第15話 緊迫の記念日
王都の格調高きレストラン、その豪奢な個室で私はこれ以上ないほど見事に、完璧な仮面の微笑みを浮かべていた。
給仕が下がったばかりのテーブルの上には、デザートの代わりに、昨夜涙を流しながらしたためた婚約破棄を望む手紙が置かれている。言葉ではうまく伝えきれない思いを、心を込めて認めたものだった。
「短い間でしたけれど、お飾りとしての役目を全うできて光栄でした。どうぞこの手紙をお受け取りください。私達の婚約は、本日をもって円満に解消いたしましょう」
ここなら人目もない。彼も大人の男として、静かに義務である私から解放され、役目を終えた婚約関係を整理するはず。そう信じて疑わなかった私を、衝撃が襲った。
バキンと、何かが割れた音がした。
目の前で、ニコラス様が長く保っていた「理性的な次官」の仮面が、ひび割れたように崩れていく気配。
「婚約、解消……?」
低く、掠れた声。
「ニコラス様、今までありがとうございました。貴方のこれからのご活躍とご幸福をお祈りいたします。では、これで失礼致します」
私は席を立ち、深く頭を下げた。これで彼は自由になれる。そう思いながら出口へ向かおうとした、その瞬間だった。
視界が揺れるほどの速さで、彼が回り込んでいた。
気づけば私は、退路を完全に塞がれ、壁際へと追い詰められていた。
「ニッ、ニコラス様……?」
背中が冷たい壁に触れた直後、両脇を叩くように彼の腕が突き立てられる。
逃げ道は完全に消え、私は彼の影の中に閉じ込められた。
いつも穏やかに笑っていたはずの瞳が、今はまるで別人のように暗く、焦げついた色をしていた。そこにあるのは理性ではなく、剥き出しの執着だけだった。
「なぜ、そんなことを言うんだ、ロクサーヌ」
声が震えている。
「君が、君だけが僕の幸せな未来の中心だったのに」
「……幸せな未来、ですか?」
思わず漏れた声に、彼の肩がびくりと揺れた。
「そうだ」
彼は短く息を吐き、壊れかけた理性を必死に繋ぎ止めるように言葉を続ける。
「ビクトリア王妃殿下との関係は、最初から恋愛ではない。王太子エドワード殿下の要請による『偽装任務』だ。隣国との関係安定と、殿下の身辺警護のための目眩ましに過ぎない」
「……え?」
「僕は殿下に恋愛感情を抱いたことも、抱かれたこともない。すべては国家業務だ。未練など存在しない」
言葉の意味が理解できず、私は一瞬呼吸を忘れた。
「では……あの噂は……」
「噂を信じるな。君が見ていた『悲恋の恋人たち』という物語は、最初から存在しない」
その瞬間、私の中で積み上げてきた解釈が音を立てて崩れた。
彼が誰かを想い続けているから私は身を引くべきだと信じていた。
その前提が、最初から存在していなかった。
「君は知らないだろう」
ニコラス様は一歩踏み込み、私の肩を掴んだ。その力は痛いほど強い。
「君に初めて会った日から、僕がどれほど君だけを見ていたか」
「え……?」
「君に警戒されたくなくて、必死に『立派な紳士』を演じた。手紙も贈り物も、全部君のためだ。外交任務で二週間会えなかっただけで、君が他人に譲ろうとするなんて思いもしなかった!」
息が詰まる。
二週間の空白も、薔薇園の混乱も、すべて別の意味だったのか。
「……じゃあ、私は……何を誤解して……」
「全部だ」
即答だった。
「僕は最初から、君以外を見ていない。なのに君は、僕を『誰かの元へ返そうとする顔』で見続けた」
彼の額が、私の額に触れるほど近づく。
逃げられない距離で、彼は低く言った。
「もう限界だ。君がどうしても僕を拒むなら、僕はこの職も立場も全部捨てる」
「ニコラス様……」
「君の父上を説得でも脅しでもして、君を誰にも渡さない場所へ連れて行く。そこで君が僕以外を考えられないようにする」
狂気に似た真剣さ。
けれどその奥にあるのは、ただ一つの焦燥だった。
「お願いだ、ロクサーヌ」
声が、少しだけ崩れる。
「僕を、勝手に諦めないでくれ」
その言葉で、何かが決壊した。
怖いはずなのに。
逃げるべきだと分かっているのに。
胸の奥に広がったのは、甘く焼けるような安堵だった。
私はゆっくりと息を吐く。
「……閉じ込める必要なんてありませんわ」
彼の首元に、そっと腕を回した。
「私は最初から、どこにも行きません」
一瞬、彼の呼吸が止まる。
「ですから、そんなに怖い顔をなさらないでくださいませ。……私の、婚約者様」
最悪のすれ違いは、そこで終わった。
そして、誤解のないたった一つの事実だけが残る。
――彼は最初から、彼女しか見ていなかった。
――彼女は今、ようやくそれを知った。
交際一周年の夜、二人の溺愛劇は、ようやく正しい形で幕を開けた。
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