4 氷狼の主
ブリジッドの吹雪はすっかり収まりました。けれども、自然の吹雪は相変わらずに吹き荒れておりました。小川はブリジッドの背丈を超える堤に挟まれております。森の木々は岸辺に迫り、太い枝が小川に影を落としておりました。
ブリジッドは雪に半分埋もれて、小川の氷の上で尻もちをついておりました。黙って見つめてくる冷たい眼差しに、ブリジッドは怖くて動けません。
「誰なの」
ブリジッドはもう一度、か細い声で聞きました。
「吹雪の力を持つものか」
誰なのかは答えずに、岸辺の男の子が言いました。大人の男の人みたいに野太い声です。ブリジッドは縮み上がりました。赤い瞳が奇妙に濡れております。まるで仕留めたばかりの獣が見せる傷口のようでした。
ブリジッドも、男の子の質問には答えません。雪嵐の轟音が夜を満たし、雪と氷が痛いほど頬を打ちました。そんな風の中でしたのに、男の子が出す声は、恐ろしいほどまでにはっきりとブリジッドの耳にとどいたのです。
「貴様を私の花嫁にしよう」
抑揚のない不快な声が一方的に告げてきました。
紫色の髪の毛は風にも乱れず、男の子は背筋を伸ばして立っておりました。コオリオオカミの毛皮マントが闇の中で銀紫色に光っております。そのマントも、吹雪に靡くことはないのでした。
(勝手なことを言わないでよ!)
ブリジッドは反発しました。怖くて声が出なかったのですけれど。傲慢な男の子を睨みつける勇気もありませんでした。男の子は、明らかに人間ではありません。ブリジッドは男の子に魔法の力を感じましたが、それはレマニの力とは違うようでした。
じわりと涙が滲みます。ブリジッドは尻もちをついたまま動けません。ローブに雪が滲みてきました。ブリジッドは氷と雪の魔法使いです。でも濡れた衣服が張り付くのは、やっぱり気持ちが悪いものでした。
紫色の髪をした男の子は、不気味な闇を纏っておりました。男の子はじっと岸辺に立っております。しばらくは無表情でブリジッドを見下ろしていました。
吹き荒れる風が、小川に垂れる枝々を千切らんばかりに揺らしました。男の子がなんの前触れもなくブワッと飛び上がりました。
(魔物なのかしら)
ブリジッドは、凍りついたように動けません。人間ならば、飛び上がる前には膝を曲げたり腰を落としたりいたしますよね。ところが男の子は背筋を伸ばしたまま跳んで、棒が落ちてくるみたいにまっすぐ小川に降りたのです。
ブリジッドは目の前に来た男の子を見上げました。男の子は、いきなりブリジッドの腕を掴みました。
「痛い」
男の子はブリジッドが思わず漏らした悲鳴など、気にも止めない様子です。そのまま乱暴な動作で、ブリジッドの腕を強く引きました。片腕でぶら下げるような形で、ブリジッドを立ち上がらせたのです。
ブリジッドはゾッとしました。血溜まりのように湿った瞳には、一切の感情が見えません。ブリジッドはアンリを思い出しました。アンリはいつも、イジワルばかり言います。
(でも、乱暴はしない)
アンリの炎は、深く積もった雪さえも溶かしてしまいます。
(でも、わざとみんなを燃やそうとはしない)
そうなのです。アンリは人も物も燃やそうとしたことなんてないのです。ただの一度でさえ。怒ると火の粉を撒き散らしますが、燃え出すことはありませんでした。ローブや荷物に落ちた火の粉も、そばにいる大人がはたき落とせばすぐに消えてしまう程度でした。
ブリジッドは、口をへの字に曲げて怒るアンリの顔を思い浮かべました。温かみのある琥珀色の瞳に、柔らかな陽射しを思わせる金色の髪の毛。子供らしくふっくらとした頬は、旅暮らし故に日焼けしております。
アンリは楽しければ笑います。悲しければ泣き出します。怒っている時も怖くはありません。アンリには命が感じられます。温かみがあります。いまブリジッドの手を掴んでぶら下げている、温度のない男の子とは違います。
(アンリはレマニだもの)
ブリジッドは思いました。泣かされてばかりでしたが、一緒に遊ぶことも多くありました。春には野いちごを共に食べ、秋には川の魚を焼いて分けたりもいたしました。上手に炎を操って魚を仕留めるアンリに、ブリジッドは素直な尊敬を向けていました。
男の子はまた前触れもなく岸辺へと飛び上がりました。雪の積もった小川から上がると、ブリジッドは大木の根元へと投げ出されました。肩や腕が木の幹に叩きつけられて、酷く痛みました。
(花嫁にするとか言いながら、なにするの)
ブリジッドは、痛さと怒りで歯を食いしばりました。
(花嫁さんを投げ飛ばす花婿さんなんて、見たことがない)
レマニは平和な家族です。旅の途中で新しくレマニになる人々も、丁寧な扱いを受けておりました。夫婦は互いを大切にしております。
ブリジッドはプロポーズを見たこともありました。偶然見かけたのですが、見ているブリジッドまで幸せになるような雰囲気でした。
男の人が女の人の答えを待つ間、真剣で不安そうな様子だったのを、ブリジッドはよく覚えておりました。女の人が幸せそうに返事をすると、男の人がパァッと顔を輝かせたのも思い出しました。
(こんなの、求婚じゃない)
野太い声を出すその男の子は、片手をすっと上げました。
「運べ」
