報復の産声
長距離用ライフルのスコープに映っていた人物が見えなくなり、銃杷から頬を離した。
引き金にかけていた指もはずして、私は肩の力を抜いた。
撃てなかったわけじゃない。弾丸は装填されているし、照準は彼の身体の中心を正確に捉えていた。あとは引き金さえ引けば、彼が次に瞬きをするより早く命を奪うことができた。
できた、はずだった。
撃てなかったんじゃない。撃たなかったのだ。
私の覚悟が足りなかった。彼を殺害する意志を固めたつもりだったのに、いざ生殺与奪を自由にできる権利を得たら迷いが生じた。
彼がもっと近づいてきたら感情を無視して撃てたかもしれないけれど、彼はまるでその境界線が見えているかのように、ぎりぎりのところで立ち止まった。
直立した彼は、私のほうを真っ直ぐに見ていた。肉眼では見えるはずがないから、偶然こちらに目を向けていただけだとは思う。逃げる際にも無用心に背を向けていたし、まさか私に狙われているとは夢にも思わなかっただろう。
それとも、見えていたのか。
私が撃ってこないことを確信して、わざと背中をさらしてみせたのか。
「……いいよ、慧。私も、こんな簡単に終わらせたくないからね」
ライフルをケースに戻して、蓋を閉めて肩に担いだ。
窓際から立ち去る前に、彼の逃げていった方角を眺めた。
木々が厚く重なっており、その奥に立っていたとしても、彼の姿を見ることはできなかった。
私は、彼を殺したら死ぬつもりだ。
あっさりと命を奪うことを躊躇したのは、自分の命が惜しいからなのかもしれない。
それとも……
……。
その疑問には、すぐには答えを出せそうになかった。
だから、先に別の問題と向き合うことにした。
慧と一緒に行動していた女性についてだ。
潜入任務にはおよそふさわしくない服を着ていた彼女は、いったい何者なのか。それを考えずにはいられない。
AMYサービスの青い服じゃなかったけど、慧と一緒にいたのだから構成員のはずだ。
そういえば、昨晩襲撃した際に似たような顔を見たような気がする。
あの女性は、慧とはどういう関係なんだろう。
私に代わる、慧の新しいパートナーなのか。
「新しい、パートナー」
考えただけで、無意識のうちに歯軋りしている自分がいた。鏡を見せられなくとも、自分の表情が醜く歪んでいることがわかる。
胸を圧迫する痛みを和らげようと、必死に声を絞り出した。
「……そんなの」
――ひどすぎる。
たった一日で、私の代わりを見つけたってこと?
私にとっての彼は、かけがえのない生きる理由だったのに……
彼にとっての私は、代役がすぐに用意できるほど軽いものだったってこと?
私が彼と歩んできた八年間はなんだったんだろう。
どうしようもない人生の中で、彼とすごした時間だけは温かな記憶なのに……この思い出は、全て偽りだったってこと?
幸せだったのは私だけで、彼には平凡な日々が流れていただけだったってこと?
