五十
ラーメン屋での一件以来、俺達はなんの連絡も取り合わなかった。売った喧嘩でない以上、こっちから頭を下げて行くのも癪に障る。紗江子の職場で交わす挨拶もどこかぎこちないままに数日が過ぎていった。
『この前はごめんなさい、お話ししたいことがあります。今夜二十時、大山さんのお店で逢えませんか?』
依然、設計の現場に戻れる見込みはなく、総務課のデスクで髀肉之嘆をかこう俺にそんなメールが届いたのは、四日後のことだった。行く旨だけの短いメールを返し、今日は定時に上がるから、と女子社員に伝える。
「あーっ! 係長ったらデートなんだ」
彼女は大袈裟に手を叩いて喜ぶ。俺のデートになんで君がそんな嬉しそうな顔をするんだ。そう思ったが口にはせず曖昧に手を振ってみせる。仲直りしてないまま迎えるデートは些か気が重い。
俺が大山の店に着いたのは約束の時間より十分ほど早かったはずだ。店のドアに手を掛けてふと思い出し、大山興信所のオフィスを覗く。晴れて採用なった加藤祐二がカジさんとスチールデスクを挟んで座っていた。広げたファイルに見入っている様は研修中といったところか、髪は黒く戻している。軽くドアを叩いてこちらに気づいたふたりに手を上げた。カジさんが会釈を寄越し、祐二は満面の笑みを向けてくる。苦悩から解き放たれた彼の表情は別人のように明るかった。
紗江子は既に店内に居た。いつもの席でコーヒーカップを弄びながら大山となにか話している。正面に座っていた大山が俺のために席を空けるが、隣のテーブルに移動しただけで「すまんな、助かるよ」と俺に告げてきた。なんのことだ?
「食事は済ませたのかい?」
疑問はそのままに紗江子に訊ねる。長女がバイト先から持ち帰ったトンカツの誘惑に負け、ふた切れほど頬張ってきた俺に空腹感はない。
「ええ、食べてきたわ。ここでの用件が済んだら場所を変えましょう。あなたにとって不愉快なお話になるかもしれない」
意味深だな、なにを話すつもりなんだ?
「じゃあ、俺もコーヒーを」「あいよ」
俺達の微妙な雰囲気を感じ取ったのか、大山に普段の軽薄さはない。大股で厨房に戻って行った。
「まず、これを収めて下さい」
紗江子が白い封筒をバッグから取り出して俺の前に置いた。
「なんだい? これは」
「七万円入っています。調査費用よ」
さっきの礼はこのことだったのか、「おいっ!」俺は大山に向かって声を荒げる。調査の内容も費用も依頼主以外には明かさないのがルールだろう。コーヒーを運んできたウエイトレスが俺の怒気に驚いてトレイを揺らした。
「どうしたんだ?」
慌てて大山が厨房から出てきた。
「大山さんは悪くないわ。後でジュンが支払いにくるから、そう言って金額を教えてもらったの。そうですよね?」
「うん、まあ……、いけなかったのか?」
「いや……、大声を出してすまん」
事情を知らない大山を責める筋合いではなかった。
「とにかくこれは受け取れない。俺が勝手にやったことなんだし、父親でボディガードなら当然だろう」
「あたしが話したいのはそのことなの。出ましょう」
紗江子は押し戻した封筒を手にすることなく、そのまま席を立った。俺は運ばれたコーヒーに口をつけてもいない。
「俺のせいか?」
紗江子の後を追う俺に、大山が申し訳なさそうに声を掛けてきた。
「いや、アレだろう。来週には直っているさ」
俺は女性特有の憂鬱を匂わせ店のドアをくぐり抜けた。




