前編 本当に、婚約破棄してくださるのですか?
王立学院の卒業を祝う夜会は、王宮の大広間で開かれていた。
天井から吊り下げられた魔導灯が広間を照らし、正装した貴族の子息令嬢たちが、卒業を祝う言葉を交わしている。
その華やかな会場で、一人の青年が突然、声を張り上げた。
「エレオノーラ! 私は君との婚約を破棄する!」
広間に響き渡った声に、楽団の演奏が途切れた。
声の主は、ヴァルクハイム公爵家の嫡男、レオナード・ヴァルクハイムだった。
十九歳の彼は、金糸の刺繍が施された礼装に身を包み、隣には淡い桃色のドレスを着た少女を伴っている。
少女の名はミレーヌ・ロゼッタ。
男爵家の令嬢であり、レオナードが学院で親しくしていた相手だった。
その二人の正面に立っていたのは、アルヴェリア王国の第一王女、エレオノーラ・アルヴェリアである。
十八歳の彼女は、銀色の刺繍をあしらった青いドレスをまとい、普段どおりの落ち着いた表情で婚約者を迎えていた。
しかし、レオナードの宣言を聞いた瞬間、その表情が消えた。
「…………」
エレオノーラは口を開きかけたものの、言葉が出てこなかった。
胸元で重ねた両手が小刻みに震え、見開いた瞳には、次第に涙が浮かび始める。
隣に控えていた専属侍女のセシリアが、そっと声をかけた。
「……お嬢様」
エレオノーラは答えなかった。
ただ、目の前のレオナードを見つめ、何かを確かめるように唇を動かしている。
その姿を見た周囲の貴族たちは、顔色を変えた。
「王女殿下に向かって、何という無礼を!」
「公爵令息とはいえ、許される発言ではないぞ!」
「陛下がお認めになった婚約を、このような場で一方的に!?」
非難の声が広間のあちこちから上がる。
レオナードはそれらを聞いても、少しも怯まなかった。
むしろ、隣のミレーヌを守るように一歩前へ出て、胸を張った。
「私はミレーヌを愛している! 身分や立場よりも、真実の愛を選ぶだけだ!」
ミレーヌは感激したように彼の腕へしがみつく。
「レオナード様……! 私のために、そこまで……!」
「当然だ、ミレーヌ! 私はもう、自分の気持ちに嘘をつかない!」
レオナードはそう言い切ると、改めてエレオノーラへ視線を向けた。
彼女はまだ震えていた。
その目元には涙がたまり、今にも頬を伝い落ちそうになっている。
レオナードは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに表情を引き締めた。
「エレオノーラ。君が私を失って悲しむ気持ちは分かる。だが、私の心はもう決まっているのだ!」
「…………」
「どれほど私を愛していようとも、この決意だけは変えられない!」
エレオノーラの肩が、さらに大きく震えた。
それを見た貴族たちの怒りは、ますます強くなる。
「殿下があれほどお傷つきになっているというのに……!」
「誰か、王太子殿下へお知らせしろ!」
その声が上がった直後だった。
「知らせる必要はない!」
広間の入口から、鋭い声が響いた。
人垣が割れ、王太子が足早に入ってくる。
彼はレオナードとミレーヌを一瞥したあと、妹の姿を見つけて足を止めた。
震える肩、潤んだ瞳。
そして、何も言えずに立ち尽くすエレオノーラ。
王太子の表情が険しくなった。
「……レオナード。これはどういうことだ?」
「王太子殿下。私はエレオノーラとの婚約を破棄し、ミレーヌと結ばれることを決めました!」
「……そうか」
王太子は静かに答えた。
しかし、その声には怒りがにじんでいる。
「国王陛下とヴァルクハイム公爵が取り決めた婚約を、お前が勝手に破棄すると?」
「はい! 真実の愛の前では、家同士の取り決めなど――」
「黙れ!」
王太子の一喝に、レオナードの言葉が止まった。
「婚約を続けたくないのなら、正式な手順を踏めばよい。だが、お前は妹を大勢の前に立たせ、一方的に辱めたのだぞ!」
「私は、自分の気持ちを正直に伝えただけです!」
「それで許されると思っているのか!」
