repair.94 『星滴麦の休息と決意の夜』
王宮からの最後通牒が突きつけられ、接収までの猶予が刻一刻と削られていく。リエイは工房の入り口に「本日休業」の札を掲げ、重い扉を内側から閉ざした。作業場には多機能ゴーグルの放つ青白い光と、精密魔導具が奏でる微細な駆動音だけが満ちている。リエイは不眠不休でシエルの再調整に没頭し、彼女の回路深層に癒着したゼノスの悪辣な術式を、一本ずつ慎重に剥離させていた。
「……ここだ。このバイパスがデータの強制抽出を誘発している。だが、安易に切れば核が沈黙する」
極微魔力修復針を操るリエイの額には、玉のような汗が浮かんでいる。あまりに張り詰めた空気を和らげたのは、背後から漂ってきた香ばしい匂いだった。
「リエイさん、そのあたりで少し休みましょう。根を詰めすぎると、黄金の指先も鈍ってしまいますよ」
ノエルが、湯気を立てる木製の器をトレイに乗せて運んできた。今日の献立は、十九層の聖域で収穫された星滴麦のリゾットだ。メディの薬屋から届いたばかりの、生命力に溢れる新鮮なバジルの香りが、油と魔力に支配された工房の空気を鮮やかに塗り替えていく。
「……ああ、すまない。つい夢中になっていた」
リエイはゴーグルを額に押し上げ、差し出されたスプーンを口に運んだ。星滴麦特有のプチプチとした小気味よい食感と共に、濃厚なチーズのコクと麦の優しい甘みが広がる。噛みしめるたびに、凝り固まった思考が解きほぐされていくようだった。
「……美味しいな。ノエル、いつもありがとう。君の料理には、どんな魔法薬も敵わないよ」
「いいえ。……私にできるのは、専門的な修理のお手伝いではなく、こうしてリエイさんがいつでも『帰ってくる場所』を温めておくことくらいですから」
はにかむように微笑むノエルの言葉に、リエイは胸の奥が熱くなるのを感じた。岩山ダンジョンの門番として、迷宮の魔力圏という見えない鎖に縛られ、壊れた道具を直すことでしか世界との繋がりを実感できなかった自分。そんな孤独な職人の日々に、これほどまでの色彩と安らぎを与えてくれる存在が、今は隣にいる。その日常を守るためなら、どんな禁忌にも踏み込めるという静かな決意が、彼の心に宿った。
深い夜、ノエルたちが寝静まった工房で、リエイは浮遊するアルス・マグナと二人だけで向き合っていた。
「おっさん。単刀直入に聞く。シエルの深層意識で見えたあの黒く脈動する『扉』、あれの正体は何なんだ」
アルス・マグナは正八面体の結晶を重々しく明滅させ、低く響く声で答えた。
『……あれは「因果の檻」と呼ばれるものじゃ。迷宮が呼吸するたびに産み出される、現代の術式では制御不能な過剰マナ。それを一箇所に封じ込め、世界の均衡を物理的に保つための巨大な安全弁よ。だが、経年劣化とゼノスの抽出術式によって、その檻は内側から腐食し始めておる。もし誰かが強欲に任せて無理やりこじ開けようとすれば、積層された因果が逆流し、この国どころか大陸の半分を地図から消し去る災厄となるじゃろうな』
「ゼノスは、その破滅的なエネルギーを狙っていたのか」
『あるいは、溢れ出す因果の奔流を御することで、神にでもなろうとしたか。……どちらにせよ、放っておけば早晩この檻は壊れる。小僧、覚悟はできておるな。王宮の影がこの工房に踏み込んでくる前に、我らの手であの扉を正しく「修理」しに行くぞ』
「ああ。……直せないものはない。たとえそれが、世界の運命を封じた扉であってもな」
リエイは愛用のレンチを手に取り、その冷たい感触を確かめた。窓の外では、月光に照らされた岩山ダンジョンが、静かに彼らを誘うように暗い口を開けていた。




