六十
「結婚しちゃえばいいさ」
「……え?」
ニヤニヤしながら俺の反応を伺っていた紗江子の顔が半笑いのまま凍りつく。
「君がお母さんの面倒をみなきゃなんないのは、まだ先の話しだろう? 子育てもその頃には終わってるんじゃないか? だからそれを障害だと考えているのならその必要はない。四十の俺に五人も六人もと望みやしないよな」
母親の面倒をみるために結婚は出来ないと語っていた彼女の論法は穴だらけで、俺はいつかそれに気づいていた。
「どうしちゃったの? あんなに結婚を嫌がっていたあなたが」
「毎朝、あんな豪華な朝食が並ぶのも悪くないと思ってね」
「あたしは家政婦代わり?」
抗議口調だったが機嫌を損ねた様には見えない。
「明日は死んだ親父の一周忌だ。ほんの内輪だけの集まりにしてある。君も来ないか? 姉貴や娘達に逢わせるよ」
悦子との離婚後、この先、ニ度と口にすることはないだろうと思っていたプロポーズの言葉が俺の口から飛び出していた。紗江子も驚いたろうが、俺自身、びっくりしていた。なんの準備もなく突然飛び出したプロポーズだったが、後悔はなかった。
「付き合い始めてたった二ヶ月で、こんなこと言われたらびっくりするだろうな。男の俺に婚待期間はないけど、ゆっくり考えてくれればいい。俺には二十歳と十八歳の娘が居て、慰謝料に貯金も粗方持っていかれてる。新聞配達はさせないけど、ひとが羨むような立派な式は挙げられないと思う。或いは君の稼ぎを当てにするかもな、世間一般で言うところの薔薇色の新婚生活とは程遠いものになるのかもしれないぞ」
先走ってはみたものの、紗江子にだって相談すべき人々はいる。話に聞く通りの母親なら、娘の結婚相手の経済状態や経歴、年齢にも難色を示すに違いない。頭の中で自分の悪条件を指折り数えてみる。俺は勇み足を一歩引いていた。
「二ヶ月か――、あなたはそうでもあたしは違うわ。ジュンのことを六年間ずっと見てきたんだもの。奥さんも恋人もいたあなたとこうなれたことですら信じられないのに」
奥さんも恋人も――。確かにそうだったが、改めて言葉にされると俺の歪んだ倫理観が浮き彫りにされるようで、なんとも居心地が悪くなる。心を入れ替えます。と、声に出さずに誓う。
「水野さんにね、ジュンと付き合いたいなら結婚できないつもりでいろって言われていたの。母の面倒なんかどうだっていい、あたしはあなたと一緒にいたいです。新聞配達だってなんだってします、あたしをお嫁さんにして下さい」
紗江子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、形のよい顎の先で光っていた。「させないってば新聞配達なんか」泣き笑いの顔で俺の胸に倒れ込んでくる紗江子を抱き止める。階段を下りてくる中学生の一団がいる。ひそひそ額を寄せ合い、クスクス笑っている。
シッシッ! 俺は紗江子の背中に回した手でガキどもを追い払っていた。