王太子は妹へ視線を向けた。
エレオノーラの瞳から、とうとう涙が一粒こぼれ落ちる。
それを見た瞬間、王太子は右手の手袋に指をかけた。
ゆっくりと手袋を引き抜く。
周囲の貴族たちが息を呑んだ。
「で、殿下……!」
「お待ちください! それは……!」
手袋を相手に投げつける行為は、正式な決闘の申し込みを意味する。
王太子と公爵家嫡男の決闘など、単なる個人同士の争いでは済まない。
しかし、王太子は止まらなかった。
「レオナード。お前には、妹を侮辱した責任を――」
「……レオナード様」
そのとき、エレオノーラが口を開いた。
か細い声だったが、不思議なほどはっきりと広間に響いた。
王太子の手が止まる。
エレオノーラは涙の残る瞳で、レオナードをまっすぐに見つめた。
「……レオナード様。本当に、撤回なさらないのですね?」
レオナードは、彼女が最後の望みを託しているのだと思った。
だが、ここで情けをかけるわけにはいかない。
彼はミレーヌの肩を抱き、力強く答えた。
「ああ! 絶対に撤回しない!」
エレオノーラの唇が震えた。
胸元で握り締めていた両手が、ゆっくりと持ち上がる。
そして。
「よかったぁぁぁっ!!」
王太子の手から、手袋が真下へ落ちた。
ぽとり。
広間が静まり返った。
エレオノーラは両手を胸の前で組み、満面の笑みを浮かべていた。
「本当に!? 本当に婚約を破棄してくださるのですね!? ああ、どうしましょう! こんなに嬉しいことってあるのかしら!」
「…………は?」
レオナードが間の抜けた声を漏らした。
ミレーヌも、彼の腕にしがみついたまま動きを止めている。
王太子は、何も持っていない右手を見下ろした。
それから、床に落ちた手袋を見つめる。
「……エレオノーラ?」
「お兄様! 聞いていらっしゃいました!? レオナード様は絶対に撤回なさらないそうです!」
「……ああ。聞いていたが……」
「よかったぁ……! 私、嬉しくて、涙が止まりません!」
エレオノーラは目元を押さえながら、幸せそうに笑った。
どうやら、先ほどから浮かべていた涙は悲しみによるものではなかったらしい。
王太子は妹を見つめたまま、しばらく口を開けなかった。
その隣で、セシリアが小さくため息をつく。
「……でしょうね、お嬢様」
彼女には心当たりがあった。
昨夜、エレオノーラの私室を訪れた際、机の上には王立魔導研究院の研究員募集資料が何枚も広げられていた。
今朝も王女は、募集要項と応募資格を熱心に確認していたのである。
セシリアは、なぜ今になってその資料を読み返しているのか不思議に思っていた。
しかし、婚約破棄の宣言を聞いた王女の反応を見て、すべて理解した。
王太子は、そんな侍女へゆっくりと顔を向ける。
「……セシリア」
「はい、王太子殿下」
「……私は今、何をしようとしていた?」
「決闘を申し込もうとなさっておりました」
「……そうだったな」
「……決闘は、不要ではございませんか?」
「…………」
「……そうだな」
「では」
セシリアは静かに膝を折り、床に落ちた手袋を拾い上げた。
軽く埃を払ってから、王太子へ差し出す。
「こちらをお返しいたします」
「……ああ」
王太子は手袋を受け取った。
しかし、広間中の視線が自分に集まっていることに気づき、手袋をはめ直そうとした手を止めた。
セシリアだけが、何事もなかったかのようにエレオノーラの傍らへ戻る。
「お嬢様。少々、お喜びになるのが早いのではございませんか?」
「だって、セシリア! これで私、王立魔導研究院に入れるかもしれないのよ!」
エレオノーラは嬉しそうに両手を握り締めた。
「ずっと憧れていたの! 研究設備も、魔導炉も、最新の測定器もあるのでしょう? それに、研究院の資料室には王宮にもない古い術式記録が保管されているそうなの!」
「存じております。昨夜も、そのお話を二時間ほど伺いましたので」
「そうだったかしら?」
「はい。夕食の時間を一時間過ぎても、お話が終わりませんでした」