と、男の子は短く命令しました。すると、灰色にくすんだ影の中から、コオリオオカミの群が現れたのです。ブリジッドは眼を見開きました。
「ふっ、う、うわぁぁん!」
ブリジッドはとうとう泣き出しました。それでも男の子は表情を変えません。きっと心を持たない魔物なのでしょう。コオリオオカミたちは、男の子の言葉に従ってブリジッドを取り囲みました。
「うわぁぁ!」
ブリジッドから渦巻く吹雪が吹き出しました。怖くてまた暴走を始めたのです。
「行くぞ」
男の子が命令しました。紫色の髪には、雪片ひとつ付いてはおりませんでした。ひときわ大きなコオリオオカミが、吹雪に包まれたブリジッドのローブをガブリとくわえました。群のリーダーでしょうか。
幸い、服が少し破けただけで首に傷はつきませんでした。でも、ローブの襟が後ろに引っ張られて、ブリジッドの首は締められました。息が苦しくて、ブリジッドはうめき声をあげました。
ブリジッドの様子などお構いなしで、男の子が歩き出しました。すると、リーダーらしきコオリオオカミは首を大きく振って、ブリジッドを放り投げました。
「ぶわぁぁぁん!」
ブリジッドはただ怖くて泣くだけでした。リーダーの後ろには、大きな氷の塊みたいにくっ付き合った群がいました。空中に投げ上げられたブリジッドは、その背中に着地しました。思ったよりは硬くありません。けれども銀紫色の細い毛が、ブリジッドのローブを貫いてチクチクします。
「ひぃぃぃ」
吹雪を生み出すブリジッドでさえも、冷たいと感じる毛でした。群はブリジッドを乗せたまま、一糸乱れず行進を始めました。
速くもなく遅くもなく、一定のスピードで群れは進みました。森の小川をはなれて斜面を登り、吹雪の山へと分け入ってゆきました。その間、男の子はずっと黙っておりました。オオカミたちも吠え声を漏らしません。
ブリジッドだけは泣き続けておりました。
(嫌だよう。帰りたいよう)
ブリジッドはレマニたちを思い浮かべて泣きました。お父さん、お母さん、長老、そしてアンリ。
(アンリは、出来るって言った)
アンリの不思議そうな顔が目に浮かびます。
「無理なもんか」
アンリの声がブリジッドの耳に蘇りました。練習している時に励ましてくれる大人とは違う調子でした。応援してくれるオーギュストたちとも違いました。アンリは、ブリジッドが魔法を自在に操れて当然だと思っているようでした。
(出来ないって思ってたけど)
ブリジッドは突然泣き止みました。紫髪の男の子は、振り向かずに先を歩いておりました。
(あたしを吹き飛ばせるほどの吹雪が出せるんだもの)
仰向けで運ばれながら、ブリジッドの暴走は収まってゆきました。
吹雪に運ばれた時の感覚を思い出そうとして、雪の夜空を見上げました。空からはひっきりなしに雪が落ちて参ります。けれども雪は、静かに降りてくることができません。激しい風が、落ちる側から雪のかけらをさらってゆくのでした。
風に巻かれた雪は八方に散り、また集まってすれ違いました。普通の人なら目も開けていられないほどでしょう。でもブリジッドは雪と氷の魔法使いです。まだ幼い少女ではありますが、吹雪の中でも平気で眼を開けていられます。
大人たちが口をしっかり覆う吹雪の中で、息だって普通に出来るのです。レマニでも、ほとんどの人が口を出したら凍りついてしまいそうな雪の中でも、歌うことすら出来るのです。
(よおし)
ブリジッドはアンリの言葉を信じてみることにしました。まずは、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みました。それから息を吐き出しながら、体の周りに雪を巡らせました。
(いい感じ)
ブリジッドはなすすべもなく暴走で吹き飛ばされたので、ほら穴の場所は分からなくなっておりました。それでも、今は逃げ出せれば良いのです。レマニたちが避難しているほら穴を探すのは、その後でも構いません。
(もう少し、もうちょっと、なんだけどなあ)
吹雪を上手に纏うことはできました。けれども身体は浮きません。まだ、コオリオオカミの毛がチクチク背中を刺してきておりました。
(そういえば、なんで)
先程までブリジッドは、森のほら穴で暴走した時と同じくらいの吹雪を出しておりました。それなのに、紫色の髪に血色の眼をした男の子と出会った後は、どこかに吹き飛ばされたりはしておりません。
(あれ?)
ブリジッドは、仰向けのまま首を動かしました。かなり弱くなった自分の吹雪が、背中の方へと流れてゆくのが見えたのです。
(吸い取られているんだ)
ブリジッドは、なんだか悔しくなりました。暴走とはいえ、初めて出した激しい吹雪です。自分をほら穴からだいぶ遠くにまで運び去ったほどの逆巻く氷の嵐です。それが呆気なく吸い取られてしまうなんて。
(どうしよう)
自分の出す吹雪は、コオリオオカミの毛に吸い取られてしまいます。
(きっとほら穴からは離れているんだ)
このまま連れ去られてしまうのでしょうか。投げられた時にぶつけた肩が、ジンジンと痛みます。
(なんとかして逃げないと)
ブリジッドは、再び空を見上げて考え始めました。
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続きます