番外編 金谷千歳の気付き
今日は『唐和開港綺譚』ニ巻の発売日なんだけど、祟ってる奴はもう狭山先生と三巻の打ち合わせをしてる。ワシは組紐を作りながら、二人の声を聞いていた。三巻は漢方薬の医学論文も参考に書くんだって、すごいな。
打ち合わせが一段落して、二人は雑談し始めた。
〈じゃあ妹と話したんですか!〉
「結構話したんですけど、名前聞き忘れちゃって」
何してんだもう、名前聞くなんてナンパの基本だろ!
〈狭山サキって言います。花が咲くで咲〉
「あ、そうなんですね、なんか、咲さんにもご家族にも私のこと、話してくださったみたいで」
〈そうなんですよ、和泉さんがいなかったら僕結婚できなかったんで!〉
「まあ……結果的にはそうかも知れません」
祟ってる奴の照れ笑いが、ノートパソコン越しに見えた。
「機会があったら、また狭山さんと飲みとか遊びとか、ご一緒させてほしいです」
〈わ、本当ですか!? 僕もご一緒したい! あ、でも……〉
狭山先生の声が、暗くなった。
〈和泉さんと遊びたいって気持ちと……新生活で時間がないって気持ちと……心が2つあるー!〉
そ、そうか、働いてるとな……。新年度だもんな、忙しいよな……。
「遊びたいと時間がないの板挟み、ってことですか。いや、私も割とそんなですが」
祟ってる奴は苦笑した。
〈えーと、新生活っていうのはその、僕、昨日からあかりさんと一緒に住み始めまして。休みの日に生活にいるもの買ったり、お互いの生活のすり合わせしたりで、なんだかんだでしばらく……〉
「あ、そうだ、新婚でしたね! そっか、金谷さん高校卒業したから、もう一緒に住めるんだ!」
〈あはは、そうなんです。で、新婚なんで僕の改姓手続きも大変で……〉
狭山さんの声が、またどよんとなった。
〈僕、通称は旧姓のままで行きますし、小説の名義も狭山のままですけど、行政とか銀行とかクレジットカードでは、全部、真名は金谷ってことにしないといけないから、本当にめんどくさくて……〉
「お疲れ様です……」
祟ってる奴は心底労る声でそう言い、それから、ふと思いついた顔になった。
「じゃ、狭山さんは今、金谷さんには下の名前で呼ばれてるんですか?」
〈いえ、普通に「狭山さん」のままです。習慣になっちゃってて、なかなか変えにくくて〉
「あー、なるほど」
〈まあ、でも、あかりさんに近くで呼びかけられるだけで嬉しいですけどね〉
狭山先生の笑い声。祟ってる奴も笑った。
「わー、惚気ですね!」
〈へへへ、バレましたか〉
……そう言えば、ワシ、祟ってる奴に名前で呼びかけたことないな。いつも、おい、とか、お前、とかだ。それで用が済んじゃうからだけど。
祟ってる奴の打ち合わせが終わった後。特に用事はなかったけど、祟ってる奴に、和泉、と名前で呼びかけてみようと思った。『和泉』と呼びかけようとして……声が出なかった。
不思議に思ってもう一度やり直したけど、声が出ない。いずみ、いずみ、いずみ。何度も名前で呼びかけても、口は動くが声が出ない。
『え、なんでだ!?』
驚く声は、なんの異常もなく出た。
「ん? どした?」
祟ってる奴がワシを見た。
『え、いや……えっと……なんでもない』
声は普通に出る。こいつに名前で呼びかける声だけが出ない。
……どういうこと?