セシリアは淡々と答えた。
エレオノーラは少しだけ頬を赤らめる。
「……ごめんなさい。でも、今度こそちゃんと準備するわ!」
「準備、でございますか?」
「ええ! 前に研究室へ三日間泊まり込んだときは、着替えが足りなくなって大変だったでしょう?」
「……そうでございますね」
「だから、今度は大丈夫よ。四日分の着替えを用意するもの!」
セシリアはしばらく王女を見つめた。
「……お嬢様」
「何かしら?」
「問題は、お着替えではございません」
「え?」
「三日間、まともにお食事を召し上がらず、ほとんどお休みにならなかったことでございます」
「……でも、研究が途中だったのよ?」
「途中でも、お食事と睡眠は必要でございます」
「……そうね」
エレオノーラは素直に頷いた。
しかし、その表情からすると、次に研究へ没頭した際も同じことを繰り返す可能性が高かった。
王太子は額に手を当てる。
「……お前は本当に、昔から変わらないな」
「お兄様?」
「いや、何でもない」
王太子はため息をついた。
妹が研究好きなのは、今に始まったことではない。
ただ、エレオノーラは第一王女としての責任をよく理解していた。
王家と公爵家の婚約も、自分に求められた役割の一つとして受け入れてきたのである。
研究院に入りたいという夢は持っていたものの、それを理由に婚約を解消してほしいと申し出たことはなかった。
誰かに研究を禁じられたわけではない。
彼女自身が、王女としての責任を優先してきたのだ。
だからこそ、今回の婚約破棄は思いがけない出来事だった。
エレオノーラは期待に満ちた目でセシリアを見つめる。
「ねえ、セシリア。研究院への応募書類、まだ間に合うわよね?」
「募集期間は確認しておりますが、その前に一つ申し上げなければならないことがございます」
「何かしら?」
「婚約は、まだ解消されておりません」
「…………え?」
エレオノーラの笑顔が止まった。
「……今、何と?」
「婚約は、まだ解消されておりません」
「……そんな」
エレオノーラは、先ほどレオナードに婚約破棄を宣言されたときよりも、はるかに深刻な表情になった。
王太子は思わず妹を二度見する。
「エレオノーラ。お前、さっきより落ち込んでいないか?」
「お兄様……。婚約破棄されたのに、婚約が解消されていないなんて……」
「……いや、それはそうなのだが」
セシリアは冷静に説明を続ける。
「今回の婚約は、国王陛下とヴァルクハイム公爵閣下の間で正式に取り決められたものでございます。レオナード様が一方的に宣言なさっただけでは、正式な解消にはなりません」
「……そう、なのね」
エレオノーラは肩を落とした。
その様子を見たレオナードが、ようやく口を開く。
「ふっ……。やはり君は、私との婚約が解消されないと知って安心したのだな」
「……え?」
「無理をする必要はない。私を失いたくないという君の気持ちは、十分に伝わっている」
エレオノーラは、レオナードを見つめた。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「……いいえ。そうではなくて……」
「分かっている。だが、私の決意は変わらない!」
「……あの、レオナード様」
「何だ?」
「今回の婚約破棄について、ヴァルクハイム公爵閣下はご存じなのですか?」
「父上? いや、まだ話していないが」
「…………」
エレオノーラは王太子を見た。
王太子も妹を見返した。
しばらくして、王太子が口を開く。
「……公爵を呼ぼう」
「お願いいたします、お兄様」
エレオノーラは、心から安堵したように頷いた。
◇
ヴァルクハイム公爵が会場へ到着したのは、それからしばらく後のことだった。
四十八歳の公爵は、王太子から事情を聞くと、最初は何かの間違いではないかと確認した。
しかし、息子が胸を張って同じ宣言を繰り返したため、事実を受け入れざるを得なくなった。
「父上! 私はミレーヌを愛しています! エレオノーラとの婚約を破棄し、彼女と結婚するつもりです!」