でも、
「それでも、いい」
彼がたとえ私を捨てたとしても、別に構わない。
彼がどのように変わったとしても、私が彼に救われた過去は揺らがない。
彼には感謝している。
それはもう、一生を捧げても足りないくらいに。
私の人生は彼によって左右されてきた。
だから、私の人生を弄んだ彼を恨むことにも、等しく命を捧げることができる。
「次はないよ、慧」
私はガラスのない窓枠から離れて、廃ビルの階段を静かにおりていった。
◇◇◇
一階の広間から乾いた銃声が響いた。
聞こえた瞬間は全身の筋肉が強張ったけれど、すぐに事態を察した。
冷静な足取りで音の方角に歩み寄る。
額に穴を穿たれた男が倒れていた。
今朝、買い出しを命じられた男だった。許しを請う表情を顔面に貼り付け、男は絶命していた。
広間には他に、ボスと彼の雇った二人の傭兵と、もう一人の買い出し担当が立っていた。ボスの握る凶器の銃口からは、薄っすらと白煙が立ちのぼっている。
相方が射殺され慄く男の胸倉を、ボスが掴みあげた。
ボスの足元には、砕けた機械の破片が散乱していた。
「運がよかったな。てめぇの相方を殺して、私の怒りもだいぶ収まった。幸い、すぐに気づけたしな。バレてたらてめぇもあっちに送ってやるとこだ」
「す、すんませんボスッ! ま、まさか、待ち伏せされてるなんて思わなくてっ!」
「向こうには裏切り者のクソガキがいるだろうが。同じ店を使えば待ち伏せされることくれぇわかんだろ。てめぇは何を学んで生きてきたんだ?」
「で、でもっ! 慧は店を知らないはずだって、ボスがそういったじゃないすか!」
「ほう。おもしれぇこというじゃねぇか」
冷淡に応対したが、不意打ちのようにボスは部下の脇腹を殴った。まともに食らい、男は固い灰色の床を転がった。
ボスはふと視線を巡らして、私に気づいた。
途端、険しい表情が緩くなる。
「あ、千奈美ちゃ~ん。どうしたの? 見張りをしてたんじゃないの? もしかして飽きちゃった? そりゃあそうだよね。いくらなんでも、まだ敵がここを嗅ぎつけるには早すぎるもんね。でもさぁ、ちょっと困ったことがあってね」
「報告。もうバレてるよ。さっき敵がそこまで来てたから」
「……まさか、あのクソガキだったりしないよね?」
「二人いたけど、片方は慧だった。狙撃しようとしたけど、撃つ前に逃げられた」
正直に話して撃たなかった理由を尋ねられても面倒なので、適当に誤魔化しておいた。
ボスは無言のまま憤怒の色を濃くした。
脇腹を押さえてうずくまる男が、再び掴みあげられる。男の顔は血の気を失って青ざめていた。
ボスは懐から拳銃を取り出すなり装弾して、男の口に銃口を突っ込んだ。
「喜べ。やっぱてめぇは運がいい。いつもならもう引き金を引いてるとこだが、今日の私は寛大だ。最後のチャンスを与えてやってもいい。
てめぇが責任持ってあのクソガキを始末しろ。そうすりゃあ、てめぇのミスには目を瞑ってやる。難しいことじゃねぇ。あのクソガキは異能を持たねぇ普通の人間だ。呼び出して引き金を引いて、それで終わる。どうだ? やるか? それとも、ここで相方の後を追うか?」
男は必死の形相で顔を激しく横に振り、問いかけを拒んだ。
ボスは拳銃を男の口から引き抜いて、唾液にまみれたそれを部屋の隅に投げ捨てた。胸倉を掴む力を強くして、怯えた男の瞳を覗きこむ。
「よし、最後のチャンスだ。あのガキをおびき出す方法は考えてやる。装備も用意してやるが、殺し方はてめぇに任せる。いいな?」
「わ、わかりました。慧を殺せば、俺は見逃してもらえるんすね?」
「いったとおりだ。あとで詳しく話をしてやるから、クズの相方の死体を片づけとけ。あと、てめぇの汚ねぇ唾のついた銃も洗ってこい。撃ちたけりゃあ撃ってもいいぞ。撃てばどうなるかは、すぐにわかるだろうからな」
突き放された男は金縛りに遭っているように硬直していたが、ボスの雇う傭兵の鋭い眼光を浴びると、慌てたように動かなくなった同僚のもとに駆け寄った。
不機嫌に口唇を歪めるボスに、私は遠慮なく近づいた。
「ボス、慧を抹殺する件で提案したいことがあるんだけど」
「提案?」
意外そうな顔で聞き返してきたボスに、その内容を伝えた。
「――っていうのだけど、やっていい?」
「大胆な作戦を思いつくねぇ。でも、それならあいつが失敗しても安心だよ。よほど慧の裏切りが許せないんだね。私も同じ気持ちだよ」
「別に。単に私がやりたいだけ。じゃ、私も持ち場に戻るから」
「うんうん。引き続き監視よろしくね~」
――なにが『同じ気持ち』だ。気持ち悪い。
嫌悪感を抱かずにはいられない作り笑いに見送られ、私はまた階段をのぼり始める。
一段踏む度、私は慧と過ごした日々を思い出した。
そうすることで、彼に対する怨恨もまた一段ごとに深さを増していった。




