ばかりが揃っている。敵地に赴く手間も省けるから、我々としては襲撃大歓迎というわけだ。そうだろう?」
モニターを背にして、悠司は片手を腰にあてて俺以外の三人へ順番に熱い視線を送った。
「私は寝ることのほうが好きですね。その次は食べることです。危険なことは、それほど好きではありません」
「僕も危険なのは好みじゃない。僕を必要としてくれる人の力になりたいだけさ」
「いくら宝典魔術師がいるといっても、そんな単細胞の集合体、危険でもないんでもないわ。来るなら相手してやらないこともないけど、私が出るまでもないでしょ」
上司の期待に応えるつもりのない本音を、部下たちは無遠慮に吐露した。
「どうだい? 頼もしい仲間だろう?」
「社長を恐れないあたり、度胸はあるのかもしれん」
「そうだろう、そうだろう。うんうん。君もこういった態度が取れるようになれば一人前だ。だけどね、私としては、君にはずっと半人前でいてほしいと願っているよ」
「善処する」
そう答えたとき、悠司の胸ポケットがまたもや振動した。
会議は終わったように思えたが、悠司は着信を再び無視した。
「帰るまでを旅行というなら、解散して片付けるまでが会議だ。さ、鏡花、パソコンを落としてくれ。俊平くん、琴乃くん、慧くんもおつかれさま。我々は近日中に敵組織の奇襲を受けるだろう。その折には、みんなよろしく頼むよ。それじゃあ解散だ。各自持ち場に――」
戻ってくれ、と続いたであろう言葉が途切れ、会議室の扉の叩かれる音が聞こえた。
悠司は言葉を切って扉に近づき、数センチばかりドアを開いた。
廊下には神妙な顔をした同僚が立っていた。同僚は悠司に何事かを耳打ちをしているようだが、その声は小さく、会議室内から聞き取ることはできない。
「――わかった。伝えてくれてありがとう。君は戻ってくれたまえ」
悠司が軽く頷くと、廊下側から扉が閉められる。
閉まり切るのを待たずして、彼はパソコンの電源を落とそうとしている鏡花に目をやった。
「鏡花、モニターにテレビを映してくれ」
「はい。お待ちください」
指示を受け、鏡花は演台の下からリモコンを取り出し、モニターに向けた。
映像が、パソコンの画面からテレビのニュース番組に切り替わる。音声がミュートになっているため音は聞こえなかったが、報道されているニュースの内容を知るには、映像とテロップだけで充分だった。
画面に、記憶に新しい都市部の大型スーパーが映し出されていた。
その建物の一部から派手に火の手があがっており、画面右上に中継と書かれた映像のなかで、駆けつけた大勢の消防隊員が消火作業を行っていた。