「……レオナード」
公爵は低い声で息子の名を呼んだ。
「お前が自分の結婚相手について意見を持つこと自体は、否定せん」
「では!」
「だが、なぜ私に相談しなかった?」
「それは……!」
「陛下と私が正式に取り決めた婚約だぞ。それを王女殿下の卒業を祝う席で、一方的に破棄すると宣言したのか?」
「真実の愛のためです!」
「……そうか」
公爵は一度、目を閉じた。
それから、傍らに控えていた家令へ顔を向ける。
「次男は今、どこにいる?」
「領都におります」
「呼び戻せ」
「かしこまりました」
家令は一礼した。
レオナードは、なぜ弟の話が出てきたのか理解できず、首を傾げる。
「父上? なぜ弟を?」
「……今は黙っていなさい」
「ですが!」
「黙りなさい」
公爵の声が一段低くなり、レオナードはようやく口を閉じた。
エレオノーラは、その様子を見ながら公爵へ向き直る。
「公爵閣下。少し、よろしいでしょうか?」
「……王女殿下。此度は愚息が、とんでもない無礼を働きました」
公爵が深く頭を下げる。
しかし、エレオノーラは穏やかに首を振った。
「レオナード様が、ご自分の望む方と結ばれたいとお考えになることまで、責めるつもりはございません」
「……殿下」
「望まない結婚を無理に続ける必要はないと思います。ですから、どうか婚約解消について前向きにお考えいただけませんか?」
公爵は驚いたように顔を上げた。
その隣で、レオナードが得意げに笑う。
「やはり君は、私のことを愛しているのだな!」
「いいえ。婚約は解消していただきたいです」
「なっ……!? エレオノーラ! 君は私を愛していないのか!?」
「……はい?」
エレオノーラは、本気で質問の意味が分からず首を傾げた。
「な、なぜだ!? 私は君の婚約者だぞ!」
「ですから、その婚約を解消したいと申し上げているのですが……」
「婚約者なのに、私を愛していないというのか!?」
「……レオナード様は、私との婚約を破棄してミレーヌ様を選ばれたのですよね?」
「当然だ! 私はミレーヌを愛している!」
「では、私も婚約解消を望んでおりますので、何も問題はございませんね」
「なぜそうなる!?」
エレオノーラは困ったように眉を下げた。
彼女としては、双方の希望が一致している以上、むしろ喜ばしい状況だと思っている。
しかし、レオナードは納得していなかった。
公爵が口を挟む。
「……レオナード。お前は今、何を問題にしているのだ?」
「父上! エレオノーラが私を愛していないと言うのです!」
「……お前は先ほど、そのエレオノーラ殿下との婚約を破棄すると宣言したのではなかったか?」
「それとこれとは別です!」
公爵は額を押さえた。
セシリアが静かにエレオノーラへ視線を向ける。
「……お嬢様」
「何かしら?」
「お話が通じておりません」
「……そうね。困ったわ」
王太子は腕を組んだまま、レオナードを見つめていた。
「……公爵。私も、少し理解が追いつかない」
「……殿下。私もでございます」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
しかし、レオナードはまだ納得していなかった。
「……待て、エレオノーラ! 婚約を解消すれば、私がこれまで受けていた待遇はどうなる!?」
「待遇、ですか?」
「そうだ! 王宮への出入りや、私のために用意されていた部屋、それに王宮行事への招待だ!」
エレオノーラは少し考えてから答えた。
「……正式に婚約が解消されれば、婚約者としての待遇はなくなると思いますけれど」
「なっ!? 部屋まで使えなくなるのか!?」
「はい。あのお部屋は、私の婚約者として王宮へお越しになる際にお使いいただくものですから」
「では、王宮の晩餐会は!?」
「公爵令息として招待されることはあると思いますけれど、私の婚約者としての招待はなくなりますね」
「王宮へ自由に出入りすることもできなくなるのか!?」
