六十三
ニ時間の会食を終え、戻った我が家で紗江子が腹痛を訴えた。
「大丈夫か?」
俺は彼女を寝かせたベッドの端に腰を下ろす。眉間に刻まれた皺の深さが、痛みの激しさを物語っていた。
「ごめんなさい。少し休めばよくなると思う、いつもそうなの。ジュンの言う通り、もっと早く病院に行っておくべきだったわね」
そう言ってまた苦しげに表情を歪める。いつも? 俺と一緒の時にも腹痛を訴えたことはあったが、そんなに前からだったとは聞かされていない。
「半日休暇をとって俺が病院に乗せていってやろうか? 婦人科でいいのかな」
「そっちには行かない。もう調べたの、出来てなかったみたい、がっかりね。結婚もキャンセルされちゃうのかしら」
紗江子は無理に笑顔をつくって答える。妊娠検査薬でも使ったのだろう。
「元気な君になら、そうも言ってやりたいところだけど、そのせいで腹痛がひどくなったとかいわれてもかなわないからな。今日のところはこうしておくよ」
俺はチャックをするように口の前で手を横に引いた。
「腹痛サマサマね」
さして暖房も効かせすぎてはいないはなれだ。紗江子の額に滲む汗に軽口を叩けるほど症状は軽くないと判断する。
「泊まってくかい? 鎮痛剤なら置き薬がある」
「ううん、健康保険証も部屋だし着替えも持ってきてないんだもの、帰らないと――。車は置かせてもらっていいかしら? 運転は無理みた……」
言いかけて紗江子は急に激しく咳こんだ。シーツが赤く染まる。吐血だった。
「どうしたっ、大丈夫か」
頭を横に垂れ動かなくなった紗江子の肩に手を賭けて揺するが反応がない。紗江子は意識を失っていた。
「かかりつけはありますか?」
紗江子の容体を説明する俺に救急隊員が訊ねてきた。できれば世話になりたくはないが、こんな時、付近に点在する消防署はありがたい。救急車は電話して数分で到着していた。
「聞いてません」
「では、県立病院の緊急救命センターに搬送します。救急車には患者さんしか乗れませんので、付き添われる方は別の手段でいらして下さい。場所はわかりますか?」
救急隊員は親父を看取った病院名を告げる。
「ええ、なにか必要なものはありますか?」
俺はストレッチャーに乗せられた紗江子の青白い顔から視線を外さずに訊いた。
「御本人が確認出来るものがあればお預かりします。当面はそれだけで結構です。処置が長引いたり、入院ともなれば着替えや日用品も必要になるでしょう。後は病院でお尋ね下さい」
運転席では別の隊員が無線で病院と連絡を取り合っているようだ。俺と話していた救急隊員が後部ドアを閉じると、救急車は発進していく。遠ざかるサイレンと回転灯を見送る俺に、それぞれの部屋に行っていたおふくろと娘達が出てきて心配そうに肩を並べてきた。
「なにか悪い物でもあったのかねえ、わたし達はなんともないのに」
「ここのところ、ずっとあんな調子だったって言っていたから食べ物のせいじゃないと思う。とにかく俺は病院に行ってくる。後を頼むよ」
ブラックスーツを着たままだった俺は普段着に着替えて病院に向かった。日曜の夜で道路も空いており、五分とかけずに着くことができた。親父が入院していた時もそうだが、ここの駐車場はいつ来ても満車だ。放置されたままで朽ち果てかけた車もある。病院の景観としては甚だよろしくないものだと言えよう。