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第18話 これからは、逃がさない

 王都の喧騒から少し離れた、緑豊かなトーラス侯爵邸の私設庭園。

 初秋の柔らかな木漏れ日の中で、私は白いガゼボの長椅子に腰掛け、至福の読書時間を満喫……しているはずだった。


「ロクサーヌ、こっちの焼き菓子も美味しいよ。はい、あーんして」


「ニ、ニコラス様……。マリーたちが遠巻きに見ているのですから、自分で食べられますわ」


「ダメだよ。君は油断するとすぐに僕から距離を置こうとするんだから、これくらいさせてくれないと僕の独占欲が暴走してしまう」


 そう言って、爽やかな笑みの下にどろりとした執着を隠さなくなった我が婚約者は、私の唇にそっと焼き菓子を押し当ててくる。


 私が恥ずかしさに顔を真っ赤にしながらもそれを受け入れると、ニコラス様は満足そうにアメジストの瞳を細め、そのまま私の腰を引き寄せて、自分の膝の上へと私を抱え上げてしまった。



 数ヶ月前、あの交際一周年記念日のレストランで全ての誤解が解けてから、私たちの日常は一変した。


 以前の彼は、私に警戒されないよう必死に「物分かりの良い、一歩引いた紳士」を演じていた。けれど真実が暴かれた今、彼はその仮面を木っ端微塵に粉砕し、四六時中、私への重すぎる溺愛と独占欲を剥き出しにしている。


「……ねえ、ロクサーヌ。さっきからその本ばかり見て、僕の目を見てくれないのはどうしてかな?」


 ニコラス様が私の首筋にひんやりとした額を寄せ、甘く、どこか掠れた声で囁く。

 彼の大きな手が、ドレスの上から私の細いウエストを壊れ物を扱うように、けれど絶対に逃がさないという強い力で囲い込んできた。


「べ、別に避けているわけでは……。ただ、物語が面白くて」


「ふうん、僕よりその紙切れの方が魅力的だと言うんだね。……また僕に黙って、領地の田舎へ逃げる準備でもしているのかな?」


「っ……! それは、もう何ヶ月も前のことですわ!」


 私が慌てて振り返ると、ニコラス様はいたずらが成功した子供のように、意地悪く、けれどひどく艶っぽく唇を釣り上げた。



 少しでも彼を不安にさせたり、私が遠慮がちな態度を取ったりすると、彼はすぐにこうして「また逃げるの?」と私を脅してくるのだ。あの時の私の「悲壮な勘違いによる逃亡未遂」は、彼にとって一生モノの『おねだり切符』になってしまっていた。


「冗談だよ。でもね、ロクサーヌ。僕は君があの時、僕のためにどれほど泣いて、どれほどの覚悟で身を引こうとしてくれたかを知っている。……愛おしくて堪らないと同時に、二度とあんな思いはさせないと誓ったんだ」


 ニコラス様の手が私の頬を包み込み、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 アメジストの瞳の奥に揺らめくのは、底なしの愛と、一歩間違えれば私を部屋に監禁しかねない本物の怪物の光。


 けれど、今の私はもう、その光に怯えて防衛線を張る必要なんてないのだと知っている。


「私も、もう逃げようなんてこれっぽっちも思っていませんわ。ニコラス様が私を閉じ込めるとおっしゃるなら、喜んでその檻に入ります」


 私が諦めたように微笑み、彼の胸にトントンと額を預けると、ニコラス様は小さく息を呑み、それから愛しさに耐えかねたように私を強く、強く抱きしめた。


「……本当に、君は僕を狂わせる天才だね。これからは絶対に逃がさないし、逃げられないよ」


 唇に落ちてきたのは、焼き菓子よりもずっと甘く、蕩けるような熱い口づけだった。

 かつて私は、自分を「王女の身代わりのお飾り」だと信じ込み、一光年もすれ違った悲恋のヒロインを気取っていた。けれど蓋を開けてみれば、私は最初から、この世界で一番美しく、一番不器用で、一番激しい愛を持った怪物に捕らえられた、幸福な小鳥だったのだ。


 彼の腕の中は、少しだけ苦しくて、けれど世界中のどこよりも温かい。



(もう、どこにも逃げません――いえ、貴方の愛が重すぎて、最初からどこにも逃げられませんわね、ニコラス様)



 最高のすれ違いの果てに掴み取った、極上の溺愛の檻の中で。

 私は愛しい婚約者に身を委ね、心からの幸福な微笑みを浮かべるのだった。


 ハッピーエンド


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