「これまでと同じようには、難しいと思います」
レオナードは愕然とした。
「そ、そんな……! 私は婚約破棄すると言っただけだぞ!?」
「……ですから、婚約を解消するのでしょう?」
「なぜ婚約を破棄しただけで、婚約者としての待遇まで失わなければならないんだ!?」
公爵は、今度こそ息子を見つめたまま動かなくなった。
「……レオナード。お前は、婚約者でなくなっても婚約者として扱われると思っていたのか?」
「当然でしょう、父上! 私はヴァルクハイム公爵家の嫡男なのですから!」
「……公爵家の嫡男であることと、王女殿下の婚約者であることは別だ」
「ですが、これまで認められていた待遇ではありませんか!」
「婚約者だから認められていたのだ!」
公爵の声が広間に響いた。
レオナードは納得できない様子で眉を寄せる。
「だったら、その待遇だけ残せばよいではありませんか!」
「……お前は何を言っている?」
「婚約は破棄します! ですが、これまでの待遇を変える必要はないでしょう!」
エレオノーラは不思議そうに首を傾げた。
「……レオナード様。婚約を解消したいとおっしゃったのは、レオナード様ご自身ですよね?」
「それはそうだが、待遇まで返上するとは言っていない!」
「…………」
セシリアが静かに口を開いた。
「……お嬢様」
「何かしら?」
「婚約者としての待遇だけ、継続をご希望のようでございます」
「……そんなこと、できるの?」
「できません」
セシリアは即答した。
レオナードは何か言い返そうとしたが、その前に別のことを思い出した。
「……待て、エレオノーラ! 婚約を解消すれば、王家との共同事業はどうなる!?」
「共同事業、ですか?」
「そうだ! 王都の街道整備や魔導設備の導入事業だ! 我が公爵家は、王家との関係を前提に参画しているのだぞ!」
「……それでしたら、婚約者としての優遇は見直されると思いますけれど」
「なっ!? それでは困る!」
「……ですが、婚約を破棄するとおっしゃったのはレオナード様ですよね?」
「婚約は破棄する! だが、公共事業はこれまでどおりだ!」
公爵がゆっくりと息子へ顔を向けた。
「……レオナード。お前は何を言っている?」
「父上! 王家との事業まで失えば、公爵家に大きな損失が出るではありませんか!」
「……それが分かっていて、なぜ私に相談もせず婚約破棄を宣言した?」
「…………」
「正式な契約がある事業は、その契約に従って扱われる。だが、王女殿下の婚約者という立場を前提に受けていた優遇が、婚約解消後も続くと思うな」
「なぜです!? 婚約と公共事業は別の話でしょう!」
「……お前が王女殿下の婚約者であることを理由に、優先的に協議の機会を得ていた事業もあるのだぞ」
「だったら、その優遇だけ残せばよいではありませんか!」
公爵は再び額を押さえかけた。
しかし、途中で手を止めると、息子へ一歩近づいた。
「……レオナード。お前は今、自分が何を言っているのか、本当に理解しているのか?」
「もちろんです! 婚約は解消しても、我が公爵家が不利益を受ける必要はないと申し上げているのです!」
「不利益を受ける必要がない、だと……?」
公爵の眉間に深い皺が刻まれた。
「お前は、陛下と私が何年もかけて築いてきた王家との信頼関係を、自分一人の判断で傷つけたのだぞ!」
「ですが、婚約と事業は別の話ではありませんか!」
「別の話だからこそ、契約済みの事業は契約に従うと言っている! だが、今後の事業について、王女殿下の婚約者という立場を利用して優先的な協議を求めることは、もうできんのだ!」
公爵は息子の正面に立った。
「お前は、公爵家の跡継ぎとして、その違いすら理解していなかったのか!?」
「……そ、それは……!」
「しかも、家の経営に影響が出ると分かっていながら、事前に私へ相談することさえしなかった! 婚約破棄の是非以前に、そんな判断をする者へ領地と家臣を任せられると思うか!」
レオナードは思わず後ずさった。
