四十九
「どうだい?」
「うん、美味しい。あたし、あまり味が濃いのは苦手なんだけど、これはしつこくなくってコクがあるわ。ここがジュンのラーメンランキング一位のお店なのね」
「そうだな、関西にもう一~ニ軒あったけど、味が落ちちゃったりメニューが変わったりしたから、ずっと変わらないここが一番だ。尤も、俺が通い始めた高校生時分に較べると値段は倍になっちゃったけどね」
俺と紗江子は、お互いの美味いものランキングを食べ歩こうと決め、この日は俺のお薦めラーメン屋に来ていた。
「もう随分回ったわよね。お寿司でしょ、パスタでしょ、うどん屋さんにも行ったわよね。あっ、あたしお奨めの中華はどうだった?」
「美味かったよ。でも麻婆豆腐に限っていうなら、他にも美味い店が二軒あったんだ。片方は潰れて片方は味が落ちちゃったけどね」
「同じ味を保つだけでも大変なのね。継続は力なりってことか――」
紗江子はなにかを思いついたような顔になる。
「大山さんのお店のコーヒーは日本で二番に美味しいっていったでしょう、一番はどこなの?」
やっぱり訊くか――、大山の店へ連れて行った時の迂闊な発言を後悔する。
「そんなこと言ったっけ?」
とぼけて時間稼ぎに出る。上手い言い訳よ、俺の頭に舞い降りろ。
「言ったわよ、あたしちゃんと覚えてるもの」
「ひょっとして、あそこのことを言ったのかも知れないな。遠いんだよ、そこは。それに教えれば連れて行けって言うだろ?」
「そりゃあ言うわよ。どこ? 関西? テーマパークに行くときなら寄れるわよね」
紗江子が食い下がる。上手い言い訳は舞い降りず、これといった閃きもないままに俺の説明は回りくどくなってゆく。
「あのさ、紗江子は誰かとの思い出で、これだけは誰にも教えず残しておきたいってことはないのかな?」
「食べ物で? ないわよ」
「食べ物じゃなくてもいいんだよ。例えば誰かとの思い出の場所とか、プレゼントされたものとか」
話せば話すほどに、俺の意図とは逆の方向へ向かってゆく気がした。『俺はいま、こんなに狼狽えております』とばかりに激しい貧乏揺すりが始まる。
「ないなあ、あたしはジュンに秘密なんかないんだもの」
「秘密って訳じゃないんだ。なんて言ったらいいのかなあ……」
上手く伝えられない歯痒さと、危険水域に流されてゆきそうな気配に気が気ではない。
「ナオコさんとの思い出なの?」
図星を指された俺はドキリとしたが、関西を否定しなかった時点で、紗江子なりの結論に辿りついていたようだ。
「う、うん、まあ……」
仕方がない、話すとするか。
「永遠を誓うともなれば、それなりに譲れないものとか守って行かなきゃなんないものがある。それがそのコーヒーなんだよ。でもいいじゃないか、これから俺達のナンバーワンコーヒーを探そうよ。そこ以外ならどこへでも連れてゆくし何でも食べさせてあげるから」
九年も付き合っていれば、どこへ行こうと何を食べようと、どんな映画を観ようと奈緒子との思い出はフラッシュバックされるものだ。紗江子にはいえなかったが、その記憶は愛し合っている最中でさえあらわれた。――或るホテルで或る条件を満たした宿泊でしか味わうことが出来ない――そんなコーヒーなら、元カノ用にとっておけると思っていたのだ。愚かなり、汝の名は〝俺〟
「じゃあ、ナオコさんが結婚なさったとしてもジュンの誓いは終わらない訳?」
なんでそうなるんだよ。俺は話の飛躍にげんなりしたが、それを気取られないよう注意して答える。
「どこでなにをしてるかわからない彼女が、結婚しようがどうしようが俺に知る術はないからな」
「手紙は? おうちは知ってるんでしょ?」
「定期的に『結婚なさいましたか?』って手紙でも書けってのか? 『俺の影さえ感じたくない』って言われてんだぞ。風の便りにでも期待するしかないじゃないか」
「影さえ感じたくないひとのブログは読まないわ」
あの件か――、俺の日記みたいなブログを読んだ奈緒子からクレームがついたことを紗江子に話したことがある。軽率なり、汝の名は〝俺〟
エキサイトしかけた彼女に調子を合わせるのは得策ではない。ボックス席ならまだしも全席カウンターのラーメン屋だ。こんなところで泣き出されたら目も当てられない。
「あのさ、永遠に期限なんかないだろう? 今はまだその途中なんだ。俺は誰かとの最期の約束だけは守ると決めている。死んだ親父にこう言われた。『嘘をつくならつき通せ、それが出来なきゃ嘘を本当にしろ』そして彼女には『永遠に愛してます』って誓ったんだ。お陰で女房と貯金通帳は消え、責任を果たすべき相手は去りの、このありさまだ。いいじゃないか、いまは君とこうなれているんだし」
「なんだか、面白くない」
紗江子が挑戦的な眼でいった。面白いも面白くないも、君が話をおかしな方向にねじ曲げたんだ。『永久に二番目でいい』そうも言ったじゃないか。そんな文句のひとつも言ってやりたかったが、生理のせいなのだろう。夕方待ち合わせた時から紗江子は機嫌が良くない。こういう場合は、触らぬ神に祟りなし的対応で臨むべきである。俺は長年の経験からそう理解していた。
ラーメン屋のカウンター席でする話ではない。そういって話を切り上げにかかる。紗江子の隣に座る五十年配のおっさんは顔中が耳になったように空の丼をかき回していた。
「この大雪だ、今夜はもう解散にしよう。送るよ」
紗江子はなにも言わないで席を立った。
「めんどくせえ女だな」
俺は口の中で呟く。車のルームランプに照らし出された紗江子の瞳が光っているようにも見えたが、知らぬ顔を決め込むことにした。