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第17話 ビクトリアの帰国、そして本当の幸せへ

 王都の喧騒から少し離れた、国境へと続く王立の特設馬車発着場。

 抜けるような青空の下、隣国ローゼンタール王国へと帰還するビクトリア王妃の、見送りの式典が執り行われていた。


「ロクサーヌ、少し風が冷たいね。僕の上着を羽織るかい?」


「まぁ、ニコラス様。まだ式典の最中ですわよ? 衆目の前でそのようなことをなされたら、私が皆様にどのような目で見られるか……」


「いいじゃないか、僕たちの仲だ。君が風邪をひくくらいなら、社交界の噂なんてどうでもいい」


 私の隣で、ニコラス様が相変わらずの爽やかな美貌に「激重な独占欲」をどろりと滲ませながら、私の腰をそっと抱き寄せている。



 すべての誤解が解けてからの彼は、もう「紳士の仮面」を被り直すつもりは毛頭ないらしく、どこにいても私を自分の腕の中に閉じ込めようと必死だった。


 これまでは「お飾りですから」と一歩引いていた私だったけれど、今は彼の大きな手に自分の手を重ね、クスリと微笑み返す。


「大丈夫ですわ、ニコラス様。私、今とっても幸せで、胸の奥がぽかぽかとしていますもの」


「っ……ロクサーヌ、ずるいな。そんなに可愛い顔をされたら、今すぐ式典を抜け出して君を我が家に連れ帰りたくなる」


 アメジストの瞳を愛おしげに細める婚約者に、私はあえて悪戯っぽく微笑んでみせた。

 もう、私たちの間に、どんな噂も、どんな過去の幻影も入り込む隙はなかった。



 やがて、エドワード王太子殿下にエスコートされ、豪華な旅行服に身を包んだビクトリア王妃が姿を現した。


 そのサファイアの瞳が、見送り人の中にいる私とニコラス様を捉え、その足が真っ直ぐにこちらへと向かってくる。


「ビクトリア王妃殿下、本日はお見送りに参上いたしました」


 私たちは一歩前へ出ると、毅然と、しかしこれ以上ないほど温かい敬意を込めて、見事な礼を捧げた。

 ニコラス様もまた、王女の前に堂々と立ち、私を守るようにその細い腰を支えている。


 二人の姿を見たビクトリア王妃は、一瞬だけ目を見張った。


 あの日、薔薇園で見せたロクサーヌの「完璧なお飾りの微笑み」はどこにもない。そこにあるのは、愛する男性の隣で大輪の薔薇のように誇り高く、幸福そうに輝く、一人の本物の『恋する少女』の姿だった。


 そして、ニコラスの瞳。かつて自分に捧げられていた、義務と演技による「作られた優しさ」とは根本的に違う。ロクサーヌを見つめる彼の瞳には、彼女を失うことを何よりも恐れ、狂おしいほどの情熱で彼女だけを求めている、生々しい『男の執着』が剥き出しになっていた。


(ああ……そうか。本当に、私の出る幕なんて、最初からなかったのね)


 ビクトリアはふっと、胸の奥が軽くなるのを感じていた。


 自分がすがりついていたのは、ニコラスという人間ではなく、ただ『母国で普通の女の子として愛されていた時間』という、過去の幻影に過ぎなかったのだ。あの日、怪物の本性を現したニコラスに本気で拒絶されたことで、彼女の三年越しの初恋は、今、本当に綺麗な思い出へと昇華された。


「……素敵なお嬢さん。ニコラスを、よろしく頼むわね」


 ビクトリア王妃殿下が優しく微笑み、私に手を差し伸べた。


「はい、殿下。お任せくださいませ」と私がその手を握り返した、その時だった。


「待ってくれ、姉上! ローゼンタールから、緊急の早馬だ!」


 息を切らしたエドワード殿下が、一通の親書を手に、走り寄ってきた。

 その封蝋を見た瞬間、ビクトリア殿下の顔が緊張に強張る。それは、隣国ローゼンタール王家、それも国王ルドクリフ次直々の、公務を通さない『私的な親書』だった。


「陛下から……? 一体、何事かしら……」


 ビクトリア王妃が封を切り、中に書かれた文字に目を落とした。

 その瞬間、彼女のサファイアの瞳が、みるみるうちに大粒の涙で溢れていった。


「王妃殿下!? いかがなされましたか!?」


 思わず私が声をかけると、ビクトリア王妃は瞳を潤ませたまま、けれど、この滞在期間中で一度も見せなかったような、心の底からの幸福そうな笑顔を咲かせたのだ。


「いいえ……違うの、ロクサーヌ。これを見て……」


 差し出された手紙には、力強く、けれどどこか愛おしさを堪えきれないような筆致で、こう記されていた。


『愛しいビクトリア。君がいない宮殿は、まるで太陽を失ったかのように暗く、寂しい。今回の君の全権名代としての働きを、私は夫として、そして王として誇りに思う。政務の山に追われているが、それでも君の不在が一番堪える……君の帰りを、首を長くして待っている。早く帰っておくれ』


 それは、噂にあるような「冷遇」とは一光年もかけ離れた、妻を激しく恋しがる一人の男の、不器用で真っ直ぐな愛の告白だった。


 そこに書かれていた言葉に、ビクトリア王妃は手紙を愛おしそうに胸に抱きしめた。


「……本当に愚かだったわね」


 ビクトリア王妃はシルクのハンカチーフで涙を拭うと、きゅっと唇を結び、毅然と前を向いた。それでも、胸の奥にかすかな痛みが残っているのを、彼女は静かに受け入れた。だがそれも、もう過去のものだった。


「エドワード、私、今すぐ帰るわ──」


「ああ、姉上。……それがいい」


 エドワード殿下が優しく微笑み、ビクトリア王妃は馬車のステップへと足をかけた。

 扉が閉まる直前、殿下はもう一度だけ振り返り、私とニコラス様に向けて悪戯っぽくウィンクをしてみせた。


「ニコラス、あなたも少しは反省なさい! あんまりロクサーヌを困らせちゃダメよ? ――さようなら、私の愛した母国!」


 がたごとと、心地よい音を立てて、豪華な馬車が青空の下を走り出していく。

 その背中は、過去の寂しさに縋る哀れな王女ではなく、愛する夫と娘の待つ我が家へと胸を張って帰っていく、世界で一番幸福なローゼンタール王妃の姿そのものだった。




「……行かれてしまいましたわね」


 遠ざかる馬車を見つめながら、私がぽつりと言うと、ニコラス様が背後から私をぎゅっと抱きしめた。


「そうだね。これで邪魔者は誰もいなくなった。……さあ、ロクサーヌ。次は、僕たちの本当の結婚式の準備を始めようか」


 耳元で囁かれた甘く、けれど逃げ場のない独占欲に満ちた声に、私は顔を真っ赤にしながらも、今度はしっかりと、彼の胸に寄り添った。


 すれ違い続けた偽物の恋は、終わりを告げた。


 ここから始まるのは、紳士の仮面を脱ぎ捨てた怪物と、彼にどこまでも愛されることを受け入れた少女の、本物の、そして永遠の溺愛の物語なのだから。




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