公爵がこれほど厳しい口調で叱責する姿を、彼はほとんど見たことがなかった。
それでも、レオナードは諦めきれずに口を開く。
「で、ですが父上! 婚約者としての優遇だけ残していただければ、すべて解決するではありませんか!」
公爵は息子を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……レオナード。お前は婚約者という立場を捨てて、婚約者の特権だけ残せと言っているのか?」
「そうです! それなら何も問題はありません!」
公爵はゆっくりと目を閉じた。
そして、深く息を吐いた。
エレオノーラは困ったように首を傾げる。
「……それは、少し難しいのではないでしょうか?」
セシリアが静かに答えた。
「少しではございません、お嬢様」
「……そうなの?」
「はい。不可能でございます」
レオナードは口を開きかけたが、すぐには言葉が出てこなかった。
その様子を見て、公爵は改めて息子へ向き直る。
「……レオナード」
「は、はい、父上!」
「お前には、しばらく北方領へ行ってもらう」
「……北方領、ですか?」
「そうだ。領地経営を一から学び直せ。王都へ戻る時期は、私が判断する」
「なっ!? 父上! 私は公爵家の跡継ぎですよ!?」
「だからこそだ。今回の件を受け、後継者についても次男を含めて再検討する」
「そ、そんな……!」
レオナードの顔から血の気が引いた。
その一方で、エレオノーラが小さく反応する。
「……北方領?」
彼女は何かを思い出したように目を瞬かせた。
しかし、公爵とレオナードの話は続いており、その呟きに気づいた者はほとんどいなかった。
ただ一人、セシリアだけが王女の表情を見て、わずかに眉を動かした。
そして、ミレーヌにも変化が起きていた。
先ほどまでレオナードの腕にしっかりと絡めていた手が、ゆっくりと離れていく。
レオナードがその動きに気づき、振り返った。
「ミレーヌ? どうした?」
「い、いえ……。少し暑くて……」
ミレーヌは手にしていた扇を開き、頬の前で動かした。
広間には空調用の魔導具が設置されており、室温は快適に保たれている。
しかし、レオナードは彼女の言葉を疑わなかった。
「そうか! 緊張していたのだな! 無理もない、これだけの人々の前で愛を誓ったのだから!」
「え、ええ……。そうですわね……」
ミレーヌは扇で口元を隠しながら、そっと一歩下がった。
レオナードが再び彼女へ近づく。
「大丈夫だ、ミレーヌ! 私がついている!」
「あ、ありがとうございます……。あの、少し喉が渇きましたので、お飲み物を……」
「飲み物か! 任せてくれ、私が取ってこよう!」
「い、いえ! 私が自分で取りに参りますわ!」
「遠慮するな! 君を一人にするわけにはいかない!」
「……そう、ですのね」
ミレーヌは笑顔を作ったものの、扇を握る指には力が入っていた。
彼女は飲み物が欲しいのではなく、レオナードから離れる理由が欲しかったのである。
しかし、レオナードはそんなことには気づかず、嬉しそうに彼女の手を取ろうとした。
ミレーヌは扇を持ち替えるふりをして、その手を避けた。
「……ところで、レオナード様。北方領というのは、どのような場所なのでしょう?」
「北方領か? 自然が豊かで、広大な土地が広がっているぞ!」
「……雪は、降りますの?」
「もちろんだ! だが、私たちの愛があれば寒さなど――」
「私、寒いの苦手なんです」
「……え?」
ミレーヌは真剣な顔をしていた。
公爵は淡々と説明する。
「北方領は冬が長い。領地経営を学ぶ以上、少なくとも当面は王都に戻ることを認めん」
「……当面、ですの?」
「そうだ」
ミレーヌがもう一歩下がった。
レオナードは、彼女が不安になっているのだと思い、優しく微笑む。
「心配するな、ミレーヌ! 私が必ず君を幸せにする!」
「……あの、レオナード様」
「何だ?」
「公爵家の跡継ぎは……?」
「もちろん私だ!」
