第6話 すれ違いの一年間
「ロクサーヌ、今週末の学園の創立記念パーティーのことなのだけれど。僕に君のファーストダンスを、光栄にも譲ってもらえるだろうか?」
王宮の馬車の中。私の十六歳の誕生日にニコラス様が贈ってくださった、見事な大粒のアクアマリンの髪飾りを優しく指先で撫でながら、彼は蕩けるような甘い微笑みを浮かべた。
婚約から一年が経とうとしていた。
私は十六歳になり、学園の二年生。ニコラス様は十九歳で、王宮次官としての地位を確実なものにしていた。
この一年間、私達の距離は、傍目にはこれ以上ないほど縮まっているように見えたはずだ。
彼はどれほど多忙であっても、週に一度は必ず私を誘い、完璧なエスコートで私を喜ばせようとしてくれた。街を歩けば、周囲の令嬢たちが「まあ、ニコラス様があんなに熱い視線を……」「本当にお幸せそう」とため息を漏らす。
(……うん。本当に、完璧な『婚約者ごっこ』だわ。ニコラス様、おいたわしや……)
だが、私の心の中の壁は、一ミリたりとも崩れてはいなかった。
むしろ、ニコラス様が完璧な王子様であればあるほど、「騙されちゃダメよ、ロクサーヌ!」という私の中の警告アラームは、ますます大音量で鳴り響く。
ニコラス様のあの甘い微笑みも、髪に触れる優しい手つきも、すべては社交界に対する『私は前を向いて歩んでいます』というアピール、あるいは、王女殿下への断ち切れぬ想いを隠すためのカモフラージュなのだ。
現に、彼が私の髪に触れるとき、そのアメジストの瞳はどこか潤んで、狂おしそうな光を帯びている。
(ああ、私の髪を見ながら、本当は王女殿下の美しい金髪を思い出していらっしゃるのね。切ないわ……。でも大丈夫です、私は『物分かりの良い婚約者』ですから、絶対に突っ込んだりしませんわ!)
ロクサーヌは心の中で、自分を深く納得させていた。
恋に溺れて、いつか「私だけを見て」と泣き叫ぶような無様な真似はしない。彼を責めず、傷つけず、ただ静かに寄り添う空気。それが、彼の身代わりとして選ばれた私の、唯一の存在意義なのだから。
「ええ、喜んで、ニコラス様。私のような者でよろしければ、いくらでもお相手いたしますわ」
私はこれ以上ないほど、訓練された上品な『お飾りの微笑み』を返した。
ニコラス様の負担にならないよう、一歩引いた、義務感だけを含んだ完璧な態度で。
その瞬間。
ニコラス様の頬の筋肉が、ピクリと引き攣った。
アメジストの瞳の奥に、一瞬だけ、どろりとした暗い情熱が過る。
(……なぜだ。なぜ、こんなにも距離が縮まらない……!?)
ニコラスは内心で、狂わんばかりの絶望と戦っていた。
この一年、彼は死に物狂いだった。
初対面の時、あの忌々しい悲恋の噂のせいで、ロクサーヌが「自分はお飾りだ」と怯えて心を閉ざしてしまった。だからこそニコラスは、彼女に警戒されないよう、己のドロドロとした独占欲を必死に隠し、完璧な『紳士』として振る舞い続けたのだ。
『時間をかけて、大切に育もう』
そう決意して、彼女の好きなものを調べ尽くし、誕生日には彼女の瞳と同じ色のアクアマリンを贈り、少しずつ、少しずつ外堀を埋めてきたはずだった。
なのに、どうしてロクサーヌは、未だにこんな「壁」の向こう側から僕を見るのだろう。
『私のような者でよろしければ』――その一言が、ニコラスの胸を容赦なく抉る。君がいいんだ、君じゃなきゃ駄目なんだと、今すぐ馬車の中で押し倒して、その唇を奪って叫びたかった。
だが、ここで理性を失えば、それこそ「噂通りの冷酷な男」だと思われて、完全に嫌われてしまう。
(まだだ、まだ僕の誠意が足りないんだ。もっと優しく、もっと爽やかに、彼女が安心して僕の胸に飛び込めるような、完璧な騎士にならなければ……!)
完全に空回りしたニコラスは、ぐっと拳を握りしめ、さらに輝くような『爽やかさ』に磨きをかけた微笑みを浮かべた。
「ありがとう、ロクサーヌ。君と踊れるなんて、僕は世界一の幸せ者だよ。……当日は、誰の目にも君が一番美しく映るよう、最高のドレスを仕立てさせるからね」
「まあ、恐れ入りますわ、ニコラス様」
(……ほら、またそうやって無理をして。世界一の幸せ者だなんて、そんな悲しい嘘を吐かなくてもいいのに。本当に、お優しい方。でも、その優しさが、少しだけ、私の胸をチクチクと刺すのです……)
ロクサーヌは切なげに微笑み、ニコラスはそんな彼女の微笑みを「まだ警戒されている」と受け取る。
話せば話すほど、二人の距離は、同じ馬車の中にいながらにして一光年も離れていく。
お互いを想うがゆえの、完璧なすれ違い。
「ねえ、ロクサーヌ。パーティーが終わったら、少し二人きりで話せる時間をくれないか? 君に、伝えたいことがあるんだ」
ニコラスは決意していた。交際一周年となる近いうちに、王家の許可をどうにか取り付けてでも、あの噂を否定し、本気の愛を告白しようと。
だが、その「伝えたいこと」という言葉を聞いたロクサーヌの脳裏には、全く別の不穏な予感が過っていた。
(伝えたいこと……? もしかして、王女殿下に関することかしら……)
学園二年目の春。
二人のじれったすぎるすれ違いは、やがて社交界を大きく揺るがす『嵐の主役』の帰国によって、一気に破滅へのカウントダウンを始めることになる。
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