八十
「それでは私達は帰ります。くれぐれも紗江ちゃんを宜しくお願いしますね。なにかあったらここへ連絡して下さい」
携帯電話の番号ではなかった。加藤頼子の自宅なのであろう。走り書きされたメモを受け取って俺は三人の乗った祐二の車を見送った。黙り込んだままの氏家京子は、最後まで俺に好戦的な眼差しを向けていた。
「はいっていいかい?」
ノックしておそるおそる訊ねる。「どうぞ」弱々しい声が返ってきた。
「母達は帰ったのね、さっきは取り乱しちゃってごめんなさい」
紗江子が伏し目がちに詫びてくる。泣き腫らして赤くなった目元が痛々しい。
「気にするなって、嘘をついてた俺も悪いんだから。こっちこそごめん」
「そうね、ジュンは嘘つきだわ。でも優しい嘘だったのよね、責められないわ」
――優しい嘘――紗江子の豊かな感性はそんな言葉で俺に赦しを与える。
「胃がんか……あたしどうなっちゃうんだろう」
大きく息を吐くと、紗栄子は結ばない視線を天井へと向ける。俺はインターネットで調べて作り上げた嘘を語る。それでも外科手術の適用外となっていた紗江子の病状からは程遠いものだった。
「覚悟して聞いてくれ。西尾先生の話だと、胃と周辺のリンパ節を全部取らなきゃならないらしい。食道と十二指腸と小腸を繋いで胃の代わりをさせるんだそうだ。胆のうも取らなきゃいけないっていわれた。でも、ちゃんと治れば健康な時の八割ぐらいは食べられるようになる、無理さえしなければ普通の生活に戻れるんだ。俺がついてる、辛いだろうけど頑張って欲しい」
「ちゃんと治ればか……、そんなんじゃあジュンのお嫁さんにはなれないわね」
紗江子は悲しそうな眼で俺を見る。こんな反応を予想して講じていた手段があった。俺は会社を辞めても癖になって持ち歩いているアタッシュケースから一枚の用紙を取り出した。
「こんなに手のかかる君を誰に任せられる? ジャジャーン、これなんだ? さっきみたいに泣き喚いたり治療や手術を嫌がったりすると、勝手に書きこんで役場に提出しちゃうからな」
俺が紗江子の膝の上に置いたのは婚姻届だった。その文字に紗江子の眼がとまる。一瞬、輝いた瞳がすぐに涙で潤んだ。
「だめっ! 一緒に行きたい。ちゃんと治療も手術も受けるから待ってて。あたし、病気は怖くない、痛いのも辛いのも我慢する。でもジュンがいなくなるのだけは耐えられなくって……」
俺だってそうさ、でも君は去って行く。それがわかっていてこんな嘘をつかなければならないんだ。釣られて涙声にならないよう、ゆっくり、そしてわざと乱暴に俺は言った。
「いなくなったりなんかしねえよ。いいか? 俺は病気ごと君を愛してるんだぞ。これが婚約指輪だ。普通はサラリー三ヶ月分くらいのを贈るらしいんだけど……、それはいつかきっとな。君の誕生石のルビーもついている。サイズは適当だから退院したら直してもらいに行こう」
妹に見立てを頼んだ指輪をアタッシェケースから出し、紗江子の目の前でケースを開いて見せた。
「素敵……、はめてもいい?」
「ああ勿論。でも、それをはめたら二度と俺から逃げられないと思え」
入院で一層細くなっていた紗江子の薬指だった。根元までするする通ってしまうリングに悲しくて涙が出そうになった。紗江子は「大きいよ、これ」と泣き笑いの顔で言った。
真実を告げる事が出来ずに曇ってしまう顔を、こぼれ落ちてしまいそうになる涙を、紗江子には見せられない。彼女の肩に顎を乗せ、俺はそっと抱きしめて言った。
「悔しかったら、それがピッタリになるぐらい太ってみろ」