「……でも、先ほど公爵閣下が……」
ミレーヌは公爵へ視線を向ける。
公爵は表情を変えずに答えた。
「後継者は再検討する。次男にも十分な機会を与えるつもりだ」
ミレーヌが、さらに一歩下がった。
「……真実の愛って、北方領まで行かないといけないものですの?」
「当然だ! どこまでも一緒だ!」
レオナードが近づく。
ミレーヌが下がる。
「……なぜ逃げる!?」
「逃げてませんわ! 距離を取っているだけです!」
「同じだろう!?」
レオナードはミレーヌの手を取ろうとした。
しかし、彼女は自然な動作を装って、公爵の後ろへ回り込む。
レオナードは、彼女が公爵に処分の軽減をお願いするつもりなのだと考えた。
「ミレーヌ……! 私のために父上へ頼んでくれるのか!」
ミレーヌは答えず、公爵を見上げる。
「……あの、公爵閣下」
「何だ?」
「次男様は、王都にいらっしゃるのでしょうか?」
「ミレーヌ!?」
レオナードの声が裏返った。
公爵はしばらくミレーヌを見つめ、それから家令へ顔を向ける。
「……家令」
「はい、閣下」
「次男を呼び戻す件だが」
「はい」
「この娘には、知らせるな」
「かしこまりました」
セシリアが静かに頷く。
「……賢明なご判断かと存じます」
ミレーヌは口元を引きつらせた。
レオナードは、ようやく何かがおかしいと気づき始めていた。
「ミ、ミレーヌ……? 君は、私と一緒に北方領へ来てくれるのだろう?」
「……その件につきましては、少し考えるお時間をいただけませんこと?」
「考える!? 真実の愛ではなかったのか!?」
「真実の愛にも、準備というものがございますわ!」
ミレーヌはきっぱりと言い切った。
公爵はもう一度、深くため息をついた。
その様子を見ていたエレオノーラは、少しだけ気の毒そうにレオナードを見つめる。
しかし、次の瞬間。
「エレオノーラ!」
レオナードが突然、彼女へ向き直った。
「婚約破棄は撤回する!」
「…………え?」
エレオノーラの笑顔が消えた。
「い、今……何と?」
「婚約破棄は撤回する! これで問題はないだろう!」
レオナードは、何か素晴らしい解決策を思いついたような顔をしていた。
エレオノーラはしばらく彼を見つめたあと、ゆっくりと首を横に振る。
「私は、婚約を解消したいのです」
「なぜだ!? 私が撤回すると言っているのだぞ!」
「……ですから、私は解消を望んでおります」
「私の気持ちはどうなる!?」
「……先ほど、ミレーヌ様を愛しているとおっしゃっていましたよね?」
「それは……!」
レオナードは言葉に詰まった。
王太子が、妹の前へ一歩進み出る。
「……エレオノーラ」
「はい、お兄様」
「本当に、それがお前の望みなのか?」
エレオノーラは兄を見上げた。
先ほどまでの喜びとも、婚約が解消されていないと知ったときの落胆とも違う、落ち着いた表情をしている。
「はい」
「王立魔導研究院へ行きたいから、というだけではないのだな?」
エレオノーラは少しだけ考え、ゆっくりと頷いた。
「……私、ずっと考えていたのです。第一王女として、何をするべきなのかを」
王太子は黙って耳を傾けた。
「婚約も、王族としてのお役目も、大切だと思っています。でも……それだけが、私にできることではないと思うのです」
「……そうか」
「魔導研究も、きっと誰かの役に立ちます。私は、その仕事をしてみたいのです」
王太子は妹を見つめた。
幼い頃から、エレオノーラは魔導具の仕組みに興味を持ち、研究書を読み始めると時間を忘れていた。
その一方で、王女として求められる勉強や公務を疎かにしたことはなかった。
だからこそ、彼女が自分の夢を後回しにしてきたことも、兄は知っていた。
王太子はやがて、小さく笑った。
「……お前がそこまで言うのなら、私は反対しない」
「お兄様……!」
「ただし、研究室に三日も泊まり込むのはやめろ」
「……四日分の着替えなら用意します」
「そういう話ではない!」
セシリアが静かに頷く。
「まったく、そのとおりでございます」
王太子はため息をついたが、その表情は穏やかだった。
そして、公爵へ向き直る。
「公爵。私は、エレオノーラの意思を尊重したい」
「……私も同じ考えでございます、王太子殿下」
公爵は深く頭を下げた。
「此度の件については、我が家に重大な責任がございます。両家の婚約解消に向けて、正式に協議を進めることに異存はございません」
「分かった。では、婚約解消の方向で仮合意としよう。父上への報告と正式な裁可は、私が責任を持って進める」
「承知いたしました」
王太子と公爵の間で、婚約解消に向けた方針が定まった。
正式な解消には国王の裁可が必要であり、婚約がこの場で消滅したわけではない。
しかし、両家の代表者が解消の方向で一致したことは、エレオノーラにとって大きな意味を持っていた。
彼女は胸元に手を当て、ほっと息をつく。
「……ありがとうございます、お兄様。公爵閣下」
王太子は妹へ微笑み、公爵も穏やかに頷いた。
エレオノーラは、長く胸の内にしまっていた希望を、ようやく自分の言葉で伝えることができた。
そして、その願いを兄が受け止めてくれた。
彼女の表情には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
その一方で、レオナードは納得していなかった。
「父上! 私はまだ、婚約破棄を撤回すると――!」
「レオナード」
公爵が息子の言葉を遮る。
「お前の北方領行きについては、変更しない」
「なっ……!?」
「領地経営を学び直し、自分の行動が何を招いたのか考えなさい」
「父上……!」
レオナードは絶望したように肩を落とした。
そのときだった。
「……北方領、ですか」
エレオノーラが、何かを思い出したように呟いた。
セシリアがわずかに目を細める。
「……お嬢様?」
「ねえ、セシリア。北方領って、確か……」
「……はい」
セシリアは、嫌な予感がした。
エレオノーラは公爵へ向き直る。
「公爵閣下。北方領には、希少な魔導鉱石の鉱脈があると伺っておりますが、本当でしょうか?」
「……はい。規模は大きくありませんが、いくつか確認されております」
「やっぱり!」
エレオノーラの瞳が輝いた。
「その魔導鉱石、魔力伝導率が非常に高いと聞いております! ただ、採掘量が少ないため、詳しい性質がほとんど調べられていないのでしょう?」
「……お詳しいのですな」
「ええ! ずっと気になっていたのです!」
エレオノーラは、北方領へ行くことになったレオナードへ顔を向けた。
「レオナード様、羨ましいですわ!」
「……は?」
「北方領へ行かれるのでしょう? あの魔導鉱石を直接見ることができるなんて、本当に素敵です!」
「……エレオノーラ?」
「もしよろしければ、産出場所や採掘量、それから鉱石の純度についても調べていただけませんか?」
レオナードは目を見開いた。
エレオノーラは、すっかり研究の話に夢中になっている。
「可能でしたら、採掘された鉱石の試料も少し……。あ、もちろん正式な許可をいただいてからですけれど!」
公爵は少し考えたあと、頷いた。
「……王女殿下のお役に立てるのであれば、可能な範囲で協力いたしましょう」
「ありがとうございます、公爵閣下!」
エレオノーラは嬉しそうに微笑んだ。
その横で、セシリアが静かに額を押さえる。
王太子も、何かを言いかけてやめた。
そして、レオナードがとうとう叫んだ。
「私は研究院の助手になるために北方領へ行くのではありません!!」
エレオノーラは、心底残念そうに眉を下げた。
「……でも、せっかくですのに」
王太子は天井を仰いだ。
セシリアは小さくため息をついた。
公爵は、息子の将来について考え直す必要があると、改めて確信していた。
そしてエレオノーラだけが、北方領の魔導鉱石について、まだ何か聞きたそうにレオナードを見つめていた。
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